Tiny garden

春の日のめぐりあわせ(2)

 塾の春期講習が終わると、私はいつものように市立公園を通り抜けて家に帰った。
 桜は満開の時期を過ぎて、もうあちこち散り始めている。夕暮れ時の公園には、名残を惜しむようにお花見している人たちや、露店に並ぶ人たちの姿を見かけた。日曜日だからとても人出が多かった。
 だけど私は足早にそこを通り過ぎることにした。
 今日はおじさんのいる最後の日だから、出来るだけ早く帰るようにと言われていたんだ。
 こないだの『命の恩人』についての疑問はまだ残ってる。でも、多分聞けないだろうと思った。気になるけど、聞いたら、おじさんのことを好きにならなきゃいけないような気がして。
 私はおじさんが嫌いじゃないけど、まだ、好きでもなかった。
 無精ひげがなくても、桜餅を買ってきて貰っても、命の恩人だったとしても。

「ただいまー」
 私が家に帰り着いた時、家の中は妙にしんとしていた。
 居間にいたのは有成おじさんひとりきりで、私の声を聞きつけたように振り向く。目が合って、にやりとされた。
「お帰り、遥ちゃん」
 そう、声を掛けられた。
 私は答えなかった。
 代わりに、そわそわする思いで家の中を見回した。他に人の気配はなくて、静まり返っている。
「お父さんとお母さん……は?」
 尋ねられる相手が他にいなかったから、私はおじさんに尋ねた。
 今日は日曜日だから、お父さんも家にいるはずだった。なのに姿が見えない。いつも家にいてくれるお母さんも、いない。
「ふたりでお出掛けしてるよ」
 おじさんが首を竦めた。
 そして立ち上がると、居間の戸口に立ち尽くしたままの私の前まで来て、
「だから遥ちゃん、今日の夕飯はおじさんとふたりで食べるんだ」
 ひょいと顔を覗き込みながら、言った。
 思わず半歩あとずさって、私はおじさんの言葉を繰り返す。
「おじさんとふたり?」
 そんなの、聞いてない。
 お父さんもお母さんもどこに行っちゃったのかな。私を置いて。しかも今日は、おじさんがうちにいる最後の日だって言うのに。どうしてよりによって、私とおじさんを置いてどっかに行っちゃったんだろう。
「嫌?」
 首を傾げたおじさんが聞いてきた。
「別に……」
 私は、こう言うしかなかった。嫌じゃないけど、うれしくもない。
 よかった、と有成おじさんは胸を撫で下ろす。
「じゃ、せっかくだから外に食べに行こう。おじさんが何でも奢っちゃるから」
 そう言えばおじさんはよれよれジャージじゃない普通の服装で、ひげも既に剃ってあった。
 おじさんと一緒にお出掛けなんて初めてのことで、私にはすごく、抵抗があったけど。
「何でも?」
「そ。遥ちゃん、何が食べたい?」
 困った。
 何が食べたいって言われても、わからない。だっておじさんがいくらお金を持ってるかなんて知らないし、あんまり高い物を言ったら悪い。かと言って、家にあるカップラーメンでいいなんて言ったらきっと失礼だろうし。
 私が答えに詰まっていると、おじさんは少し考えるように視線を上げた。
 ぐるりと巡らせた後で、何かを思い付いたらしくこう言ってみせた。
「それなら遥ちゃん、市立公園でお花見しようか」
「お花見……?」
「この時期公園の桜並木の傍に、ずらーっと露店が出てるだろ。そこで何でも食べたいもの、買ったげるよ」
 誘拐犯みたいな台詞だと思った。何でも買ってあげるから、なんて。
 でもその時私の頭の中には、塾の帰りに通り抜けた市立公園の風景がよみがえっていた。散り出した桜の並木、風に舞う淡いピンク色の花びら、お花見をする人たちの姿、ずらっと並んだ露店の数々。そして、桜の香りにも負けないような美味しそうな匂い。
 一気に思い出して、急にお腹が空いてきた。
「遥ちゃんは、露店の食べ物は好きかな」
 おじさんが笑っている。
「お好み焼きとか、焼きそばとか、たこ焼きとか。クレープやフランクフルトなんかもあったか」
「好き……だ、けど」
 全部好き。大好き。
 だけど私は、おずおず告げる。
「でも、お母さんは夜にそういうところに出掛けるのも、夜に脂っこいものを食べるのもいけないって言ってたから」
「そんなの、黙ってりゃわかんないって」
 いとも簡単におじさんが答えた。
 あんまりあっさり返されたので、びっくりした。おじさん、お母さんの弟なのに、そんなこと言っちゃっていいの? お母さんが駄目って言ったこと、しちゃってもいいの?
「それにさ」
 おじさんはジーンズのポケットに手を突っ込んで、身を屈めるようにして私に、言い聞かせた。
「たまに一日くらい、お母さんの言うことを聞かないで、身体に良くなさそうなものをたっぷり食べるのもいいもんだよ。そういう日も絶対、必要なんだ」
 そう、かな。そうなんだろうか。
 まだ迷っている私に、おじさんは器用に片目をつむってみせる。
「但し、あくまでも『たまに』な。とりあえず今日は特別だ、保護者も同伴するんだし」
「保護者って……誰?」
「おじさんのこと」
 胸板を叩くおじさんを見て、私もようやく気付いた。
 お父さんとお母さんがいないから、そっか、今はおじさんが私の保護者なんだ。
 だったらおじさんの言うこと、聞いた方がいいのかな。
 今日は特別。特別だから。

