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全てで恋をする(5)

 外は雨が降り続いている。
 空を覆う雲のせいで俺たちがいる部屋は薄暗く、今が何時か見失いそうになるほどだった。
 その曖昧さが、俺を様々な過去の記憶へ引き戻す。文芸部で彼女と共に過ごしたいくつもの放課後、彼女を初めてこの部屋へ連れてきた去年の雨の日、考えを改めざるを得なくなった今年の六月の雨の日。そして――。
 
「前にも尋ねていたはずだ。俺が、お前の考えるような理想的な人間ではなかったら、お前はどう思うのかと。失望はしないかと」
 もう失うものもない。俺は胸の内を洗いざらい吐き出した。
「だがお前はよくわかっていないようだったし、俺を買いかぶって無闇に尊敬している様子も窺えた。それなら俺は、お前にとって理想的な人間であらねばならないと思い、なるべくそう振る舞ってきたつもりだ」
 雛子は黙っている。顔を見る気は持てなかったが、身動ぎもせずそこにいることだけはわかっていた。
 彼女が語った理想は恐らくどんな人間にとっても理想であるに違いなく、それは俺も同じだった。高潔で、ストイックで、生真面目。そういう人間になれていたなら俺は、誰に恥じることもなく堂々としていられただろう。
 だが現実は理想とは程遠く、俺は彼女の理想通りには生きられなかった。浅ましく、欲深く、ともすれば道を踏み外しそうになる弱い人間。それが現在の俺だ。
「俺も……」
 息が切れたように声がかすれた。自然と手が震えてきて、それを抑える為にパーカーの胸元を握り締めた。どこかに縋っていなければ、絶望に押し潰されそうだった。
「俺だって、そうすべきだと思ってきた。お前を失いたくないのなら、馬鹿な考えは持つべきじゃないとわかっていた。あんなもの、どうにか誤魔化して、やり過ごしてしまえる程度の感情だと思っていた……見くびっていたのかもしれない」
 何度も同じ失敗を繰り返した。感情は御すことができるものだと思っていた。俺は自分自身の感情に対して傲慢になり、手痛いしっぺ返しを食らったのだ。
 だが、弁解しておきたいこともある。俺はずっと自分の感情を、完璧ではないにせよ制御してきたつもりでいたのだ。小さな頃から、何か欲しいものがあっても他人には決してねだらなかった。母親が俺の前から去っていった時も、父から家を出て行くよう言われた時も、澄江さんが俺を家族ではないと言った時も、孤独に耐えかねた末の真っ当な欲求として友人が欲しいと、せめて話し相手が欲しいと思った時でさえ――俺は誰にも、何もねだらなかった。そうしたところで叶うものではないとわかっていたせいかもしれない。誰にも、何も求めず、欲さずに生きてきたつもりだった。
 その生き方を彼女に対しても徹底できればよかったのに、彼女が近しい存在となるにつれて彼女が欲しくなった。他の誰に対するよりも貪欲で、底のない欲求が俺の中で次々と生まれていった。その根源から断ち切ってしまわぬ限り、俺はきっと、いつまで経っても彼女の理想に見合う人間にはなれないだろう。
「いっそ、なくなってしまえばいいのに。この身体がなくても、お前を想い、慈しむことはできるだろうに」
 彼女を想う心だけが残るのなら、他には何もなくていい。
 この身をなげうってもいい。
 せめて、俺に幸いをくれた彼女を、誰より深く慈しむ生き方をしたかった。
 そこまで語ると、後はもう言葉も、気力も尽きてしまった。絶え間なく押し寄せてくる絶望感に自尊心や気概はひしゃげてしまい、その辺りへ打ち捨てられていた。しかしここまで来ても尚、不要なはずの身体は呼吸をし、鼓動を繰り返している。もはやその動きさえ鬱陶しく、嫌悪感すら覚えた。

 唐突に、床の軋む音がした。
