Tiny garden

はじまりのおわり(3)

 巡くんが石田さんに打ち明ける機会は、お盆休みの頃にやってきた。
 いつもながら目まぐるしい繁忙期を過ぎ、八月半ばに訪れる私達の短い夏休み。その一日を利用して、彼は石田さんと飲みに行く約束をしたという。

「伊都はこれからどうする? どこか出かけるのか?」
 夕方、外出の支度を終えた巡くんが、玄関まで見送りに出た私に尋ねた。
「ううん。外暑いし、家でご飯作って食べるよ」
 自転車でちょっとひとっ走り、というには気温が高すぎる。それなら一人でのんびり留守番でもしていようと思っていた。夕飯作って食べて、お風呂入ってテレビでも見ていれば十分時間も潰れるだろう。
 巡くんが石田さんと二人だけで飲みに行くのは本当に久し振りらしいので、私のこと以外にも積もる話があることだろう。巡くんはいつも飲み会というと私に気を遣って早く帰ってきてくれたりするから、今夜くらいは私の存在を気にせず楽しんできて欲しいと思う。
「ごめんな、一人で置いていって。寂しくないか?」
 案の定、彼は申し訳なさそうな顔をした。
「平気だよ、巡くん」
 私は少しだけ慣れてきたその呼び方で彼の問いに答える。
「寂しくないとは言わないけど、久々なんだし楽しんできてよ」
 更に笑って答えると、彼は玄関で靴を履き終えてからそっと私の肩を抱き寄せた。
 耳元で優しく囁いてくる。
「日付が変わらないうちに帰る。起きて待ってなくてもいいからな」
「うん、行ってらっしゃい。石田さんによろしくね」
「……行ってくる」
 身を離した彼が、私にキスしてから部屋を出ていったのが午後四時過ぎのことだ。

 留守番の私はのんびりとテレビを見ながらストレッチをして過ごした。
 そして六時前になって、そろそろお米研いでご飯炊こうかなと考え始めたタイミングで、彼から電話がかかってきた。
『伊都、もう夕飯食べたか?』
 電話に出るなり巡くんが言い、私は素直に答える。
「まだだよ、これからご飯炊くとこ」
『そうか、ちょうどよかった』
 なぜか彼はほっとした様子だった。
 電話の向こうの空気はざわついていて、どこかのお店にいるように感じられた。傍に石田さんがいるにしては、いささか静かすぎる気がするけど。
 私があれこれ推測している間にも彼は続ける。
『面倒でなければでいいんだけど、お前も出てこないか?』
「私も? いいけど、そっちはいいの?」
 石田さんと二人で飲んでるところに私が入っても、何と言うか、野暮というものじゃないだろうか。急な誘いに困惑する私に、彼は尚も畳みかけてくる。
『違うんだよ。石田に全部話したらさ、せっかくだからお前も呼ぼうって言い出して。めでたい話なんだから祝わせろとか何とかうるさいんだ』

 どうやら彼は、おおよその話を石田さんに打ち明けてしまった後らしい。
 それらを聞いて石田さんがどんな反応をするか、特に例のお見合いの件で気分を害しはしないかと気になっていたから、そう言ってくれたならと私も胸を撫で下ろした。

