初めての日、始まりの日
二月十四日、どうしても会いたいと言ったら不思議そうにされた。『いやいいけど。なんでその日?』
電話で鷲津は、なぜ平日にそこまでして会うのかと言いたげだった。
確かにその日はお互いに大学があるし、予定をすり合わせると待ち合わせ時刻は午後四時以降となりそうだった。ラブホのサービスタイムには間に合わないし、かといって彼の家までお邪魔したら帰りが遅くなってしまう。結局、その日はふたりでちょっとお茶するくらいしかできそうになかった。
でも、私はどうしてもその日に鷲津と会いたかった。
「すぐ済むから。渡すものがあるだけだよ」
私はそう告げて彼を宥めた。
「もらうだけもらったらすぐ帰ってもいいし」
『そこまで薄情なことしない』
鷲津は出てくるのが嫌というより、純粋に不思議みたいだった。
『ずいぶんこだわるなって思っただけだ』
そしてそれは当日、落ち合ったカフェでチョコレートを差し出した時も同じだった。
「これ、もらってくれる?」
私が有名チョコレート店の紙袋を手渡すと、鷲津は眉根を寄せる。
「俺に?」
大学帰りの彼は、やっぱり黒いコートを着ていた。カフェに入ってコートを脱いだら、黒いタートルの上に黒いカーディガンを羽織っていた。ここ最近は会う度に前髪が伸びていて、目元が隠れかかって邪魔そうだ。
忍者みたいな鷲津を前に、私はにやりとしてみせる。
「他に誰かいる? バレンタインだってば」
「ああ……そっか」
彼は納得したようなしてないような顔で紙袋を開いた。
そして中から金色のリボンがかかった包装済みチョコレートを取り出し、くるくると検めるみたいに引っ繰り返す。
「これ、手作りか?」
包装紙にお店の名前が書いてあるのにそう尋ねられた。
私は少し笑った後で答える。
「ううん、市販の。味の確かなものがいいと思って」
「へえ。うまい店なのか?」
「結構有名なとこだよ。デパ地下によく入ってる」
鷲津は人混みの中が好きじゃないから、そういうお店もあんまり知らないみたいだ。やっぱり釈然としてないようだった。
「そうなのか……」
だけどそんなふうに唸った後、はたと気づいて頭を下げる。
「ああ、言い忘れてた。久我原、ありがとう」
「どういたしまして」
私も頭を下げ返し、温かい紅茶を一口飲んだ。
お店の紅茶は美味しいけど、がぶ飲みできないのが難点だ。それでも今はこのひとときごと、じっくり味わうことにする。
去年のバレンタインは、鷲津にチョコをあげられなかった。
当然だ。その時はまだ、彼のことを好きになっていなかったから。
惜しいなと思うのはそのタイミングで、あとほんの数週間早く恋に落ちていたら、クラスメイトとしてバレンタインの時間を共有できたわけだ。全く残念に思う。
とは言え当時の鷲津が、私からのチョコレートを喜んで受け取ってくれるとは思えないけど――口移しで無理やりプレゼント、くらいしか思いつかない。
だけど今年のバレンタインは最高だ。
こうして時間を作ってもらって、チョコレートを手渡すことができた。
受け取ってもらえただけじゃなく、お礼まで言ってもらえた。
浮かれる私をよそに、鷲津は尚も怪訝そうにしている。
チョコレートの箱の裏表を繰り返し観察するから、さすがに私も気になってきた。
「中身、気になる?」
尋ねてみたら彼ははっとして、気まずそうに首を竦める。
「いや、そうじゃない。もらえると思わなかったから」
クリスマスの時もそうだったように、鷲津には学業に関わらないイベントごとの感覚がないらしい。もしかしたら私が誘った時も、今日がバレンタインだって気づいてなかったのかもしれない。
「うれしいでしょう? かわいい女の子からの本命チョコだよ」
私の言葉に、ようやくちょっとだけ笑った。
「お前、そういうの恥ずかしげもなく言うよな」
「事実だからね」
「でもここ、外だからな。言葉選べよ」
そう言った鷲津の方が、長い前髪越しに目を泳がせている。
だけどそれも、しばらくするとまたチョコレートの観察に戻ってしまった。
「バレンタインってリア充どものイベントだと思ってたよ」
「鷲津はリアル充実してないの?」
こんなかわいくて一途な女の子にべた惚れってくらい惚れこまれてるのに?
