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全てで恋をする(6)

 言うまでもなく、初めてのことだった。
 知識が全くないというわけではないのだが、実用に足るものがどれほどあるかは疑問だった。知っていると胸を張って言えるのは授業で習うような互いの身体の機能について、及びその身体を守る為の一般常識。そして本を読むことで得られた断片的な知識だけだった。
 そもそも物語の中でこういう場面が克明に描写されることはあまりない。物語においてそれが根幹を成す主題であったり、あるいはその主題に触れる為の重要な場面でもない限り、大抵の場合はカーテンを引くようにシーンが切り替わり曖昧に濁される。それは別に文学性を保つ為だとか、青少年に配慮するだとか、そういうしかつめらしい理由から来るものではないのだろう。
 単に、作者が必要ないと思うから書かないのだ。
 例えば物語の中で、毎度の食事について何をどの程度の量どれほど時間をかけて食べたか、いちいち記さないのと同じように。
 あるいはもっと基本的な、生活に関わるいくつかの行為について――部屋の掃除をする、風呂に入る、布団に入って眠るといった行動が、物語に関わるものでなければ省かれてしまうのと同じように。
 これも、基本的な欲求から来る当たり前の行動だ。
 そして俺が一度は思ったように、愛情表現のごくありふれた一つの形でもある。
 だからこそ物語の中で不要だと作者が思えば端折られるのだろうし、逆に作者が書きたいと思えばあえて触れるのだろう。おかげで俺は今日までその為の知識を断片的にしか得られず、今になって手間取る羽目になっている。
 だが、この気持ちが自然な欲求から基づく当たり前のことだと、ようやく理解することもできた。
 空腹から食べ物を欲するように、身辺を清潔に保ちたいと思うように、眠気から睡眠を求めるように――俺は、誰よりいとおしい彼女を、欲しいと思う。

 身体の奥から膨れ上がってくるような欲求とは相反して、俺はいささか戸惑っていた。
 一刻も早く彼女と直に触れ合いたい。そう思っているにもかかわらず、彼女を膝の上に乗せたまま次の行動に迷っている有様だった。彼女が緊張しているのは強張る全身からよくわかっていたので、それを解きほぐすのが急務だと思うのだが、しかし俺が何をしようと一層緊張するだけだという気もしている。優しい言葉をかけて宥めようと、懇々と理詰めで諭そうと、その後にすることは同じだ。
 ひとまず後ろから回した手で、雛子が着ているカーディガンの一番上のボタンを外した。
 たちまち雛子が俺を振り返り、真っ赤な顔で見上げてくる。
「せ、先輩、あの……」
 咎められたわけではないのだろうが、思わず俺は手を止めた。二つ目のボタンに指をかけたまま彼女を見下ろす。
「何だ」
「いえ、別に、何でもないんですけど」
 言葉の割に、彼女は困り果てたように俯く。
 困っているのなら、例えば怖いと思っているのなら、遠慮なく頼ってくれればいいのにと思う。俺は彼女に頼られるのは嫌いではない。
 俺は下を向く彼女の姿を真上から眺める。いつもは白い首筋も今はほんのり色づいていて、彼女がまだ着ている衣服のその下を想像させた。唇で軽く触れると、雛子が跳ねるように頭を上げて再びこちらを向いた。
「先輩……!」
 彼女が何か言いたそうに瞳を震わせる。
 少し性急だったかと、俺は彼女に詫びた。
「悪い。驚かせたか」
「いえそうじゃなくて……でも、今のはちょっとくすぐったかったです」
「くすぐってはいない」
 素直に告げると、雛子は言葉に詰まったように口を噤む。困惑しているのが眉の形と軽く尖らせた唇からわかる。
 恐らく俺の方は、もう既にそういう気分なのだろう。その淡い色の唇を見ていたらどうしようもなくなり、軽く、短いキスをする。それで雛子が数秒間硬直するのをおかしくも、可愛くも思う。
「大丈夫か」
 尋ねてみると彼女ははっとして、硬直もすぐに解ける。弁解するように早口になって言う。
「だ、大丈夫です。私こういうの初めてで、どうしていいのかわからなくて」
「そうか。俺もだ」
「そ、そうなんですか。何て言うか、すごく、奇遇ですね」
 奇遇という表現がこの状況に対して適当なのかどうか、この場で議論するのは時間の無駄だろう。
 俺は彼女の気分を少しでも和らげようと、片手で後頭部の髪を撫でた。耳の下で美しく束ねられている妥協のない黒髪は、指先にも手のひらにも滑らかに感じられた。