「石田さんがいいなら、私も構わないよ」
 私がそう答えると、彼も少し笑って、
『じゃあ悪いけど、今からこっちに……』
 と言いかけたところで、今度は別の声が割り込んできた。
『お前の可愛いスイートハニーは何だって? 来れるって言ってたか?』
 言わずもがなそれは石田さんの声だ。
『うるさいぞ石田。ちょっと黙っ――うわっ、ちょっと待て、返せ!』
 それに応じた巡くんが途中で声を跳ね上げ、ごそごそと何か賑々しい物音とじゃれあう会話が後に続いた。
『いいからちょっと替われよ。俺も園田に言いたいことがある』
『駄目だ、俺の電話だし俺の彼女だぞ! 話なら俺がする!』
『安井は家帰ればいくらでも話せるだろ。すぐ終わるから貸せって』
『嫌だ! お前は絶対に余計なことまで言うだろ!』
 巡くんは激しく抵抗していたようだけど、やがて彼の声がふっと遠くなり、
『よう園田。事情は安井からあらかた聞いたぞ』
 代わりに出た石田さんの声がよりはっきりと聞こえてきた。時間的にまだ酔っ払ってしまったということはないだろうけど、そう誤解したくなるような上機嫌の口調だった。
「あ……石田さん。話、聞いた?」
 私が確認の為に問い返すと、石田さんは笑いながら答える。
『ああ。お前のダーリンが惚気七割事実三割でたっぷり話してくれたよ』
 ダーリンって。そんな呼び方、したこともないのに。
 恥ずかしくなった私はぼそぼそと詫びた。
「その節はごめん。お見合いのこと、ちゃんと言えなくて」
『気にすんな。悪いのは薄情者の安井であって園田じゃねえよ』
「でもほら、私が余計なこと言っちゃったせいでかえってややこしくしちゃったし」
『まあ、それはな。その辺の込み入った事情は会った時に聞いてやる』
 いつもながらの朗らかな声で石田さんは言った。
『それより、来れるんだったら早く来いよ。せっかくだからお前からも話聞きたいし、俺だって祝ってやる気はなくもない』
「うん、わかった。今から出るよ」
 私は携帯電話を肩に挟み、慌しく準備を始める。
『お、待ってるぜ。早くしないとお前の彼氏がどんどん自爆して、えらいことになるから気をつけろよ』
 石田さんの謎の脅し文句には首を傾げつつ。
「じ、自爆って何?」
 聞き返してみれば石田さんはうひひひと笑って、
『お前ら、もう一緒に住んでんだってな。結婚まで待ちきれなかったって安井が自供してたぜ』
 その話はもちろん、彼がする打ち明け話の中にも含まれているだろうと思っていた。だけどいざ知ってるぞと言われると、想像以上に恥ずかしい。
「彼、他には何か言ってた?」
 こわごわと聞き返してみる。
『そうだな、部屋に帰ったら園田が迎えに出てくれるのが嬉しいとか、夜中に起きて園田の可愛い寝顔を見るのが幸せだとかそういうことは――』
『石田、いい加減にしろ! 返せ!』
 朗々と語る石田さんの言葉を遮るように、巡くんが叫んだ。
 いいから電話寄越せ嫌だもっとバラしてやるとまたしても小競り合いの会話が続いた後、どうやら巡くんが電話の奪還に成功したようだ。一呼吸置いてから私に言った。
『伊都、そこまで急がなくてもいいからな。慌てないでゆっくり来いよ』
『うっわ、何その優しい声。彼女の前ではそんな声で喋るんですね、安井くんは!』
『お前はちょっと黙ってろ。……そういうわけだから、待ってる』
 囃し立てる石田さんを咎めると、巡くんは私に店の名前と位置を教えてくれた。
 それで私も電話を切り、タクシーに乗って二人のいるお店へと急ぐ。
 タクシーの車内で、今夜は酔っ払って帰ってくることになるだろうな、と予想を立てていた。

 二人が飲んでいるという居酒屋は、駅近くにある炉端焼きのお店だった。
 炭火に焼かれる魚介の匂いに食欲を刺激されつつ、店員さんに連れが先に来ていることを告げると、すぐに入店を許された。
 うっすらと煙たい店内を進んでいくと、奥のお座敷席でまず巡くんが私に気づき、手を振った。その真向かいに座る石田さんが直後振り向いて、にやっとする。
 スーツじゃない、私服の二人とこうして飲むのは何年ぶりになるだろう。
 懐かしさ、感慨みたいな不思議な気持ちが込み上げてくる。

