花屋の述懐
その客が来店したのは、日も暮れた午後八時過ぎのことだった。オフィス街と繁華街の境目に建つうちの店は、夜の客もそれなりに多い。スーツ姿のリーマンが駆け込んでくるのもそう珍しいことではないし、そういう客は大体単価が高いのもありがたい。
今も、鉢植えの並ぶ店頭から店内へ、若いリーマンが足を踏み入れるのが視界の隅に映った。
レジカウンターにいた俺はすぐに顔を上げて声をかけた。
「いらっしゃいませ」
野太い男の声が響いたからだろうか。向こうはぎょっとしたように振り向いて、それからぎこちない会釈を寄越す。
まだ二十代前半に見える、本当に若い男だった。
真面目そうな髪型で色が白く、顔立ちはいかにも繊細で神経質そうだ。仕事帰りだからか疲れた顔をしていたが、着ているスーツはまだくたびれておらず、きっと今年度の新入社員ってやつだろう。
となると用向きはビジネスの贈答用か、ちょっと遅れた母の日用か。飲み屋で悪い女に捕まって、花束を貢ぐ気ってパターンもなくはない。だとしてもこっちは客商売、いちいち口を挟むのは野暮だ。
俺が妄想を巡らせている間に、件はリーマンは切り花のコーナーで足を止めていた。
当店では常に数十種類の切り花を取り揃えているが、彼が眺めているのはバラの花だ。赤、白、ピンク、黄色といったバラを一種類ずつ、しげしげと眺めている。迷っているようにも見える。
少し待って、彼がバラの前から動かないのを確かめてから声をかけてみた。
「何か、お探しですか」
すると彼は振り返り、一瞬合った目を逸らしながら答える。
「え、ええ……花束を、買おうと思って」
緊張でもしているのか、随分たどたどしい喋り方だった。
「何本からでもお包みしますよ」
にっこり笑いかけてみたが、彼は全くこちらを見ない。
「そ、そうですか。あの……」
もごもごと言いにくそうに、だが言わなければならないと使命感でも抱いているみたいに続ける。
「実は俺、こういうの買うの初めてで、何がいいのかわからなくて」
そういう客は決して少なくない。ましてや二十代ともなれば花束を買う機会がなくてもおかしくはないだろう。
なら相談に乗ろうと、俺は頷きながら聞き返す。
「よろしければお見立てしますよ。どのような花束をお求めですか?」
すると彼はぎょっとして口ごもり、
「どのようなって、その……こ、婚約者に……あげるつもり、なんです」
時間をかけながらもようやく、そう答えてくれた。
婚約者。ということは、プロポーズ用だろうか。それとももうプロポーズは済ませてあって、改めての贈り物だろうか。
どちらにせよこの様子じゃ、求婚の言葉にもさぞかし時間がかかることだろう。何とも微笑ましい気持ちになる。
「それでしたらバラはぴったりですね」
俺は彼の緊張を解そうと、にこやかに相槌を打つ。
「ちなみに、お色はもう決めておいでですか」
「い、いえ……どれがいいか、決めかねてまして」
そういうことならと、俺は一つ一つ丁寧に説明していくことにした。
「プロポーズの定番ならやはり赤ですが、お若い方だとピンクの方が人気ありますよ。もしご婚約がお済みであれば、白というのもよろしいかと」
俺がそこまで語ったところで、彼が目を瞬かせた。
「何か、あるんですか。その……そういう、贈っていい花とか、よくない花とか」
「ええ。やはり贈り物となると、花言葉を気にされる方が多いです」
「花言葉、ですか」
一昔前こそ花言葉は一部の花好き、及びロマンチストのものだったが、近年ではネットで気軽に調べられるからなのか随分と広まったようだ。下手をすると俺より詳しい客がいたりして冷や汗をかいたこともある。
そしてそれは贈り主だけではない。見た目などで何の気なしに選ばれた花束を、贈られた方が花言葉を深読みしてしまうケースもあるから、こっちも気を遣う必要がある。
「白いバラの花言葉には『深い尊敬』や『私はあなたにふさわしい』などがあります」
他にも純潔、清純などがある。どちらかと言えば花嫁向きで、プロポーズ用ではないかもしれない。
彼も同じように思ったようだ。
「じゃあ、白は違いますね」
「そうですね。あと黄色のバラも気をつけた方がいいかもしれません」
俺は黄色いバラを指差しながら説明を続ける。
「『友情』という花言葉もあるんですが、『愛情の薄らぎ』なんてのもあるんで、恋人に差し上げるのであればちょっと、ですよね」
逆にふさわしいのはやはり赤、それにピンクのバラだろう。
「赤なら『愛情』や『あなたを愛します』。まあ、告白向けですね」
花言葉にしても歯の浮くようなフレーズだ。仕事とはいえ恥ずかしくなることもあるが、彼は真面目に聞いてくれていた。
「ピンクなら『しとやかさ』、それに『感謝』など――」
俺がそう言いかけた時だ。
はっと彼が面を上げた。
初めて俺と目を合わせたかと思うと、いやに真剣な表情になる。
「それで。……ピンクのバラで、お願いします」
「かしこまりました」
どうやらピンクのバラの花言葉がお気に召したようだ。
なら、彼の婚約者さんは恐らくしとやかな女性なのだろう。シャイに見える彼と足並みを合わせてくれる、今時珍しいくらいの大和撫子なのかもしれない。見てみたいな。
「どんなふうにお包みしましょうか。ご予算などはお決まりですか?」
