五年目(4)
社会人生活五年目の七月は、去年と同様に慌しかった。今年の忙しさは去る人ではなく、来た人によるものだった。新人の堀川は近頃めきめきと仕事を覚え、春先とは比較にならないほどの働きぶりだ。しかし覚えが早いということは、教える側にも手早さが求められるということでもある。俺は次々と堀川に総務の仕事を教える羽目となり、結果として今年も多忙な夏を過ごしていた。
ルーキーの成長ぶりを陰から見守り、そして先のことへ思いを馳せる。
このまま順調に行けば後顧の憂いなく辞表が出せそうだ。
今日の堀川も実に張り切っていた。
昼の休憩から総務課へ戻ってくるなり、俺に声を掛けてきた。
「戻りました! 播上さんも休憩、そろそろ入りますよね?」
「もうすぐ入るよ」
机で発注書を仕上げていた俺は、答えてから席を立つ。この書類をファックスで送ったら休憩にしようと決めていた。時刻は既に午後二時近く、そろそろ腹の虫がうるさいし、清水が来てるかどうかも気になる。
総務課の隅にある複合プリンタへ近づけば、すかさず堀川が駆け寄ってきた。
「あ、それでしたら俺がやりますよ!」
威勢のいい申し出に驚いたが、堀川は愛想よく続けた。
「備品の発注ですよね? こないだ習いましたし、任せてください!」
「いいのか? じゃあ……頼もうかな」
俺は戸惑いつつ、発注書を堀川へ渡した。
もしかして俺が休憩に入っていないのを気遣ってくれたんだろうか。先輩を案じて自発的に仕事を引き受けるなんて、つくづくよく出来た新人だと思う。
いい奴だな、と思わず笑んだ時、堀川はそれより数段眩しい笑顔で言った。
「それより播上さん、社食で清水さんが待ってましたよ」
社内に知れ渡っている間柄とは言え、ここで彼女の名前を出されるとうろたえてしまう。総務に俺達しかいないのが幸いだった。
「し、清水が何だって?」
「いや、聞きましたよ播上さん、今日お誕生日なんですね!」
堀川は声を絞らない。普段通りの威勢よさで続ける。
「おいくつになるんですか? もう三十は過ぎてるんですよね?」
「……二十七」
「え! 意外にまだお若いんですね!」
意外って何だ。新人とは言え素直すぎだろう、そこは別に素直じゃなくていいのに。
「さっき食堂でお会いした時、清水さんに伺ったんですよ、今日が播上さんの誕生日だから、プレゼント用意して待ってるんだって」
そこで新人は声を落とした。
「幸せいっぱいじゃないですか。羨ましいなあ」
俺は平静を装いつつ、一応注釈をつけた。
「言っとくけど、清水は彼女じゃないからな」
「もちろん存じてます」
むしろ平然と返された。プリンタのコンソールを操作しながら、堀川の口調はいたって明るい。
「だとしても羨ましいですよ、誕生日に女の子からプレゼント用意してもらえるなんてめちゃくちゃ幸せですって。俺だったらその場でプロポーズしちゃいますね!」
それはどうだろう。さすがに飛躍しすぎだ。
でもまあ、幸せなのは事実だと思う。誕生日に女の子、しかもとびきり可愛い子からプレゼントを貰ったりしたら、ぐっと来るのも致し方ない。相手が清水なら尚のことそうだった。去年の俺はプロポーズしかねない勢いだったようにも思う。堀川のことは言えない。
それにしても清水の奴、結局プレゼントを用意してくれたのか。いいって言っておいたのに。気を遣わせたかなと思いつつも、やっぱり、嬉しい。
「清水さんって、播上さんのこと好きだと思うんですよね」
堀川が、幸福を噛み締める俺の思考に爆弾を叩き込んできた。
意識が現実へ引き戻される。俺は堀川を凝視する。
堀川はプリンタを見下ろしている。まだ覚束ない手つきだが、操作に戸惑う様子はない。
「まあ、俺の勘なんですけど」
筐体がびりびりと唸り始める。
「逆は、よく言われたけどな」
どう応じていいのかもわからず、俺はそれだけ答えた。
堀川がこっちを向いてちょっと笑う。
「そうなんですか? 逆もまあ……見ようによってはそうかなって感じしますけどね」
逆の方は実際、正解だった。
だが清水についての読みは、当たっているとは思わなかった。
清水が俺を好きなはずがない。と言うより、彼女が誰かを好きでいるとは思えない。彼女の本心、恋愛に対する考え方は去年の今日に聞かされていた。一生結婚しないと言い切っていた。
あれから一年、清水に何らかの変化があったようには見えない。彼女が恋愛をしているとは到底思えなかった。
