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霜月(4)

 窓という窓に暗幕が張られた体育館は、劇場に生まれ変わっていた。
 照明を落とせばバスケットのゴールも床のコートラインも体育倉庫への入り口も見えなくなり、非常口の誘導灯が緑色に光っている以外に名残りはない。いつもは埃っぽいばかりの館内には食べ物や化粧品やどこかで何かを焦がしたような匂いが入り混じり、実に非日常的だった。
 まだ下りている緞帳の隙間からステージ下を覗くと、整然と並んだパイプ椅子の客席に観客の姿が見える。ただし暗がりの中ではかろうじて前二列がわかる程度で、そこに腰かけているのも制服姿の在校生がほとんど、あとはせいぜい父兄と一目でわかるような一張羅の大人たちがいるくらいだった。客席がどれほど埋まっているかはわからない。ただ幕が上がるのを待つ人たちのざわめき声がいやに大きく聞こえた。
 鳴海先輩はどの辺りに座っているのだろう――私はこっそり目を凝らしてみたけど、私の視力の悪さを差し引いたって見つけられるはずがないのも知っていた。先輩なら絶対、最前列には座らない。きっと隅の方からひっそりと私を見守っていてくれることだろう。私があんまり緊張していたら、先輩にもはらはらさせてしまうかもしれない。お芝居を楽しめないかもしれない、とまで言われていたから、ここは精一杯頑張って、先輩にもちゃんと楽しんでもらえるようにしよう。
 先輩は必ず見に来てくれている。見つけられなくてもわかる。
 だから私は覗いていた緞帳の隙間から離れ、アナスタシア役の初期配置に着いた。隣に立つドリゼラとトレメイン夫人、そしてステージ中央で箒を持つ、主役たるシンデレラとそれぞれ引きつった笑みを交わし合う。お互いに着飾って化粧もばっちりなのに、揃って緊張しているのが少しおかしい。
 ステージ上には全ての用意ができている。立派なお屋敷のセット、溜まった洗濯物、朝食のテーブルに積み重なった食器類、ステージ前部に立つ二本のスタンドマイク、それらを余さず照らし出す眩しいほどの照明。やがて幕開けらしい荘厳なBGMが流れ出すと、緞帳がゆっくりと開き、私の目の前に薄闇に溶け込んだ客席が広がっていく。目を凝らしても見えないその向こうに鳴海先輩がいるのだと思うと、自然と胸を張ることができた。
 先輩に、なるべくきれいな私を見てもらいたい。今思うことはそれだけだった。

 義姉アナスタシア・トレメインは、残念ながらきれいな役柄とは言いがたい。
 むしろ立ち位置は同情の余地もない悪役だし、噛ませ犬だ。シンデレラに家事を押しつけ自分は全く手伝わず、そのくせ懸命に働く彼女を馬鹿にしたりと酷いことばかりする女性だ。私に演技力があれば憎々しげに演じることもできたのだろうけど、残念ながらそんなものは皆無だ。だから他の役の子と相談して、演技力がないなりに憎らしく見えるよう工夫してみたつもりだった。
 箒をかけるシンデレラをわざと突き飛ばしてみたり。
 たらいの前にしゃがみ込むシンデレラの頭の上から洗濯物をばら撒いてみたり。
 シンデレラの亡き母の形見のドレスを破いてやったり、品のない落書きをしてみたり。
 義母と義姉たちの振る舞いは暴虐の限りを尽くしており、純真な心を持つシンデレラは黙々と立ち働きながらも自らの境遇に涙する。彼女を慈しんでくれた母はとうになく、父も最近この世を去ったばかりだ。健気な彼女に救いの手を望むのは、当然の流れと言えるだろう。
 魔法をかけられたシンデレラが美しくあるのは、きっとそこに理由があるのだと私は思う。不幸な境遇に置かれても誰も恨まず、僻まずにいた彼女の心の美しさが、魔法によって引き出され、表に現われたのだ。
 だから私自身も、シンデレラのようにありたいと思う。いつでも胸を張っていたい。心ごときれいになりたい。鳴海先輩の手元には、一番きれいな私の姿を残しておいてもらいたい。
 写真に残せば、必ず記憶にだって残ってしまう。いつか二人で振り返った時、みっともない姿で残っていたら、ちょっと格好つかないから。
 もっとも、劇での私が格好ついていたかと言えば決してそんなことはなかった。華やかな舞踏会に場面転換した後、気乗りしない様子の王子様の手を強引に取り、ダンスへと連れ出すシーンでのことだ。私は王子様に手を振りほどかれた拍子、よろけて派手なしりもちをついた。どしん、という衝撃音が運悪くマイクに拾われてしまうと、客席はどっと笑いに包まれ、私は自分でも笑いを堪えるのに必死になりながら立ち上がる。王子様役の男子は助け起こそうとしてくれたけど、王子がアナスタシアに手を差し伸べるのはおかしいから断ったら、両手を合わせて謝られた。
