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化学同好会の連絡網(4)

 もう少し話したいと言った割に、大地はずっと黙っている。
 どういうわけか、かれこれ二、三分くらいは会話がないままだった。
 私も大地と話をするのに、間が持たないとか、沈黙が辛いなんてことは思ったりしない。けどそれはあくまで二人でいる時であって、電話でこうして黙られると別の意味で心配になる。電波が通じなくなったんじゃないかとか、寝落ちしちゃったんじゃないかとか、よっぽど言いにくいことでもあるのかな、とか。
 私の部屋の東向きの窓からは、真向かいに立つ大地の家がよく見える。カーテンを開けて網戸越しに見下ろせば、一階南側の大地の部屋にはちゃんと明かりが点いていた。部屋にいるのは間違いないみたい。
 それを確かめてから、まず尋ねた。
「起きてる?」
『寝てねえよ』
 意外にも即答された。
 電波は悪くないし、寝落ちじゃないこともわかった。一安心だ。
「でも、全然喋んないから」
『いいだろ別に』
 大地はどこか拗ねたように言う。
 それから、溜息混じりに続けた。
『電話代気になるんならこっちからかけ直す』
「そういうことじゃないんだけど……」
『じゃあ何だよ』
「何って言うか。私はいいんだけど」
 てっきり、重要な相談事でもあるのかと思った。話したいって言った時の声、ちょっと切実な感じだったし、もしかして悩んでることでもあるのかなって。それだったらいくらでも話を聞く用意がある。
 大地の悩みについての心当たりは――思い浮かぶのはやっぱり、テストのことかな。
 六月頭にあった中間試験は『俺史上最悪の出来だった』と言ってた。その直前の四月、五月にいろいろ、それはもう今まで当たり前だと思っていた常識を覆されるような騒動が次々に起きてしまったから、結果がよくないのもしょうがなかったと思う。だから、大地のおじさんもおばさんもあんまり怒らずにいてくれたんだけど。
 あれから少しの月日が経って、最近の大地は落ち着いているように見える。でも見えるだけで、内心ではまだ動揺していたっておかしくない。もし、そのせいで勉強に身が入らないならかわいそうだ。
 網戸の閉まった窓からは夜空もよく見えた。幽谷町は高い建物があんまりないから、二階からでも広い空が見上げられる。今日は雲一つない晴れ模様で、丸い満月が冴え冴えと光り、眩しいくらいだった。
 悩んでるってわけじゃないのかな。
『任すから、何か喋って』
 それでも大地の声は明るくなく、そんな風にせがまれて私は戸惑う。
「ま、任すって、急に言われても……」
『何でもいいよ。お前の話、聞くから』
 お願いされたらむげにもできないし、とりあえず言う通りにしてあげようと話題を探してみる。
 もっとも、大地とはほとんど毎日顔を合わせてるから、この期に及んで話してないような、目新しい話題なんてものはない。なので無難に世間話から入ることにした。
「テスト勉強できてる?」
 私の問いの後で数秒間、時が止まったような沈黙があって、
『……微妙』
「あんまり進んでないとか?」
『いや、お前の話題のチョイスが微妙』
「何それ。任すって言っといて!」
 話題を出したら出したでそう言うんだ。何でもいいって言ってたくせに、その評価は酷い。私はむくれたけど、大地はそれがおかしかったみたいで軽く笑った。
『もうちょい何かあるだろ。よりによってテストの話とかねえわ』
「でも大事なことじゃん。どうしてるかなって、私、気にしてたし」
 いつだって心配してるんだけどな。そういうつもりで言い返す。
 それはどうやら電話の向こうにも伝わったみたいだ。後ろめたそうに言われた。
『あ……悪い。心配してくれてんだよな』
「いつもしてるよ」
『そうだった、ごめんな。勉強は、まあ頑張る』
 これからやります、的な言い方だった。
 でも、やりたくないとか手につかないって感じじゃないだけよかった。一時期は授業どころじゃないって日もあったくらいだから、好転した方だろう。
「そっか。てっきり、勉強に身が入らないのかなって思ってた」
『……それも多少はあるけどな』
 やっぱり、そうだよね。それも当たり前のことだ。
 私だって時々、一人でいる時にはぼんやり考えてしまう。大地が人間じゃないだなんて思いもしなかったし、それを知ってから立て続けに起こった不思議な出来事の数々は忘れがたい。でもそういうことがあっても、妖怪が住んでいるこの町はいつだって田舎らしく静かで平和だ。妖怪の存在を知った今でも、大地や、同好会の皆と過ごす日々は本当にごくごく普通の日常ばかりだった。
 だから私の中でも、正直、まだ折り合いがついていないって言うか。不思議なことも呑み込めてないこともいっぱいあるけど、そういうのをひとまず脇に置いといて毎日過ごしている感じだった。幸い今は大地といるのも、部活動だって楽しいし、不満があるわけではないんだけどね。
 世の中にはわからないこと、知らないことがたくさんあるなって、途方もなく思うだけだった。