私が見つめると、彼は何かに気づいたようだ。腑に落ちた様子で頷いた。
「してるか。お前のおかげで」
「そうでしょう? 鷲津だってリア充だよ」
「全然馴染まないけどな……今日だってびっくりした」
二月十四日に女の子と会って、それも自分に好意があるって百パーセントわかってる状態で、それでチョコもらってびっくりするっていうのもなかなか不思議だ。
それだけ彼にとって、バレンタインは縁遠いイベントだったのかもしれない。
「これから馴染むようになるよ」
だから私は彼に言った。
「だって今年から毎年チョコもらえるようになるからね。来年は手作りに挑戦しちゃおうかな。鷲津はどっちがいい?」
すると鷲津は目を瞬かせた後、真剣に考え込み始める。
「どっちって……お前の料理の腕知らないしな。でも市販のやつもまだ食べてないから味わかんないし……」
割と本気で悩んでる。
「ちなみに私、お菓子作りはホットケーキ焼くくらいしかやったことないの」
「それお菓子か? じゃあ市販ので……」
「でもこれから頑張って腕上げる予定だから、期待していいよ」
「迷わせるなよ、本気で悩むだろ」
もう既に悩んでる鷲津が、おかしそうに吹き出した。
でもそれって、最高に幸せな悩み事だと私は思う。
結局、鷲津はどっちにするか決められなかった。
チョコを持ち帰って家で食べて、『うまかった』って連絡はくれた。でも私の手作りお菓子も見てみたいそうで――食べてみたい、じゃないところが多少引っかかるけど、来年のバレンタインまでには決めておくようお願いしておいた。
私も泥縄にならないよう、これからちょっとは練習しとこう。
それから一ヶ月が経とうとしていた三月のある日、今度は鷲津が誘ってきた。
『十四日、空いてるか?』
私はもちろんその日が何の日か知っている。大喜びで答えた。
「鷲津の誘いならいくらでも空けるから! どこ行く? ホテル行く?」
『あー……悪い。実はその日、外せない最終講義あるんだ』
誘ってきた鷲津の方が申し訳なさそうに続ける。
『だから夕方、前みたいに少ししか会えないけど、ホワイトデーだろ』
「うん」
『どうしても会いたい。渡すものあるから』
彼のその言葉が、私を完全に舞い上がらせてしまった。
そんなふうに言われたら何を差し置いても絶対行く。這ってでも行く。
這う必要性は特にないまま、私はホワイトデーを無事に迎えた。
待ち合わせ場所は前回と同じカフェで、鷲津は少し遅れて駆け込んできた。黒いコートを脱いでからアイスティーを注文し、ハンカチで汗を拭う。心なしか、髪が短く整えられていた。
「悪い、遅れて」
「別にいいよ。急いでくれてありがとう」
私が感謝を告げると、鷲津は額を拭きながら苦笑する。
「もっと早く来たかったんだけどな。聴講者多くて、抜けてくるの大変だった」
「ううん。気持ちだけですっごく嬉しい」
鷲津が私の為に急いできてくれたなんて、以前じゃ考えられなかったことだ。
ましてや今日はホワイトデー、会いたいって言ってもらえただけでうれしい。本当にうれしい。
一息ついた後、鷲津が鞄から小さな箱を取り出した。
「これ、大したもんじゃないけど」
「ありがとう!」
私はもちろん大喜びでそれを受け取る。
箱はハート形で、ピンクのリボンがかけられていた。包装されているから中身はわからないけど、持ってみた感じは軽くて音がしない。
「開けてみてもいい?」
そう尋ねたら、彼は慌てた。
「ここでか? いや……まあ、食べないんならいいか」
許可を貰ったので、私はまずリボンを引いた。
しゅるりと微かな衣擦れの音と共にリボンはほどけ、続いてゆっくりと包装紙を剥がされていく。
そうして中から現れたのは、マシュマロの詰め合わせだった。