 雛子も髪を撫でられるのは好きらしい。そこではにかむような表情を見せてくれて、こういうふうにするものなのかと俺も腑に落ちる思いだった。
 彼女が落ち着いてから、ボタンにかけていた指をずらすと、二つ目のボタンも易々と外れた。
 そのまま俺は次々にボタンを外し、遂には彼女の両腕から袖を抜いて、オレンジのカーディガンを床に置いた俺のパーカーの上に重ねた。
 雛子はカーディガンの下に、小さな水玉模様の白いブラウスを着ていた。その姿になると彼女は寒がるように自らの肩を抱き、身体を震わせ始めた。
「寒いのか?」
「いえ……」
 尋ねても彼女はかぶりを振るばかりだ。
 俺は背後から彼女を抱き直し、震える丸い背中を覆ってやった。ただそうして触れた彼女の身体はとても熱く、寒がっているわけではないことも明白だった。じっとしていると俺たちの間に湿ったような熱が澱んで、彼女の背にブラウスが張りつく。肩甲骨とブラウスの下に着ているもののラインが露わになる。指でなぞりたい衝動を堪えて、俺はブラウスのボタンに手を伸ばす。
 しかしそこで、俺がボタンを外すより早く、彼女が俺の手を握った。
 縋るように、というのではなかった。ぎゅっと力を込めて、まるで制するようにきつく握り込んで離さない。
「どうした?」
 俺は自分の手を掴む雛子の、力を入れすぎて白くなった手を見下ろし、次いで俯いたままの彼女を真横から覗き込んだ。
 雛子は横目で俺を見る。銀色のフレームを外れて遮るもののなくなった眼差しが、しっかりと至近距離の俺を捉えている。
「先輩……い、今、思い出したんですけど」
 彼女が震える声を立てる。
「私、あの、今日は――普通の、なんです」
 雛子は必死になって訴えてきたが、当然のように、俺にはその意味がわからない。
 普通とは何だ。何のことだろう。
「どういうことだ」
 俺が聞き返すと、雛子は俺から手を離し、こわごわ顔を上げる。眉を下げた不安そうな面持ちが続ける。
「だからその、普通なんです。特別なのじゃなくて」
「悪いが、全く話が見えない」
「えっと、つまりですね、どこにでも売ってるようなのって言うか、安物って言うか――」
 あたふたと身振り手振りを交えて彼女は言う。だがその身振り手振りもほとんど手を振り回しているだけで、何を指し示しているのかまるで意味不明だった。
「よくわからん」
「もう、わかってください!」
 雛子は俺に意地悪をされたという顔をしていた。実際はほとんどまだ何もしていないから釈然としなかったが、彼女は責めるように俺を睨んだ後、急に目をつむってみせる。
 その後で意を決したように、
「じ、実を言うとですね、私、あの旅行の時に、買っておいたんです」
 と言った。
 俺の頭に浮かんでいるのは先程から同じ疑問ばかりだった。
 だから、何の話だ。
「泊まりがけで行く旅行の時に買うものって言ったら、決まってるじゃないですか。その為にダイエットもしたんだし……」
 雛子がそう言うので、俺はわからないながらも身に着けるものなのだろうという推測はできた。
「お店で二時間もかけて、先輩が好きそうなのを選んだんです」
「俺の……趣味に合わせたということか?」
 聞き返すと彼女は顎を引く。
「そうです。直接聞いたことはなかったですけど、こういうのが好きかなって……」
 何となく、話が見えてきた。そういえばあの時のパジャマは水色だったが、その下にあるものに注意を払う余裕はなかった。パジャマですらなるべく見ないように気をつけていたくらいだ。
「あの晩だって着てたんです。なのに、今日に限って」
 雛子は深く、震える息をつく。
「こんなことになるってわかってたら着てきたのに……先輩、私のこと、嫌いにならないでくださいね」
「大げさな」
 俺は彼女の不安を一蹴した。自分の為にそういう買い物をしてくれるような相手を、どうして嫌いになるだろう。
 それでもこちらを窺う目には怯えたような色が浮かんでいたので、俺は彼女のこめかみに、頬に、それから唇に短くキスをする。
「先輩……」
 柔らかく重ねた唇が離れると、彼女の口元がゆっくり微笑んだ。
「お前が何を着ていようと、俺は気にならない」
 そう言ってはおいたが、それはあまり正しい表現ではなかったかもしれない。
 より正確に言うなら、『雛子が何を着ていようと非常に気になる』というべきだろう。