「ごめん、お待たせ!」
 私もお座敷に上がり、巡くんの隣に座って飲み物を注文した。
 巡くんも石田さんも既にビールを飲み終え、お茶割りへと移行している。いくつか焼いたものを私にも分けてくれた上、ここのも美味しいんだと豆腐サラダを注文してくれたので遠慮なくいただくことにする。
 そうして並んで座る私達を、石田さんは冷やかしめいた目つきで眺めてきた。
「聞いたぞ園田。お前ら、大分長い付き合いだったらしいな」
「うん、黙っててごめんね」
 私が頭を下げる隣で、巡くんが息をつく。
「言っただろ、長いって言っても実際付き合ってたのは半年だったし、今だって去年くらいからようやくってとこだよ」
「けど、そのより戻すまでの間中も安井は園田のことを惨めったらしく引きずってたわけだろ?」
 石田さんはどういうわけか嬉しそうな顔をしている。
 それを見た巡くんはぎりぎりと歯を噛み鳴らした。
「うるさいな。誰だって振られたら引きずるものだろ」
「にしたって拗らせすぎなんだよ。元カノとより戻す為に見合いまでするとかな」
「見合いの何が悪い。真っ当なやり方には違いないじゃないか」
「普通に考えて回りくどすぎる。『好きだ、もう一回付き合ってくれ!』で済む話だ」
 単純明快に言い切る石田さんに、巡くんが珍しくうっと詰まる。
 そこを好機と見てか、石田さんが一気に攻め込んだ。
「普段上から目線で偉そうな安井くんも、惚れた女の前じゃ大したことねえんだな」
「大したことないって何だよ」
「自分こそめちゃくちゃ骨抜きにされてんじゃん。園田に」

 と言うからには、かつて石田さんも巡くんに『彼女に骨抜きにされて云々』みたいな指摘をされたことがあるのだろう。その辺りの話は私のあずかり知らないところだ。
 ただ、惚れた女とか骨抜きとか言葉の破壊力は凄まじく、面と向かって言われると頭がくらくらする。運ばれてきたビールに口をつけないうちから顔が赤くなるのがわかり、私は落ち着かない気分で二人の会話を聞いていた。

「いいだろ。好きじゃなきゃ付き合わないし、結婚したいとも思わないよ」
 巡くんが動揺しながらもきっぱり言うと、石田さんはその言葉を待っていたように唇を歪めた。
「だよな。じゃなきゃ結婚前からラブラブ同棲生活なんてしないよなあ」
 やっぱり、直に言われると恥ずかしい。心なしか巡くんも決まり悪そうにしていて、私の方を見た途端に堪えきれなくなったようにはにかんだ。
 私も口元が緩むのを抑えられず、誤魔化すみたいにビールを呷った。ビールはとてもよく冷えていたけど、クールダウンどころかますます暑くなってきた気がするのは、夏だからだろうか。
「ま、幸せそうなら何よりだ」
 石田さんが不意にぼそりと言った。
 私達の方を満足げに眺めながら続ける。
「園田が見合いするって聞いた時は、安井もうこれ駄目だな、しばらく再起不能だなって思ったからな。幸せになってくれてよかったよ」
 あの時のことを思い出すと申し訳なさでいっぱいになる。元はと言えば私の失言から始まったんだし、探りを入れるつもりがかえってややこしくしただけだった。
 私は慌てて口を開く。
「ごめんね、あの時は。石田さんはあんなに巡くんのことを心配してたのに」
「気にすんな。どうせ大して心配してねえよ」
 石田さんはからりと笑い飛ばしてから、目を細めて巡くんを見やる。
「文句なら安井に散々言ってやった。人が結婚式の準備に追われて彼女といちゃつく暇もないってのに、俺の知らないところで可愛い彼女作っていちゃいちゃしやがってってな」
「悪かったよ。長い間黙ってたことは謝る」
 巡くんが降参するように両手を挙げると、石田さんはじろりと彼を睨んだ。
「俺は別に、お前が黙ってたことをどうこう言ってんじゃないからな」
「じゃあ何だよ、俺達の幸せに対する僻みか? 自分だって幸せなくせに」
「お前なあ。結婚するまで一緒に住むのもお預け状態の俺にそれ言うか?」
 そう言い放つ石田さんは見るからに羨ましそうで、悔しそうだった。
「俺からすれば、こないだ園田に振られてへこんでたかと思ったら、いつの間にやら付き合ってて同棲なんて羨ましいこと始めちゃってるんだからな。そりゃ僻むよ俺も」
 早口になってまくし立てた後で石田さんは息をつき、それから巡くんに向かって尋ねる。
「やっぱ、いいもんか? 同棲すんのって」
 その問いに、巡くんはなるべく冷静に答えようとしたんだろう。
 でも顔つきは冷静どころか嬉しさに緩みきっていて、込み上げる笑みも全く誤魔化しきれていなくて、頬さえ少し赤らめていた。
 その上で、
「まあ、悪くはないよ。やっぱり安心感はあるし」
 なんて優等生的なコメントを口にしたものだから、石田さんは吊り目がちな瞳を一層吊り上げ、噛みついた。
「くっそ、何だよでれでれしやがってこの野郎! そんなにいいのか同棲は!」
「そりゃあ、いいもんじゃなかったらしないよ」
「だらしねえ顔して言われると三倍むかつくな……! やっぱお前なんか痛い目見ろ!」
「嫌だよ。あれだけ苦労したんだ、あとは彼女と幸せになりたい」
 巡くんが私を見て甘く、柔らかく微笑んだので、私はまた恥ずかしさをやり過ごす為にビールを呷った。
 何か、私が一番いたたまれない状況になりつつある気がする。二人の会話についていけないのは昔からだけど、今日はもう本当にどうしたらいいのか。
「本当、園田の前じゃ誰だよってくらい別人の顔すんだな、お前」
 石田さんが頬杖をつき、巡くんを見て呻いた。