 その他にも台詞を噛んだり、たびたび浮かぶ思い出し笑いに苦しんだりと些細な失敗は事欠かなかったものの、それでもお芝居は順調に終幕へと向かった。
 ラストシーンでガラスの靴を見事に履いてみせたシンデレラを見て、私はアナスタシアとして大いに悔しがり、地団駄を踏んだ。恥ずかしさはあったけど、耳元でちりちり音を立てるイヤリングに励まされ、どうにかやり遂げることができた。後でクラスの友人にも『いい地団駄だった』と誉められた。

 そうして無事に幕は下りた。
 ステージも下りて、教室でクラスメイトとひとしきり労い合った後、私は文芸部の展示へ戻ることにした。
 早く先輩に会いたい、会って劇の感想を聞きたい。その一心で廊下を急ぐ。クラスメイトの中には早々と着替えを済ませていた子もいたけど、私はせっかくだからと舞踏会用の衣裳のままでいることにした。これも先輩に誉めてもらいたいという思惑があってのことだ。
 その鳴海先輩は一足先に戻ってきていたらしく、文芸部の展示がある教室前の廊下、うさぎ穴のちょうど真正面に立っていた。私は先輩の姿ならどんな遠くからでも、どんな人混みの中でも見つけられる自信がある。ちょうど今もごった返す人波の向こうにすらりとした姿を見つけて、そうしたら思わず声が出た。
「先輩!」
 すると先輩ははっとしたようにこちらを向き、同時に先輩の傍にいた誰か――少し小柄な男性も振り返って、途端に見覚えのある人懐っこい笑みを浮かべた。
「あっ、雛子ちゃん!」
 大槻さんだった。
 東のOBではない大槻さんと、まさか校内で会うとは思ってもみなかった。私は驚きつつも二人に駆け寄り、鳴海先輩が気まずげに私を見たのを確かめてから大槻さんに挨拶をする。
「こんにちは、大槻さん」
「こんにちは」
 笑顔で挨拶を返してくれた後、大槻さんは目を丸くして私を眺めた。
「髪型違うと雰囲気変わるね。それにすごく華やかな格好してるけど、仮装か何か?」
 そう言うからには、大槻さんはC組の劇を見ていたわけではないようだ。先輩ともたった今、出会ったばかりなのかもしれない。お一人で来たのだろうか。見たところ、ここには先輩と二人だけのようだけど。
 大槻さんと会うのも、そういえば七月以来、先輩のバイト先を訪ねていったあの日以来だ。そして先輩は最近、大槻さんに散々からかわれたという話だった。先輩の気まずそうな顔はそのせいかもしれない。
 私はなるべく気にしないようにして答えた。
「劇に出てたんです。シンデレラの」
「へえ。もしかして雛子ちゃんが主役?」
「違います。私は意地悪なお姉さん役です」
 それを聞いた大槻さんは意外そうに笑った。
「マジで? 全っ然イメージできないけど……あ、劇、もう終わっちゃった?」
「はい、無事終わりました」
「そっか……。しくじった、見てみたかったなあ」
 悔しさをあらわにする大槻さんが、その後で私の姿をしげしげと見る。いつも愛想のいい顔が一層嬉しげにしていた。
「でもその格好が見れただけいいや。似合うねそれ、舞踏会用のドレスとか?」
「ありがとうございます。ドレスを作る余裕はなくて、こんな感じなんです」
「うんうん。そうやって肌出してると、なかなか色っぽくていいね」
 先輩にも言われたことのないような誉め言葉だった。私はもじもじしながら、別にずれてもいなかったキャミソールのストラップを直しておく。
 舞踏会に出る役の女子は肩を出す服装にしようと皆で決めていて、私も場面転換の間にブラウスを脱ぎ、上はキャミソール一枚、下は例のシフォンスカートでステージに立った。寒くないかという不安もあったけど、緊張感と目映いほどの照明の中ではちょうどいいくらいだった。
 このキャミソールも今日の為に購入したものだ。ブラウスよりも落ち着いた素材で、深みのあるピンクに白いレースの縁取りが可愛くて気に入っている。レースの色をイヤリングと合わせたのもよかったと思う。普段なら夏だろうと肩も背中も出して歩くのは抵抗あったけど、仮装となれば案外平気だった――つもりでいたけど、大槻さんに言われ慣れない言葉をかけられて、今頃になって気恥ずかしくなってきた。
 鳴海先輩はどう思うだろう。一番気になるのはそれだ。可愛いと思ってもらえるか、みっともないと思われてしまうだろうか。あるいは大槻さんと同じように思ってくれたりしたら、嬉しいけど少し困るかもしれない。
 こっそり窺い見てみたら、ちょうど先輩もこっちを見ていて、目が合った瞬間慌てて逸らされた。逸らされたまま言われた。
「寒くないのか、そんな格好をして」
 ややきつめに叱る口調だった。
「いえ、今のところは暑いくらいです」
 私が答えると、渋い顔をしながら息をつく。もちろんこちらは見ない。
「いいからさっさと着替えてこい。大槻みたいなのにおかしな目で見られる」
