Tiny garden

春の日のめぐりあわせ(1)

 有成おじさんが、しばらくの間うちに泊まることになった。

 おじさんはお母さんの弟だ。三十二歳。お母さんとはちょっと歳が離れてる。
 うちに来た最初の晩はぴしっとスーツ姿だったのに、次の日からはよれよれのジャージと無精ひげで過ごすようになった。
 だけど実際、スーツよりもジャージの方が似合っていた。そんな感じの人。
 遠くの街で独り暮らししながら働いていたと聞いた。久し振りにお休みが取れたから、お彼岸のお墓参りついでに帰省してきたらしい。会うのは八年ぶりだから、私にとっては初めて会うのとほとんど同じことだった。
 うちは、おじさんにとっての実家になるんだそうだ。お父さんとお母さん――つまり私のおじいちゃんとおばあちゃんは、おじさんが子どもだった頃に亡くなっていた。以来、うちのお母さんとおじさんとはたったふたりで、助け合って暮らしてきたんだそう。それはそれでとても立派なことだと思うけど、関係なく、私はおじさんのことがあまり好きになれなかった。
 だって、会った時にこう言われたんだ。
「遥ちゃん、幾つになった? ん? 十四? 見えないなあ。まだ小学生みたいに見えるぞ」
 ランドセルを背負っててもおかしくないな、とまで言われて、私はむっとした。
 失礼にも程がある。
 そりゃあ、私はクラスでも背の低い方だし、バスに乗る時大人料金を払ったら、運転手さんにびっくりされたこともある。
 けど、れっきとした中学生だ。四月からは受験生で、塾の春期講習にもちゃんと通ってる中学生なのに。
 小学生みたいってどういうこと!
 むっとした私をよそに、有成おじさんはげらげら笑った。
「そのふくれっ面。姉さんの若い頃にそっくりだ」
「有成、あんまり遥をからかわないの」
 お母さんがたしなめてくれなかったら、きっとおじさんはずっと笑い続けていただろう。
 無神経。最低。私はむっとしたまま、それきりおじさんと目を合わせないようにしていた。
 どうしてこんな人が、うちのお母さんの弟なんだろう。どこも似てないのに。

 有成おじさんとお母さんは、あまり似ていなかった。
 うちのお母さんはものすごく几帳面な人なのに、おじさんは結構だらしない。家にいる時はよれよれのジャージ姿。ひげもちゃんと剃ってない。
 うちに来て何かするのかと思えばそうでもなくて、毎日お仏壇にお線香を上げて、お水を替えることくらい。それ以外は割といつもごろごろしている。
 たまに出掛ける時はちゃんと普通の服を着てるけど、ひげは無精ひげのまま。そして帰って来ればまた元通り、よれよれのジャージに着替えて、居間でテレビを見ている。ほとんど毎日見るくらい、お笑いの番組が好きらしかった。
 私はおじさんの何もかもが気に入らなかった。
 あのだらしないジャージ姿もそう、きれいには絶対見えない無精ひげもそう、たまに私を見る時の、何だか愉快そうな目もそう。
 それに何より、私はお笑い番組なんて見ない。ドラマや映画を見たい時でもおじさんが居間にいるから、見せて貰えないのが悔しかった。
「ほら、遥ちゃん」
 私の内心を知ってか知らずか、おじさんはテレビを見る時、必ず自分の隣の床を叩いて私を呼び寄せようとした。
「おじさんと一緒にテレビ見よう。面白いぞー」
 でも私は唇を尖がらせて横を向くことにしている。
 聞こえないふり。誰が一緒になんて見るもんか。チャンネルを変えてくれたら考えてもいいけど。
「遥、おじさんと仲良くしてあげなさい」
 こっちは、お母さんの声。呆れたようにも聞こえた。
「有成おじさんは遥に構って欲しくてしょうがないんだから」
「姉さん、その言い方だと俺が子どもみたいじゃないか」
「子どもじゃない。精神年齢はちょうどいいくらいでしょ」
 お母さんが言うと、おじさんは唇を尖らせて黙り込んだ。
 私と同じ表情をしてる。気付いて、私は慌てて口を結ぶ。
「まあ、皆でテレビを見るのもたまにはいいかな」
 取り成すように、普段は無口なお父さんが言った。
 それで結局毎日のように、私と、お父さんとお母さんと、それからおじさんとで居間でテレビを見ることになる。だけど、皆で見たってお笑い番組はやっぱり好きになれなかった。むかむかして、ちっとも面白くなんかない。
 早くおじさんが帰ってくれればいいのにと思っていた。