「だって女の子って友情にはシビアじゃないですか」
独り言のようなトーンで堀川は続けた。
「ずっと長い間友達でいて、誕生日のプレゼントまで用意してくれるなんて、ただの友情だけじゃないって思っちゃいますよ。男の勝手な願望って言ったらそれまでですけど」
わからなくもない。清水を始めとするこの世の女の子の好意の示し方は、男の予想をことごとく外したところからやってくる。そう来るか、と唸りたくなるくらいの奇襲を仕掛けてくるから恐ろしい。そこに友情以外の気持ちがあるんじゃないかと期待したくなるのもむべなるかな。女の子からすれば、ただの好意を恋愛感情と履き違えられるのは不快なものなんだろうが、だったらわかりやすくふるまってくれと言いたい。
俺なんてもう五年目の付き合いなのに、未だに清水の本意が読めない。
「女の子の気持ちって難しいよな」
無難な相槌を打った俺に、堀川は深く頷いてくる。
「ですよね! 同じ人間とは思えない時がありますよ。どういうつもりなんだろうって悩まされてばかりです」
わかる。
性別が違うだけなのに、どうしてあんなに考え方から何から違うんだろう。
せめてもう少しわかりやすかったら、それほど悩まされることもないのに。
「でも、羨ましいです」
そこで堀川が、ふっと笑い声を零した。
「播上さんと清水さんって呼吸からしてぴったりですよね。そういうの、いいなって思いますよ」
ぴったり、なんだろうか。むしろ俺からすれば、清水にペースを乱されることもたびたびある。彼女の行動が読めなかったり、不意を突く好意を向けられたりして、しょっちゅうどぎまぎさせられている。それでも、傍目からは息の合う二人に見えるんだろうか。
羨ましいと言われたのは、堀川が最初ではなかった。
だからきっと、その通りなのかもしれない。
清水の本心は察していても、堀川の言葉に動揺してしまったのは事実だ。
社員食堂で彼女を見つけた時、どうしようもなく心臓が高鳴った。堀川の勘が当たっていればいいのになと、俺は単純にも思ってしまう。
「あ、播上!」
食事中の彼女が俺に気づき、こちらへ向かって手を振る。
俺は自然と早足になって彼女のいるテーブルに急いだ。そして左隣に座ると、彼女は笑顔で迎えてくれた。
「よかった。今日は休憩一緒になれないかな、ってはらはらしてたんだ」
「堀川に聞いたよ、清水が待ってるって話」
弁当の蓋を開けながら俺は応じた。
もちろんそれ以降の会話については内緒だ。
「そうそう、さっき堀川くんと会ったから、播上の休憩まだかなって聞いてみたんだ」
小首を傾げる清水。
「俺が誕生日だってことも話したのか?」
「うん」
こちらの問いにもあっさり頷き、続けた。
「堀川くん、いい子だよね。そのこと話したら『播上さんに伝えときます!』ってすっ飛んでったよ」
あいつはいい奴だ。俺も確かに思う。
だが、随分仲がいいじゃないかとも思う。いつの間にそんな会話までするようになったんだ。あの新人、どうやら出来るのは仕事だけじゃないらしい。
胸を過ぎった複雑な感情も、次の瞬間にはあっさり雲散した。
清水が小さな紙袋を取り出し、俺へと手渡してきたからだ。
「はいどうぞ、お誕生日プレゼント!」
彼女の言葉に一瞬虚を突かれ、それからじわじわと口元が緩み出す。にやつかないようにするのが難しかった。
「ありがとう、清水」
「うん。播上、お誕生日おめでとう」
清水に祝ってもらえる誕生日は、本当にめちゃくちゃ幸せだった。
貰った紙袋の中には、グラシン紙に包まれた何かが入っていた。慎重に取り出してみると大きさは手のひらに乗るくらい。見た目から想像するよりも少し重い。紙包みを開けば、鮮やかなきつね色が覗いた。丸いケーキ型に入っているどっしりとした生地――お菓子のようだ。
「播上の誕生日と言えば、カボチャだよね」
清水は笑顔で言い切った。
「だから今年のプレゼントは、カボチャのケーキにしました」
確かに、俺の誕生日と言えばどういうわけかカボチャだ。去年も片づくまでにだいぶ掛かった。
でも、こちらからすればケーキだという事実がまず肝要だ。
「俺に?」
思わず聞き返してしまうと、さもおかしそうに笑われた。
「播上以外の誰にあげるの? お誕生日のケーキなんだよ!」
彼女は声を立てて笑っているが、俺からすれば大事だ。
