はじまりのおわり(2)
一見楽しい同棲生活も、しかし油断は禁物である。実は意外なところにトラブルの種が潜んでいるものだと、私はその日の夜に知った。
夕飯を済ませた後、私達はお風呂に入ることにした。
まず先に彼がお風呂に入り、上がった後でリビングでテレビを見ていた私に声をかけた。
「上がったよ。伊都も入っておいで」
「うん、行ってきまーす」
私は即座に立ち上がり、温かいバスルームへと直行する。
化粧を落とし、お湯に浸かり、身体を隅々まで洗い上げて、十分暖まってからお風呂を出た。
脱衣所を兼ねた洗面所でバスタオルを広げ、髪を拭いたり身体を拭いたりしている間はとてもいい気分だった。
トラブルはその直後に起こった。
いや、私がその時気づいただけで、騒動の種はとうの昔に蒔かれていたと言うべきか。
髪と身体をざっと拭き終えた私は着替えをしようとして――気づく。
着替えがない。
と言うか、持ってきてない。
「しまった……!」
私は思わず呻いた。
普段ならお風呂に入る前にクローゼットから寝間着その他一式を取り出し、脱衣所まで持ってくるようにしている。
だが長きにわたる一人暮らしはその辺りの感覚を麻痺させるようで、時々着替えを用意するのを忘れてお風呂へ直行し、上がった後で慌てて取りに行くなんてこともしょっちゅうだった。まあそれは一人暮らしだから、慌てて取りに行こうが誰に見られる心配もないし別にいい。
しかしながら、現在の私は一人暮らしではないのである。
しかもよりによって、そういった醜態を一番晒したくない相手と同棲しているのである。
じゃあなぜ着替えを忘れてくるなんて間抜けなことをしたのか、三十分前の私をぎゅうぎゅう締め上げてきりきり問い詰めたい気分だ。
「これはまずい、まずいぞ……」
思わず独り言だって出る。
ここで私が取ることのできる行動は二つしかない。
その一、安井さんに声をかけて着替えを持ってきてもらう。
その二、安井さんに見られないように着替えを取りに行く。
これが何年も連れ添った夫婦だというなら、その一が最も安全かつ迅速なやり方であると言える。
だが我々はまだ夫婦ですらなく、割かし気安い関係とは言え、そういうことを頼めるほどの付き合いではない。
いや、彼なら頼みさえすれば嫌な顔一つせず持ってきてくれるだろう。でも私が嫌だ。恥ずかしい。彼は私のことを随分な恥ずかしがり屋だと思っているようだけど、好きな人にクローゼットの中身を見られて恥ずかしくない女の子がいるだろうか。二十九歳が女の子の範疇に入るかどうかはともかくだ。
となると、その二の方法しか思いつかない。
しかしこちらもまたリスキーな手段である。リビングから漏れ聞こえてくる音から察するにこの時間、彼は録り貯めていた音楽番組を見ているに違いない。洗面所から私のクローゼットがある部屋まではダイニングキッチンを突っ切ったすぐ隣だ。ただダイニングは南側のリビングと引き戸を隔てて続いており、暖房を切ったこの時期、引き戸は開けっ放しになっているのである。
つまりダイニングを通ればリビングにいる彼に気配を察知される危険性がある。
もし万が一、クローゼットへ突進していくみっともない姿を振り向かれたりしたら――待っているのは絶望だ。まさにチルアウト・オア・ダイ。
それでも、やらねばなるまい。寒暖の差が激しい四月上旬、夜の冷え込みはまだ油断ならない。先程まで湯気を上げていた私の肌は既に冷たくなり始めており、もはや一刻の猶予もない。行こう。彼に気づかれないよう、着替えを取って戻ってこよう。
私は最悪の事態に備えてバスタオルを身体に巻きつけると、足音を忍ばせて洗面所を出た。
彼はやはりリビングにいて、テレビを見ているようだ。灯りを消したダイニングにリビングからの光と音が漏れている。
この状況ならちょっとくらい足音を立てても平気だろう。そう思い、深呼吸をした。
その拍子に、
「――くしゅんっ」
くしゃみが出た。
しまった、と二度目の後悔をしても時既に遅く、