 今日の服装だって彼女はいつもより可愛げがないと思っているようだったが、俺はそうは思わなかった。ボタンが多いとは思ったが、それは別に、彼女への印象を左右するものではない。それどころか、こんなことでいちいち動揺しては俺に嫌われないかと案じる彼女はなかなか、可愛いと思う。
 しかもそういうものを、俺の為に選んでいたのだと聞かされると――喜んでいいのか、照れるべきなのか、正直に欲情してしまっていいものか非常に悩ましい。
「だが、俺はお前にその手の好みを打ち明けた覚えはないぞ」
 俺はそう言い添え、たちまち雛子が恥ずかしそうに首を竦める。
「ですから、当て推量で買いました。先輩が好きそうなのを」
「わかるのか、そんなことが」
 普段から俺たちの間にそういった会話が生じているわけでもないのに、どうやって彼女はそれを選んだのだろう。
 すると雛子はそこで、少し寂しそうに微笑んだ。
「今になって考えると、ちょっと自信ないです。私も……聞いておけばよかったですね」
 だが聞かれたところで、つい一時間ほど前まで理想に固執していたような俺が、果たしてまともな答えを返せていただろうか。彼女を叱り飛ばして終わっていたかもしれないと思うと、聞かれずに済んでよかったのだろう。
 それに、俺は彼女が何を着ていようと本当に構わなかった。彼女の一挙一動が可愛くて堪らず、今の話を聞かされただけで目が眩むような興奮を覚えた。
「どんなのを買ったんだ」
 好奇心に駆られて俺が尋ねると、雛子はびっくりしたようだった。
「気になりますか? 先輩でも」
「当たり前だ」
「先輩にそういうことを聞かれる日が来るとは思いませんでした」
「言うまでもないことだが、俺はお前以外にこんな質問はしない」
「そうしてください。セクハラになっちゃいます」
「……それで、答えは」
 俺は焦れる思いで彼女を急かした。
 雛子は一旦視線を外すように長い睫毛を伏せた後、ためらいがちにこう言った。
「やっぱり、今日は秘密にしておきます。だって……」
 俺の膝の上で彼女は、自分の胸を隠すように両手を握り合わせる。
「今日は、普通のですから。見劣りして、先輩にがっかりされたら……」
 気にならないと言ったのに。
 とは言え俺もこれ以上、無理強いをするつもりはなかった。彼女の唇を塞いでその言葉を遮った後、唇を離してからも熱に浮かされぼうっとする雛子に言い聞かせる。
「何も心配するな。俺はいい加減な気持ちでお前を抱こうとしているわけじゃない」
 雛子がどぎまぎしたように目を泳がせる。狼狽する彼女は本当に可愛い。もっといろいろ言って、困らせてみたいと思う。
 そうして本当に困り果ててどうしようもなくなったら、俺に頼ればいい。
「ほら、手を握っててやる」
 俺は彼女の手を胸の前から退かすと、片方の手だけを指を絡めて繋いだ。両手を繋ぐわけにはいかなかった。
 雛子はもう一度だけ俺を振り返った後、
「先輩って、優しいですね」
 そんなことを呟いてみせる。
「そうでもない」
 俺が否定すると彼女は少し笑った。
「優しいですよ。ああいう買い物したこと正直に言ったら、叱られるかと思いました」
「叱るはずがない。むしろ、嬉しかった」
 短い、しかし意味深い沈黙があった。
 絡まり合う指先が少し震えて、
「私は先輩のこと、ますます好きになりました」
 雛子の言葉に俺は、幸せを噛み締めて笑った。
 彼女はもう笑わなかったが、代わりにくったりと力を抜いて俺にもたれかかってきた。その後はブラウスのボタンに手をかけても制してはこなかったし、止まれなくなった俺が何をしようと、決して拒むことはなかった。

 その時、五感全てで恋をしていた。
 彼女と迎えた初めての時間をもれなく覚えておきたいと思っていた。
 だが興奮しすぎていたせいで途中から頭が真っ白になっていたし、逆に自分でも後で思い出すと羞恥のあまり逃げ出したくなるようなことも口走った覚えがある。記憶を頭に正しく、欠けることなく留めておくのは難しいことだろう。ただでさえ脳の容量には限度があるのだ。
 それでも雛子のことは、この身体が覚えている。形ある記憶として全ての感覚に焼きつけておいた。俺は精神的な、崇高な愛を彼女に捧げることこそ不可能だったが、代わりに全てで恋をするやり方を学んだ。これは俺が一方的に捧げたり、与えたりするものではなく、彼女と共に築くものだ。そして互いに望んだ恋の形でもある。

 あれから長い時間が過ぎたが、外ではまだ弱い雨が降り続いていた。
