Tiny garden

出逢った事に感謝した(2)

 車庫の前に車を停め、外へ出ると、即座に夏の直射日光が突き刺さってきた。
 本日の予想最高気温も三十度越えだそうだ。この分だととっくに予想をオーバーしてるに違いない。閉めたドアも手が焦げそうなほど暑い。
「意外と早く着いたね。道、混んでなかった?」
 サンダルをつっかけた姉ちゃんが早速尋ねてくる。
「そこそこ混んでた」
 俺は答えてから、帽子被って暑そうにしている姉ちゃんを見て苦笑する。すっかり風格ある母親然とした姉ちゃんは、麻っぽい生地のワンピースにスカーフに麦藁帽子に長手袋と、紫外線対策も万全だ。その背中に引っ付くように、姪と甥が二人揃ってちらっちら覗いてくる。割合としては俺に二割、残りの八割は藍子の方を気にしながら。
「もしかして、ずっと外で待ってたのか? 別にそこまでしなくても」
 道中で一度、大体この辺にいるからあとどのくらいで着く、みたいな連絡は入れていた。でもわざわざ出迎えてくれと頼んではいないし、ましてこんな真夏日に、しかも子連れで炎天下の中待ってなくてもいいのに、と思ったわけだが、
「違う違う」
 姉ちゃんは俺の懸念を軽く否定し、実家の一階ベランダ前、物干し竿の立てられたアスファルト敷きの地面に目をやった。
 そこには結構なサイズの黄色いキリン模様のビニールプールが膨らませた状態で置かれていて、張られた水が直射日光でいかにも温そうにゆらゆらしている。俺にとっては関わりなくなって二十年以上経つ市場なんだが、最近のビニールプールってやつはちょっとすごいようだ。大した長さではないが自前のスライダーがついてるし、にょきっと伸びたキリンの口からシャワーが出る仕組みもついてる。これは遊んだらさぞ楽しいだろうと思ったら、プール周辺の地面は既に湿って色が変わっていた。
「子供たちをプールで遊ばせてたんだ。あんたのお出迎えはそのついで」
「ついでかよ」
「当たり前でしょ。見たかったのはあんたの顔じゃないし」
 言ってる傍から、姉ちゃんはうずうずと好奇心を抑えきれない様子でいる。
「さ、ご挨拶しよっと」
 久々に会った弟にはもう見向きもせず、その後は素早く俺の車の助手席側――たった今、音を立ててドアを閉めた藍子の方へ近づいてって、にこやかに声をかけた。
「いらっしゃい、藍子ちゃん。――あ、初めまして、か。隆宏の姉です」
 車から降りたばかりの藍子は、自分の荷物は積んだままなのにお土産の紙袋だけは準備万端提げていた。声をかけられた瞬間、可愛い私服には似合わないしゃきっとした姿勢になって、深々とお辞儀をする。
「初めまして、小坂藍子と申します。この度はどうぞよろしくお願いいたします」
「え、いいよそんなに硬くならなくても。もうここ、私の家でもないし」
 姉ちゃんが手をひらひらさせると、藍子は緊張を隠しきれてない顔を恐る恐る上げてみせる。
 ここに来るまでに話していたカンペが云々、なんてのはもうとっくに忘れてしまっているんだろう。俺の方をちらりとも見る余裕もないようで、だがこれだけは言わなければという使命感に溢れた口調で言葉を継ぐ。
「あの、隆宏さんにはいつも仕事で、大変お世話になっております」
 そう言い切った後でようやく笑みが浮かぶ辺りがすごく彼女らしいと思う。
 でも『仕事で』はないだろ。そこは『公私共に』って言っとくとこだろ。
 言われた姉ちゃんはちょっと愉快そうな顔つきになって、
「いえいえこちらこそ、弟が大変お世話になってるようでありがとうございます」
 と応じてから、俺ににやにや笑いかけてくる。
「写真以上に可愛いお嬢さんじゃない」
「まあな」
 俺は、当然否定なんてしない。事実だからな。
「こんな可愛い子だったら、さぞかし喜んでお世話しちゃったんでしょうねー」
「当たり前だろ。新人指導期間はもう楽しくて楽しくてしょうがなかったからな」
 ぶっちゃけ配属前からテンション上がりまくりでしたから。そしてそのテンションは全く落ち着くことなく二年目の今も上昇中ですから。
「でもまあ、今も超楽しい思いしてるし、お蔭様で公私共に幸せ一杯夢一杯なんですよ」