 私とおじさんは家に鍵を掛けて、市立公園へと向かった。
 日が沈む直前の公園は陽射しがほとんど射し込まないのに、公園を照らす街灯の光と、露店の行燈の灯りとでとても明るかった。
 柔らかい夜風が吹くと、木々がまだ残っていた花びらを散らす。唇に張り付いたら、桜餅の匂いがした。
「こないだ満開だと思ったら、もう散り始めてんのか。早いなあ」
 おじさんが桜の木々を見上げながら呟く。
 うん、本当に時間が経つのは早い。あっと言う間だった。
 おじさんがうちに来て、何だかむかむかして、早く帰ってくれないかなってずっと思っていたのに。
 気が付いたら、露店の食べ物につられて一緒にお花見へと出掛けている。桜の木々の下、ふたりで並んで歩いてる。
「遥ちゃん、何食べたい? 何でも言えよ。遠慮しなくていいぞ」
「えっと、じゃあ、アメリカンドッグ」
「よし来た。アメリカンドッグな。他には?」
「え、後は……お好み焼き」
「お好み焼きは広島風とそうでない奴があるみたいだな。どっちがいい?」
「私はどっちでもいいけど……」
「じゃ広島風にしよ。あ、待った。みそおでんと焼きそばも買うぞ」
 おじさんは次々と露店に足を運んで、食べたい物を買い込んで行く。
 出来立ての食べ物のパックは手に抱えると熱かった。私は買って貰ったものを落とさないように大事に抱えながら、おじさんの隣から離れないように歩いた。
 日曜日の夜とあって、市立公園はあまり混み合っていなかった。大学生っぽいグループを何組か見かけたけど、そのくらいだ。お酒を飲んでいる人もそんなにいなくて、静かな夜になった。
 買い物を済ませると、私たちは桜並木の片隅、芝生の上に腰を下ろして食事を始めた。敷き物を持ってくるのを忘れた、と思ったけど、おじさんが何も気にせず座ってしまったから、私も構わないことにした。
 すっかり日が落ちて、空にはもう月が浮かんでいる。ぼんやりとした朧月。
 それよりも強い水銀灯の明かりの下で、枝葉を広げた桜の木がひらひら、花びらを散らしている。
 風が吹いていたけど、露店で買った食べ物が温かかったから、寒さはちっとも感じなかった。
「夜の花見も風流だなあ」
 みそおでんをぱくつきながら、おじさんが言った。
 口元に味噌が付いてる。私はそれを横目で見てから、アメリカンドッグにかじり付く。
「花、見てないよ。食べてばっかりなのに、それでも花見?」
「そうだよ。細かいことは気にしない」
 おじさんはきっぱりと言い切ると、にやりと笑ってみせた。
「何だったらピクニックってことにしてもいいんだ。楽しけりゃそれでいいのさ」
「ふうん」
 私は短く、それだけ答えた。
 一緒に楽しんでる、って思われるのが、嫌だったからかもしれない。
 もちろん、楽しくなかった訳じゃないけど。夜にふらふら出歩いて、脂っこいものをたくさん食べて、桜の木や空の月をぼんやり眺めるふりをしているのは楽しかったけど。おじさんが隣にいて、結構楽しかったけど。
 それを認めてしまったら、寂しくなるから。
 おじさんは明日には遠くの街に帰っちゃう。今までずっとうんざりしてたのに、最後の最後になって寂しく感じるなんて、嫌だから。
「遥ちゃん」
 不意に、おじさんが私を呼んだ。
 膝を抱えた体育座りのおじさんは、今度はわたあめを食べ始めていた。
 私がそちらを向くと目が合って、優しい笑い方をする。
「こないだの話、お父さんたちに聞いてみた?」
「こないだ? ……『命の恩人』って話のこと?」
「そう」
 おじさんが顎を引いたので、私は少しためらってから、正直に言った。
「お父さんに聞いたけど、教えて貰えなかった」
「へえ。どうして?」
「何か、お父さんはおじさんに聞いて、って言ってたよ」
「はは、そっか」
 どうしてか、おじさんはそこで笑った。
 そして私に向かって、
「お母さんは知らないって言ってただろ?」
 と尋ねてきたから、私はびっくりした。
「何で知ってるの?」
「さっき聞いた。姉さん……お母さんが、すっかり忘れてたってさ」
 おじさんはもう一度笑って、
「遥ちゃんは今日が何の日か、知ってるかな」
「今日……?」
 今日は、何の日?
 三月、最後の日曜日。他に、何か意味があったかな。
 お父さんとお母さんがどこかへ出掛けてしまった日。私がおじさんとお花見っぽいことをしている日。おじさんのことを、そんなに嫌いじゃなくなってる日――だけどもちろん、そういうことじゃないはずだった。
