要らないものなど(1)
それを初めて見た時、自分で使うものであるにもかかわらず、気持ち悪いと率直に思った。安っぽく品のない、毒々しささえ感じる緑色をしていた。
同じ色味の小さな袋の中にパッキングされたそれは、久我原聖美の財布の中から三つ繋がった状態で現われた。
俺はそれをその時初めて目の当たりにした。
自分にはきっと生涯――他人より短い人生を恨みがましく終えるはずの俺には、最後まで縁のない、不要な代物だと考えていた。だから初めての局面では使い方がわからなくて失敗して、結局三つとも封を切る羽目になってしまった。
久我原はそんな俺を笑うでもなく、馬鹿にするでもなく、軽く微笑んで言った。
「箱で買ってあるから、大丈夫だよ」
あの頃はそういう優しさも、気遣いも、ことごとく気に障ったのを覚えている。
そして自分で購入して俺の家まで持ってきておきながら、久我原もそれの使い方がわからないと言っていた。この日の為に生まれて初めて買った、封を切るのも初めてなら、使うところを目の当たりにするのも初めてだと、あっけらかんと話してのけた。
俺はその言葉を信じなかった。ごく普通の遊んでないふうな女子が、それを抵抗なく店で買ってくるとは到底思えなかったからだ。久我原は当時のクラスで真面目そうなグループに所属していたが、人は見た目によらぬものだし、きっと裏ではだらしなく爛れた暮らしぶりをしているのだろうと踏んでいた。
しかし俺の予想は、その日のうちにあっさり覆されてしまった。
久我原の言葉に何ひとつとして嘘はなかった。
俺と久我原がふたりで会うようになって少しも経たないうち、彼女が箱で買ったそれが底を突いた。
今さらごまかすのもかえって無様だから認めてしまうが、割と早い段階から俺は彼女に――久我原の掴みどころのない心ではなく、柔らかくて妙に熱っぽい身体の方にのめり込んでいたのだと思う。消費のペースは速かった。猿みたいだった。
全て使い切ってしまった後、あいつは例によってあっけらかんと宣言した。
「なら、私がまた買ってくるから」
でもそうさせるのはあまりにも格好悪い気がした。ただでさえ俺は日頃から久我原の前で醜態を晒してばかりいたから、俺だってされるがままになってるわけじゃない。言うなれば矜持を見せたかった。
「自分で買うからいい」
と、その時の俺は精いっぱいの意地を張って告げた。
もっともあの頃の俺の矜持なんてぐずぐずに腐りきっていたようなものだから、実際に行動に移すのには相当な勇気が必要になった。顔見知りに見られたら困ると、わざわざ遠くの町まで出かけていって購入した。中身が透けて見えないよう、色つきのビニール袋にしまわれたそれを更に鞄の奥底に突っ込んで、やたらびくびくしながら家に帰った。
その日はいつも以上に周囲の目が、すれ違う見知らぬ人々が怖くて、怖くてしょうがなかった。
あれから少し時が過ぎ、俺は未だに久我原とふたりで会っている。
彼女と会う約束をしたら、その為の準備を自分でする。今ではコンドームを自ら買いに行くのが当たり前になっていたし、怖いとも恥ずかしいとも思わなくなっていた。
近場のドラッグストアなり、コンビニなりへ足を運んで、そこにかつてのクラスメイトが居合わせたところで逃げたりはしない。向こうももう俺の顔を覚えていないのか、単に興味がなくなったのか、昔のように絡まれることも陰口を叩かれることもなくなっていた。そして俺も、そのことを何とも思わなくなった。
何かが変わったのだと自覚はしている。
それがただの慣れというやつなのか、二十歳になったからなのか、はたまた久我原のおかげなのかは自分でもよくわからない。全部当てはまるといえばそうかもしれない。
そういう俺の変化を彼女はどう思っているのか、それもまた謎だった。少なくともそのことについて言及されたことはあまりない。せいぜい髪を切れば褒めてくれるし、服を買い替えても褒めてくれる程度だ。痩せたとか、怪我してるとか、身体の変化には敏感なくせに、高校時代から明らかに変わった俺の中身についてはいちいち言ってはこない。
そして同じく二十歳になった久我原聖美には、たぶん大きな変化はなかった。
見た目はともかく、中身は変わらずあのまんまだ。
「……お前、向こう行ってろよ」
俺が気恥ずかしさから追いやろうとしても、なぜか梃子でも動かない。
傍にぴったり張りついて、ドラッグストアの衛生用品のコーナーで佇む俺を観察している。
「どうして?」
久我原は笑うでもなく、馬鹿にするでもなく、いっそ真面目なくらいの面持ちで聞き返してくる。
「別にいいじゃない、私がいても」
「よくない。こういうの、ふたりで選んでたらバカップルみたいだろ」
