五年目(3)
「――ねえ正ちゃん、こういうのどうかしら?」ショッピングセンターの衣料品売り場にて、母さんがワゴンから衣類を拾い上げた。
いっそ瑞々しいくらいに鮮やかなオレンジのTシャツだった。
「そういうのはちょっと……派手過ぎるよ」
店員さんが傍にいたから、俺は声を落として答える。それでも母さんはわざわざTシャツを広げ、俺に当てようとする。
「そう? 似合うと思うんだけどなあ」
「俺はもっと無難な奴の方がいいな、黒とか、白とかさ」
言っても無駄かなと思いながらも告げてみる。そして実際、あまり意味がない。あっけらかんと反論される。
「あら。正ちゃんは若いんだから、もっと明るい色を着るようにした方がいいわよ」
「ど、どうかな。それとその呼び方、そろそろ止めて欲しいんだけど」
「あ、見て見て正ちゃん! こんなのもあるわよ!」
母さんの次に見つけたのは熟したトマトみたいに真っ赤なシャツだ。
「だからさ母さん、俺こういうのはちょっと」
「正ちゃんも一枚くらい若者らしい服を持ってた方がいいの。大丈夫、絶対似合うから」
どうやら母さんの感性からすると、若者らしい服とはビビッドカラーの服らしい。その認識もどうかと思うが、それ以前に、自分の息子にどんな服が似合うかくらいはわかっていて欲しいものだ。
「たまに帰ってきた時くらい、一人息子の為に何かしてあげたいじゃない。この間は靴下を買ってあげたから、今日は違うものね」
衣料品売り場の棚やワゴンを覗きながら、上機嫌の母さんが言う。
「正ちゃんのパジャマ代わりにしてたTシャツ、よれよれだったでしょ? この機会に買い換えてあげる」
「……それは嬉しいんだけど」
Tシャツ選びを俺に任せてくれたらもっと嬉しい。でも言ったところでわかってもらえるかどうか。
帰省中の一日、俺は母さんに連れられて郊外のショッピングセンターへ出かけた。
人混み嫌いの父さんは、ゴールデンウィークの外出など正気の沙汰じゃないと言わんばかりに同行を拒否した。もっともそれは昔からのことで、俺と母さんにとっては断られる為に誘う、いわばお約束のようなものになっていた。
そして母さんは衣料品売り場をうきうきと闊歩し、俺をあちこちに連れ回している。故郷のショッピングセンターは品揃えが少々貧弱で、いかにも田舎らしかった。とは言え母さんはいつものようにはしゃいでくれたし、楽しんでくれているならいいよな、と思う。
こういうのも親孝行のうちなんだろう。
「父さんと、話をしたよ」
Tシャツ選びに夢中になっている母さんに、俺はそっと切り出した。
シャツを持ったままこちらを向いた母さんは、あら、と口の形だけで言った。
「いつでも帰ってきていいって言われた」
一つ決意が固まると、本当に何でもないような、当たり前のことのように思えてきた。やりたいことをする。その為の努力をする。
父さんの後を継ぎたい。そう思う。
料理がしたい。
大勢の人を幸せにするような料理を、あの店で出したい。
「だから、帰るよ」
俺が言い終える前に、母さんはにんまりした。
「お父さんがそう言ったなら、お母さんはもう言うことないわ」
「へえ、信頼してるんだな」
素直に感心しようと思ったのに、なぜか照れ隠しみたいな口調になった。
母さんはふふっと笑う。
「お母さんだって出る幕のあるなしはちゃんとわかってるのよ。正ちゃんとお父さんが納得して出した答えなら、お母さんはそれだけでいいの」
電話の度に帰っておいでと再三繰り返していたのは母さんだ。
だが俺と話をしたがっていたのは、母さんよりも父さんの方だったのかも知れない。俺にとっても、多分同じように。
「それにしても、正ちゃんが帰ってきてくれるだなんてねえ」
母さんは一層浮かれた様子でTシャツを見繕っている。
「あとはお嫁さんでも連れてきてくれたら最高なんだけど。当てはないの?」
「……今のところはね」
あっても、そんなこと親には言えない。清水に打ち明ける方が先だ。そういう意味ではまだ、当てがあるとは到底言えない段階だろう。
――と、そこで思い出した。
そうだ、清水へのプレゼントを買って帰らなければ。
結局、Tシャツはお互いに歩み寄って落ち着いた青い色合いのものにしてもらった。
その会計を済ませた後で、俺はさりげなく母さんに提案する。
「俺もちょっと買い物がしたいんだけど、見てきてもいいかな」
「え? 何買うの?」
母さんが怪訝そうにするが、正直に話すのは抵抗があった。