 雛子が立ち上がったのだ。長い間座っていたとは思えないほど軽い動作でその場に立ち、すぐに迷わずこちらへ近づいてきた。座卓の上にティーカップを、わざと離して置いたせいで、俺たちの間には長らく一メートル以上の距離が存在していた。だが彼女はその距離をたった数歩の移動で詰めてきた。そして一連の動作を見守る俺のすぐ目の前、真正面の位置に行儀よく座った。
 正対する位置から、彼女は俺を見ていた。部屋の中が薄暗いせいか彼女の顔色はいつも以上に白く、しかしレンズ越しに覗く瞳は深い黒色をしていた。弱々しい日の光さえ届かない俺の影の中で、彼女はその瞳をうっすらと潤ませ、微かな光を揺らしている。俺は彼女が泣き出すのではないかと身構えたが、予想に反して彼女は、口元に微笑みを浮かべた。
 いつも通りの控えめな、何かを考えている時の、彼女らしい微笑だった。
「じゃあ次にそう思った時は、私にも聞いてみてください」
 彼女の声を、随分久々に聞いたような気がした。
「私の気持ちも尋ねてください、先輩。そうしたら、そんなに悩む必要がないってわかります」
 雨音よりも静かで、優しく、耳や心に染みとおる声だった。
 だが、その声がいかに心地いいものであろうと、声が表した言葉そのものをすぐに受け入れられるわけではない。
 俺は雛子を見た。雛子も俺を見ていたが、眼差しはきっと彼女の方が強いだろう。柔らかい微笑みとは対照的に、彼女は決然と俺を見つめていた。緊張を湛えて揺れる瞳は、しかしこの時、わずかなりとも逸らされることはなかった。
 とっさに俺は、彼女の先の発言を、彼女らしい優しさから来るものだと理解した。そうとしか思えなかった。
「何を……」
 それで、咎める言葉が何よりも早く口をついて出た。
「お前は自分が何を言っているのか、わかっているのか」
 俺が尋ねると、雛子は目を逸らさないまま深く頷く。
「はい」
 いやにきっぱりと答えてみせたが、にわかには信じがたい。俺はかぶりを振り、
「馬鹿なことを言うな。お前はまだ十七、いや十八の子供じゃないか」
 言いながら、今日が彼女の誕生日であったことを思い出す。その話すら長い回り道の途中でどこか遠くへ置いてきてしまった。だが今、俺たちはどこにいる。何の話をしているのだろう。
「十八歳は先輩が思うほど子供じゃありません」
 ちょうど今日、十八歳になった雛子が、むきになったように言い返してきた。
「先輩が十八の時よりは、今の私は子供っぽいかもしれませんけど……だからって何にも知らないわけじゃありません。何も考えてないわけでもありません」
 それなら彼女は何を知っていると言うのだろう。何を考えているのだろう。
 ふと我に返る。俺はそんなことさえ、今の今まで知らずにいる。
「先輩にはそんなことで悩んで欲しくないんです」
 雛子は俺を諌めるような調子で言い募る。
「私も同じ気持ちだってこと、知って欲しいんです」
 そう告げられた時は、さすがに面食らった。優しさからだといっても、口にしていいことと悪いことがある。これは十八歳の少女が軽々しく口にしていいことではない。
 もちろん、雛子の口調は決して軽々しくはなかったのだが――それどころか端々から迷いのなさが窺えて、かえって俺が戸惑うくらいだった。
「同じだと……お前、ちゃんと状況を理解した上で言っているのか」
 俺が何度確かめても、彼女は深く頷いてみせた。
「もちろんです、先輩」
「まさか。お前がそんなことを考えているようには見えなかった」
 ここまで来ても俺は、自ら口にした『そんなこと』について、彼女が間違った認識を持っているのではないかと思っていた。そうでなければ雛子が、ここまではっきり言うはずがない。
 彼女のことを、俺はずっと子供だと思っていたのだ。たかだか十七歳、俺より二年も遅れてようやく高校三年生になったような子供だと。
 だが十八になったばかりの彼女は、俺の目の前でいつになく潔い物言いをする彼女は、子供には見えなかった。
「そんなのはお互い様です。言わなきゃわからないものなんです」
 雛子は真理を説くような口ぶりで言い放った後、表情にちらりと不安の影を過ぎらせた。
「軽蔑しますか、私のこと」