 私はすぐには思い当たらず、食べ終えたアメリカンドッグの串をかじり続けた。
「わかんないか」
 首を竦めたおじさんが、ふと視線を上げた。
 ぼんやりした月を見上げる。
「大したことじゃないんだけどな。まあ、命の恩人ってのは大袈裟だったかもな」
「え?」
 私が聞き返したのは聞こえなかった様子で、おじさんは、今度は焼きそばのパックに手を伸ばす。
 歯を使って割り箸を割ると、焼きそばを食べながら続けた。
「昔話になるんだけどさ。昔、俺がまだ中学生――そう、ちょうど遥ちゃんくらいだった頃のこと。その時にはもう両親、遥ちゃんから見ておじいちゃん、おばあちゃんになる人たちは亡くなってて、俺の家族は姉さんだけだったんだ」
 お母さんからは何度も聞かされた話。
 うちのお仏壇に、おじいちゃんとおばあちゃんはいる。おじさんとたったふたりで暮らしていた頃のことを、お母さんはよく話してくれた。
 だけどおじさんの口から聞くと、不思議と新鮮に感じた。
「姉さんはその頃既に働きに出てて、俺もバイトはしてたけど、やっぱり姉さんの稼ぎが支えだった」
 親のいない生活なんて考えられない私には、話に聞いたって想像も出来ない。
 それって、やっぱり大変だったんじゃないかなって思う。
「中三になって、高校進学を考える時期に来た時も、俺は悩んだ。家のことを考えたら進学なんてしない方がいいんじゃないかって思ってた。……そんな時だ、姉さんに、お見合いの話が舞い込んだのは」
「お見合い?」
 予想外の単語が飛び出してきたので、思わず首を竦める。
「そう。それも、とっときのいい話だった。姉さんの勤め先の社長さんが、是非うちの息子の嫁にって言い出して来たんだからな」
「へえ……」
「遥ちゃんのお母さんは、昔は美人だったんだ。昔はな」
 おじさんはやたらと過去形であることを強調した。
 私は思わず笑ってしまったけど、内心では少しどきどきしていた。
 だってうちのお父さんは、社長さんの息子じゃなかったから。
 お父さんの方のおじいちゃんは漁師さんだ。社長さんじゃない。
「姉さんは、ほとんど乗り気だったみたいだ」
 そう言っておじさんは、割り箸の先を噛んだ。
 唇を尖らせた表情で続ける。
「俺が上の学校に行きたがってるのも知ってたから、余計に。いいとこに嫁に行けば、俺にも楽がさせられると思ってたみたいだ。社長さんもその息子さんも悪い人じゃなかったらしいし、姉さんはすっかり嫁に行く気でいた」
「うん……」
「けど、やっぱ、惚れるほどの相手じゃなかったんだろうな。俺は一度、どうしても聞きたくなって、姉さんに聞いたんだ。本当にいいのかって。本当に好きな奴と一緒にならないで、後で悔やんだりしないのかって」
 また焼きそばを食べ始めたおじさんが、ぽつりと付け加える。
「だってそうだろ。出来るなら、本当に好きな奴と結婚した方が幸せになれるに決まってる」
 その言葉に私は、黙って頷いた。
 結婚なんて私にはまだ遠い話だ。だけど、もしするなら本当に好きな人と一緒の方がいいと思う。
 そうじゃない人たちもいるだろうし、そうじゃない結婚って言うのもあるものなのかもしれないけど、でも少なくとも、お母さんの結婚相手はお父さんじゃなくちゃいけなかった。絶対に。
「俺だって姉さんには幸せになって欲しかった。だから、聞いたんだ」
「……それで、お母さんは何て答えたの」
 思わず口を挟んだ私に、おじさんはにやっとして、
「本当は他に好きな人がいる、って言ったよ」
「お父さんのこと」
「そう」
 おじさんが頷いてくれたからほっとした。
 お父さんとお母さんは、それで結婚したんだ。おじさんの一言があったから、本当に好きな人と結婚出来たんだ。
「まあ、お見合いの話はそれで流れたんだけど、苦労もしたな。結局俺は夜学で高校出たし、姉さんも義兄さん――遥ちゃんのお父さんと結婚するまでは必死で働く羽目になった。だけどお蔭で、誰も後悔してない未来になった」
 はらりと、桜の花びらが落ちてきた。
 それが有成おじさんの肩に乗った時、おじさんは笑って言った。
「さて、遥ちゃん。今日が何の日か、わかったかな」
 私は唇を結んで、少し、考えた。
 何となくひとつ心当たりがあった。そう言えば、あれは毎年三月の終わり頃だった。そして今日、お父さんとお母さんは連れ立ってお出掛けしている。
 と言うことは。
「お父さんとお母さんの、結婚記念日」
 口にした答えは、正解だったみたいだ。
 おじさんが目を細める。
「正解」

