神様、お願いです
私が鷲津の家にケーキを持ち込むと、彼は困った顔をしてみせた。「何持ってくるかと思えば……」
「少しはクリスマスらしいことしようよ」
言い訳がましく私は告げて、彼に紅茶を入れてもらうことにした。
見慣れた鷲津の家の台所で、やかんだけが音を立てている。
鷲津はその前でじっとしていて、私は彼の後ろ姿をダイニングテーブルに着いて眺めている。すらりとした彼の立ち姿が好きだ――鷲津なら、全部好きだけど。
彼の家の台所にまで入れてもらえるようになってからだいぶ経つ。寒くなってきたせいもあって、私が遊びに来ると彼は必ず紅茶を入れてくれた。
その間、私は彼の部屋で待つように言われてたけど、ある時提案してみた。
『片時でも離れたくないから、ついてってもいい?』
鷲津はその言葉を受け入れてくれて、今は紅茶を入れる時ですら一緒にいるようになった。
彼がやかんでお湯を沸かし、茶匙で紅茶の葉をポットに入れ、優しい手つきでティーカップに注ぎ込む作業を、傍らからじっと見守っている。
何もさせてもらえないけど、そういう時間がとても幸せだった。
「クリスマスらしいことって、ケーキを食べることなのか」
カップから湧き立つ湯気の隙間に、ぼやく声が聞こえてきた。
「そうじゃない? クリスマスって言ったらケーキでしょう」
私は頬杖をつき、湯気の向こうで揺らめく姿を眺めやる。
「世間一般の認識はそうらしいけど、だからって――」
鷲津の視線がちらりと、ダイニングテーブルの上を滑る。
湯気の立つカップの隣に置かれているのは、私が持ってきたケーキの箱だ。五号サイズ。
「一ホール買ってくることはないだろ」
「あ、訂正させて。私が買ったんじゃないから」
彼のしかめっつらに向かって手を挙げる。
「うちのお父さんの仕事の関係。取引先のひとつが食品メーカーで、ケーキもやってるんだって。それでノルマがあるの。うちに帰ればもう二ホールあるんだよ」
おかげで毎年、クリスマスケーキには不自由していない。
それどころかご飯代わりにケーキを食べなければ消費が追いつかないほどだ。私がケーキ好きだからよかったものの、そうでなければクリスマスが嫌いになっていただろう。幸いにしてここのケーキはけっこうおいしかった。
鷲津の家では、クリスマスらしいことは特にしないのだそうだ。現にリースも飾ってないしツリーも出されていない。昔からサンタが来たことはないと言っていたし、二十四日に会おうと言ったら理由を聞かれたくらいだ。
だからせめてものお裾分けにとケーキを持参した。
単に、彼の入れてくれた紅茶で食べたかっただけだけど――クリスマスらしさを共有したかった気持ちも、もちろんある。
せっかく今年のクリスマスイブは休日なんだから、鷲津とこんなふうに過ごしてみたかった。
「お前の家もいろいろあるんだな」
どこか同情的でもある響きの後、鷲津はぼそりと付け足した。
「俺は一切れでいい」
先んじた言葉に、私は笑って頷く。
「いいよ、それで」
ちょうどその時紅茶とコーヒーの用意ができて、私の前には温かいカップが差し出された。
鷲津は一旦ダイニングテーブルを離れ、台所の戸を開けてセラミックの包丁を持ってくる。
「ケーキナイフがなかった。これでいいよな?」
「いいんじゃない?」
鷲津単独によるケーキ入刀。
生クリームの白と真っ赤な苺が鮮やかだ。包丁の刃は滑らかにクリームを、それからスポンジを切断した。スポンジは柔らかいせいで刃を受け止めた瞬間大きく沈み、刃がするりと抜き取られた後でゆっくりと、時間を掛けて戻っていく。
彼はその作業を三回、行った。
ずっと息を詰めたまま、真剣な表情で繰り返した。
その度にスポンジは白いクリームと赤い苺ごと、息づくように上下する。
五号のケーキはやがて、きれいに六等分された。
「八等分しようかどうか迷った」
「こんなに小さいんだもの、八等分なんてしたら一切れはぺらぺらだよ」
「ぺらぺらでもいいんだよ」
白い小皿を二枚、それから金色のフォークを二本用意する。
鷲津はケーキを倒さず皿の上に乗せ、テーブルの上に並べていく。
支度ができた四人掛けの食卓で、私たちは向かい合わせに座った。
「じゃあ、いただきます」
彼が手を合わせたので、すかさず私は指摘する。
「違うよ。メリークリスマス、でしょう」
それで鷲津は面食らったような顔をしたけど、やがて呟いた。
「……メリークリスマス」
やかんの音が止んでいるせいで、はっきり聞こえた。
「うん。メリークリスマス、鷲津」
私は笑顔で応じる。
それから彼より先に、ケーキと紅茶を味わい始めた。
鷲津の家に招かれるようになって、既に半年以上が過ぎていた。