自分で買いに来ることに抵抗はなくなったとは言ったが、久我原が一緒だとなると話は別だった。途端に人目が気になってしまう。
こんなものを男女ふたり連れで、しかもまだ日も高い時間帯からしげしげ選んでたりするのはみっともないじゃないか、と俺は思う。
いくら俺たちがこれから――昼間からホテルに行くんだとしてもだ。
「え、それいい。すごくいい。私、バカップルみたいに見えたい!」
どうやら言葉の選択を誤ったらしく、久我原はたちまち目を輝かせた。
高校時代は結わえていた髪を下ろし、明るく染めて、さらには化粧も板についてきた。服装はファッション雑誌に載っていそうな量産型女子大生風で、見かけだけならどこにでもいそうな二十歳の女という雰囲気だ。にもかかわらず、こういう時の無邪気とも言える顔つきは変わっていない。
そして俺にはこの顔が、未だに少し空恐ろしい。
「見えなくていい。俺が買うから、お前は向こう行ってろって」
「えー。鷲津冷たくない? もう長い付き合いなのに」
「いいから。じゃあお前は飲み物でも選んでろよ」
犬を追い払うように手を振ると、不満顔の久我原はようやくのろのろ歩き出す。
衛生用品コーナーを抜け、通路を挟んで向こう側にある食料品の棚のところまで辿り着くと、急にくるっと振り向いた。
「選んで待ってるから、迎えに来てね」
いい笑顔だった。
「……はいはい」
適当に返事をする。それでも久我原は機嫌を損ねず、浮かれた調子で奥へと消えた。
不満顔が数秒ともたないあの性格、うらやましい限りだ。
俺はひとり気まずい思いで再び棚と向き合う。
適当にひとつ選んで買い物かごに放ってから、それを隠すつもりで向かい側の棚に置かれていた絆創膏の箱もひとつ、入れた。
それから食料品コーナーへ足を運ぶと、久我原は飲料が並ぶ冷蔵ケースからペットボトルを取り出しているところだった。緑茶とスポーツドリンクと、それからストレートの紅茶を二本だ。
取り出しながらも俺の気配に気づき、にこっと笑う。
「あ、鷲津いいところに。早速だけどこれ入れて」
黙ってかごを差し出すと、ペットボトル四本分の重さが一気に加わった。
久我原は既にお菓子のコーナーに目を奪われているようで、かごの重量に耐える俺の腕を引っ張ろうとする。
「あとお菓子! 何かつまめるもの見てこうよ」
「いいけど」
「鷲津は何がいい? 甘いの? それともしょっぱいの?」
「お前が好きに決めていいよ。食べたいだけ買っとけ」
そう言うと、久我原はたちまちうれしそうにしてみせる。
「本当? やったあ、いっぱい買っちゃうね!」
こんな言葉くらいでいちいち喜ぶ彼女は安い人間だ。でもその顔につられると言うか、呆れ半分で一緒に笑いたくなる俺も大した人間じゃない。
昔と比べて変わったと言っても所詮こんなものだった。むしろ十代の頃に持ち合わせていた腐った矜持より、今の俺が背負っている安っぽい幸福感の方がよほど質が悪いように思う。
バカップルみたいだとさっき言ったけど、実際の俺たちも世間一般の頭の悪いカップルどもと大差ない。べたべたひっついて歩いて、ドラッグストアで飲み物食べ物と一緒にコンドームを購入し、そしてこれから、昼間の明るいうちからラブホテルに行く。
十代の頃なら汚らわしさすら覚えた一連の行動に、二十歳の俺はすっかり慣れていた。
唯一、世間のバカップルと違うところがあるとすれば――。
「鷲津、ほら。こっち来て……」
ラブホテルの部屋に入った後、久我原が俺の手を引いてベッドへ導く。
彼女はいつも俺を名字で呼ぶ。高校時代と同じように。それが間違いだとか不快だということはなかったが、一方で少なからず違和感も覚え始めていた。
久我原、聖美。彼女の名前を、俺は一度だけ呼んだことがある。
でもそれきりで、その後は呼ぶ機会もなかった。二十歳にもなって女の名前を呼べないっていうのも格好悪いが、きっかけもないまま呼びそびれた。かといってセックスの最中にそれをするのも、ただ盛り上げたいだけの演出に思えて身勝手に感じる。
「久我原」
俺は彼女をいつもどおりに呼び返し、スプリングのうるさいベッドにふたりで倒れ込む。
久我原聖美は期待に瞳を輝かせ、これから何をしようかと考える顔で俺を見上げていた。その顔、こういう時の楽しそうなそぶりは『聖美』という名前とは相反する。相変わらずベッドの上でも積極的だし、黙って何かされてるということもない。こっちが恥ずかしくなるようなきわどい冗談も平気で言う。フェラもうまい。
それでも、久我原は『聖美』だ。
その名前はたぶんずっと変わることがない。
俺の名前が『康友』であるのと同じように――お互い、ふさわしくない名前をもらったものだとつくづく思う。