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霜月(5)

 かくして私は哀れなアナスタシアから、チープで庶民的なハートの女王へと舞い戻った。
 それは同時に、文化祭初日の終わりが近いことも意味していた。

 着替えた後で巡った校内の模擬店はさながらバーゲンセールの終了後のように閑散としていて、かろうじて売れ残った焼き物類が投げ売り同然の価格で販売されていた。私と鳴海先輩はそれらを適当に購入し、昼食にすることにした。
 教室に戻れば、うさぎ耳のカチューシャを首に引っかけ、もはやうさぎであることを放棄した有島くんと、まだアリスらしさを完璧にキープした荒牧さんが待っていた。二人はできればクラスの方にも顔を出したいと言っていて、この後は初日終了まで、私が文芸部の留守番をする予定となっていた。
「部長のお芝居、見に行きましたよ! とっても様になってました!」
 荒牧さんは前に宣言していたように、シンデレラの劇を見に来てくれたらしい。熱心な感想を聞かせてもらった。
「特に王子様に手を振りほどかれて床に倒れる場面、真に迫る演技でした!」
「……そう見えた?」
 鳴海先輩もそんな様子だったけど、どうやら観客の皆さんには私が転んでしまったシーンが突発的な事故ではなく、台本通りのものだと映っているらしい。
 それなら幸いとばかりに私は事実を封印し、荒牧さんには感想へのお礼だけ告げておいた。ありがたいことに、鳴海先輩もそ知らぬふりで黙っていてくれた。

 そうして教室を出て行く後輩二人を見送った後、私と先輩はお茶会席に購入してきた食べ物飲み物を広げ、向かい合わせに座って食事を始めた。
 いつの間にか廊下を歩く人影も減りつつあった。大抵の来客は校内を一通り巡れば帰ってしまうだろうし、こんな時間まで残っている人は吹奏楽部のステージが目当てで、そのまま体育館に流れてしまったようだ。さっき覗いた模擬店も後片づけに入っているところが何軒かあった。文芸部の展示にも、ようやく例年通りの閑古鳥が帰ってきた。
 私としても少し疲れていたし、とてもお腹が空いていたから、今こそ閑古鳥を歓迎したい気分だった。誰もやってこないのをいいことに、張り切って文化祭らしいメニューを堪能した。投げ売りされていただけあってどれもすっかり冷め切っていたけど、空腹は最高の調味料というだけあって、問題なく美味しくいただけた。
「先輩はどうしてお昼を食べなかったんですか」
 私は食べながら先輩に尋ねた。私が劇の準備で抜けた後に食べに行く、と言っていたから、結局今の今まで食事を取っていなかったことに驚いていた。お腹は空かなかったのだろうか。
 鳴海先輩はなぜ当たり前のことを聞くのか、と言いたげに答える。
「お前の緊張がうつった。あんな状態で食事が喉を通ると思うか」
「そうだったんですか……ごめんなさい。心配をおかけしました」
「全くだ。そのくせお前はいざ本番となれば、人の気も知らないで楽しそうにしていた。見ているだけの俺が一人でやきもきしているというのも、考えてみればおかしな話じゃないか」
 不服そうな様子で先輩は語るけど、手に串に刺さったいももちを持っている姿ではまるでそぐわない。丸い形の、甘辛そうな醤油だれが塗られたいももちを食べる姿がまた物珍しくも可愛くて、私は思わず笑ってしまう。
「なぜ笑う」
 先輩は私の反応にむっとしたようだった。私は慌てて弁解する。
「違うんです。先輩と文化祭メニューって、何か面白い取り合わせだなって」
「それで何がおかしい」
「おかしいって言うか……。何でしょうね、貴重な感じがするんです」
