五年目(1)
「播上さん。な、内線で、お電話です」新人の堀川は俺とほぼ同じくらいの背丈だが、スポーツをやっていたらしく俺よりはるかに体格がいい。にもかかわらず自信のなさそうな態度と、まっさらなリクルートスーツとが奴を小さく見せていた。
今だって、呼ばれたから何かと思えば、ただの内線と言うからおかしい。
俺は笑いを堪えつつ顎を引く。
「そうか、ありがとう」
内線の引き継ぎくらいで緊張しなくてもいいんだけどな。受話器を取り、保留ボタンを押す前にふと気づいて、もう一つ尋ねた。
「ところで、どこから掛かってきた?」
たちまち堀川の顔が強張る。直後、勢いよく頭を下げてきた。
「あの、聞くのを忘れました、すみません!」
「……いや、いいよ。大丈夫だ」
俺にもこんな頃があった。ぼんやり思い返しながら、一呼吸置いて保留ボタンを押した。
社会人になって五度目の五月一日がやってきた。
今年は例年よりもより忙しい。総務課には堀川という新人が入ってきた。去年までは藤田さんが新人の研修を担当していたが、彼女はもう退社して、ここにはいない。代わって俺が新人教育を受け持つこととなった。
人にものを教えるの難しさを、俺は五年目にして初めて思い知った。藤田さんも俺の教育にはてこずったことだろう、何せ一年目の俺と来たらしばらく使い物にならなかった。そのくせ殊勝さとは無縁だったのだから、先輩から見れば腹立たしいルーキーだったに違いない。あの人の苦労が今更のようにわかった。そう本人に言ったら、きっと呆れられるだろう――ようやっと気づいたかと勢いよく噛みつかれそうだ。そんなやり取りさえも今は懐かしいくらいだった。
寿退社した藤田さんからは、先月、写真入りのハガキが届いた。新天地で親族だけの式を挙げたのだという。ウェディングドレスを着た姿を見て、やっぱりきれいな人だよな、と思った。ちなみに相手の方の顔も初めて見たが、なかなかに男前で、優しそうな顔つきをしている方だった。藤田さんが十年待った気持ちもわかるような気がした。
でも俺は、十年は待てないと思う。むしろ何年だって黙って待つ気にはならない。そのくらいなら行動に出る。既に計画は立てていた。
次の五月一日は、俺もここにはいないだろう。
内線は通用口受付からで、発注していた備品が搬入されたことへの連絡だった。
ゴールデンウィークを控えている為、業者の営業日を考慮して各備品を多めに発注していた。ちなみにうちの社は暦通りの連休となる。それでも休みがあるだけましだ、文句は言えない。
通話を終え、受話器を置いてから俺は新人へと告げた。
「下に荷物が来てる。取りに行くぞ」
傍で突っ立っていた堀川は、その言葉で石化が解けたみたいに表情を変える。慌ててついてくるのを横目で見つつ、俺は総務課を出る。
一度倉庫へ寄り、台車を持ち出してから一階通用口へ向かった。堀川もこの辺りは心得たもので、台車は自分で押すと言い出した。俺は快くその申し出を受け、代わりにエレベーターのボタンを押す。
「さっきはすみませんでした」
エレベーターに乗り込んでから、堀川は頭を下げてきた。
「前に教わっていたのに……つい緊張して、相手が名乗った内容が真っ白になってしまって。本当にすみません」
遊園地のアトラクションにも似た浮遊感の中、俺はルーキーの恐縮しきった態度にかえって恐縮させられた。
「気にすることじゃない。次から気をつけてくれればいいよ」
「すみません。この間も同じ注意を受けていたのに」
堀川はすっかりしょげ返っている。
普段ははきはきとして威勢のいい奴だが、自信のないそぶりを見せる時がたまにある。研修をようやく終えたばかりの新人だ、同じ注意と言ったってたかが知れているのにな。
「落ち込むなよ。誰だってするミスだ」
取り繕うように言ってみたものの、上手いフォローではないと自分でもわかった。こういう時は何と言うべきなんだろう。藤田さんがしていたように、いっそきつく指摘してみる方がいいんだろうか。でもあまり厳しく言うほどのミスでもないだろうし、他人を怒るのは苦手だ。なるべくなら穏便に注意がしたい。駄目だろうか。
ものを教える立場は実に難しい。肩を落とす堀川を見て思う。
堀川が男でよかった、とも思う。