誕生日にプレゼントとしてケーキを貰う。しかも好きな子から。しかも、手作りの誕生日祝い。これが大事じゃないなら何だと言うんだろう。今日からカボチャが大好きになってしまうかもしれない。
それにしても彼女は、俺を驚かせるのが上手だ。
「あ、ありがとう」
改めて感謝を口にすると、清水はそこで人差し指を横に振った。
「感謝はまだ早いよ。播上の好みに合うかどうかわからないし」
「大丈夫だよ、好みの方を合わせるから」
誕生日プレゼントとして貰ったものに、いつも通りの忌憚のない評価なんて出来るわけがない。こればかりは特別扱いしてしまう。
「あれ、珍しい。誕生日だから大サービスなの?」
怪訝そうな清水が問い返してくる。違う。そうじゃないんだ。
「誕生日プレゼントなんだろ。作ってくれただけで嬉しいよ」
俺が言ってもまるで取り合ってくれない。笑われている。
「やだな、気を遣わなくてもいいのに。正直に感想聞かせて」
「でも俺は、清水の気持ちだけで本当に――」
「いいから。料理のことで気を遣うなんて、播上らしくないよ!」
そういえば昔、渋澤に怒られたことがあったっけ。女の子がせっかく作ってきたのに厳しく言い過ぎだとか何とか。入社してすぐの頃だ。あの時も清水は全く怒らなかったし、あの時から負けず嫌いの性格を大いに発揮していた。言ってしまえば俺達の関係は、一年目からさして変わらぬまま現在に至る、のかもしれない。
変わったのは俺の胸中だけ、なんだろうか。
そうじゃないと思いたい。清水は俺の為にケーキを作ってきてくれたんだ、それは確かだ。
複雑に思いながらも、ひとまず味を見てみることにする。ケーキにはそれほど明るくないが、確かこれで五号サイズだったはずだ。俺の両手に乗るくらいのカボチャのケーキは、きつね色の生地にカボチャの種が散らしてある。見た目は実に美味しそうだ。
「ところで清水、これ、ナイフとかは……」
「あ! ごめん忘れた。ええと、よかったらそのままかじりついて!」
「……わかった」
俺は彼女の勧めに従い、型を外して持ち上げて、ケーキの端にかじりつく。
裏ごししたカボチャは舌触りがよく、しっとりなめらかで食べやすい。それでいてカボチャ自体の風味も残っている。甘さは控えめで、牛乳入りらしく優しい味わいだった。焼き菓子なのにぱさついていないのがいい。
「美味しいよ」
一口飲み込んでからそう告げる。即座に、清水が目を輝かせた。
「本当? 何か、気になるところとかはない?」
「それ、言わなくちゃ駄目なのか」
「あるなら言って。と言うか、あるんでしょ? 今の物言いだと」
しまった、やぶ蛇だった。軽く問い詰められて喉が詰まる。
「い、いや、ないよ」
どうにか応じたがもう遅い。彼女はむしろ期待しているそぶりで促してくる。
「気を遣わなくていいってば」
「でも」
「来年の参考にするから、是非教えて」
「来年って……何で?」
参考って何のだろう。訝しく思えば、すかさず答えがあった。
「決まってるじゃない。来年の、播上の誕生日だよ」
「え?」
虚を突かれるとはこのことだ。
来年。清水がその単語を口にすると、どうしたってどぎまぎする。
来年の七月、俺達はどんなふうに過ごしているんだろう。彼女と一緒にいられるかどうか、それすらわからない。
「今年の失敗は来年に生かすから。ちゃんと教えて」
屈託なく彼女が続ける。
「料理の方は完敗だけど、お菓子作りくらいはどうにか追い着きたいの。今年が駄目なら来年、来年が駄目なら再来年の誕生日に頑張るから」
負けず嫌いの口ぶりで言う。
俺は彼女の表情と宣言とを、覚束ない胸中で受け止める。
そんなに、俺と一緒にいるつもりなんだろうか。
清水の頭の中では、来年も再来年も俺がこの会社にいて、昼休みを一緒に過ごす仲でいて、何も変わらないまま肩を並べて弁当を食べ続けているものだと、そういう予想だけが成り立っているんだろうか。
だが、そこにいるのは何も変わっていないようでいて、確実に変化しているはずの俺達だ。彼女はごく当たり前のように言ったが、誕生日のプレゼントを貰ったのは去年が初めてだった。ケーキを作ってきてもらったのはもちろん今年が初めてだ。清水は、来年の俺達がごく自然に誕生日を祝い合う関係でいると、そう思っているんだろうか。
彼女が望んでいるのは、変わることなのか、変わらないことなのか。
俺が望んでいるのは変えてゆくことだった。でも、ずっと一緒にいたい。その気持ちは同じだ。
間違いなく、同じだ。