 思えば去年も、先輩は私に差し入れをしてくれただけで、ここに来て何か食べていくことはなかったし、何か文化祭らしい食べ物を購入していったという話も聞かなかった。一昨年なんて私と先輩はほんの一言、二言交わすのが精一杯で、先輩が三日間の文化祭をどう過ごしたか、全くと言っていいほど知らなかった。
 だから今、目の前でいも餅を食べる鳴海先輩は、ものすごく貴重な姿を晒しているように見える。お祭りらしいジャンクフードを各種買い込んで、それをこんな、不思議の国のセットに囲まれたところで食べているなんて。すっかり文化祭を堪能しているようだった。
「写真撮ってもいいですか?」
 私の問いに、先輩は顔を顰めた。
「人が食べているところを撮るな。後にしろ」
「残念です。じゃあ、後でまたあの帽子を被ってくれますか?」
「あれか……。仕方ないな、一度だけだぞ」
 最近の鳴海先輩は私のわがままにも寛大だ。思ったよりたやすく許可をいただけたので、食べ終わったら早速写真を撮ろう。
 私はうきうきしながらシナモン味のチュロスを頬張った。さくさくと歯ごたえがあってとても美味しく、一本きりしかないのを惜しみながら食べる。もう一本売れ残っていたらと思わずにはいられない。売り子の生徒にも最後の一本ですからと、かなり値引いてもらった商品だった。
「随分美味そうに食べるな」
 すると先輩が、私の食べているチュロスに目を留めた。
「シナモンが効いてて、でも甘すぎなくて美味しいです。よかったら食べますか?」
 私が勧めると、先輩は抵抗を示すように眉を寄せる。
「物欲しそうにしたつもりは……。催促したようで悪いから、いい」
「一口くらいいいですよ。私の食べかけで、嫌じゃなければですけど」
「それは別に、気にしない」
 そう言いつつも少しためらった後、先輩は私の手からチュロスを受け取った。初めて食べるものなのか怪訝そうに見つめてから、ぱくっと一口かじりつく。そして直に、なるほどという顔をする。
「確かに美味いな。このくらいの甘さなら食べやすい」
「ですよね。もっと売れ残っていたらよかったんですけど」
「売れ残らなかった理由がわかるな」
 先輩は微かに笑うと、ありがとうと言いながら私にチュロスを返してきた。それから自分の食べていたいももちの串を見つめた後、慎重に切り出す。
「お礼にと言うのも何だが、俺のも食べるか?」
「いただきます!」
 私は全くためらわずに先輩からいももちを受け取り、一口ご馳走になった。醤油だれを絡めたいももちは適度に弾力があり、柔らかくて冷めていても美味しい。醤油だれの予想通りの甘辛さもよかった。
「もちもちですね」
「それはそうだろう。餅というくらいだからな」
「すごく美味しいです。食べさせてくれてありがとうございます、先輩」
 私もお礼を言った。
 鳴海先輩はそれを、困ったような苦笑を浮かべて聞いている。
「あまり行儀のいいことではないが……こういうのもたまにはいいか」
「そうですよ。むしろ分け合って食べるのがお祭りの醍醐味です」
 文化祭で何か食べるのに、お行儀まで守るのはなかなか難しいことだ。郷に入っては郷に従えという言葉もあるのだし、先輩の言うように、文化祭においてはこういうのもいいと思う。
「それは知らなかった。どうりで、一人で食べても美味く感じないはずだ」
 合点がいったというように頷いた先輩と、私はそれからもお昼ご飯を分け合って食べた。先輩はいろんな食べ物を美味しそうに食べていて、私まで本当に美味しく感じた。

 食事を終えた後、私たちは最初に約束したように、お互い写真を撮り合うことにした。
「嫌なことは先に済ませてしまいたい」
 鳴海先輩が憂鬱そうに言ったので、まずは私が先輩の写真を撮らせてもらうこととなった。椅子に座った先輩に帽子屋さんの奇妙な帽子を被せると、先輩はわざとつばを引いて目深に被り、顔を隠そうとする。