『何だか考えること多すぎてさ、勉強どころじゃねえよってたまに思う。うちの親も、勉強させんだったら余計な悩み持ってくんなって話だよな。誰の雷のせいだよって』
 大地は至って明るく話してはいたけど、大地自身も折り合いはつけられていないんだろう。それも当然の話だし、私はそういう大地の為に、何かしてあげられないかなって考える。
『もっとも悩みはそれだけじゃねえし。そっちは近いうちに片してくつもりでいるけどな』
「他の悩みって? ……進路とか?」
『内緒。今言ったら、別の意味で勉強どころじゃなくなる』
 ……どういう意味だろう。
 でも、大地は私よりずっとしっかりしてるから、どんな難しい悩みでもそのうち本当に解決しちゃうんじゃないかって思う。私にできることは結局、こうして傍にいることくらいなのかもしれない。
 それと、いつでも気にしてるよって伝えておくこと。
「大地、今は部屋にいるんだね」
 窓から明かりの点る部屋を見下ろしつつ、私はそう言ってみた。
『そりゃいるよ。居間でこんな話できねえよ』
 どことなく怪訝そうに大地が答える。何でそんなこと聞くんだって言いたげだった。
 私はいたずらを仕掛ける気分になって続ける。
「だって、見えるもん。私の部屋から」
『……は?』
「大地の部屋、電気点いてるのが」
 その時、息を呑むのが聞こえたような気がした。
 そして椅子が軋むような金属音の直後、どたばた急ぐ足音がして、見下ろしていた一階南側の窓が開く。すぐ耳元に聞こえたがらりという音とほぼ同時に、室内の光を背負った人影が窓辺に現われた。ここからだと顔はよく見えなくて、でも影の形だけでも誰だかわかる。
『覗くなよ』
 こっちを見上げながら、電話で大地が文句を言う。
「部屋の中までは覗いてないよ。って言うか、見えないよ」
『でもこっち見てんだろ。しかも、何か見下ろされてるし』
「それは仕方ないよ、私の部屋、二階だから」
『もしかしてずっと見てたのか? むかつくな……』
 むかつくと言う割に、大地の声は怒っているようには聞こえなかった。じっとこっちを見上げているのが姿勢でわかる。
 空だって、よく晴れたいい月夜だ。夏の夜の匂いがする。
「こんなに近くにいるのに、電話してるのも変な感じだね」
 言いながら手を振ってみる。大地は、ぎくしゃく片手を上げる。
『まあ……な。けど、話せる距離でもねえな』
「そうだね。ここから話しかけたら近所迷惑になっちゃう」
『顔もよく見れねえしな。こうして見ると、意外に遠いな』
 距離にしたらどのくらいなんだろう。私の家と大地の家の間にある路地は、道幅三メートルってとこだから、遠いという表現はちょっと変かもしれない。だけど今は高低差があるせいか、暗くて顔も見えないせいか、確かにやけに遠く感じる。
『お前の顔、見たくなってきた』
 こっちを見ながら大地が、ぽつりと言う。この距離から言われるのも不思議な感じがする。
「明日も学校だし、すぐ会えるよ。また迎えに行くから」
『そうだけど。そこでちょっと出てくるとか、そういう可愛げはねえのかよ』
「時間が時間だから……コンビニ行くって言ったら誤魔化せるかもだけど、もう店閉まる頃だし微妙かな」
 うちの親は夜の外出に寛容じゃないから、正直コンビニでも通用するかどうかってところだ。まして大地に会いに行ってくるなんて言ったら、きっと苦笑しながら『明日にしたらどう?』の一言で終わりだと思う。
 それに昔と違い、私たちは毎日顔を合わせてるし、話だってしてる。明日になればちゃんと会えるし、一緒にいられる。そういうのが五月から今日までずっと続いて、これからだってもちろんずっと続いていくんだから。
『しょうがねえな、連絡網もあるし、明日でいいや』
 大地もわかってくれてると見えて、割とあっさり引き下がる。
「うん。虫入るし、そろそろ窓閉めた方いいよ」
『そうだな。刺されたらそれこそ勉強手につかなくなる』
 言いながら、大地が窓を閉めようと手をかけたのが動きでわかった。でも顔はまだこっちを向いてる。私の方を見ている。
『もう既に……って感じではあるけどな』
「え? もう蚊が入っちゃった?」
『いや、別に。また明日な、萩子』
 からからと窓を締めながら大地は言って、ほどなくして電話も切れた。
 私の部屋の窓からは人影のなくなった窓辺が見える。夜の景色の中でほんのり点った明かりが、無性に寂しく感じられた。
 明日も会えるからって思いたいのは、私の方なのかもしれないな。

 大地と思いのほか長電話をしてしまった。
 気づけば時刻は夜の十時を回ったところだ。黒川さんはまだ寝てないだろうけど、もしかしたら勉強に集中してる頃合かもしれない。お邪魔じゃないといいな、と思いつつ電話をかけてみる。
 すると、
「……あれ」
 お話し中だった。
 五分置いてからかけ直してみたけどやはり繋がらず、仕方ないのでもう少し後でかけてみることにする。
 黒川さん、お友達とお喋りしてるのかな?
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