なぜ中身がわかったかと言えば、箱の蓋が透明なフィルム張りになっていたからだ。ハート型の箱の中に、小さなハートのマシュマロがいっぱいに詰まっている。ピンクと白の二色だった。
「これを私に?」
思ったよりも可愛いチョイスだったから、私は鷲津に尋ねた。
「変か?」
彼は不安げにこちらを見つめている。
「ううん、うれしいよ。かわいくてびっくりしたの」
「こういうの買うのも初めてだったんだよ。ちょうどホワイトデー売場があったから、そこで一番よさげなのを選んだ」
ということは、これは鷲津が直々に、私の為に選んでくれたものだ。
人混み苦手なのに、こういう時は黙って出かけちゃうんだ。すごいな。
「ありがとう。大事に食べるね」
「ああ。有名店のとかじゃないし、美味いといいけど」
鷲津はまだ不安そうにしつつも、微かに口元をほころばせる。
「礼がしたくてさ。チョコのこともそうだけど、それ以外も。俺のリアルが充実してるのはお前がいるからだ」
そう言って、彼の白い手が切りたてらしい前髪に触れた。
「最近は何をするにもお前絡みだろ。お前と会うから髪切ったり、お前の為に買い物に行ったり、三食ちゃんと食べるのだって、お前に心配かけたくないからだし……」
私がいなければ、鷲津はそんなことさえ自分でしようとしなかったんだろうか。
だったら私の責任は重大だ。私が鷲津を愛することが、彼を生かし、彼を充実させていくっていうなら、こっちだって手加減はできない。
「髪、似合ってるよ」
私が誉めると、彼はきまり悪そうにした。
「大して変わってないだろ」
「そんなことない。目が見えてる方が格好いいから」
そう力説したのはどこまで伝わっただろうか。
鷲津は恥ずかしそうに首を竦めた。
「ま、邪魔だからな。なるべく短くしとくよ」
他の人からすれば何でもない、当たり前のようなその言葉が、私にとってはすごく貴重だ。
「うん、そうして」
ホワイトデーのマシュマロと一緒に、もっと素敵なものを貰った。
二人で迎えた初めてのホワイトデーは、絶対に忘れられない思い出になるだろう。
ところで、本当の意味で初めてのホワイトデーだった鷲津は、数日後に慌てて電話をくれた。
『ネットで調べ物してて知ったんだけどな』
電話越しにもその狼狽ぶりがよくわかる声をしていた。
『マシュマロって、関心ない相手に贈るお返しだったんだな。俺、全然知らなくて……』
「そんなの鵜呑みにしなくていいよ」
気にしてなかった私はもちろん笑い飛ばしておく。
にきびの位置で恋の行方がわかるとか、ささくれができたら親不孝だとか、そういう類の話と同じようなものだ。気にしなくていい。
それに私にとっては、鷲津が自ら買ってきてくれたものって事実が何より重要だ。
『ピンクのハート型って久我原っぽいなと思って選んだ。それだけなんだ』
鷲津はまだ必死に弁解している。
本当に気にしてないのにと思いつつ――彼にとって私が、関心のない相手じゃないって事実には自然と口元が緩んだ。
それにしても私、ピンクのイメージなんだろうか。鷲津も案外、私をかわいい存在だと思ってくれてるのかもしれない。あえて本人には聞かないけど。
鷲津の弁解を聞き終えた後、私は自分で温かい紅茶を入れた。
彼みたいに本格的じゃないティーパックの安いやつ。だけどハートのマシュマロを浮かべたら、とびきり甘い紅茶になる。
二人で迎えた初めての日々を、今はこうして噛み締めている。
さて、来年に向けて準備をしようかな。
次のバレンタインはうんと甘いやつを用意して、鷲津にお見舞いしてやろう。
20**/01/01 加筆修正
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