「往生際が悪いですよ、先輩」
「……わかっている。冗談だ」
 意外にもそこで、先輩は笑った。笑いながらシルクハットのつばを摘んで持ち上げ、傾きを正した。
 カメラモードにした携帯電話を持つ私は、その先輩の笑顔を捉えようと身構えた。だけどすぐに笑みは消え、まるでこちらの思惑を読んだみたいに仏頂面を作られた。
「もう少し笑ってもらえませんか」
「俺の作り笑いは酷いぞ。とても見せられたものじゃない」
「なら、自然に笑ってください」
「無理を言うな。嬉しくもないのに笑えるか」
 駄々を捏ねる口調で言われたので、私は鳴海先輩の笑顔を諦めた。笑っていなくたって先輩はやはり素敵だし、生真面目な顔であの帽子を被っているギャップもなかなかいい。これはこれで貴重な思い出になりそうだった。
 私が写真を撮り終えると、攻守交代とばかりに先輩は席を立ち、さっさと帽子を脱いでしまった。そして私を椅子に座らせると、長いシフォンスカートのひだを整えたり、ブラウスの襟元を直したりと、まるで本職のカメラマンみたいにきめ細やかな下準備を始めた。
「先輩は几帳面ですね」
 されるがままの私の言葉に、先輩は真面目な調子で答える。
「どうせならいい写真を撮りたいからな」
 それはわからなくもないけど、先輩は自分が撮られる際は協力的でもなかったのに、撮る側に回るとこんなにも細やかになるんだからおかしい。私が笑いを噛み殺していれば、先輩は私の顎の下で結んだリボンに手をかけた。ハートの女王の為に、ボール紙と金の折り紙で作った冠だった。
「これは外してもいいか?」
 先輩が尋ねてくる。
「どうぞ」
 さすがに安っぽい出来だったから、気に入らなかったのかもしれない。私が頷くと先輩の長い指がするするとリボンを解き、たちまち冠が頭上から外された。
 冠を下ろした後、先輩は少し上の位置から私を見下ろしつつ、前髪を整えるように指先で梳く。あまり力を込めない指のかすめるような感触が、逆にとてもくすぐったい。一度指が滑るようにして私の耳に触れた時、つけていたイヤリングが揺れて微かな音を立てた。
「大槻の言っていた通りだ。髪型が変わると、雰囲気まで変わるな」
 先輩が私の目を覗き込む。
 真っ直ぐな眼差しが目の前にあるとわかると、場違いにどぎまぎしてくるから困る。ここは学校だし、今は二人しかいないとは言え、いつ誰が来るかもわからない教室の中だ。おかしなことを考えたり、思い出したりするのはよくない。
 でも意識してしまうと、かえって頬が熱を持ち始めて焦った。慌てて口を開いた。
「何ならいつも、この髪型にしましょうか」
 すると先輩はゆっくり首を横に振る。
「いや、いつものも悪くない。それに俺は、いろんなお前が見られる方がいい」
 一瞬だけ目を細めた先輩が、やがて私の傍から離れた。少し距離を置いた真正面の位置で王子様のように跪き、携帯電話のカメラを向けてくる。
「撮るぞ。少し笑え」
 愛想のない物言いだった。緊張も手伝ってか私が思わず吹き出すと、すかさず棘のある声が飛んでくる。
「笑いすぎだ。ほんの少しでいい、いつものように笑っておけ」
 そうは言われても、いつも自分がどんなふうに笑っているのか、私にはよくわからない。ただ笑いすぎだとは自分でも思うから、なるべく控えめに笑おうと努めた。
 シャッター音が教室に響いた。
 三回、立て続けに撮られた。すぐに先輩は画面に目をやり、写り具合を確認しようと操作を始める。満足いく出来のものがあったんだろうか。そこでふと、表情を和ませた。
 近頃よく見るようになった、柔らかくて、どこか嬉しげな顔つき。少しだけ笑んでもいるようだった。
 私はその顔を撮りたい衝動に駆られたけど、自分の携帯電話に手を伸ばす前に、先輩がこちらを向いた。