 そっか。今日は結婚記念日。
 お父さんとお母さんが、本当に好きな人と結婚出来た日。
 有成おじさんの一言があって、だからこそ記念日と、そして今があるんだ。

「おじさんはやっぱり、命の恩人だね」
 私は心からそう思って、言った。
 途端におじさんはすごくうれしそうな顔になって、
「そう思うだろ?」
 と聞き返してきた。
「うん、思う。私の恩人だし、お父さんの恩人」
「だよな。そうなんだ。その通りなんだよ」
 しきりに繰り返したおじさんはその後で、そっと私の顔を覗き込むようにした。
「で、遥ちゃん。おじさんのこと、ちょっとは好きになってくれたかな」
 私はまばたきをした。
 ひげをちゃんと剃ってあるおじさんの顔を間近で見て、あ、お母さんに似てるかも、と思う。
 多分、嫌いじゃない。
 嫌いになんて、もうなれない。
 だって私の命の恩人だし、お父さんとお母さんのキューピッドだもん。
 でも口ではこう答えた。
「うーん、ちょっとは好き」
「ちょっとかあ」
 おじさんはがっかりしたような声を立てると、芝生の上にごろりと寝転んだ。
 ちょっとは、って自分で言ったくせに。変なの。
 でも、すっごく好きって言ったらきっと照れるから、いいんだ。


 お花見のような、ピクニックのような夜を楽しんだ次の日、おじさんは遠くの街へと帰っていった。
 駅までお見送りした私に、おじさんはにやっとしながらこう言った。
「遥ちゃん、寂しいって泣くなよ」
 だから私は意地でも泣かなかった。


 そしてそれからしばらく経って。
 春が終わり、夏と秋と冬が過ぎ、また新しい春がやってきた頃、有成おじさんから連絡があった。
 おじさんが結婚することになったっていう、知らせだった。
 相手を聞いて、私もお父さんもお母さんもびっくりした。
 矢幡商店のお姉さん。あの桜餅の美味しいお店の、お店番のきれいなお姉さんだった。
 何でも有成おじさんとお姉さんとは定時制高校の同級生だったそうだ。おじさんがうちのお仏壇にあった桜餅を食べてしまったあの日、私の為に桜餅を買いに行って、そこで再会したんだとか。一年の遠距離恋愛を乗り越えて、今年の春、結婚することになったらしい。本当に、ドラマみたいだって思った。
 式は挙げないと言っていたけど写真は撮って、送ってくれた。
 ウェディングドレスを着て一際きれいになったお姉さんの横で、ものすごく硬い笑顔を浮かべている正装のおじさんを見た時、私は笑い出さずにはいられなかった。
「遥、笑ったら失礼よ」
 お母さんはそう言って私をたしなめたけど、写真を見たらお母さんもちょっと笑った。
「今度は、遥がおじさんの恩人ってことになるのかな」
 お父さんの言葉に、私は照れた。桜餅のことで駄々を捏ねただけなのに、恩人なんて言うのはちょっと、ね。
 でももしおじさんのところに子どもが生まれたら、その子と仲良くなりたいって思う。
 もしもその時上手くいかなかったら、やっぱり『恩人なんだよ』って言っちゃうかもしれないな。
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