白い羽(2)
『……久し振り』一ヶ月ぶりだというのに、鷲津の声は素っ気なかった。
それでも私は顔が緩むのを抑え切れない。つい浮かれた声で応じてしまう。
「本当だね。連絡、ちっともくれないんだもの」
拗ねようとする口調さえ上手くいかない。
恋人同士でもないのに、はしゃぎ過ぎだと自分でも思う。
だけど、ずっと、この声が聞きたかった。
電話越しにでもいい。たくさん話したかった。
『しばらく忙しいって言ったはずだけどな』
むしろ鷲津の方がどこか拗ねているように聞こえた。
『久我原だって暇だったわけじゃないんだろ?』
「まあね。それなりに」
『だったら文句言うなよ。こっちの事情だってわかってくれ』
久し振りだというのに彼はあまり変わっていないように思う。記憶の中にある声や口調と、違いが全く見当たらない。進学先でも相変わらず、彼らしい虚勢の張り方をしているんだろうか。
そう思うと微かに胸が痛んだ。
だけど言葉では違うことを告げてみた。
「誰かかわいい子と出会って、私のことなんて必要なくなったかと思ってた」
冗談っぽくぶつけてみたら、彼には鼻で笑われてしまった。
『そんな旨い話があるか。女の方だって相手を選ぶ権利がある』
鷲津自身には選ぶ権利もないような物言いだ。
「でも一人は確実にいるじゃない。鷲津を選んだ、かわいい子が」
『誰がかわいいって? 鏡見たことないのか、お前』
冷たく突き放されても、こんな会話が甘いと思えてしまう。
幸せだった。私はやはり彼が好きなんだとしみじみ噛み締める。
声が聞きたかった。会いたかった。連絡が欲しかった。
私を必要としてくれているその意思を、確かめたかった。
かわいくはないかもしれないけど、私は真面目ないい子に違いない。ちゃんと鷲津の言いつけを守り、思い詰めてストーカー行為には走らなかった。
『お前は?』
不意に鷲津が尋ねてくる。
だけど何についての『お前は?』なのか、すぐには掴めなかった。
「何が?」
『いや、だから……』
そこで彼は口ごもり、やがてぶっきらぼうに続ける。
『もっとましな男でもいて、気が変わったってことはないのか?』
彼の言い方は、まるでそうなるのが普通なのだと訴えているようでもあった。
もちろん普通であるはずがない。今度は私が笑っておいた。
「あるはずないでしょう? 私は鷲津が好きなんだから」
『そっか、お前、変態趣味だもんな』
自虐的にも響く呟きの後で、だけど鷲津はこう続ける。
『でも、本当にお前を好きでいてくれる奴がいたら、そいつといる方がお前にとってはいいのかもしれない』
「え……?」
急に、何を言うんだろう。彼らしくもない。
私が瞬きしていれば、鷲津は更に畳みかけてくる。
『後戻りするんだったら今のうちだぞ、久我原』
嫌な台詞だった。はしゃぎたい心に冷水を浴びせかけられたような。
私は唇を噛み、しばらくの間返答に迷う。
それは恐らく鷲津本人の意図を超えて、二重の意味で私の胸に突き刺さった。
今の私たちの関係を、彼は肯定せず、執着もしていないのだということ。
それから、鷲津自身は私を、まだ好きでいてくれてはいないのだということ。
自覚はしていたはずだけど、久し振りの会話でまざまざと見せつけられると、さしもの恋心も軋んだ。久し振りなのにずきずきと痛かった。
どうして急にそんなことを言い出したんだろう。
脳裏に二日前の、佐山とのやり取りが蘇る。
まさか、知ってるんだろうか。
佐山が私に電話をしてきたこと、私が佐山の気持ちに薄々感づいたことを、鷲津が何かのきっかけで知る羽目になったとか――まさか。
佐山にはこれっぽっちも惹かれない。
他の誰だって駄目だ。むしろ不快感だけが込み上げてくる。
私は鷲津といる方がいい。
これほどまでに惹かれたのは、今まででたった一人、彼だけだ。
へこみかけた心を奮い立たせ、私は切り返す。
「後戻りなんてするはずないよ。私はそんなつもりないから」
『へえ』
抑揚のない相槌が聞こえてくる。
それでこちらも、挑発してやる気になれた。
「鷲津こそ私に会いたいから、こうして連絡くれたんでしょう?」
途端に電話の向こうで彼が沈黙する。
その沈黙も肯定だと思いたかった。続けた。
「ずっと会ってなかったから、私が恋しくなったんじゃない? 好きになってはくれなくても、多少なりとも情が湧いたりしたんじゃない? 違う?」
私はまた笑んだ。
さっきまでとは少し違う笑いだった。いとおしさの陰で、嗜虐的な感情が頭をもたげてくる。
『……お前って』
鷲津が、私の笑いには気づかずに嘆息した。