「いいのが撮れた。見てみるか?」
「是非お願いします」
 先輩が撮った写真を見せてもらう。携帯電話の四角い画面の中、つるつるしたサテンのブラウスと淡いピンクのシフォンスカートを身に着けた私はごく控えめに微笑んでいた。一歩間違えば証明写真のようなすまし顔は可愛さとは無縁で、いたって真面目そうに、そして落ち着き払っているように見えた。
「撮り直しますか?」
 あまりに可愛げがないので、私はつい先輩に聞いた。被写体が悪いといえばそれまでだろうけど、それにしたってもう少し笑った方はまともに写るんじゃないだろうか。
 ところが先輩は笑んで答えた。
「俺はこれがいい」
「そ、そうですか? 私はちょっと、どうかななんて……」
「知らないのか? お前は俺といる時は、いつもこういう顔をしている」
 言われて私はもう一度、先輩が撮ってくれた私をつぶさに検分した。いつも、こんなに可愛げのない顔をしているのだろうか。何と言うか、世の中の全ての事象は理屈で説明がつくとでも言いたげな、利口ぶっているような表情だ。
「こんな顔、してるんですか……。何かがっかりです」
「なぜだ。可愛いじゃないか」
 鳴海先輩はあっさりとそう口にして、私の呼吸を止めた。
 それから改めて携帯電話の画面を覗く。やはり柔らかい表情を浮かべて、いつもの私の顔を見つめる。
「この顔は、俺の話を聞いてくれる時の顔だ。話を聞いて、お前なりになるべく理解しようと努力してくれている時の顔だ。だから俺はこの顔が好きなのだと、最近気づいた」
 画面に写った私と違い、本物の私の顔は恐らく真っ赤になっていることだろう。先輩も見比べてみてからそれに気づいたようで、照れ笑いのような顔をした。
「俺といない時のお前は、もっと楽しそうな顔もするし、幸せそうな顔をしている時だってあった」
「そんなことないですよ!」
 私は即座に反論しようとした。先輩といる時だって楽しいし、幸せだし、むしろ誰といる時よりもそう感じている。それが私の顔に出ていないのだとしたら由々しき問題だ。これからはもう少し意識して笑うようにした方がいいだろうか。
 でも先輩は、そんな私を押し留めるように続けた。
「いや、わかっている。お前は俺といる時でも、いない時でも、いつでも幸せそうだ。それは別におかしなことでもないし、むしろいいことに違いない。俺としてもお前が一人で寂しそうにしているよりはずっといい」
 私が黙ると、先輩は小さく頷く。
「俺もかつては、なかなか割り切れなかった。お前が俺といる時より、他の奴といる時の方が楽しいと感じているなら、俺が傍にいる必要はないだろうと思っていたからな」
 予想だにしない言葉が続いて、私は呆気に取られた。先輩は気恥ずかしそうにしている。
「だが、今はそう思わない。今日一日、ずっとお前を見ていた。部長として働く姿や、ステージの上で芝居に打ち込む姿、そしていつでも楽しげにしている様子を見て、どうしてか俺まで誇らしくも幸せな気持ちになれた」
 そこまで一息に語ると、息継ぎの為か先輩は少し間を置いた。その間に私の目の前まで戻ってきて、先程と同様に片膝をつく。椅子に座る私と目線の高さを合わせるように。
「とても単純な理屈だ。お前の心を信じていればよかった」
 先輩は跪いたまま、穏やかに話し続ける。
「たったそれだけのことだった。お前が俺を選んでくれた事実を唯一のものとして、信じていればよかったんだ。お前がどう感じていようと、どんな顔をしていようと、俺を選び傍にいることを望んでくれたのは間違いないとわかった」
 そうして先輩は私に手を伸ばし、頬を撫でてきた。
「そんな単純な理屈に、どうして今まで気づけなかったのか。馬鹿だな、俺は」