 と、俺はここぞとばかりに姉ちゃんにも惚気た。新人指導の役得をまんまとものにしたお蔭で、現在もオフィスラブ満喫中です。いや、幸せすぎて全世界の男どもに申し訳ない気持ちで一杯ですよ全く。悪いね皆さん。
 さしもの姉ちゃんもこれにはドン引いたらしく、すぐに言われた。
「ちょ、あんた惚気すぎじゃないの? そこまで言われるとからかう気も失せるんだけど」
「ぶっちゃけ職場でからかわれ慣れた。俺はもう開き直ってる」
「うわあ……職場の皆さんが何かかわいそうになってきた……」
 その上、会ったこともない営業課の連中に向かって同情を寄せ始めている。連中もいい加減慣れっこだろうし、こっちも散々あれこれ言われてるんで同情の必要なんてないけどな。特に霧島。
 とは言え、楽しい楽しいオフィスラブに開き直ってるのはまだ俺だけで、藍子はそこまでの域には達してないらしい。重い紙袋を提げて早くものぼせたように真っ赤になりつつあったから、俺はすかさず傍に寄り、お土産を引き受けてやる。
「ほら、寄越せ。あと他の荷物も運んどいてやるから、先入ってろ」
「あ、大丈夫ですよ、私」
 藍子は軽く笑んでそう言ったけど、有無を言わせず紙袋を奪う。それから俺は姉ちゃんを促す。
「とりあえず、外で立ち話も何だし、中入ろうぜ」
「そうだね。――ほら、あんたたちもご挨拶済ませちゃいなさい」
 一旦は頷いた姉ちゃんが、その後で背中にずっと引っ付いてた子供たちを急かし立てた。
 それでひょっこり顔だけ出した小学生の姪が、
「こんにちは」
 と勢い込んで言うと、幼稚園児の甥もおずおず、人見知りの治りきってない口調で続く。
「こ、こんにちは……」
「こんにちは、初めまして」
 対して藍子は、姉ちゃんにしたよりもずっと柔らかく応じてみせる。前に子供好きみたいなこと言ってたからか、或いは彼女自身もしっかり持ち合わせているお姉ちゃん属性のお蔭か。そのせいか子供たちは揃ってはにかみ、日焼けした肌とは対照的な白い歯を覗かせた。
 案外、こっちの方が先に打ち解けそうな気がした。

 家の中へ上がると、暗さに慣れない視界には少し懐かしい光景が映る。
 あんまり来てないせいか、居間一つとってもちょこちょこ変わっていたりはする。食器棚の中の写真立ては姪と甥の写真がごそっと増えてたり、テレビ台の下ではビデオデッキがDVDに対応してたり、買い換えた冷蔵庫がちょっと小さめになってたり。でも細部の変化はあっても、実家の匂いは変わってなくて、こんな俺でもさすがに『懐かしいな』と思ったりする。
 ところで、この家の主たちはどこだ。家の中はどこもかしこもしんとしていて、姪と甥が借りてきた猫のようにおとなしいせいもあってか、電化製品の唸る音がはっきり聞こえてくるほどだ。
「父さんたちなら買い物」
 と、冷蔵庫を開けながら姉ちゃんは言った。
「あんたが彼女連れてくるからって、すっごい張り切ってたよ。美味しいもんばっかり買ってくるってさ」
 こういう時にテンション上がっちゃう俺の性格はどうやら親譲りらしい。張り切ると言うかもう舞い上がっちゃってる両親の顔があっさり脳裏に浮かぶ。困ったもんだ。
「荷物置いといでよ。二階の元のあんたの部屋、泊まれるように用意しといたって」
 姉ちゃんは更にそう言って、五人分のコップに続々と麦茶を注ぐ。
 そういえばどこに寝泊りするかは聞いてなかった。二階の西向きの部屋は俺が大学には言ったと同時に俺の部屋ではなくなったが、姉ちゃんの説明から察するに寝られるようにはしておいてくれたようだ。
「元だけど、俺の部屋、見るか?」
 一応尋ねたら、藍子は目を輝かせて頷く。
「はい、是非!」
「言っとくけど、そんなに面白いもんないからな。あくまで元、俺の部屋だし」
 食いつきのよさに思わず笑うと、聞こえていたのか姉ちゃんも笑う。
「でもないかもよ? 藍子ちゃんの喜びそうなものがあるかも」
「……は? どういう意味で?」
 俺が突っ込んで聞いたのはスルーされたので、ひとまず荷物を持って二階へ向かう。実家の階段はやたら狭くて、着替えの入ったスポーツバッグが壁に何度もぶつかった。後からついてくる藍子にはぶつからないよう細心の注意を払い、十四段ちょうどの、昔、何度も階上からスーパーボールを転がした階段を上がりきる。