 その表情と問いかけが胸に鋭く突き刺さる。
 同じ不安を、俺も長いことこの胸の内に抱え込んでいた。彼女に軽蔑されることを恐れるあまり、俺は自分自身を嫌悪し、制御の利かない感情と欲求に絶望すら抱いていた。
 だが雛子にはそういった不安や恐れや絶望を持っていて欲しくなかった。彼女はそれらから一番遠い、幸いの中にだけ留まっているべきだ。
「まさか。だが……」
 俺は彼女の懸念を否定したが、同時に喉の渇きも覚えていた。
 十月だというのに、部屋の中がいやに暑い。全身に汗を掻いている。長袖のパーカーが暑苦しくて仕方なく、いっそ雨に当たって頭を冷やすべきではないかと思い始める。
「そこまで言うなら、どんな目に遭うか知らないわけじゃないだろうが、もし俺を庇う気で言っているなら止めておけ。俺はお前を犠牲にしたいとは思わない」
 彼女が、自身の言うようにそういった事象をある程度理解しているとしてもだ。
 他人に対する同情心や優しさから相手を許容するのは、決して正しいことではない。だからもし雛子がそういうつもりでいるのなら、俺は彼女を叱らなくてはならない。それでなくても先程から彼女の考え方は浅薄というか、軽はずみというか、あまりにも単純すぎるように感じられていた。
 だが俺の心配もどこ吹く風で、その時雛子は笑った。ちょうど普段、俺を気まぐれにからかってみせる時のように、おかしそうに。
「笑い事じゃない。お前の為を思って言ってるんだ」
 俺は眉を顰めたが、雛子はそれが心外だというように、寂しげに笑んだ。
「私の為だと言うなら、少しは私の気持ちも考えてください」
 瞬間、心が激しく揺さぶられたようだった。
 雛子の気持ちは、俺もいつだって考えてきたつもりだ。彼女の為になることだけをしようと思い、彼女の理想に違わぬ模範的な生き方を目指していた。それが雛子自身の望みだと、ずっと思っていたからだ。
 だが――そうだ。俺は彼女の気持ちをわかっているつもりでいた。
 だからこそ、直接尋ねたことはなかった。
 いや、何度となく尋ねた。例えば二年前の十二月に。それから一年前の六月にも、彼女自身にその本心を聞き、そのやり取りのせいで俺たちは今のような回り道をしながらも、共に寄り添いあって生きるような恋ができるようになったのだ。
 しかし俺はいつからか、その努力を怠るようになっていた。
 彼女のことなら何でもわかっている気になっていたのだろう。これほど身近な人間を得て、その彼女と長い時間を過ごしてきて――俺は何よりも雛子自身を見くびっていたのかもしれない。出会ってから月日も経ち、俺はすっかり変わってしまったのに、彼女のことは相変わらず勘の鈍い子供だと思っていた。
 俺はこの期に及んで、たった一人で生きている気になっていたのだ。
 本当は、彼女もずっと共にいたのに。同じ時を生き、同じように年齢を重ねてきちんと成長していたのに。
「わかってもらえるまで何度だって言います。私は、先輩と同じ気持ちなんです」
 そう繰り返す雛子は、出会った頃と何ら変わらないように見える。
 だが銀フレームの眼鏡の奥にある瞳は潤んだまま、切実そうに揺れて俺を見上げていた。その瞳を縁取る長い睫毛はしっとりと濡れ、微かに震えている。テンプルを支える小さな耳は薄暗い中でもはっきりとわかるほど赤みを帯びていて、そのすぐ傍にある白く柔らかい頬も今は真っ赤に上気していた。
 彼女はいつしか、驚くほどきれいになったようだ。
 出会った頃よりもずっと可愛らしく、あの頃まとっていた潔癖そうな文学少女の皮を脱ぎ捨てた代わりに、女らしいほんのりとした色気を身につけたように思う。
 それも俺の為だと、思っていいのだろうか。
「い、いいじゃないですか。本当に好きな人には、そう思ったって……」
 雛子は今頃になって気恥ずかしくなったのだろう。早口になって、どきっとするようなことを言った。
「誰にでもそう思うっていうなら問題ありますけど、私の場合は、先輩だけですから」