 私の輪郭を確かめるように指の腹でなぞった後、手のひらで包むみたいに触れてくる。
 温かい。
「今日はとても楽しかった。いろんなお前を見られて、幸せだった」
 鳴海先輩が、いつも淡々と話す人が、万感を込めた口調でそう語った。
「この学校でこんなに楽しい思いをする日が、それも卒業してから訪れるとはな」
「先輩……」
 対照的に、私の発した声はかすれていた。
 何かが堰を切って溢れてきそうだった。
「全てお前のおかげだ。ありがとう」
 先輩がそう口にした直後からは、もう止めようもなかった。みるみるうちに視界がぼやけて何も見えなくなり、抑えの利かなくなった涙が頬から顎へ伝うのがわかった。先輩も気づいてはっとしたのだろう、頬に触れていた手が離れると、私も堪らなくなって眼鏡を外し、手の甲で目元を拭う。それでも止まらなかった。
「雛子? 一体どうした?」
 先輩の声が、今度はぎょっとしているのがわかる。
「違う、んです、私、嬉しくて……!」
 私は泣きながら訴えた。
 鳴海先輩とクラスメイトだったらよかったのに。ずっとそう思っていた。
 それは純粋に、先輩とできるだけ長く一緒にいられるように、同じ思い出を共有できるようにという願望から来るものでもあったし、過去の自分を省みた時、無力で発言権もない後輩という立場ではなく先輩と同学年だったなら、孤独な先輩にもっと寄り添うことができたのではと思ったからでもあった。
 でも先輩は言った。今日が楽しかった、幸せだったと。
 それだけで全てが、この学校で過ごした三年間の全てが報われたような気がした。願っていた事柄も抱え込んでいた事柄も、それ以上に素晴らしい現実へと置き換えられる形で叶った。過去がどうであれ、今の先輩は確かに幸せそうだ。私は先輩をようやく幸せにできたのだ。
「こちらこそ……あ、ありがとうございます、先輩……」
 しゃくり上げながら言った言葉がどれほど正確に伝わったかはわからない。
 でも先輩は、私の涙を手で拭おうとしてくれた。拭ってもきりがないほどだとわかると、椅子に座ったままの私の肩を掴み、そのままぎゅっと抱き締めてくれた。はっとした私が顔を上げようとしたら、強い力で押さえ込まれた。
「いいから、気にするな」
 切羽詰まったような声で先輩が言う。
「泣いているお前を放っておけるか。気が済むまではここにいろ」
 きれいな私を見てもらいたかったのに、最後の最後で何とみっともないことだろう。
 だけど、どうしようもなかった。嬉しくてしょうがなくて私は泣いた。泣き続けた。
 私の高校生活は、この学校で過ごした三年間は、鳴海先輩を追い続けた日々だった。
 本当に背中ばかり追い駆けた日も、並んで歩けるようになってからも、こうして抱き締めてもらっている今も、先輩のことばかり考えている。ここでは一年間しか一緒にいられなかったのに、不思議なくらいこの人のことでいっぱいだった。だからみっともないとわかっていても、先輩の傍でひとしきり、泣いてしまった。

 高校生活最後の文化祭において、感極まって泣き出す女子生徒など珍しくもない。
 そのせいか泣き腫らした顔をしている私を見ても、後輩たちもクラスの友人もあまり追及してくることはなかったし、傍に鳴海先輩がいれば尚のこと心配もされなかった。ただクラスの子には『後夜祭まで待ちきれなかったの?』なんてからかわれた。
 でもきっと、私は後夜祭では泣かないと思う。
「今日は家まで送る」
 結局帰り際まで残ってくれた先輩に、断固として譲らない口調でそう言われた。
「大丈夫ですよ」
 私がすっかり乾いた声で答えると、気遣わしげに睨まれた。
「駄目だ。そんな顔をしているのに一人で帰すわけにはいかない」