 二階に部屋は二室あり、そのうちの西日がきつい方が元、俺の部屋。ブラインドを閉めてもその隙間から差し込んでくる夕日に何度殺意を覚えたかわからん。
 ただ今はまだ昼過ぎだから、室内は眩しすぎもせず暑くもなく、普通の佇まいを見せていた。六畳の部屋はセミダブルのベッドと勉強机を置いたら後はもうキャパオーバーで、それを口実に俺はクローゼットの中へ本棚をしまい込んでいた。さすがに現在は本棚こそなかったが、ベッドと勉強机はそのまま残ってて、相変わらず広くない。もっとも、寝起きするだけの部屋だからそれでもいいのか。
「ここが隆宏さんのお部屋ですか」
 藍子は物珍しそうに狭い室内を見回している。そうやって興味深げにされるようなものは何にもないんだが――俺の部屋じゃなくなって久しいからか、ここにも細部に変化が見られる。例えばベッドカバーがいかにも母さん好みの幾何学模様になっているし、カーテンがいやにメルヘンな柄に変わっているし、さりげなく置かれた芳香剤がフローラルの香りになっている。高校時代の俺が過ごしてた、部活で使ったリュックサックを床に転がしておいてたり、読みっ放しの本がその辺に積まれてたり、随所にいろんなものを隠してたりした男の城的な雰囲気はどこにもない。
「へえ……」
 そんな中できょろきょろしてる藍子の姿を見てると、高校時代の俺の部屋に連れてきてみたかったな、という気分になってしまうから不思議だ。
 いや、胸張ってお見せできるような代物じゃなかったんだが。なかったけども、当時部活動に明け暮れてて飾り気なんてこれっぽっちもなかった石田少年の、これまた飾る気もなかったいかにも無骨な男の城に、こういういたいけで可愛い女の子を連れ込むっていうのも一種のロマンじゃありませんか。いいよなー学校での恋愛ってのも。同じ制服着た藍子に『石田先輩!』とか呼ばれてみたかったなー。
 普通に考えたら無理っつうか、一歩間違うとオフィスラブなんか目じゃないレベルの犯罪だけどな。俺の高校時代、藍子がいくつだったかをリアルに考えたら。
「……あれ、これって、何ですか?」
 リアルでは七つ年下の彼女が、ふと怪訝な声を上げた。
 ノスタルジックな気分の俺がそちらに目をやると、藍子は勉強机の前に立っていて、不自然なくらいに片づいたその机上に一冊だけ、いかにも曰くありげに置かれた謎の本の表紙をしげしげと見下ろしている。心なしか見覚えのある凝った装丁の表紙には、箔押しでタイトルが記されている、
「……卒業記念文集」
「うわ」
 読み上げられて、思わず声が出た。
 来たぜ、危険物。実家に帰省する際に気をつけなくてはならない黒歴史四天王の一角!
 そうか、姉ちゃんの言ってた『喜びそうなもの』ってこれか。つかわざわざ仕込んどいただろ絶対。
「見てもいいですか?」
 黙って勝手に開けたりしないで、ちゃんと聞いてくるところが藍子らしい。
 俺もありがたく、かぶりを振らせていただきました。
「駄目です!」
「駄目ですか……。残念です、隆宏さんの文集、見てみたかったのに」
 あいにくと俺は記憶力がいいので、その文集が高校時代に作られたものであることも、中にどんな作文を載せたかも覚えている。あと結構写真も載ってる。部で撮ったのもあったし。
「いや、やめとけって恥ずかしいから。きっと見る方のお前が恥ずかしくなるから」
「そんなことないですよ。隆宏さんは入社当時の写真でも素敵でしたし」
 そしてまたそのネタを持ってきますか。藍子も時々意地悪なこと言うよな。似たのか。俺に似たのか。
「でも私、滞在中に見せてもらえるものと思ってます」
 藍子は強くは食い下がらず、でもこれから現れるであろう四天王の残る三角についても期待を寄せるように、嬉しそうな笑顔を見せた。

 実際、藍子に見せて愛想尽かされそうなネタがあるわけではない。
 だけど恥ずかしいんだよ! 中身が! いかにも男子高校生の書きそうな恥ずかしい作文とか載っちゃってるんだよ! 十年以上昔の石田少年が書き残したきらっきらした夢語り文章を、今の俺を知ってる藍子が見たら、どう思うだろう。
 想像すると恥ずかしくて、くすぐったくて堪らん。
 どうにかしてこれ、隠しとくことはできないものか。
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