「いや、大したものじゃないんだけどさ。すぐ済むからこの辺で待っててよ」
「ええー。せっかく二人で来たのよ、一緒に行きましょうよ」
まるで子供みたいに口を尖らせている。可愛くはない。
「すぐ戻るから、ちょっと時間くれよ。本当にすぐだから」
俺が宥めるように言えば、その視線がだんだんと不審げになっていく。
「あら正ちゃん、お母さんが一緒だとまずいものを買う気なの?」
「そうじゃないけど……」
何と言っていいものか。曖昧に濁しかけた俺の眼前、母さんが不意にはっとした。
「あ、もしかして! 母の日のプレゼントとか?」
こっちは、ぎくりとしてしまった。
「えっ、あ、いや、その」
それこそすっかり忘れていた。
そうか、五月の第二日曜日は母の日だ。家を出てからというもの呆気なく疎遠になってしまった行事だが、親孝行というならまず忘れてはいけないだろうに。
「そうだったの。もうっ、気を遣わなくてもいいのに!」
明らかに一段高くなったテンションで、母さんが俺の肩を叩く。
期待されているのがわかって気まずい。こうなったからには、やはり何か見繕うべきだろう。
「そ、そうなんだ。だから母さんはどこか適当なところで待っててくれる?」
俺は罪悪感で一杯になりながらも、やっとのことで母さんを説き伏せることができた。
定番の親孝行さえ長らく疎かにしてきた。受けた恩を全て返しきれるとは思ってやしないが、少しずつでも何かで返していけたらいいと思う。
だから俺は母の日のプレゼントも調達した。そしてすぐに、じゃあ六月の父の日はどうするかという問題にもぶち当たった。母さんに何かあげる以上、父さんの方を放っておくわけにもいかない。そこで二人にお揃いのパジャマを買って、家に帰ってから渡すことにした。
清水へのプレゼントはショッピングセンターの大きな袋で隠した。お蔭で父さんにも母さんにも見咎められずに済んだ。
弁当袋と弁当箱のセットを買っていた。彼女にも気に入ってもらえるといい。
買ったプレゼントは連休が明けてすぐ会社に持っていった。
清水とはいつものように昼休みの社食で顔を合わせて、いつものように並んで座った。
「連休明けは仕事辛いよね」
彼女はぼやきながら弁当袋を開いている。
今日の弁当袋は小さな象の柄だった。えんじ色の生地に灰色の象がぽつぽつとプリントされている――それを見て俺は一抹の不安を覚える。清水、象柄まで持っていたのか。買ってきたお土産、彼女のコレクションと被ってやしないだろうか。
例のお土産兼プレゼントは、今は左隣の椅子に置いてある。どのタイミングで渡そうかと思案しているうちに、清水は弁当箱を取り出していた。袋と同じ象柄だ。蓋を開けた中身は黄色い卵と赤いケチャップ。
「オムライス弁当?」
俺が尋ねると、彼女ははにかんだ。
「そう。今日はちょっと手抜きしちゃった」
それから俺の弁当箱に目を向ける。少し悔しそうにもしてみせる。
「さすが、播上は連休明けでもちゃんと作ってるね」
「まあな」
実家でいろいろ習ってきておいて、こっちに戻ってきた途端に怠けるなんて出来ない。
というわけで俺も卵のおかずだ。だし巻き卵を作ってきた。父さんの前で作った時よりも上手くいったのが惜しい。
これもいつものように、俺達は弁当を分け合った。俺はおかずを一品ずつあげて、清水はオムライスの四分の一をフォークできれいに分けてくれた。
「この卵焼き、美味しい!」
だし巻き卵を食べた清水は、びっくりした様子で俺を見る。
「コツとかあるの? やっぱ焼き加減?」
「ああ。俺も実家で作った時はしくじった」
「播上、帰省してもご飯作ってるんだ?」
「大したものは作らせてもらえないけどな。本職の人間相手じゃ緊張するし」
父さんの前で緊張しているうちはまだまだ、なんだろう。失敗を恐れずに作れるようになること、それが大前提だと父さんが言っていた。その為にはもっと時間が必要だ。料理に携わる為の時間、より多くの技術を本職の父さんから教わる時間が。
清水の作ってきたオムライスも食べてみた。お弁当用とあって卵は固めだが、中のチキンライスは味が濃く食べやすい。炒め具合も絶妙で、なかなか美味しかった。
「オムライスも美味しいよ」
「本当に? 手抜きって感じしない?」
「強いて言うなら、具か味付けにもう少しパンチが欲しかったな。けど、そこを除けば文句ないよ」
チキンライスの具は鶏肉と玉ねぎだけ。味付けもケチャップと塩だけのようだ。欲を言えばもう一工夫欲しかった気もする。例えば歯触りのいい野菜やキノコ類を加えて食感にメリハリを出すとか、香辛料を効かせてみるとか。