 自分の顔の惨状は既に鏡で見ている。ともすれば事件性を疑われ、警官に呼び止められそうな顔だった。私はそれでも迷ったけど、最終的に先輩の提案を受け入れ、家まで送ってもらうことにした。
 制服に着替えてから東高校を出て、先輩と二人で駅に向かった。先輩は特に戸惑うこともなく私の最寄り駅までの切符を購入し、初めて二人一緒に改札を抜けた。
「俺も高校時代は電車通学だった。覚えているな」
 木枯らしの吹くホームに立ち、電車を待ちながら先輩が尋ねてくる。私が泣いた後のひりひりする顔で頷けば、先輩は線路を挟んで向こう側、反対のホームに目をやった。
「帰る方向は違ったが、部活の帰りにはよくお前の姿を見かけていた。向こう側のホームから、こちらに立つお前をよく見ていた」
 懐かしむように語る先輩を、私は驚きながら見る。
 先輩が電車通学なのは知っていた。でもそれも先輩と付き合い始めた一年の冬に初めて知ったことで、それまでは先輩がどこに住んでいるのかすら聞いたことがなかった。先輩の在学中に何度か一緒に帰ったこともあったけど、駅に入ると先輩は短い挨拶だけして、一人でさっさと改札を潜ってしまうから、いつもすぐに見失ってしまった。
「なぜ見ていたのか、あの頃は自分でもよくわからなかった。入部してきた当初は、お前の名前すらなかなか覚えられなかったのにな」
 鳴海先輩は溜息と共に呟く。
「いつからなのかもわからない。ただ、向こうからお前を見かけた時の、何とも言えない気分だけははっきりと記憶している。お前がどこへ帰るのか、知りたいようで知りたくなかった」
 それは恐らく確実に、昔の話なのだろう。
 やがて滑り込んできた電車に、先輩と二人で乗った。長い座席に隣り合わせで座った。気を抜けばまた泣いてしまいそうで俯く私の手を、先輩がそっと取り、繋いでくれた。
 車内ではあまり話をしなかった。周りに人がいたからというのもあったし、がたがた揺れる電車の中は小声で話すのに向いていなかった。それに、これ以上の言葉は要らないような気もしていたからだ。
 先輩もそう思っていたのか、電車を降りて駅を出て、私の家のある方角へ道を辿り始めた時、久々に口を開いた。
「お前の書いたものを読んだ」
 既に星が浮かぶ空の下、先輩は私を見下ろしながら語る。
「あの展示にあったものは全て読んだ。文集に載せた短編はなかなかよかった。昔よりもずっと、まとまりのある話を書くようになったな」
「ありがとうございます」
 私もはにかみつつお礼を言う。文芸部に入るまで創作することに慣れていなかった私は、とりとめのない文章を書き散らすのが精一杯で物語の体をなさない代物を作り続けてばかりいた。今年は青春というテーマに随分助けられたような気がする。
「もう少し、書きたいものがはっきりしていたらもっとよかったんですけど」
 先輩との最も大きな違いはそこかもしれない。もちろん持って生まれた才藻、言葉の美しさだって先輩には敵うはずもないけど、私にはまだ書きたいもの、形にしてまで誰かに話したくなるような何かを見つけられていなかった。
 物語を作る人は皆、そういうものがあるのだろうか。誰かに伝えたいこと、聞いてもらいたいこと。だから物語は創られて、書店には次々と本が並び、それを聞いてくれる、読んでくれる人を待ち続けるのだろうか。
「卒業してからも続けるんだろう?」
 先輩に尋ねられ、私は歩きながら首を傾げる。
「わからないです。続けたいような気もするんですけど、でも続けたところでちゃんとしたものを作れるようになるかどうか……」
「迷っているなら続ければいい」
 すかさず先輩は勧めてきた。
「俺ももう少し、お前の書いたものを読んでみたい」
 何よりの言葉にまた涙腺が緩みそうになった。先輩が読んでくれるのなら、もう少し続けてみたいと思う。文芸部だって先輩がいなければ、三年間やり遂げることもできなかった。
