五年目(2)
五月二日の晩、俺は夜行バスに乗って帰省した。故郷の駅前に着いたのは翌朝、午前六時過ぎのことだ。バスを降りてすぐに、懐かしい潮風の匂いがした。ここからはまだ海が見えないのに、海があるのがはっきりとわかる。
五月晴れの空の下、路面電車も市営バスも動いておらず、街全体がひっそりとしていた。駅前通りを走る車も少なく、連休中の人出はどうだろうと観光都市と銘打つ故郷を案じてしまう。
俺は鞄を肩に引っ掛けて、ゴーストタウンみたいに静かな駅前通りを歩き出す。故郷のビルは俺が暮らしている街よりも背が低く、今は一様に朝焼けの色をしている。駅前の百貨店も、アスファルトのひび割れた道路も、路面電車の為の線路も何もかも。
この街を、清水は好きになってくれるだろうか。
気の早いことを寝惚けた頭で考えて、そして今から不安になる。この街は田舎だが海はあるし温泉もあるし、美味い食べ物もある。観光都市と名乗るだけあって、観光客の喜びそうなものもいくつかある。でも買い物をするのは不便だし、こじゃれた店なんてあまりない。清水みたいな都会っ子には堪えがたい田舎かもしれない。
でも、いつか連れてくる機会があったら、清水がこの街を好きになってくれたらいいと思う。
もっともその前に、俺を好きになってもらわなければいけない。
冷たい潮風に吹かれつつ、俺は実家への道を辿った。
俺の実家は海岸沿いの温泉街近くにある。
趣のある古びた家が立ち並ぶ一角で、景観に配慮するあまり地味過ぎる佇まいの小料理屋――当たり前だが今時分はのれんが引っ込んでいて、だから余計に目立たなく見える。和風建築の店構えが植え込みの緑にすら負けている。だが温泉客がふらりと寄ってくれる立地のお蔭で、どうにか経営も成り立っていると聞いた。
店の入り口を通り過ぎ、裏の勝手口へと回る。俺が帰る日にはいつもここを開けておいてくれる。このご時勢に無用心じゃないかと思うのだが、田舎だから大丈夫よと母さんは聞く耳持たない。
勝手口を開けると、まずご飯の炊ける匂いがした。それから煮しめの匂い。こんなに早くから、朝飯の用意をしておいてくれたんだろうか。店は午前一時までの営業だから、この時間じゃ二人とも眠いに違いないのに――。
「ただいま」
声を掛けてみる。しかし、返事はない。
台所は炊飯器がしゅうしゅうと音を立てているだけで、人の気配はなかった。俺は靴を脱いで上がり込み、とりあえず居間を目指す。
居間には父さんが座っていた。既に着替えを済ませ、髭も剃った父さんが、にこりともせずにこちらを見た。
「おう、正信」
眠そうな低い声で言う。
再会の挨拶はそれだけ、いつものことだった。
「ただいま」
俺も短く応じ、それからすぐに尋ねた。
「母さんは? 台所にはいなかったんだけど」
「コンビニまで買い物に行った」
答えた後で父さんは、皺の増えてきた顔をわずかに背けた。
「お前も二言目には『母さんは?』だな。『父さんは?』ってことがない」
「いや、そういうんじゃないけど」
「もうじき帰ってくる。座って待ってろ」
宥めるように言われて、俺はとりあえず従った。
座卓を挟んで父さんと差し向かいの位置に座ると、父さんはこちらを見ずにずっと黙っている。俺もお喋りな方ではないから同じように黙る。就職してから三度目の帰省でも、父さんと俺の間に必要以上の会話はなかった。
南向きのベランダにはこの時分、かすめるようにしか陽が射し込まなかった。お蔭で外よりも薄暗く感じる。部屋の中が薄青がかって見える。父さんの顔もそうで、白髪交じりの頭が今はそれほど目立たない。
「父さん、起きてたんだな」
俺は時計を確かめてから尋ねた。
時刻は午前七時少し前。営業日の朝、父さんが起きてくるには早いくらいの時間だった。
父さんはその問いには答えず、視線をベランダの外へ向けた。
「バス、混んでたか」
「満席だったよ。ゴールデンウィークだし」
「そうか。温泉街も今年はそれなりに賑わっているそうだ」
「店は? 忙しい?」
「まあまあだな」
店のことを尋ねられると、初めて父さんは笑った。
「お前の仕事はどうなんだ、正信」
「俺も、まあまあだよ」
真似をして答えてみる。また父さんが笑う。
「今は何をやってるんだ」
「新人教育、かな。結構考えさせられることが多くてさ」
父さんと仕事の話をするのは新鮮だった。いい機会だと、俺は本音を打ち明ける。
「思ってたより大変なんだ。人にものを教えるのがこんなに難しいとは思わなかった」
「そんなものだ」
深く、父さんが顎を引く。
「教わるより教える方が大変だ。自分の実力が、教え方にそのまま出るからな」
「教え方にか……そうかも」