「確かに、ちょっと物足りない気もするよね」
清水自身もそう思うらしく、オムライスをつつきながら嘆息している。
「向上心がないのかなあ、私」
「そんなことない。毎日弁当作りが続いてるだけでも立派じゃないか」
「でも、自分でも最近思うんだよね。ちょっとワンパターンと言うか、成長がないなと」
彼女はぼやくけど、一年目に比べれば基本的な技術の面ではかなり上達しているはずだ。
毎日慌しい中で、これだけ継続してきたこと自体が十分、立派だ。彼女の頑張りは俺がちゃんと知っている。
でも、彼女が負けず嫌いなのも知っている。だからどう言葉を掛けるべきか、迷う。
考えあぐねる俺をよそに、彼女は尚も呟いた。
「いつか播上の度肝を抜いてやりたいって思ってるんだけどなあ」
「言ってたな、そういえば」
「うん。いつかはすごい料理を作って、播上に食べてもらいたいって思うんだけど……この調子じゃいつになるやらだね」
肩を竦める清水を、俺は複雑な思いで眺める。
いつになるやらと言うなら、俺は彼女にいつ打ち明けようか。
一応、予定だけは立てている。仕事が落ち着いて、引継ぎへの準備もある程度整えて、辞表を出して、それから話そうと思っている。
上手くいくかどうかは正直、わからない。あっさり振られるかもしれないし、だとしても俺は実家へ帰るつもりでいる。ただなるべく振られないように、上手くいくように、出来る限りの仕込みはしておこう。
あとはどう言って切り出すかだが、そこも悩みどころだった。店を継ごうと考えていることは必ず告げなくてはいけない。となるとやっぱり、結婚を前提にお付き合いしてください、とか――改まりすぎて笑われるかな。
弁当を食べながら考えたところでまとまりそうにない。とりあえず『上手くいくように出来る限りのこと』をしようと、俺は左隣の椅子から袋を取り上げた。
「そうだ、これ。お土産……と早めの誕生日プレゼント」
いかにも今思い出しましたという態度で差し出してみる。
すかさず清水がきょとんとして、すぐに困ったような笑みを浮かべた。
「あ、ありがとう。ごめんね、気を遣わせて」
食べ物では遠慮をしないくせに、こういうことでは遠慮をするんだから困ったものだ。
「遣ってないよ。去年は誕生日プレゼント貰ったからな、そのお返しだ」
「気にしなくてよかったのに……」
「いいから。それより中身を確かめてくれないか」
催促すると、清水は柄にもなく遠慮がちにお土産の袋を開く。そして包装紙をきれいに剥がし、中身の弁当箱と弁当袋を見た途端に声を上げた。
「わあ、可愛い!」
ライオン柄の弁当箱だ。丸い蓋がそのままライオンの顔になっていて、大口を開けた顔の可愛さに惹かれてこれを選んだ。
「清水が弁当箱集めてるって聞いてたから、これにした」
「この顔いいなあ……愛嬌あるね。貰っちゃっていいの?」
「貰ってくれないと困るよ。俺が使うには可愛過ぎる」
「ありがとう播上! すっごく気に入っちゃった!」
ようやく遠慮をやめた清水は大はしゃぎだった。溜息をつきながら弁当箱の蓋を開け、セットでついていた箸をビニール袋の上から眺め、弁当袋にまで目をきらきらさせている。俺は買ってきてよかったとしみじみ思い、それからこっそり彼女に見入った。
弁当箱のライオンよりも、清水の方が可愛い。
「それじゃあ私も、播上の誕生日には何か用意しないとね」
しかし彼女がそう言い出した時は、さすがに焦った。
「いや、それはいいよ。気を遣わなくていいからな」
お返しのお返しなんて不毛だ。慌てる俺に対して、清水はごく平然としている。
「こんなに素敵なもの貰ったら、お返ししないわけにはいかないでしょ?」
「でも俺は、去年のお返しにと思って買ってきたんであって……」
「去年のはプレゼントのうちに入らないよ。ちゃんと用意するから、楽しみにしてて!」
彼女の眩しい笑顔は、俺の言葉を詰まらせる。
もちろん気持ちは嬉しい、だがこういうプレゼントのやり取りをしてきたことがなかっただけに、いざとなると戸惑ってしまう。彼女を喜ばせようと思っていたのに、かえって気を遣わせたんじゃないか。むしろ俺が喜ばされてどうする。何の為に土産と称してプレゼントを用意したのか。そんなことをあれこれ考えてしまう。
清水との付き合いも五年目なのに、彼女の反応は未だに読み切れない。
どういう手段を取れば、俺の本心だけが過不足なく伝わるだろうか。