 部屋の中には少し前から静寂が戻り、俺たちは壁際で身を寄せ合っていた。満ち足りた疲労感からか俺は眠気を覚えていたが、眠ってしまうのは惜しいとも思っていた。雛子が傍にいて、俺の胸に頭を預けてくれていたからだ。
「今日は最高の誕生日になりました」
 俺の胸元で、雛子が穏やかな声音で呟く。彼女もくたびれているはずだが、眠ろうとする気配はなかった。俺と同じように、この時間を貴いものだと感じているのかもしれない。
 俺は彼女の髪を撫でる。指先に絹糸のような柔らかさが触れる度、女の髪だなとつくづく思う。他の女の髪の触り心地を知っているわけではないのだが、俺のとはまるで感触が違うのだ。
「こんな過ごし方でよかったのか。せっかくの誕生日なのに」
 髪を撫でながら、俺は今日、十八になったばかりの雛子を見下ろす。彼女は既に水玉のブラウスを羽織っていて、こうして抱き合っているとその内側にあるものがよく見えない。先程散々じっくり拝んだのだが、今しばらく眺めておきたいという気持ちもまた不自然なものではないだろう。
「極論を言えば私は、先輩と一緒ならどこで過ごしても楽しいんです」
 雛子がきっぱりと言い返してくる。
「それは安上がりで結構なことだ」
 結局、かかったのは弁当の材料費だけだ。
 その上、素晴らしい時間と幸福を、むしろ俺の方が貰ってしまった。
 これは後日、何かプレゼントを用意して埋め合わせなければ不公平だろう。
 俺が考えを巡らせていると、
「おまけに今日は嬉しい言葉もいただけましたから。最高です」
 釘を刺すように雛子が言って、俺は込み上げる面映さに顔を顰めた。
「……今になって言われると、急に恥ずかしくなってくるな」
 冷静になって考えてみれば、歯の浮くようなことを随分と言ったものだと思う。そういう言葉もお互いに信じ合えるのであれば問題はないのだろうが、やはり気恥ずかしい。もっとも雛子は大変嬉しそうにしているから、いいか。
「寒くないか、雛子」
 俺は彼女に声をかける。
 羽織ったブラウスは肌がうっすら透けて見えるほど薄く、防寒の役目は果たさないだろうと思われた。だからこそ彼女も今日はカーディガンを着てきたのだろう。オレンジシャーベットの色をしたカーディガンは、まだ床の上、俺のパーカーと折り重なって置かれている。
「大丈夫です」
 雛子は素早く答えると、聞き返してきた。
「先輩は寒いですか?」
「俺も温かい。むしろ壁が冷たくて心地いいくらいだ」
 汗ばんだ背中で壁に寄りかかると、適度な冷たさを感じた。そのうち温くなるのだろうが、もう少しばかりこうして身体を休めておきたかった。
「だが、布団を敷くべきだったようにも思う」
 俺はそのことを少し悔やんでいた。事前に布団を敷いておけば俺たちは共に身体を横たえ、手足を伸ばして休むことができたはずだ。俺はずっとそういうものだと思ってきたから、いざとなってみるとそのタイミングを逸した事実に愕然としていた。
 しかし振り返ってみても、一連のやり取りのどこで布団を敷くのが正しかったのだろう。パーカーを脱ぐ前か、彼女を抱き寄せて膝の上に乗せる前か、彼女の服を脱がす前か、それとも――考えてみても答えがわからない。
「こういうことはタイミングがわからないものだな。結局、言い出せなかった」
 首を捻りながら俺が言うと、雛子は黙って部屋の中に目を向けた。
 落ち着いてから辺りを見回すと、ここは思ったよりも明るかった。嵐が過ぎ去った後のようにあちこちに衣服が散らばり、座卓の上には二つのティーカップとチョコレートの箱、そして俺が外した腕時計が放ったらかしにされている。ティーカップの中身はすっかり冷めてしまったようだし、チョコレートは溶けてこそいないだろうが、どうなっているか。今日中に食べてしまう必要があるかもしれない。
「こういう時の為に、もっと恋愛小説を読んでおくべきでした」
 ふと、雛子が反省を込めるように呟いた。
 お互い不慣れで手間取ったことを省みているのかもしれないが、俺は本に書かれた断片的な知識だけではどうにもならないということを既に知っていた。誰もがあえて書き記さないような当たり前の事柄については、俺たちも実地で学び、経験していくより他ないのだ。
「恋愛小説か。俺はあの手の本が書店で幅を利かせているのがずっと疑問だった」
 俺はぼやくように応じる。
 雛子も含めて、多くの人間はああいった小説を読むのが好きらしい。書店には恋愛を主題にした作品がそれこそ星の数ほど並んでいる。恋愛というたった一つの事象に皆がこれほどまでこだわり、物語として読みたがるのはなぜか。時々不思議に思った。