今はまだ堀川に対し、注意一つさえままならない。教える側としての俺もまるっきりの新人だった。
「仕事、楽しいか」
尚も父さんは尋ねてくる。その問いには、今度は俺が詰まった。
「楽しい……かな。うん」
どうしても曖昧な答え方になってしまう。
今の仕事に不満があるわけじゃないし、大変だがその分やりがいもある。もう五年目になる総務の仕事を、俺はそれなりに気に入っていた。
でも、そう言ったら、父さんには笑われるだろうか。それとも。
「実は、他にやりたいことが出来たんだ」
はっきり言えと言われそうな気がしたから、はっきり切り出すことにした。
父さんは驚きもせず、顔色一つ変えなかった。
ここ半年ほどの俺の頻繁な帰省、その裏側にある意思を感づいているのかもしれない。
「小さな頃から夢だったこと、もう一回挑戦してみたくなったんだ」
俺はもう一度口を開き、力を込めてそう告げた。
すると父さんはやおら立ち上がり、俺を見下ろし尋ねてきた。
「疲れてないか」
「え? ああ、平気だけど」
俺が頷けば台所へ顎をしゃくる。
「台所、立てるか」
「……うん、いいよ」
不器用な誘いだと思った。
うちの父さんらしいと言えばそうかもしれない。ましてや俺の父さんだ、器用なはずがない。
「母さんが帰ってくるまでに朝飯を一品増やしといてやろう」
言いながら父さんは奥へ引っ込み、二人分のエプロンを出してくる。片方を俺に差し出す。用意がいい。
「きっと母さんは、どこかで立ち話でもしているんだろう」
「俺もそう思う」
同意を示すと、父さんはまた少しだけ笑った。
「だし巻き卵、作るのも久し振りだ」
菜箸で卵を掻き混ぜながら、俺は呟く。
父さんは用意周到だった。俺の分のエプロンだけではなく、調理器具も、一番出汁までちゃんと準備が出来ていた。今は隣で鍋を空焼きしている。
「作らないのか、あまり」
ぎりぎり疑問形になりそうなトーンで、父さんが応じる。台所に並んで立っても、滅多にこちらを向かない。手元と火元をじっと見ている。
俺はボウルに目を戻し、出汁で卵を伸ばしていく。
「何か物足りない気がしてさ。卵一個で作ると迫力ないし、でもコレステロールも気になるし」
作るのは久し振りでも、実家の味は大体覚えている。砂糖と醤油とみりんを入れて味を見ると、記憶の通りの味がした。
「母さんと同じことを言う」
呟きながら父さんも卵液の味を見る。微かに頷いた。
「及第点だ」
「よかった」
認められて俺は胸を撫で下ろす。
「母さん、コレステロールを気にしてるのか」
「あいつはそういうのにうるさいからな」
父さんはぶっきらぼうな言い方をする。母さんに対してはいつもそうだ。
「卵料理でも何でも、とにかく栄養を考えて必ず野菜を入れろとうるさい」
「ああ……わかるよ」
そして母さんは、本当に栄養素だの何だのにうるさい。俺が実家にいた頃からそうだった。
「この間は賄いのオムレツにほうれん草を入れてやった。母さんが言うには、鉄分は特に女性が必要とする栄養素なんだそうだ」
いかにも自分の知識じゃないんだと言いたげに父さんが語る。母さんのことを考えて作った、とは絶対に言わない。
指摘するのも野暮だろう。
「母さん、喜んだだろうな。緑黄色野菜大好きだし」
ちらと父さんが俺を見る。目元にだけ照れの色が滲んだ。
「ああ。うるさいくらいだった」
一人息子がいようがいまいが、両親の夫婦仲にはさしたる影響もないらしい。仲良きことは美しき哉。
空焼きを終えた卵焼き鍋を再び火に掛け、ごく薄く油を引いた。
卵液を静かに流し入れる。たちまち焼ける音といい匂いが台所に満ちていく。
直にふつふつと出来始める気泡は菜箸でやっつける。卵の表面が乾き出した辺りで、手前に向けて巻く。手首のスナップを利かせつつ鍋を揺らす。
「思い切りよくやった方がいい」
父さんが俺の手元を見ながら言う。
「今のうちならまだ直しが利く。多少崩れてもいいからどんと行け」
アドバイス通り思い切って鍋を振ると、確かに右端の方が多少崩れた。すかさず箸で形を整える。ちょっとでも手間取ると父さんが口を開く。
「もたもたするな。巻いたらすぐに位置を移して、卵を足せ」
巻いた卵を奥へ押しやり、卵液を足す。既に巻いてある部分の真下にも行き渡るように、箸で卵を持ち上げる。柔らかい卵は扱いが難しく、知らず知らずのうちに息を詰めてしまう。
何せ父さんの前だ。失敗はしたくない。
卵液を数回に分けて流し入れ、焼けた卵をどうにか巻いた。鍋蓋に空ける時が一番緊張した。まな板の上まで、形を崩せずに移せた時はほっとした。
久し振りのだし巻き卵。湯気と共に上がる匂いに、改めてお腹が空いたなと思う。形はまずまずの出来映えだった。焼き色が付き過ぎたようにも見えるのは反省点だ。焼き時間がやはり長かったのだろう。