色が決まったところで、次は花束の仕様を決める。ひとくちにピンクのバラと言っても小さいものから大輪のものまで種類は豊富だし、他の花を合わせて作る花束もある。
花に詳しそうな客なら直接聞くなり、イメージを尋ねるなりするのだが、こういう客ならストレートに予算から聞いた方が早い。
「予算ですか。実はそれも、特に決めてなくて」
彼は困ったように髪をかき上げた。
「買うの初めてなんで、本当に何もわからなくて……ただ、小さな花束にはしたくないんです」
「ある程度、大きな花束をご希望ですか」
「はい、少し値が張っても構いませんから」
よほど大事な相手に贈る花束なのだろう。彼の言葉は一つ一つが真剣で、熱を帯びていた。もちろん、婚約者なのだから当然と言えば当然だろうが――。
「それでしたら、こちらのバラはいかがでしょう」
俺はピンクのバラの中から、発色のいい鮮やかなピンクのバラを選び出す。バラの中では大輪の、剣弁高芯咲きのものだ。
「こちらのバラなら存在感もありますし、例えばバラだけ束ねても相応のボリュームが出ます。無論、見映えだってばっちりです」
佇まいには品格があり、また香り高く、贈った後に飾ってもらうのにもぴったりだった。
彼が興味を持った様子でそのバラに見入る。
「このバラ……」
「お気に召しましたか」
「メサイヤ、っていうんですか」
彼の目はバラそのものではなく、値札の上に記された品種名に釘づけになっていた。
メサイヤ。それが、このピンクのバラの名前だ。
「ええそうです」
俺が頷く横で、彼は食い入るようにバラの名前を見つめていた。
そしてしばらくしてから、俺に向かって言った。
「このバラでお願いします。メサイヤで」
名前が気に入った、ということだろうか。
メサイヤ――救世主。一体どういうお嬢さんに贈るのか、ますます興味が出てきた。
「そういえばお客様、バラの花束は本数にも意味があるんですよ」
バラだけで花束を作るならそれも耳に入れておいた方がいいかもしれない。そう思って切り出した。
「一本なら『一目惚れ』、三本なら『愛しています』というふうに」
すると彼は続きを聞きたいと言った。何本ならどういう意味があるのか、詳しく知りたいと――そしてある程度聞いてから、言った。
「では、七本で花束を作ってもらえますか」
「よろしいんですか?」
七本のバラの花束、その意味は『密かな愛』だ。
婚約者と呼ぶべき相手へ贈るにはふさわしくないようにも思うが、彼の表情には迷いがなかった。
「ええ、それで」
そこで俺は七本のピンクのバラで花束を作り、彼に手渡した。大輪のメサイヤは束ねられただけでとても存在感があり、彼もそれを満足げに見下ろしている。
「お世話になりました。いろいろと教えていただいて……」
代金を現金で支払った後、彼は初めて少し笑った。若者らしいはにかみ笑いだった。
「お役に立てたなら何よりです。お買い上げありがとうございました」
俺が笑い返すと、彼はぺこぺことお辞儀をしながら店を出ていった。待ち合わせでもしているのだろうか、夜の街へ一歩出た途端、早足になってすぐに姿を消した。あんなに急いで転んだりしないといいが。そして花束を、婚約者さんに喜んでもらえるといいのだが――あんなに一生懸命選んだんだ、是非とも幸せになって欲しい。
うちの花屋にはいろんな客が来る。だが常連客はそう多くはなく、花束を買っていった人々のその後を窺い知る機会はほぼない。たまに結婚式場やコンサート会場などへの発送を頼まれることはあるが、よくてその程度だ。当然、さっきの彼のその後を知る機会もないだろう。
それでも、店に来た時はおどおどしていた彼が、花束を抱えて明るい表情で帰っていった。
俺にはそのことが嬉しかった。
彼のことをその後もずっと覚えていたというわけではない。
何せ店にはいろんな客が来る。たった一日来ただけの客のことをずっと気にかけている暇はない。
だが数週間が経ったある週末の午後、店の前の鉢植えを並べ直していた俺は、ある会話を聞いた。
「あのお店? 花束買ってくれたのって」
「そうだよ」
女の言葉に男が同意する。
その男の声は、おぼろげながら記憶に残っていた。
とっさに振り返ると、店の前の通りにあの時の彼がいた。真面目そうな髪型で色が白く、繊細そうな顔をした若い青年。今日は休みなのかスーツ姿ではなく私服で、隣にいる女の子と手を繋いでいた。
ということは、隣の子が件の婚約者だろう。髪の長い、若いながらも落ち着いた雰囲気の美人だった。彼とは同世代に見えるが、確かにしとやかそうなお嬢さんだ。
「……あ」
彼と目が合い、向こうが小さく声を上げる。
俺が笑って頭を下げると、彼もひょいっと下げ返してきた。
距離があったので見間違いかもしれないが、うっすらと微笑んでいたような気がした。
その様子を見て隣のお嬢さんも、同じようにお辞儀をしてくれた。彼女は距離があってもわかるくらい幸せそうに笑んでいて、二人は何事か囁きあいながら通り過ぎていった。手を繋ぎ、寄り添って歩く様子はもう夫婦であるかのようだ。
だからきっと、あの花束は喜んでもらえたのだろう。彼がひたむきに、初めてのことでわからないながらも懸命に選んだあの花束を、彼女は喜んでくれたのだろう。
ピンクのバラを七本。その花束に彼がどんな思いを込めたか、俺にはわからない。
ただあの二人が幸せであることだけはわかるから、いい仕事をしたな、と思った。