私たちが共に休日を過ごすことは当たり前になっていて、彼の家で過ごしたり、買い物や食事に出掛けたり、時々ホテルに行ったりして二人の時間を楽しんでいる。私たちも傍目には、そこらにいる恋人同士と何ら変わらないはずだ。事実はどうあれ。
お互いに黙り込むと、この家はしんと静かになる。
居間も、洗面所も、二階にある彼の部屋も静まり返っていて、人の気配がしなかった。台所には私たちの呼吸と、フォークや皿やカップの立てる音だけが響いている。
クリスマスイブ当日、外は雪が降っている。
世間的にはホワイトクリスマスというやつだ。でも、帰り道のことを考えるとあまり降ってくれない方が私はいい。鷲津と別れた帰りはいつだって寒さが身に染みるから。
せっかくのクリスマスイブなのに、鷲津と会っていられる時間は数時間しかない。
鷲津はイブだからといってイルミネーションを見に行ったり、贈り物をしあったりはしたがらなかった。
でも私はそれでいい。彼にとってイブの約束が無意味なものでも、このひとときを私にだけもらえるなら。
「割と美味いな」
静けさを破って鷲津が声を立てる。
考え事も一緒に破けてしまったけど、なぜだか無性にほっとする。
「そうでしょう。もっと食べてもいいよ」
冗談半分のつもりだった。なのに、意外にも彼は顎を引いてみせた。
「じゃあもう一切れ」
そう言って苺の乗ったケーキを自分の皿に載せる。ふたつめを片づけるまでにはやや時間を掛けていたけど、ちゃんと完食してみせた。
ケーキは二切れが限度って、そういえば前に言っていたっけ。あの時は無理をしていたように見えた。でも今は、本当においしそうに食べてくれた。
「鷲津の口に合ったならよかった」
気分がよくて、ついにやにやしてしまう。
「来年も持ってこようかな。ノルマあるだろうし」
「毎年あるのか」
「そうだよ。うちは私がいるからいいけど、甘いもの苦手な家とかは大変だろうね」
でも社会に出るってそんなものなんだろうな、とも思う。
付き合いとか義理とか、とにかくいろいろあるんだろう。学生のうちだってなくはない。私の大学での交友関係は、半分以上が付き合いと義理で成り立っている。
だからこそ、鷲津といる時間が何より貴いと思う。
鷲津との間にあるものは付き合いでも義理でもない、本物の『必要性』。
クリスマスに会う意味は見いだせていなくても、私たちは平然と、来年のクリスマスの話ができるような関係だった。
「なんか、お前の口から家族の話聞くの、不思議な感じがする」
不意に、鷲津がそう言った。
顔を上げればテーブル越しに訝しげな表情が見える。
「そう? 何度か話してるよ」
「聞いてたけど。何となく、違和感がある」
自分でわからない、というふうに彼が肩を竦める。
「ふうん」
私も首を傾げつつ、ケーキの残りを片づける。
家族の話はたまにしていた。もっとも自発的に話したいと思う内容でもなかったから、たまにだけだ。好きな人といる時はその人のことだけ考えたいものだから。
「時々、思うんだよな」
鷲津が立ち上がる。
空になったカップと皿を流しまで運び、こちらに背を向けたまま続けた。
「お前といると、この世界にお前とふたりきりでいるんじゃないかって。他の人間は誰もいないんじゃないかって、そんなふうに思えてくる」
彼の家は静かだ。
半年以上通い詰めている私も、彼の家族とはまだ顔を合わせたこともなかった。
ちょうどその時、私はケーキを食べ終えた。鷲津の後に続くように席を立ち、カップと皿を運んでいく。流し台に置くと彼が蛇口を捻り、音を立てて水が迸る。
スポンジを手に取った彼の隣に立ち、皿を洗い始めた横顔を覗き込む。鷲津はこういう時でも真剣な顔をしている。
彼の顔が好きだ。
顔に限らず、全部、好きだけど。
「私と、ふたりだけでいたい?」
尋ねてみると、鷲津は少し笑った。
「そう思ったこともある」
過去形なんだ。
私はまたほっとして、流し台から身を離す。
代わりに彼の背中に寄りかかった。鷲津は一度身動ぎしたけど、結局そのままにしておいてくれた。
そうして皿を洗う間中、私たちは背中合わせの姿勢でいた。温かかった。
クリスマスらしいことをしよう。
私が告げると、鷲津は困ったような顔をした。
「お前な、そういう言い方するなよ」
「間違ってはないと思うけど。世間一般の認識はそうだよ」
「クリスマスに対する冒涜だ」
ベッドの上、私に組み敷かれた状態で、鷲津は顔を顰めている。
そういう顔も好き。どんな顔でも嫌いなんて言わないけど。
「その割に素直にベッドまで来てくれたじゃない」
笑いながら見下ろせば、彼はきまり悪そうに顔を赤くした。
「俺は一般論について言ってるんだ。クリスマスを軽薄なものとして捉えている連中の認識は、神様に対する冒涜じゃないか」
「神様だってそういう軽薄さが嫌なら、天罰のひとつでも下してるでしょう」
そう言って、私は彼の耳を噛む。