 私からすれば、そんなに違うだろうかと思うんだけど――そりゃ会社にいて勤務中の彼とはまるで違う顔をしているけど、別人と言うほど大きく変わっているようには見えない。私の前では柔らかく笑うことが多いのと、気を許してくれているのか表情が緩むことが多いくらいだろう。
 でも石田さんだって、彼とはとても付き合いの長い間柄だ。
 他の人にはわからない表情の変化を、巡くんから見出し、読み取っているのかもしれなかった。

 その石田さんはしばらく巡くんを見据えていたけど、ふと唇を結んで真剣な表情になる。
 そして、彼に向かって釘を刺すように告げた。
「せっかくやり直せたんだ、二度と離すなよ、安井。しっかり捕まえとけ」
 その言葉に対し、巡くんは自信ありげに笑んで、大きく頷いた。
「わかってる。絶対に離さない」
 彼の宣言はもちろん、すごく嬉しい。
 本当に心の底から嬉しいんだけど、人前で言われると照れるし非常に反応に困るしどぎまぎする。心臓がもたない。
 恥ずかしさに苛まれる度にビールを飲んでたら、いつの間にやらグラスが空きそうになっていた。巡くんがそれに気づいて私に尋ねる。
「伊都、今日は随分ペース速いな。喉渇いてたのか?」
「うん、まあ……。お替わり頼もうかな」
 私は答えながら、熱くなった頬に思わず手を当てた。自分の手がひんやりと心地よく感じられるほど熱い。
「ってか園田、ほっぺた真っ赤だぞ。もう酔っ払ってんのか?」
 石田さんはこっちの内心を察しているみたいに、からかう口調でそう言った。
「わざと言ってるでしょ、石田さん。目の前でこんな会話されたら赤くもなるよ」
 拗ねたい気分で私が睨むと、楽しげににやにやされた。
「この日を待ちに待ってたんだ。安井に彼女ができたら冷やかし倒してやろうと思ってたんだよ」
 どうやら今夜、こてんぱんにされるのは巡くんだけじゃないようだ。
 私が思わず隣を見ると、巡くんは苦笑して、石田さんにも聞こえるように囁いてきた。
「仕方ない。こうなったら石田がうんざりするくらい見せつけてやろう」
「どっちにしても私が恥ずかしいんだけど!」
「見せつけてみろよ。俺は二対一でも怯まないぜ、お前らを冷やかしまくって身悶えさせてやる!」
 石田さんがまたとんでもないことを言い出したので、私は既に身悶えしたい気分で頭を抱えた。
 ああもう、いたたまれないのに顔が勝手に笑ってしまう。幸せなのに恥ずかしい。

 入社十年目だというのに、二人のやり取りは新入社員時代とまるで変わっていない。
 こういうやり取りの軽妙さも全く同じなら、お互いをからかうのが好きなところも、それですごく楽しそうにしているところも同じだ。二人とも髪型を変えてすっかり大人っぽくなって、仕事でもそれぞれ責任ある立場に就いていて、しかも二人揃って結婚を控えているというのに、お酒の席では昔に戻ったみたいにはしゃいでしまっている。
 でもまあ、今夜はしょうがないか。
 せっかくなので私も、大いに照れつつ、二人に付き合うことにしよう。
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