「私の物語は、先輩からすれば都合がよすぎて、つまらないかもしれません」
 でも、一つだけ決めている。
 先輩好みの作風ではないだろうけど、どうせ物語を創るのなら、
「私は、夢のあるハッピーエンドのお話がいいって思うんです」
 今はまだ漠然としている、私にとっての書きたいものはそれだった。
 先輩は眉を持ち上げるようにして私の顔を眺めた。泣いた後の顔で笑う私をどう思ったか、呆れているようにも見えた。だけど言葉では、こう言った。
「お前にはその方が似合う。俺を幸せにしたように、今度はその物語で誰かを幸せにするといい」
 そんな夢のような話が叶うだろうか。
 私にそれだけの物語が書けるだろうか。自信はないけど――他でもない鳴海先輩には、いつかそう思ってもらいたい。私といる時と同じように、私の物語を読んでも幸せだと、思ってもらえるようになりたい。
 もっとも、しばらくは受験勉強に専念しなければいけないから、夢のような話も当面はお預けだ。現実と向き合う必要だってある。物語もそうだけど、私自身だってちゃんとハッピーエンドを迎えなければならない。もちろん、鳴海先輩と一緒に。

 先輩とは私の家の手前、十数メートルのところで別れた。
 別に家の前まで来てもらってもよかったのに、私が『あれです』とアイボリーの外壁の一軒家を指差し、そこに明かりが点っているのを見た途端、先輩は言った。
「じゃあ、ここで。ご家族に知られたらまずいだろうからな」
 私は先輩のことを、まだ両親に話していない。でも知られたくないとはもう思わないし、受験が終わったら話すつもりでいるし、何より名残惜しさからつい、先輩の手を掴んで引き止めた。
 鳴海先輩はまだ立ち去ろうとはしていなかったけど、明らかに困った顔つきになった。
「手を離せ。じゃないと、俺の部屋へ連れて帰るぞ」
 そんなふうに言われたらますます離しづらくなる。私がためらったのを見てか、先輩は苦笑した。
「馬鹿、お前がしっかりしてくれないと困る。こういう日は俺も、自制が利かなくなる」
 一瞬迷ったけど、結果的に私は先輩の手を離した。
 先輩はその手で私のひりひりする頬を一度撫ででから、独り言のようなトーンで言った。
「次はいつ、会えるだろうな」
 いつだろう。もう先輩を呼べるような学校行事もないし、部活動で帰りが遅くなることもなくなる。休みの日の外出は許されなくなるだろう。そもそも、そんな暇さえしばらくはなくなってしまうのだ。
「また、メールしますから。暇があったらお返事ください」
 私が言うと、先輩は頷いた。
「ああ。俺もする」
「たまには電話をしてもいいですか」
「少しだけならな。しかし夜更かしはするな、身体に障る」
「わかってます」
 私の答えを聞いた先輩は、私からそっと手を離した。そして二人で辿ってきた道を、駅へ向かって一人きりで歩き始めた。
 その背中を、だんだん小さく遠くなっていく後ろ姿を、私は見えなくなるまで黙って見送る。込み上げてくるどうしようもない寂しさと、追い駆けたくなる衝動が、ふと胸の中で何かと結びつくようにして弾けた。唐突に思った。
 いつか、あの人と、同じところに帰れるようになりたい。
 こんなふうにお互いの家の前で別れるんじゃなくて、同じ家に帰りたい。それは高校生の私には途方もなくて、それこそ夢のような話かもしれないけど、最上のハッピーエンドでもあると思う。それに、叶えようがないというほどではないとも思う。

 取るに足らない私にも、先輩を幸せにする力はあった。
 その力がいつか、こんな途方もない願いだって叶えてくれそうな気がする。
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