柔らかく熱を帯びた部分は彼の弱点で、甘噛みを繰り返すと小さく吐息が漏れた。
「……んっ」
それでも最近の鷲津はしっかりと反撃をしてくる。私の胸に手を伸ばし、服の上からゆるゆると揉み始めた。
これからお互いを隅々まで味わうことができる。
ケーキの次はもっとおいしいものがあった。幸せでしょうがなくて、私は密かに舌なめずりをする。
通い慣れた彼の部屋も、今は静かだ。
これから静かではなくなるだろうけど。
「さっきの話の続き」
彼のシャツのボタンをひとつひとつ、ゆっくりと外していく。
それを見守る呆れたような表情に、私は何気なく尋ねた。
「私とふたりじゃなくていいって、本当にそう思ってる?」
「……まあ、な」
鷲津も手慣れたもので、私に脱がされながらも私を脱がそうとする。そういう気配を感じたら、やりやすいように譲ってあげることにしている。
彼の手が、私のスカートのホックを器用に外す。
「この世にお前しかいなかったら、さっきのケーキは食べられなかった」
鷲津が真顔で言ったから、思わず吹き出してしまう。
「そういう理由?」
「そんなもんだろ。じゃなきゃ他の人間なんて必要ない」
「鷲津、ケーキが好きになったんだね。私と似てきたんじゃない?」
私は甘いケーキが好き。
それと、ケーキ以上に美味しいものも好き。鷲津が好き。
私の味覚と彼の味覚が、本当に似てきたんだとしたら――。
「かもな」
頷く彼が私のスカートを下ろした。
それから上体を起こし、こちらの脚に齧りつこうとしてくる。
その動きを制するように、私は彼の肩をベッドに押しつけた。
お互いに、美味しいものを欲している唇を重ねる。
味覚が似てきた舌を絡める。
「こういうクリスマスの過ごし方は嫌い?」
舌を離してから私は笑い、呼吸を乱した彼が深い息をつく。
「そんなこと言ってるとお前、本当に罰が当たるぞ」
「みんなやってることだよ」
「かもしれないけどな……」
鷲津が何か言いたげに私を見上げている。
彼が世間一般のカップルの過ごし方に倣いたがっているとは思わない。でもそれを徹底的に拒絶するほどの嫌悪感もないようだ。気恥ずかしいだけ、ならいいんだけど。
「鷲津が嫌いだって言うならやめちゃおうかな」
いじわるのつもりで焦らすことを言ってみた。
「好きだって言ってくれたら……いっぱいサービスしてあげてもいいよ」
とたん、ぎしっと意味ありげな音を立ててベッドが軋む。
彼は眉をひそめた顔で私を見上げている。それをしばらく見つめていたら、ふと抱き寄せられて、それから私の耳元に答えをくれた。
今日はクリスマスではないのに、とてもクリスマスらしい日になりそうだ。
現実として、私たちはこの世界にふたりきりでいるわけじゃない。
好きな人を愛することがクリスマスと神様に対する冒涜なのだとしたら、この世界には冒涜を働く不届き者がやたら多いということになる。天罰を下す方も大変だろう。中には恋人同士でもないのに、真昼のうちから肌を重ねる人間もいるんだから。
そもそも、神様には多くを望んでない。一度は鷲津を連れ去ろうとした相手だ、私にとってはライバルでしかない。
神様にだって渡さない。
鷲津は私のものなんだから。
ふと目が覚めると、既に日が暮れ始めていた。
白い鷲津の肩越しに、夕陽が射し込む窓が見えた。雪は止んでいるらしい。
そして目が合った鷲津は、私から大きく身を離した。
「いきなり起きるなよ、久我原」
「……何してたの?」
まだ眠い。目を擦りながら尋ねれば、ぼそぼそ低い声が聞こえてくる。
「別に。寝顔見てた」
「私の? ……面白かった?」
「それなりに」
顔を背けて言われると、真意が掴みにくい。
だけどお互い同じベッドの中にいる。しがみついてしまえばどうでもよくなる。温かい。
「ケーキ、残して置けばよかったな」
「お腹空いたの? 鷲津」
「ちょっと減った。お前は?」
「空いたかな。今度はクリスマスらしく鶏でも食べる?」
私が問い返すと、鷲津はおかしそうに笑った。
「お前のクリスマスって三大欲求に忠実だな」
「生きてるんだもん、当たり前じゃない」
もっともらしく言って、隣にいる人を抱き締める。
やっぱり温かい。お互い生きているからだ。
だから神様、お願い。もう二度と、鷲津を連れていこうとしないで。
それ以上のことは望まない。後のことは全て、私が彼とふたりで手に入れていくから、神様は私たちを見て見ぬふりをしていてくれたらそれでいい。
ごくありふれた幸せも、美味しいものも、眠たくなるような穏やかさも全て、恋人同士ではない私たちが手に入れていく。本物の恋人同士みたいに、確実に。その為なら私は何だってできるから。
どうか、神様、お願いです。
こんなささやかなお願いくらい、聞いてくれたっていいはず。
実に私らしいクリスマスの祈りだと思う。
自分でも少し、おかしかった。