「伊都、大丈夫か? 湯冷めすると風邪引くぞ」
今ので私が上がってきたことに気づいた安井さんが、止める間もなくリビングから顔を覗かせ、こちらを見た。
時が止まる。
目を見開いて私を凝視する安井さんの顔から一瞬笑みが消え、しかしすぐに別の意味で唇の端を吊り上げた。舌なめずりをするような顔つきに、私は身の危険を感じてとっさに弁明した。
「違う、違うよ! 着替えを忘れちゃったから取りに来ただけだよ!」
「何だ、俺に見せに来てくれたんじゃないのか」
彼は残念そうに肩を竦めながらも、視線は私から決して外さない。
「珍しく伊都が直球で誘ってきたのかと思った」
「誘ってないから! て言うかじろじろ見ない!」
「じろじろ見たくなるような格好しといて無理言うなよ」
私だって好きでこんな格好して出てきたわけじゃない。そりゃまあ私のミスだし自業自得ではあるんだけど、彼に見られまいとする努力が全く功を奏さなかったのは空しい。
ともかく見つかってしまった以上、もはや私にできるのは一刻も早く着替えを回収して何事もなかったかのように振る舞うことだけだ。私は視線を感じながらもダイニングを突っ切って、クローゼットから寝間着その他を取り出した。それらを抱えて洗面所まで戻ろうとしたら、まだこっちを見ている安井さんには至極名残惜しそうにされた。
「服着るの? 髪だけ乾かしてそのまま戻ってこいよ」
「寒いからやだ。何だか知らないけど喜びすぎだよ、安井さんは!」
「好きな女がバスタオル一枚で出てきて喜ばない男の方がおかしいだろ」
「わああ何すんの! タオル引っ張らないでよ落ちるから!」
「むしろ落ちろ!」
「な、何言ってんの安井さんの馬鹿! 直球馬鹿!」
タオルを取られそうになった私は叫んだけど、彼はそう言われるのがどういうわけかとても好きな人だ。どこか満足げに手を離して、嬉しそうな顔で言った。
「いいから急いで髪乾かせよ、風邪引くぞ」
「引き止めてたのは誰だ!」
「髪乾かすだけでいいからな。先にベッドで待ってる」
彼は不意打ちで私の口に唇を押しつけると、歌でも歌い出しそうな上機嫌ぶりでリビングへと戻っていく。テレビがぱっと消されたのがわかり、私は敗北者の気分ですごすごと洗面所へ引き返した。
同棲生活は危険だ。どこにトラブルの種が潜んでいるかわからない。
私の姿を見た彼が幻滅するどころか喜んでたのは予想外だったものの、それならよかったとは言えない。どっちにしても待っているのは非常に恥ずかしい結末だ。本当に、気をつけよう。
「私、次からは絶対着替えを忘れていかない」
ベッドの上でうつ伏せになり、私は決意を込めてぼやいた。
隣で仰向けになった安井さんが、目だけ動かしてこちらを見る。口元は笑っている。
「俺はああいうの、いつでも歓迎だけどな。いい眺めだった、眼福だ」
「おじさんみたいなこと言ってる……」
「だから俺はもう三十一なんだって。立派なおじさんだよ」
開き直った口調で言ってから、彼は私を片腕で肩ごと攫うように抱き寄せ、もう片方の手で私の髪を撫でた。お正月に伸ばすと決めてから三ヶ月が過ぎ、私の髪はようやく先の方をちょろんと結べるくらいになった。とは言え、素敵な花嫁さんへの道はまだ長く険しいようだ。
その花嫁さんになる前に、安井さんから幻滅されるような事態だけは避けたい。
「やっぱり、一緒に暮らすんであっても最低限の慎みは必要じゃない」
腕枕をされて、髪を撫でられている私が続けると、微かに彼が笑うのが聞こえた。
「伊都は十分慎んでるだろ。むしろたまには今日みたいにサービスしろよ」
胸の鼓動も聞こえてくる距離で、優しい笑い声も身体に直接溶けるように感じられる。
「あんまり見せすぎて飽きられたら嫌だから」
そう告げたら私の髪を梳く手の動きが止まり、
「へえ、可愛い心配してるんだな」
彼は愉快そうに声を弾ませる。
「おかしい?」
目を開けてから私は聞き返した。
いつの間にか顔をこちらへ向けていた彼が、鼻先がくっつきそうな距離から私を見つめている。両目でしっかりと私を捉えた彼はいつになく真面目な顔つきをしていた。