 おじさんがうちにいる間は、私も中学の春休み中。
 だから決して、憂鬱なことばかりやむかむかすることばかりじゃなかった。
 特に今日の私はうきうきしていた。塾の帰り、家へと向かう足が急いだ。
 だって知ってるんだ。今朝見たら、お仏壇に桜餅が上がっていた。しかも透明なパックの上に小豆色の包装紙が掛けられてた。あれは、『矢幡商店』の包装紙に間違いなかった。
 矢幡商店の和菓子はどれももれなく美味しい。
 中でも桜餅は最高に美味しい。
 あのお店が大好きだった。覗けばいつでもふんわり甘い香りがしていて、ショーケースに並んでいる和菓子はどれもきれいで美味しくて。お店番のお姉さんは美人だし、私の顔を見るといつもちょっとだけおまけしてくれる。あのお店の桜餅が家で待っていると思っただけで、私の足は弾んだ。

 帰り道はいつも市立公園の中を突っ切ることにしている。斜めに抜ければ家まで、すぐだから。
 市立公園は桜が満開で、風に乗って舞う花びらがひらひらときれいだった。綿菓子みたいに柔らかそうな桜の木々が、公園を覆うように並んでいる。
 芝生の上にシートを敷いて、お花見をしている人たちも何組か見かけた。皆とても楽しそう。
 露店が並んでいるのも見つけて、すごくいい匂いに鼻をくすぐられたけど、買い食いなんてしたらお母さんに怒られちゃうから我慢した。
 それに、家に帰れば桜餅があるんだもん。
 美味しくて甘い桜餅が。

「ただいまー!」
 私は家に飛び込むと、塾の鞄を部屋に放り込み、すぐさま洗面所に駆け込んだ。
 手を洗ってうがいをして、それからお仏壇のある部屋へ直行。
 かねを鳴らそうとお仏壇に手を伸ばして、――はっとした。
 桜餅が、なかった。
 ない。あんなに楽しみにしていた桜餅が、パックごとなくなっている。
 朝に見かけた矢幡商店の桜餅は影も形もなくなっていて、お仏壇はひっそりとしていた。
 そんなあ。
「遥ちゃん、どうした?」
 背後で、不意に有成おじさんの声がした。
 そう言えばおじさんは居間にいた。いつものよれよれジャージ姿で。何をしていたかまでは見なかった。興味もないし。
 私は呆然としたまま振り向いて、
「桜餅が……」
 と言い掛けた後で、初めておじさんの顔をまじまじと見る気になった。
 仏間の前に立つおじさんの薄い唇の横、無精ひげの辺りに、あんこが付いていた。
 それだけならまだしも、おじさんの右手には食べ掛けの、あと一口で食べ終えられそうなサイズになった桜餅。桜餅が!
「おじさん、それ」
 がくがくと声が震え出し、私はそっと尋ねた。
 ああ、と応じたおじさんは、手元の食べ掛け桜餅を見て、にやりとした。
「美味いよなあ、これ。仏壇に上がってるのを見掛けたら、つい懐かしくなって手が出た」
「……」
 食べたの。おじさんが?
 声が出ない私に、おじさんの笑顔がぼやけて映る。
「有成ったら、ひとりで全部食べちゃったのよね」
 居間で、お母さんの声もする。
 お母さん。私が桜餅好きなの知ってるのに、取っといてくれなかったの? 全部おじさんにあげちゃったの?
「矢幡商店のだろ。実はな、おじさんは矢幡商店の子と昔、同級生で――」
 おじさんが何か言ってる。それどころじゃない。
 無性に泣きたくなって、鼻の奥がつんとした。
 だけどやっぱり、泣くもんかと思い直した。おじさんの前でなんて泣くもんか。私、子どもじゃないんだから!
「楽しみに、してたのに」
 そう思っていたら、やけに低い声が出た。
 おじさんの口元から笑みが消えた。あんこはまだ残ってた。
「え?」
「桜餅、食べれると思って楽しみにしてたのに!」
 叫ぶが早いか、私はおじさんを突き飛ばすようにして仏間を出た。
 そのままの勢いで一気に階段を駆け上がる。
 涙は引いていた。代わりに、ぐつぐつ煮えるような怒りが沸いてきた。