 そうだろうか。彼女の言うことには果たして本当に問題などないのだろうか。本当に、正しいことだと言い切れるのか、俺は未だに自信がなかった。
 しかし恋愛において正道が存在していたとして、俺はそれを間違いなく理解していると言えるだろうか。正しくありたいという思いに雁字搦めになった挙句、彼女に軽蔑されないよう振る舞おうとしていた俺に、何が正しいと言えるだろう。
 そのくらいなら俺は、彼女の幸いだけを考え、願い、そしてその為に尽くすべきだろう。
 もちろん彼女の幸いは俺が勝手に思い込んで定めたものではない。彼女自身が嘘偽りなく語ったこと、それだけが全てだ。
 しばらくの間、俺は黙って雛子を見つめた。彼女はすっかり恥じ入ってしまって、目を逸らすことこそないものの逸らしたがっているように瞬きを繰り返していた。頬は触れたら熱がうつりそうなほど赤く、薄く開いた唇は苦しげな呼吸を続けている。ただ言いたいことは全て言ってしまったのだろう、俺の反応を待っているようにも見えた。

 俺は雛子を見つめながら、彼女がくれた数々の言葉を振り返る。
 あの夜、八月の旅行の最中に俺がしでかした狼藉すら、彼女は嬉しかったと言ってくれた。
 それは彼女の優しさでも、同情でもなく、間違いなく本心なのだろう。正直まだ信じがたい気持ちはあるのだが、疑う余地がないのもまた事実だった。
 雛子が求めているのは恐らく、俺の本心だ。
 彼女はあの夜に、俺を好きだと言ってくれた。
 つい先程も、俺を指して『好きな人』だと言った。
 きっと雛子はその返答を欲しているのだろう。俺が行動で示してきた本心を、もう少し別の形で確かめようとしているのだ。

 それなら、今こそ言わなければならないと思った。
「俺もお前が好きだ」
 この世で最もありふれているであろう言葉を、俺は彼女に告げた。
 雛子が瞬きをやめ、ゆっくりと息を吸い込む。
 俺は長らくその言葉を、陳腐で薄っぺらなものだと思っていた。こんな没個性の言葉を愛の告白に用いる奴の気が知れないと思っていた。だが俺がそう思ったのは言葉の真価を知らなかっただけのことで、ありふれて使い古された言い回しには、皆がありふれてしまうほど使いたがるだけの理由があるものなのだろう。
 そして俺は今、その言葉の真価を知っている。それを俺に対して言ってくれる人がいるからだ。
 もっとも――口にしてしまってから思ったのだが、今、言うべきではなかったような気がする。雛子は目の前ですっかりのぼせ上がっているが、何と言うか、もう少し早く言っておくべきだった。今言うと、まるで、下心でもあるかのように思われてしまいそうな――。
「いや、このタイミングで言うのは打算めいていてよくないな」
 慌てて俺は弁解し、上目遣いに見てくる雛子に言い聞かせた。
「しかし、ずっとそう思っていなかったわけでもない。口にするのは安っぽいようで、あまりにも陳腐で全てを伝えきれない気がして、言えなかっただけだ」
 遅くなってしまったと言うべきなのだろう。
 本当はあの夜にこそ、告げておくべきだったのかもしれない。
「いつも代わりの言葉を探していた。それが上手くお前に伝わっていたか、伝えきれていたかどうかは掴みかねるところだが」
 雛子は黙っていた。否定も肯定もしなかった。唇には精一杯微笑もうとする努力が窺えたが、上気した顔は全体的に張り詰めていて、酷く緊張している様子だった。
 それで俺も意味もなく口を閉ざした。何かまだ言わなければならないことがあるような気もしたし、これ以上は何を言ったところで同じことの繰り返しになるようにも思えた。そのくらいなら――。
 急に静かになる。
 弱い雨音が思い出したように聞こえ始めて、俺たちの間に漂う気まずさを引き立てる。
 そのくらいなら、何だというのか。俺は胸裏を過ぎったある考えを慌てて打ち消す。
 確かに雛子は俺と同じ気持ちだと言ったが、だからと言って今、それを実行に移すのはどうだろう。あまりにも即物的と言うか、見境がないのではないだろうか。俺に対して最上級の愛情を示してくれた彼女に感謝しつつ、一旦話を切り上げてしまうのがいいのかもしれない。