「そんなことで飽きるような相手と、もう一回付き合おうって気になると思うか?」
笑いのない真剣な口調で質問を返され、私は一瞬口ごもった。
本気で飽きられる心配をしているわけじゃない。みっともないところを見せたくない、というのが正しい。それと二人きりだから、ふとした出来事からすぐに空気が変わると言うか、変な雰囲気になるのが――二十九になっても、私は未だにそういうものに慣れていなかった。
でも、彼が私をどれほど深く想ってくれているかは知っている。恥ずかしいけど、未だに慣れていないけど、それでもひたすらに幸せだった。
「……思わない」
少ししてから答えると、彼は安堵した様子で更に顔を寄せ、そっと唇を重ねてきた。
「お前に飽きるどころか、まだ知らない顔があるのかって思うことが今でもあるよ」
唇を離した後も私から視線を外さず、話を続ける。
「そういうのを見つける度に嬉しくて、でも少し悔しい気持ちにもなる。お前のことは何もかも知っておきたいって思うのにな」
最後の方は独り言みたいに呟いていた。
自分で言うのもなんだけど、私ははものすごく単純な、言ってしまえば深みのない人間だ。彼の言うような『知らない顔』があるとは到底思えない。何もかも知ってもらったって、彼が相手なら構わないとも思うんだけど――でも着替えは忘れないようにしよう。純粋に、格好悪いし。
一緒に暮らしていくうちに、お互い知らない顔なんてないと胸を張って言えるようになるんだろうか。夫婦になるって、そういうことなんだろうか。
その辺りのイメージは今はまだ漠然としているけど、私も彼の、私がまだ知らない顔があるんだったら見てみたい。
例えば、彼が石田さんとプライベートではどんなふうに接しているのかとか。
一緒に飲み会に出たことはあるけど、他に誰かがいる場ではまだまだ猫を被っていそうなのがこの二人だ。本当に二人だけで飲んでる時は結構すごかったりするんじゃないだろうか。
「そういえばさ」
脳裏に浮かんだ名前で思い出したことがあって、私は彼の目を覗き込むようにして語を継いだ。
「この間、久々に石田さんと話したよ。社員食堂で」
たちまち安井さんが顔を顰め、咎めるように横向きの私の頬に手を置いた。
「こんな時に他の男の話か。ムード台無しじゃないか」
「ごめん、急に思い出して」
「思い出すなよ。こうして二人でいる時くらい、俺のことだけ考えて」
もちろん考えてはいるんだけど。と言うか、考えていたからこそ石田さんのことを思い出したわけだけど。
「巡くんのことは、いつでも考えてるよ」
私が呼び慣れない呼び方を口にすると、彼は気を取り直したみたいに私の髪を弄り始める。指で梳いたり指先にくるくる巻きつけたりしながら、囁き声で言った。
「可愛いな、伊都。俺を呼ぶ声がまだぎこちない」
「からかわないでくれる? これから慣れるようにするよ」
私達は結婚するまでの猶予がまだあるし、その間に髪も伸ばすし名前で呼ぶのだって慣れることもできるだろう。
「からかってない、本当に可愛いと思ってるよ。きゅんとする」
安井さんが喉の奥で笑いながらそんなことを口走った。
いよいよからかわれたと思って私はやり返す。
「もう、笑ってるじゃない。そんなに言うとまためぐめぐって呼ぶよ」
「呼べよ。俺も寝る時から朝起きた後、社内でちょっとすれ違った時までずっといといとって呼んでやるから」
そんなのは困る。業務に支障が出るかもしれない。
すっかり弱みを握られた格好の私は、悔し紛れに話題を石田さんへと戻す。
「石田さん、すごく忙しそうだね。結婚式の準備に追われてるって言ってた」
社食でも五分と話せなかった。新年度になって仕事も忙しいけど、結婚式の準備がいよいよ本格化してきて週末も忙しいんだと語っていた。
もっとも、
『週末もずっと彼女と一緒だから、半ばデートみたいなもんだよ』
と語る彼の顔は、それはもうでれでれに緩みきっておりました。
石田さんなら面倒そうな結婚式の準備だって、めちゃくちゃ楽しんでやっちゃうんだろうな。