 部屋に飛び込んでドアを閉める。
 勉強机の椅子に座ると、なぜだか妙に息が切れていた。
 だけど、――楽しみにしてたのに楽しみにしてたのに楽しみにしてたのに!
 あの桜餅が食べたいって思ってた。矢幡商店の桜餅。あれがあるから、塾の講習も頑張れるって思った。模試もむちゃくちゃ張り切った。いい成績とって、お母さんに誉めて貰いながら桜餅食べようって。なのに。
「遥ちゃん」
 いつの間に二階へ来たのか、おじさんの声がドアの前で聞こえた。
「悪かった。遥ちゃんも桜餅、好物だったんだってな」
 済まなさそうにする声。
 だけど私は聞こえないふりで、机にしがみ付いていた。
「悪気はなかったんだ。ほら、つい食べたくなって。それでふと気が付いたらいつの間にか最後の一個になってて……」
 言い訳なんて聞きたくなかった。
 そんなこと言って貰ったって桜餅が戻ってくる訳じゃないもん。おじさんが食べたいって思ったように、私だって食べたかったんだ。すっごーく食べたかったんだから。
 私がじっと黙っていたら、やがてドアの外では溜息がして、
「参ったなあ……」
 階段を下りて行く足音が響いた。
 知らない。おじさんなんて知らない。勝手に困っちゃえばいい。
 私は部屋の中でこっそり、唇を尖らせていた。
 その後すぐにドアの外で、
「遥、あんまり意地汚いこと言わないのよ」
 お母さんにも呼び掛けられたけど、たとえお母さんの言うことだって聞く気にはなれなかった。
 だって、本当に楽しみにしてたんだもん。
 本当に食べたくてしょうがなかったんだもん。

 ……どのくらい、経ってからだろうか。
 ドアをノックする音が響いて、私は思わず顔を上げた。
 机に突っ伏したまま、どうやら寝ちゃってたらしい。いつの間にやら部屋は薄暗く、窓の向こうではもう日が暮れかけていた。
 そしてドアをノックする音は続いている。
「おーい、遥ちゃん」
 おじさんの声も、した。
 部屋の中で私が身を硬くしたのは、もちろんおじさんからは見えなかっただろう。
「何」
 私は慎重に口を開いた。
 桜餅の一件は忘れてない。ちょっと寝てしまったせいか、さっきほどの怒りはなかったけど、むかむかする思いはまだ残っていた。
「中、入ってもいい?」
 聞かれたから、すぐに答える。
「やだ」
「ドア開けてもいい?」
「駄目」
「桜餅、買ってきたんだけどな」
「……」
 私は、黙った。
 ずっと黙っていたら、何も言わなくてもドアが開いて、
「まだ怒ってる?」
 おじさんがひょっこり顔を覗かせたから、思わず睨み付けてやった。
「開けてもいいって言ってないのに」
「ごめん。でも、これで手打ちにしてくれるとありがたいなあ」
 と言って、おじさんはドアの隙間からあの透明なパックと小豆色の包装紙をちらりと見せた。
 矢幡商店の、桜餅。
 あのいい匂いがここまで漂ってくるようで、途端に私はお腹が空いた。
「さっきはごめん」
 おじさんが眉毛を八の字にする。
 そういう顔をすると、お母さんの顔にちょっと似ていた。だからか、何とも言えない気持ちになった。
「久々に食べたんで、美味しくって、つい……」
 苦笑いを浮かべたおじさんの口元に、今は無精ひげがなかった。
「たくさん買ってきたから、遥ちゃん、好きなだけ食べていい」
 それに、格好もよれよれジャージじゃない。外まで買いに行ってきたから、だろう。わざわざ着替えて、ひげまで剃って、買い物に行ってきてくれたんだろうか。
 むかむかしていた気持ちが、ふと引っ込んだ。
 私は何だか困った気分にさえなって、視線を足元に落とす。
 するとドアに張り付くようにしていたおじさんが、
「食べるだろ?」
 と聞いてきたから、結局、ちょっと迷った後で言ってしまった。
「……食べる」
「そっか。よかった」
 有成おじさんがにんまり笑う。