これが女の子の新人さんだったりしたら、フォローの言葉すら浮かばずに一人でまごまごさせられていただろう。可愛い女の子は遠きにありて思うもの。下手に注意する立場になってうっかり泣かせでもしたら、むしろこっちが立ち直れなくなる。だから堀川でよかったなとしみじみ思っている。
「これが終わったら、休憩入っていいからな」
とりあえず、この言葉が一番効果的かなと思って、告げてみた。
案の定、堀川は緊張の解けた顔を見せた。
「はい! 頑張ります!」
返事は今日一番の威勢のよさだった。
一年目なんてそんなものだ。俺だってそうだったから、わかる。ルーキーイヤーはひたすら清水と過ごす昼休みだけが救いだった。
通用口で備品を受け取り、再度エレベーターで上へ戻る。
備品をしまう為に倉庫へ向かえば、その途中、廊下で清水に出くわした。
「あ、播上! いいところに!」
声を上げるなり駆け寄ってくる彼女。
俺は堀川の目を気にしつつ、照れながら応じた。
「清水、どうかしたのか?」
「どうかしたから来たの。うちの課の蛍光灯が一本切れちゃってて」
目の前で立ち止まり、清水はにっこり笑う。五年目の笑顔は一年目の頃とさして変わらず、とても可愛い。こっちまでつられて笑いたくなる。
今年度から彼女は秘書課の事務担当となった。それまでの部長秘書から配置転換したわけだ。事務の仕事を嫌がる子も多いらしいと聞いていたが、清水は人についての業務よりもデスクワークの方が余程気楽でいいらしい。入社してからこのかたデスクワーク一本の俺は、秘書の業務内容を清水の話でしか知らない。それでも、大変そうだなと思っていた。
彼女が事務に回ったことのメリットは俺にもあった。昼休みを一緒に過ごせる回数がぐんと増えたのだ。部長の『付き合い』がないから、時間通りの昼休みが取れるらしい。
「急がないんだけど、後でいいから届けてくれないかな?」
その清水が頼み込んでくる。
「うちの課、今空っぽでさ。持ってきてもらえたら助かっちゃうんだけど……」
彼女はそう言って、ぱちんと手を合わせた。
ちょっとした仕種の一つさえ可愛い。女の子は遠きにありて思うもの、だが清水だけは別だ。俺は即答した。
「いいよ。これ置いたらすぐに行く」
「ありがと、助かる! じゃあ待ってるから、都合のいい時によろしくね!」
言い終えると、清水はそのまま飛ぶように廊下を戻っていく。
短い髪がふわふわ揺れるのをしばらく見送っていたら、ずっと黙っていた堀川が、ふと口を開いた。
「きれいな方ですよね、清水さんって」
「――え?」
俺はぎょっとして、思わず堀川の顔を見た。
同じくらいの背丈のルーキーが、遠慮がちな笑みを浮かべてこちらを向く。
「俺、播上さんがちょっと羨ましいです」
どういう意味だ。
自分がどんな顔になったかはわからないが、胸裏を悟られないよう口元を引き締めた。
そのせいか堀川は急に気まずげにする。
「あ、すみません。からかいとかじゃなくて本気で思うんですよね。同じ会社に彼女がいたら幸せなんだろうなって」
「清水は彼女ってわけじゃない」
俺は四つも年下の後輩に、そう答えるのが精一杯だった。
思えばそういう誤解をされるのも久々だった。渋澤も藤田さんもいなくなった今、面と向かって俺達の関係を勘繰ってくる相手はいなかったし、五年も『メシ友』でいる間柄を改めて気に掛ける人はそう多くもないようだった。
堀川もそのうちに、俺と清水の関係を理解するんだろうか。
それとも俺と清水の関係が変わってしまう方が先だろうか。
堀川を昼の休憩に上げてから、俺は蛍光管と脚立を抱えて秘書課へ向かった。
秘書課には清水だけがいた。机に向かっていた彼女の頭上ではちかちかと蛍光灯が明滅している。
俺が入っていくと、彼女は一度笑んでから、あ、と口を開けてみせた。
「そうそう、脚立も必要だったよね! 持ってきてくれてありがとう」
その後で立ち上がり、俺の手から脚立を受け取ろうとする。
当たり前だが俺はそれを拒んだ。
「いいよ、俺が替えるから」
「え、いいの?」
清水が目を丸くする。まさか自分で替えるつもりだったのか。脚立のこともさっきまで忘れていたくせに。いかにも彼女らしい。
「こういう仕事は総務の役目だ」
俺は言って、替えの蛍光管を手に脚立へ上がる。
「さっすが総務課、気が利くんだから!」
「それほどでもないよ」
「それほどでもあるよ! 助かっちゃう!」