「先輩の好みじゃないですもんね」
 すかさず彼女が相槌を打ったので、俺も素直に肯定しておく。
「ああ。他人がくだらんことで一喜一憂しているのを読んで、何が面白いのか」
 自らの恋愛感情にすら翻弄されている人間が、他人の試行錯誤する恋愛感情にまで触れたいと思うものだろうか。俺にはそれらを他山の石とするほどの器用さはないから、いつも避けて通っていた。
「だが恋愛小説が多くの人間に読まれるその理由は、ようやくわかった気がする」
 俺がそう続けると、雛子が勢いよく顔を上げた。
 その髪を撫でながら、俺は自分の考えを彼女に語る。
「それはな。恐らく恋愛というやつが、人生において避けがたい事柄だからだ」
「避けがたい……まるで災難か何かみたいな言い方ですね、先輩」
「似たようなものじゃないか。いつも突然やってきて、人を散々振り回す」
 自分でそういう目に遭った後だからよくわかる。できるものなら俺も制御の利く、理知的で整然とした恋愛がしたかった。こんなにもがき苦しんで、恥もかいて、自尊心すら保てぬほど追い詰められるような恋ではない方がよかった。
 しかし得てして恋愛とはそういうものなのかもしれない。
 誰もがみっともないほど形振り構わずにもがいて、あがいて、悩み苦しみながらも手放さずに貫いて、ようやく手に入れられるようなものなのかもしれない。
「運よく遭遇せずにいられる人生もあるのだろうが、いざ遭遇してしまえば誰にとっても避けがたく、逃れがたいものだ。こちらの意思なんかお構いなしで日常生活にまでずけずけと影響を及ぼし、睡眠と思索の邪魔をする。多くの者が同じようにそういう目に遭うからこそ、恋愛小説は興味を持たれるジャンルなんだろう」
 今となっては、遭遇しない方がよかったなどとは断じて思わない。
「一度そういった憂き目に遭ったなら、後の選択肢は限られている。諦めるか、選び取るかだ」
 俺は腕に抱いた雛子を見下ろし、その心に刻みつけるように告げた。
「避けがたく、抗えない感情だったとしても、最後には俺自身がお前を選び取った。そう思いたい」
 彼女は俺の話を、いつものように、控えめに微笑んで聞いていてくれた。
 そして聞き終えた後はゆっくりと頷き、こう言った。
「選んでくれてありがとうございます、先輩」
「こちらこそ」
 それはお互い様だ。初めに声をかけたのは俺だが、彼女の方にも選ぶ権利があった。昔の自分を思い起こすと、よくあれで雛子がついて来てくれたと思うが――できれば今後は彼女にも、かつての自分には見る目があったのだと思わせたいものだ。
「選んでもらった以上、後悔はなるべくさせないよう努める」
 すると雛子は子供のように歯を覗かせて笑った。
「大丈夫です。私は先輩といて、そういう意味で後悔したことは一度もありません」
 それは断言のようでいて、どこか限定的な発言にも聞こえた。
 引っかかるものがあり、俺は彼女に疑惑の視線を向ける。
「含んだ物言いだな。どういう意味でなら後悔したことがあるというんだ」
 だが雛子は答えない。わざと秘密を作るような態度で視線を外し、俺の腕の中でしばらくにこにこと笑んでいた。
 その態度に俺が焦れてくると、やがてこちらに目を合わせて、改めて綻ぶように微笑む。
「先輩、お腹空きませんか」
 話を逸らされた気がする。
 もっとも、言われてみると少し腹が減っていた。俺は彼女を抱いたまま片腕を伸ばし、座卓に置いた腕時計を拾い上げる。いつの間にか午後一時を過ぎていた。
「いい時間だ。弁当もあることだし、一緒に食べるか」
「はい、いただきます!」
 雛子が張り切ったような声を上げる。
 それで俺は彼女の身体をようやく離すと、脱ぎ捨てていたTシャツを拾い上げて被り、袖を通して身に着けた。そうして服を着てから彼女を見下ろすと、雛子はまだブラウスを肩に羽織ってもじもじしており、今になって唐突にくすぐったい気分になる。
「しかし、弁当を作ってしまってよかったのか悪かったのか、わからないな」
 照れ隠しのつもりで俺はぼやいたが、隠しきれた気がしなかった。
 恐らく今の彼女ならその本心もお見通しだろう。
 遅れて服を着始めた雛子がその時、くすっと女らしい笑い声を立てた。
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