 矢幡商店の桜餅は美味しかった。
 食べたかったものを食べたせいか、お腹が空いてしまっていたせいか、今日の桜餅はことのほか美味しかった。
 おじさんは私の部屋にすっかり入り込んでいた。床の、ラグマットの上に正座をして、私が机の前で桜餅を食べるのをじっと見守っていた。はっきり言って食べにくかった。でも構わず食べ続けた。美味しかったから。
 二個をぺろりと平らげ、三個目に手を伸ばした時だ。
「遥ちゃん」
 不意におじさんが私を呼んだ。
 私は三個目の桜餅を摘み上げたところで、ちらとおじさんに目をやった。
 蛍光灯の明かりが灯った部屋の中、おじさんは何か言いたげな笑みを浮かべている。
 物欲しそうな顔にも見えて、桜餅が食べたいのかな、と思う。散々食べたくせに。
「……食べたいの?」
 一応尋ねてみたら、おじさんは首を横に振った。ほっとした。
「俺はたっぷり食べたから、いい」
 そう言った後でおじさんは、私に向かって肩を竦めた。
「遥ちゃんは、おじさんのことが嫌いかな」
「え?」
 どきっとした。
 例えそう思ってても、嫌いだと本人の前で言えるほど、私は子どもじゃなかった。ついでに言えばさっきよりかは嫌いじゃなかった。ちょっとだけ。
 でも、好きじゃない。むかむかするし、無神経だって思う。それはまだまだ残ってる。好きじゃない。
「おじさんは遥ちゃんのこと、大好きなんだけどな」
 笑顔で言われても、困った。
 桜餅買ってきたから好きになれ、なんて言われたらどうしようか。食べちゃったものを返す訳にも行かないし。
 大体、あんまり会ったこともなかった姪っ子を、どうしたら好きになれるものなんだろう。
 それともこれ、社交辞令って奴?
 私は桜餅を手にしたまま、いろいろと考えていた。
 だけどおじさんは、私がいろいろと考えても考え付かなかったようなことを、
「実を言うと、な」
 声を潜めて口にした。
「おじさんは遥ちゃんの、命の恩人なんだよ」
「……嘘」
 思わず、声が出た。
 だって命の恩人って! そんな話、お父さんからもお母さんからも聞いたことない。私の命を救ってくれたのが、おじさんだってことなの?
「本当」
 含むように言って、おじさんは続ける。
「おじさんがいなかったらな、遥ちゃんはこの世に生まれてなかったんだ」
 何だか信じられない話だった。
 私の出生におじさんが係わっていたなんて、それこそお父さんからもお母さんからも聞いたことがなかった。
 手にしていた桜餅が指に引っ付いてきたので、私はそれを口の中に放り込んだ。
 おじさんはおかしそうに笑って、
「だから、ちょっとくらいはおじさんのこと、好きになってくれるとうれしいなあ」
 と言った。
 もしもおじさんが本当に命の恩人だったら。だとしても――好きになるかどうかはわかんない。恩を売られるみたいで、やっぱりむかむかするし。
 だけど、気になった。どんなドラマがあったのか、知りたいと思った。私の命の恩人だなんて、おじさんは一体、どんなすごいことをしてくれたんだろう?
 三個目の桜餅を味わって、飲み込んでしまってから、私は尋ねた。
「命の恩人って、具体的にどんな風に?」
 おじさんは唇の前に指を立てた。
「秘密。お父さんか、お母さんに聞いてごらん」
 そこまで言っといて秘密にする。おじさんは、ちょっとずるい。
 お蔭で私は、おじさんのことが気になってしょうがなくなってしまった。
 まだ好きって訳じゃないけど。


 有成おじさんが私にとってどんな恩人なのか、気になって仕方がなかった。
 だから私は、おじさんがいない隙を見計らって、お父さんやお母さんに聞いてみることにした。
 幸い、あの日以来おじさんはちょくちょく出掛けるようになっていて――最近は無精ひげをちゃんと剃ってきれいにしていた。そして帰りには、ついでだったからと言って桜餅を買ってきてくれた――、質問するチャンスはたくさんあった。
 お母さんはおじさんの言ったことを、
「命の恩人? さあ……何のことかしらねえ」
 首を傾げていたから、なんだ、おじさんの言葉は嘘だったんだと私は思った。
 だけどお父さんに聞いた時は、少し笑いながら、
「ああ、そうだね。有成おじさんは遥の命の恩人だ」
 と言っていて、何がなんだかわからなくなった。
「おじさんは、どんな風に恩人なの? どんなことをしてくれたの?」
 私が聞きたくなって更に尋ねると、お父さんはちょっとだけ困ったような顔になった。
 そして苦笑いしながら、
「おじさんに直接聞いてみた方がいいんじゃないかな」
「どうして? どうしてお父さんは教えてくれないの?」
 有成おじさんには、お父さんかお母さんに聞いてごらんって言われたのに。
 思わず私はむくれたけど、結局お父さんは困った顔で笑ったまま、詳しいことは教えてくれなかった。
 付け足すように、これだけ言った。
「でもね、遥。おじさんは本当に恩人なんだ。遥にとっても、お父さんにとってもね」
 ますます、わかんなくなった。
 私だけじゃなくて、お父さんにとっても恩人? じゃあお父さんの命も救ったってこと?
 一体、どんなことがあったんだろう。おじさんは何をしてくれたんだろう。きっと私が生まれる前のことに違いないと思うんだけど、後はちっともわからない。
 それきり、お父さんにもお母さんにも本当のことが聞けないままだった。
 おじさんに話し掛けるのはまだ抵抗があって、改めて尋ねることも出来なかった。

 そうこうしているうちに時間が過ぎて――。
 三月の終わり頃。おじさんが帰る前の日になってしまった。
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