 だが彼女はあれきり黙っており、それでいて俺にちらちらと、何か言いたげな目を向けてくる。彼女は行儀よく座ったままで身動き一つせず、膝の上に重ねて置かれた小さな手が、真珠のようにつやつやした爪をしきりと気にしていた。本当のところは爪よりも気にしていることがあるのかもしれないが。
 俺はこういう空気は苦手だった。心臓が喧しく鳴り続けて正常な呼吸を妨げ、身体に灯った熱は全く引く気配がない。熱に浮かされた頭ではまともに考えることさえままならず、しかし妙に高揚した気分を自覚している。
 有体に言うと、期待してしまっているのだ。
 他人に対して多くを求めないつもりでいた俺が、しかし彼女に対してだけはどうしても欲求を、そしてそれを叶えられるかもしれないという期待を捨てきれずにいる。即物的で見境のない男だと我ながら思うが、俺だって誰にでもそういう気持ちを抱くわけではない。
 しかし今になって彼女にそれを確認するのも、あまりにも現金ではないだろうか。彼女の言葉を大上段に振りかざして、求めるようで――いや、そもそも何を考えているのか。先程まで精神的愛情にあれほど固執していた人間が、手のひらを返すように彼女を欲しているのだから滑稽な話だ。触れあいたいとか抱き締めたいとかそういう気持ちはひとまずどこかへ追いやって、せっかくわかりあえたのだからもう少し建設的な会話をすべきではないだろうか。
 俺は葛藤していた。そして葛藤の末に得たものは煮えたぎるような体温の上昇とそれに伴う思考の阻害だけで、俺は熱を逃がす為にひとまず着ていたパーカーを脱いだ。
 そこで、雛子がびくりと肩を震わせた。
 見れば彼女はまじまじと、Tシャツ一枚になった俺を見ている。床に脱ぎ捨てたパーカーを恐る恐る一瞥してから、初めて怯えた顔をした。
 そうなると俺も動揺し、
「ちがっ……違うぞ、そういう意味で脱いだんじゃない! 暑かったからだ!」
 事実かどうか、自分でもよくわからなくなっていることを喚いた。
「で、ですよね、そうですよね、びっくりした……!」
 彼女が胸を撫で下ろす。が、安心したようにはちっとも見えなかった。その狼狽した様子は思いがけず可愛らしくて、言い知れない感覚に背筋がぞくぞくした。
 そして服を脱いだ俺は、剥き出しになった両腕に心地よい涼しさを感じていた。汗ばんだ肌に空気が触れると開放感を覚えた。
 だが同時に、その剥き出しの肌で触れてみたい、とも思った。
 雛子は俺の腕をじっと見ている。筋肉に乏しい痩せた腕を眺めて面白いものかと思うが、彼女は興味深そうな顔をしていた。食い入るように注視してくるから、今更言うまでもないが、つくづく物好きな奴だと思う。
 その物好きさに、俺はこうして救われ、この上ない幸福を貰っているのだ。
 俺は彼女の視線を感じつつ、手首に巻きつけていた腕時計に手をかける。彼女に触れる時、邪魔になるだろうと思ったからだ。後戻りのできない予感を背負い、一瞬迷ったがすぐに外した。腕時計を座卓の上に置くと、その音が意外に響いた。
 俺の動作をいちいち目で追い駆けていた雛子が、改めて俺を見る。
 彼女に対して、俺はもうためらわなかった。欲求に従い真っ直ぐに手を伸ばす。
「雛子」
 名前を呼んでも、雛子は返事をしなかった。唇を微かに動かしたので答えたかったのかもしれないが、きっと声にならなかったのだろう。
 凍りついたように微動だにしない彼女の肩を両手で掴み、そのまま抱き寄せて、俺の膝の上へ乗せる。彼女は全く抗わず俺に従った。柔らかい身体を後ろから抱き締めると、彼女の高い体温とほのかないい香りを感じた。
 もう二度と、何があろうと離すまい。
「先輩……」
 腕の中で、今度は彼女が俺を呼ぶ。消え入りそうな声だった。
「何だ」
 俺は即座に聞き返したが、雛子は少し間を置いてから、
「……いえ、何でも、何でもないんです」