『やっぱり、かわいくはないよな』
「そう?」
自覚はある。
私はどうしたってかわいいタイプではない。かわいがってもらえるような女の子ではない。
そうするのは私の方だから。
「鷲津は、かわいい女の子の方が好き?」
一応尋ねてみると、意外な答えが返ってきた。
『そうでもない』
「……ふうん」
『何だよ』
もっと強烈な言葉で否定するのかと思っていたけど、違うんだ。
私は尚も挑発してみた。
「好きとは言ってくれないんだなあって思ったの」
『言うわけないだろ、馬鹿』
やはり素っ気なく鷲津は言う。
でも、声の端が動揺しているのをこの耳で拾ってしまった。
『ところで、土曜日、空いてるか』
動揺を隠し切れてない声で彼が尋ねてくる。
「空いてるよ」
私は予定も確かめずに答える。
たとえ空いてなくたって、無理矢理にでも空ける気でいる。
『じゃあ俺の家に来い。会ってやるから』
わざとらしく偉ぶった口調もいとおしい。とても彼らしい虚勢の張り方だ。
ようやくの約束に心が再びはしゃぎ出す。
待ってた。ずっと、待ってた。
「何時に行けばいい?」
『何時でもいい。朝から空いてる』
私の問いに鷲津が答える。
鷲津のご両親は朝早いんだろうか。そういえば二度お邪魔したけど、まだお会いしたことがない。私たちのすることを考えたら家にいられても困るけど。
「その日は鷲津ひとりなの?」
確認してみたら、彼の声がほんの少し冷たくなる。
『じゃなかったら呼ぶわけないだろ』
「そうだけど、朝からいいって言うから」
『朝からいないのが普通だからな』
ぶすっと言った後、鷲津はまるで話を逸らすように声を荒げた。
『とにかく、お前の都合を答えろよ』
家庭の事情にはあまり触れられたくないようだ。
私も踏み込みすぎたかと軌道修正する。
「何時でもいいなんて言われたら、八時とかに押しかけちゃうよ?」
『八時くらいならいい。それ以前は勘弁してくれ』
そう言って、彼は呆れたように付け加える。
『けど、そんなに早くから会ってどうすんだよ。暇持て余すぞ』
「どうするって、何もしないわけじゃないでしょう?」
私が聞き返したら、黙ってしまったけど。
「暇になるはずないよ。鷲津とならすることはたくさんあるし」
いっぱいある。暇になることなんてあり得ないくらい。休む暇すらあげたくないくらいいっぱいあるんだから。
それをわかっているはずの鷲津が、ぽつりと零す。
『……変態』
「今に始まったことじゃないよ。知ってるくせに」
まさに身をもって思い知ったことあるくせにね。
約束を取りつけた後、鷲津との通話は終了した。
本当は進学先のこと、大学でどんなふうに過ごしているのかも聞いてみたかったけど、彼が用件だけで切りたがっていたので諦めた。用件だけ話して素っ気ないところは一ヶ月ぶりでも何ら変わっていない。
それでも、好きだけど。
私も進学先のことは話さなかった。
それに、佐山とのことも話さなかった。
佐山が電話を掛けてきたことについては鷲津に話すべきじゃない。彼氏ならともかくそうではない相手だ。鷲津みたいな自信のない人に、余計な心配も掛けさせたくはない――心配してくれるかどうかすら怪しいくらいだから、とにかく黙っていた。
そういう曖昧な関係に対する不安は、土曜日の約束だけで掻き消えた。
連絡のない日々を待っていた不満も、久し振りだというのに変わらない鷲津の素っ気なさも、ただ次の約束があるというだけで何もかもどうでもよくなってしまう。
私は土曜日まで幸せで、満ち足りた思いのまま過ごした。
迎えた土曜日はいいお天気だった。
朝方の道はまだ人影もまばらだ。春らしいくすんだ青空の下、風が吹く度に花びらが舞い降りてくる。気がつけば桜の季節が訪れていた。
鷲津の家へ向かう途中、つい先月卒業したばかりの高校の傍を通った。
校庭には桜並木があって、どれもこれも見事に満開の時期だ。風にくすぐられ身を捩る桜が、ざわざわと声を立てている。そうして風が吹く度に、辺りに淡色の花びらを振り散らす。
その花びらが、小鳥の羽みたいだと唐突に思った。
羽ばたきの度にひらりと落ちる、白く小さな羽のようだ。
その連想は何だかとても艶っぽく感じられて、桜を見上げる私は思わず微笑んだ。
彼の家まで歩く道の途中で、気づけば胸が高鳴り、気が逸っているのがわかる。
私の手で小鳥を捕らえて、手の中でくすぐり羽ばたかせ、白い羽を散らせてみたいと思った。
桜並木の脇を急ぎ足で抜けながら、私はその連想を味わい尽くすように繰り返す。何度も何度も。
早く、彼に会いたかった。