すると安井さんも溜息をつきつつ、言った。
「ああ。俺も近頃はあまり話せてなくて、この間廊下ですれ違った時は『今の俺はウェディングドレスに超詳しいぜ』とだけ言ってた」
あまりに予想外の台詞が彼の口から飛び出してきて、私は目を瞬かせた。
「えっ、何それ。一言だけ言い残してったの? それで通じ合えちゃうの?」
「通じ合ってはいないけど、大体わかったよ。彼女とドレスの試着に行ったんだろ」
むしろ十分通じ合っちゃってるから面白い。私が思わず笑い出してしまったからか、安井さんは困ったように眉を顰める。
「笑うなよ。付き合いが長いから何となくわかるってだけだ」
それから視線を天井へと投げて、長い吐息と共に言った。
「あいつに、そろそろ話したいんだけどな。その時間もまだ取れそうにない」
「あれ、まだ話してなかったの?」
知ってたけど、にやにやしながら突っ込んでみる。
たちまち彼は気まずそうにして、私をぎゅっと抱き締める。
「なあ、誤解のないように言っておくけど、俺は別にお前のことを隠しておきたいとか――」
「わかってる。石田さんにこてんぱんに冷やかされそうで言えなかったんでしょ」
その指摘はどう見ても図星だったらしい。安井さんはぐっと言葉に詰まり、呻いた。
「俺もあいつにはいろいろやったからな。ここぞとばかりに仕返しされそうだ」
「そこまで言うだけのことをしたんだね……何したの? 石田さん達に」
「普通だよ。腐れ縁の同期としてごく普通の冷やかしと祝福をしたまでだ」
安井さんは落ち着き払って答えていたけど、目は泳いでるし口元は思い出し笑いで綻んでいる。何となく察しもつく。
「でも、あいつには話さないといけないからな。お見合いの件から、もっと昔のことまで、できれば全部」
彼の言葉に私も頷く。
去年のお見合いの件では私のせいで心労もかけてしまったし、石田さんにはちゃんと言っておきたい。
「石田さんがね、私と安井さんが『付き合ってるんじゃねえの』って思ったことあるんだって」
「あいつが? それって最近の話か?」
「ううん、昔の話。お見合いするよりも全然前だったし」
「まさか。昔はそんなこと、匂わせたつもりもなかったよ」
安井さんは釈然としない顔で思案に暮れ、
「まあ、あいつの当てずっぽうも時々は当たるからな。打ち明ける時は用心してかかろう」
でも石田さんは安井さんのことをとてもよく見ていると思う。私もそれは十分知っているから、安井さんの用心がどこまで役立つかは不明だ。
「あいつの身体が空いたら、時間作ってもらってじっくり話すよ」
決意を秘めた口調で言い、それから彼はもう一度私をきつく抱き締めた。
「その後、もしよかったら……一緒に来てくれないか」
「どこに?」
「前に話したろ。石田と、それと霧島と、霧島の奥さんと小坂さんと五人で、よく飲み会をしてるんだって」
覚えがある。長谷さんの結婚式の後、二人で飲んだ時に聞いていた。
「俺もそこに、お前を連れていきたい」
傍目にもわかるくらい照れながら、安井さんは続ける。
「きっとめちゃくちゃ冷やかされるだろうけどな。石田もそうだけど霧島も結構根に持つ方だし」
「ってことは、霧島さんにも何かしたんだね……因果応報だよ」
「でもまあ、そういう冷やかしもされてみれば結構気持ちいいかもしれない」
どうかなと私は思ったけど、彼はもう既に楽しそうだ。満面の笑みを浮かべて語る彼に、私もつられて楽しくなって、頷いた。
「いいよ。どこでもついてくよ」
その晩、先に眠りに落ちたのは彼の方だった。
私も半ばまどろみながら、彼の腕が痺れないよう頭の下から彼の腕を抜いておく。代わりと言っては何だけど、彼の身体にしがみつくようにして眠った。途中で目が覚めたのか、彼が抱き締め直してくれたのをとろとろと曖昧な意識の中で感じていた。
いろいろあるけど、二人暮らしって、やっぱり幸せだ。
もうじき私達も忙しくなるのだろうけど、こういうささやかな幸せは、いつまでも忘れないようにしたい。