清水は俺を随分と誉めちぎってくれた。悪い気はしなかった。
「あ、ところで電気消さなくても大丈夫?」
「大丈夫。すぐ終わる」
ちかちかしているくせに熱い蛍光管を外し、新しい蛍光管を填める。すぐに白い光がぱっと灯った。
「そういえばさ」
脚立から降りようとする俺に、清水がふと切り出した。
「さっきの子、堀川くんって言ったっけ。播上のところの新人くん」
「ああ、堀川で合ってる」
「あの子にこないだ挨拶されたよ」
「挨拶?」
俺が床へ下りると、彼女は苦笑いで続けた。
「『播上さんに、いつもお世話になってます!』って」
「なんだそれ。どうして清水に言うんだ」
「多分、勘違いしてるんじゃないかな。私と播上が付き合ってるって」
俺は慌てた。どうして俺じゃなくてわざわざ清水に言うんだ。
「堀川くんって体育会系って感じだしね」
意外にも清水は愉快そうにしている。
「お世話になってる先輩の彼女には挨拶しなきゃ、って考えそうじゃない?」
「いや、それはそうかもしれないけど……」
確かに、堀川ならそういうことをしそうな気もする。
「し、清水も、否定しなかったのか?」
「否定しようにも暇がなくて。出くわすなり思いっきり頭下げられたから」
俺の動揺をよそに、彼女はくすくす笑っていた。
「でもさ、こんな誤解されたの久々じゃない? むしろ懐かしくて」
「懐かしいって、笑い事じゃ……いや、笑い事か」
仕方なく俺も笑い飛ばすことにする。少々複雑だったが、同じように懐かしく思えたのも事実だった。
「渋澤くんや藤田さんがいた頃はよく誤解されてたよね」
「そうだったな、毎日のように言われてた」
やけに遠い昔のように思えるが、あの二人と毎日顔を合わせていた頃があった。
「渋澤くん、課長になったんだって?」
「そう言ってた。すごいよな、本社で総務課長だぞ」
「ね、すごいよね。同期の中では一番の出世頭だよ」
嬉しそうに笑う彼女と、一緒に笑っていられるのが嬉しい。
「藤田さんは元気にしてるかな。あ、名字変わったのか」
「変わってた。それに元気にしてたよ、こないだ結婚式のハガキが届いた」
「へえ……きれいな人だからドレスが似合っただろうね」
「写真で見ただけだけど、似合ってたよ」
貰ったハガキにはあの人の字で、鶏の唐揚げを作ったことが記されていた。播上くんほどじゃないけど美味しく出来たよ、と添えられていて、俺も幸せのお裾分けをされた気分だった。
あの人のお蔭で、俺は目標を手に入れた。取り戻した。
次に手に入れるものは何か、もう決めていた。
「――そうだ、清水」
脚立を携えて秘書課を出る直前、俺は思い出して口を開く。
再び机に向かった清水が怪訝そうにこちらを見た。
「なあに?」
「連休は俺、実家に帰るんだ。土産は何がいい?」
「え、お土産? そんなの気を遣わなくたって」
彼女は笑ったが、遠慮されてはかえって困る。
「誕生日プレゼントも兼ねてるんだ。それなら受け取りやすいだろ」
去年の誕生日は逃がしていたから、今年の五月こそはとずっと前から考えていた。
「覚えてくれてたんだ、私の誕生日」
清水が少女のように可愛らしくはにかんだ。
「去年は俺だけ貰ってたから余計にな。今年こそお礼をさせて欲しい」
「気にしなくていいよ、好きでしたことなんだから」
「なら、俺も好きでする。向こうで買ってくるから、希望を教えてくれ」
「希望かあ……なら、播上が選んでくれたものでいいよ」
しつこく促すと、やがて彼女は明るい表情でそう答えた。
前向きな答えを貰ったのはいいが、これは責任重大だ。しっかり考えて選ばなければなるまい。
「わかった、任せてくれ」
俺は頷き、改めて秘書課を出ていこうとしたところで――、
「そういえばさ」
ふと気づいたように、清水がぽつりと言った。
「播上、最近よく帰省してるね」
振り返ると、蛍光灯の光の中で清水が目を瞬かせていた。
「今年のお正月と、春のお彼岸も帰ってたよね」
よく覚えているなと思う。
逆に言えば清水に記憶されるくらい、今までずっと帰省していなかっただけだ。それがここ最近は、人が変わったみたいに頻繁に帰っている。
「ああ、帰ってこいってうるさいからさ」
「偉いなあ、親孝行してるね」
本当の理由はもちろん言えない。
親孝行というのもあながち間違いではなかったが、現実に孝行するまでにはもう少し時間が掛かりそうだった。