「緊張したか」
出来上がりを見た父さんがそう尋ねてきた。
「そりゃあそうだよ」
本職の人の前で普段通りの料理が出来るはずもない。もっと根本的なところから鍛え直さなければいけないだろう。
「身内に作る分としちゃ上出来だ。店には出せないがな」
父さんの率直な評価にも納得出来たが、それでいいとはもう思わない。
上を目指したい。前に進みたい。だから、故郷へ帰ってくる気になった。
「どうしたら、店に出せるようになる?」
俺は、隣に立つ父さんの横顔に尋ねた。
皺の深い顔には常日頃から柔らかさがなく、あの店を開く為にどれほどの苦労をしたのかが自然と読み取れてしまう。だからこそ長い間、俺はあの店と父さんから逃げていた。
尊敬なんて、身内に使うのは薄っぺらな言葉かもしれない。ただ俺は、父さんの料理の腕も、父さんを支えてきた母さんも、確かに素晴らしいと思う。一朝一夕では叶わないことだ。跡を継ぐなら、同じくらいの年月と努力とを重ねていかなければならないはずだ。
父さんは目の端で、ほんの一瞬だけ俺を見た。
そして視線をだし巻き卵へ戻してから、ぼそりと答えた。
「失敗を恐れるうちは無理だ。失敗するかもしれない、そう思いながら作ったものを、お客様に出せるわけがない」
じゃあ失敗しなくなる為には、失敗しないとはっきり思えるようになるには、一体どうすればいいんだろう。
俺の疑問は声にしないうちから、父さんの低い声によって答えられた。
「店に出したいと思ってるなら、ちゃんと帰ってこい」
流し台下の戸を開けて、父さんは年季の入った包丁を取り出す。
こちらへ柄を差し出されたので受け取れば、皺だらけの顔には苦笑いが浮かぶ。
「今みたいに、休みの度に帰ってくるだけでは足りない。教えなきゃならないことはたくさんある」
違いない。父さん達と同じだけの年月と努力を重ねる為には、こんな帰省だけでは足りなかった。もう一つ、いよいよ踏み切らなければならないようだ。
「正信」
父さんは静かに、何でもないことのように言う。
「急がなくてもいい。父さんは、いつでもいいと思っている」
「うん」
俺はその言葉に背を押され、包丁の柄を握り直す。
「あの店だって、あと三十年は父さん一人でも続けるつもりだ」
前に母さんから聞いた時より、更に十年増えていた。
「お前も好きな時に帰ってくるといい。会社には迷惑を掛けないようにしてな」
「わかった」
三十年後には八十過ぎのはずだが、父さんなら現役を続けていそうだなと思う。俺は今の父さんと同世代になる。その頃までにはしっかり跡を継いでいたい。
「ちゃんと帰るよ、必ず」
就職してから三度目の帰省で、とりあえずそこまでは告げられた。
その先の言葉は、本当にちゃんと帰ってからだ。
父さんもわかっているんだろう。何も答えずに包丁を入れろと促された。だから俺も緊張しながら包丁を握り、だし巻き卵を切り分ける。
ちょうどその時、玄関のドアの開く音がした。
「ただいま! あら正ちゃん着いてたのね。何作ってるの? 玉子焼き?」
途端に母さんの賑やかな声が家の中に響き渡る。がさがさとビニール袋の擦れる音も聞こえる。
「あらあら、二人で台所にいたの? カメラカメラ、写真撮らないと!」
台所を覗き込んできたと思えばこの騒ぎだ。
「お父さん、こっち向いて! 正ちゃんも包丁持ったままにっこりして!」
母さんはうきうきとカメラを構える。もちろん父さんはその言葉に従わないし、俺もいきなり言われてにっこり出来るほど器用じゃない。
「止めてよ母さん、恥ずかしいから」
「恥ずかしがらなくてもいいのよ。いい男が二人、エプロン姿で台所に並んでるなんてすごく絵になるじゃない!」
「だからそれが恥ずかしいんだってば……」
俺が思わず溜息をつくと、母さんも呆れた様子で言い返してくる。
「じゃあいいわ、後ろ姿を撮るから。男の生き様は背中に表れるんだものね!」
「いや、父さんはともかく俺はそんな大した背中では――」
「ほらほら二人ともそっちを向いてちょうだい。撮るわよ!」
有無を言わさぬ調子で母さんが言う。こうなると本当に強情だから困る。俺と父さんは渋々背を向けた。
「何であんなにはしゃいでるんだろう」
こっそりぼやけば、隣から父さんが囁いてくる。
「正信。お前は無口な嫁を貰え」
直後、強い光が背後で瞬き、ぱちりというシャッター音がした。
しかし残念ながら、父さんの望みは叶えられそうにない。さすがに母さんほど酷くはないが、決して無口じゃない子を連れてきたいと思っているところだ。
久し振りのだし巻き卵は、空腹のせいかすごく美味しかった。父さんは黙々と食べてくれたし、母さんはにこにこと堪能してくれた。