社員食堂の静かな一角で、俺達は自然と見つめ合っていた。
そのことに気づくと俺はうろたえた。隣同士で向き合う距離は、片想いには近すぎる。
清水は普通にしている。俺の視線が少し不思議だという様子で、でもうろたえることも動じてみせることもなく、ただはにかむように笑っている。
やがて言われた。
「播上、そんなにびっくりしなくてもいいのに」
「……するよ、驚くよ」
おずおずと俺は答える。
「去年までは、お互いの誕生日も気にしてなかっただろ? あ、いや、清水は俺の誕生日、ちゃんと覚えててくれたけど。プレゼントも貰ったけど。何か、祝うのが当たり前みたいに言ってもらうと、嬉しいけど何だか、もったいない気もして」
一息にまくし立てると訳のわからない言い分になった。そのせいか、清水が吹き出した。
「何を気にしてるのかわからないよ」
「気にしてるっていうんじゃないけど……」
「あ、人目が気にならなくなったのはあるけどね。五年目でも結構、人が入れ替わっちゃったりしたし、もう気にしてもしょうがないかなって思えてきたの。そのくらいならもっと、友達らしくいたいなって」
それはある。俺達をさりげなくからかおうとしてきた渋澤も、あからさまに揶揄してきた藤田さんも、今はもういない。ここで過ごす昼休みは堀川の言葉が新鮮に思えるくらいに様変わりしていて、俺達だけがまだ一緒にいる。その俺達も、一緒にいるという事実以外は少なからず変化している。
「それに、ちゃんとしたプレゼントをくれたのは播上の方が先でしょ?」
「俺は違うよ、あれは去年のお返しだ」
「栄養ドリンクのお返しにしては立派じゃなかった? 私、すごく気に入ってるよ、今日も持ってきちゃった」
言葉通り、彼女の今日の弁当箱はあのライオン柄だった。言われるまで気づかなかった。
清水がにんまりして続ける。
「ね、播上。今年のケーキは結構自信作なんだ」
そうだろうと思う。事実、美味しかった。
「自分で味も見たし、冷めても美味しいって確認した。でも度肝を抜くってほどじゃなかったよね?」
「それは……」
正直、ケーキの存在自体に度肝を抜かれた。味は美味しかったが、度肝を抜く要素は特になかった。でも別にいいじゃないかと思う。
「あのお弁当箱に見合うくらいの出来じゃないと、って思って。でも駄目なら、来年頑張るから。だから教えて」
なのに、清水は俺を見る。
射抜くような眼差しが真っ直ぐすぎて、向けられているのが申し訳なくなる。
来年はもうここにいるつもりもないのに、彼女にはそれを黙っている、そのことに罪悪感を抱いた。
まだ言えない。用意がきちんと整うまでは。決定的な変化を起こすのは、もう少し先でなければいけない。
でも、一番初めに変化の引き金を引いたのは、清水の方だった。さかのぼれば全てがそうだ。誕生日のプレゼントも、俺の気持ちを揺り動かしたのも、俺達の関係のそもそもの発端も、全ては彼女から始まっていた。
その彼女が、俺と一緒にいることを、この先も望んでくれている。
それなら俺がすべきことは一つだ。ずっと一緒にいようと告げるだけだ。
場所が変わり、周囲の環境が変わり、俺達の関係そのものすら変わろうとも、俺達が一緒にいる事実はきっと変わらない。自信を持ってそう思う。
だから俺は、今は真っ直ぐに視線を返した。
「ケーキ、美味しかったよ」
自信を持って告げる。
「でも出来たら次は、ブランデーかラム酒を入れてくれないか」
「お酒? 好みがあるから入れようかどうか迷ったんだよね」
彼女は首を傾げてみせる。少し笑って、説明を添えた。
「そっちの方が好みだ、俺は」
「そうなんだ、覚えとく!」
素直な答えが嬉しい。来年の七月が今から待ち遠しくなる。
もう不安もなかった。
「言われてみればあっさり味だったね。癖がなさすぎたかな」
清水はケーキの出来がやはり気になる様子だ。既に俺の度肝を抜いている事実には気づいていないらしい。俺も、まだ言わない。
「これはこれで美味しいよ。小さな子にはちょうどいいんじゃないか」
きっと彼女のお母さんの味なんだろう。俺は思い、彼女はちろっと舌を出す。
「私、まだお子様味覚なのかも。大人向けの味つけも覚えるようにしないと」
来年の今頃には、彼女の手も魔法の手になっているだろうか。
その細い手を掴めるように、俺も粛々と用意をしよう。清水の思いは既にわかった。あとは彼女のやり方に倣って、こちらの思いを伝えるまでだ。