 言葉を呑み込むように言って、長い睫毛を伏せる。そして俺の胸に背を預けてくる。彼女の温かい重みを身体全体で感じると、たちまち内側から潮が満ちるような幸福を覚えた。こと素肌の腕が触れた部分は彼女の柔らかさがよくわかり、しかしちくちくした素材の、彼女が着ているカーディガンが邪魔だと思う。
 俺は彼女の髪に頬を寄せるようにして、目を閉じた彼女の顔を見下ろした。眠ったような顔はなめらかできれいだったが、頬の赤みはどうしても隠しきれていなかった。上から見下ろしてもわかる形のいい胸が、動悸の速さをを誤魔化せず、忙しなく上下している。
 彼女がふと、目を開ける。そのタイミングで唇に軽く口づけると、離した後で雛子は困ったような顔をした。それからおずおずと言った。
「チョコレートの味、しませんか?」
 脈絡のない発言に聞こえて、俺は奇妙に思いながらも答える。
「いや、しなかった」
 唇は柔らかかったが、何か味がしたようではなかった。
「さっき、食べたから……緊張してたせいで、味はわからなかったんですけど」
 言われて視線を転じると、座卓の上にあるチョコレートの箱から、確かに一粒だけチョコレートが消えていた。
 いつの間に食べたのだろう、それすら気づかなかった。俺は自分で思うよりも彼女をよく見ていないようだ。
 それなら、これからはじっくりと見つめておこう。何一つとして取りこぼすことのないように。
「だったら俺にもわかるはずないな」
 そう答えた俺も、緊張はしていた。何しろこんなことは初めてなので、どうしていいのかわからない。このまま彼女を膝に乗せておいていいのだろうか、迷っているうちに彼女が俺の腕に縋りついてきて、やはりどうしていいのかわからないという顔をする。
「もっと可愛い格好をしてくればよかったです」
 雛子はそんなふうに言って、自らの服装を見下ろした。
 オレンジ色のカーディガンにふくらはぎ丈のデニムジーンズという格好は、ピクニックに備えたもののようだった。俺はそれでも十分可愛いと思うのだが、雛子は俺の視線を恥ずかしがるように身を捩った。
「別におかしくない」
 俺が否定しても聞こえていないみたいに嘆く。
「こんなことなら、ダイエットもしておくんでした」
 彼女はたびたびダイエットをしているようだが、はっきりと目に見えた効果が出たことがどれほどあったことだろう。
「止めておけ。どうせ長続きしないし意味もない」
「でも、先輩は痩せてて素敵ですから。隣に立つなら痩せないとって……」
 言われて気づく。彼女がダイエットをしたがるのは、そういう意味もあったのかもしれない。
 俺は俺で、雛子のこの全てが曲線でできているような、女らしい身体の柔らかさを気に入っていたのだが。
「どこが。痩せぎすでみっともないだけだ」
 そう言うと、俺は片手で彼女の脇腹辺りに触れた。
「それに、俺は柔らかい方がいい」
 カーディガンの布地越しに感触がわかり、手のひらで押したり、指先で軽く揉んでみたりする。触り心地のよさに夢中になっていると、雛子がくすぐったそうな声を上げ、首を竦める。
「ちょっ……揉まないでください、傷つきます」
 押し殺したような吐息が漏れ聞こえ、俺の背筋がひとりでに震える。
「羨んでるんだ。俺はこんなふうに肉がつかないからな」
「先輩だってみっともなくないです。私にはすごく格好よく見えます」
 俺の言葉に雛子がそう応じたので、彼女は本当に物好きだ、と思う。
 後ろから抱き締めたまま、彼女の耳元に唇を寄せてみる。唇に触れた小さな耳は、その熱がはっきりとわかるほど赤みを帯びていた。
「格好いいはずがない。今日だって無様に醜態を晒した。……これから、もう少し晒すことになる」
 俺は彼女に告げる。
「だが、雛子。俺はお前だから晒すんだ。お前だけに見ていてもらいたい」
 長い沈黙があり、やがて彼女は、小さく頷いた。
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