 先輩はそう言ってから大槻さんを睨み、大槻さんは不本意だと言うように目を剥いた。
「人のこと言えんの!? 鳴海くんだってさっきからちらちら何度も見てんだろ!」
「そんなには見てない!」
 すかさず先輩が慌てた様子で怒鳴り返す。
「いいや見てたね。つか、そっちの方がよっぽどおかしな目だったね」
 大槻さんは形勢有利と見たかにやりとした。
「普通に考えて、横目でちらちら見てる方がやらしいじゃん。見たいけど見たら格好つかないから、見てないふりしつつしっかり観賞してるのとかさあ」
 追及の手を緩めない大槻さんに、さしもの先輩もうっと詰まった。
 二人は大学でもこんな調子なんだろうか。こういう会話を聞く限りでは、うちのクラスの男子たちとあまり変わりがないようにも思えた。案外と先輩も、私の知らないところでは普通の男の子同士みたいなやり取りを繰り広げているのかもしれない。
「その点俺なんてオープンですから。こそこそせず堂々と見て楽しんじゃいますから」
 そう言って大槻さんは胸を張ると、話についていけない私に水を向けてくる。
「雛子ちゃんもそう思うだろ? 下手に隠さず堂々と眺めてる方が格好いいって!」
「……そうでしょうか」
 別に格好よくはないと思う。どちらも。
 でも私は先輩に見られるのは嫌じゃないし、そもそも見せる為に着替えもせず戻ってきたのだから、それこそ堂々と見てくれたらいいのにとも思う。先輩の方も、大槻さんの前だからあまりそういうふうに振る舞えないだけかもしれないけど。
「もういいから、大槻は向こう行け」
 どっと疲れが出たのか、先輩はだるそうな口調で大槻さんを追い払おうとする。そこでも大槻さんは言い返したそうにしていたけど、
「時間はいいのか。約束があると言っていたのに」
 先輩に言われて思い出した様子で、慌てふためきながら時計を見る。
「うわ、そうだった! そろそろ行かないとまずいな」
「これからどこかに行かれるんですか?」
 私が尋ねると、大槻さんはやはり人懐っこい顔で答えた。
「実は今日、楽団の連中と来てるんだ。ここ出身の奴がいてさ、後輩の演奏聴きに行きたいって言うんで、付き合いでね」
 後輩、と言うなら考えるまでもなく、吹奏楽部のことだろう。プログラムによればこの後に演奏が入っていたはずだ。大学に入るとそういう繋がりもできるのか、と窺わせるような言葉だった。
「ちょっとだけ時間あったから、そういえば雛子ちゃんも東高だよなって思って文芸部探してみたんだけど、まさかOBまでいるとは思わなかった」
 そう言って大槻さんはにこやかに先輩を見る。先輩が睨むとたちまち首を竦め、
「じゃあ俺は行くから、鳴海くん、あとは雛子ちゃんを独り占めしてていいよ。何だったら人気のないとこに連れ込んだりとかさ」
「大槻!」
 先輩が大声で咎めてもどこふく風で、大槻さんはげらげら笑いながら廊下を歩き出す。小柄な後ろ姿は人波に遮られ、直に見えなくなった。
「全く、こんなところであいつに出くわすとは」
 鳴海先輩はくたびれきった様子で息をつく。
「あの帽子を被ったところを見られていたら、何を言われたかわからんな」
 その言葉通り、今の先輩は『十シリング六ペンス』の帽子を被っていなかった。恐らく体育館へ行く前に、観劇の邪魔だからと外したのだろう。大槻さんがあの素敵な帽子屋さんを見たら何と言ったか、先輩には申し訳ないけど私は是非聞いてみたかった。
 私もそれでようやく、先輩に聞きたかったことがあるのを思い出す。
「先輩、見てくれました?」
 尋ねてみたら、なぜか先輩はうろたえたようだ。
「な、何をだ! 俺は、そんなには見てないとさっきも――」
「劇についてですよ」
「……ああ、何だ。そっちか」
 胸を撫で下ろすようにしてから、先輩は未だ気まずげに言葉を継ぐ。
「もちろんちゃんと見ていた。お前が派手に転ぶところもな」
「すごい音しましたよね」
 あれは思い返すとすごくおかしい。自分のことなのに笑ってしまう。
「台本通りだったのか、あれは」
「いいえ、バランス崩して転んじゃったんです。私もそうですけど、王子様役の子も緊張してて」
 傍から見れば見事なまでの拒絶だったことだろう。ああも派手に振られてしまったアナスタシアは、因果応報とは言え少々かわいそうだ。あんまり言うと王子様が気に病みそうだから、クラスでは言わないようにしておくけど。
「災難だったな。痛くなかったか?」
 むしろ鳴海先輩が気を揉んでいるようだった。心配そうに尋ねられた。
「そこそこです。痛さよりも何と言うか、笑いを堪えるのが辛くて」
「何ともないならよかった。怪我でもしていたらと気になっていた」
 結局、先輩をはらはらさせてしまったようだ。楽しんでもらおうと思っていたのに、ちょっと失敗だったかもしれない。
「心配かけてすみません。先輩にはもっとゆったり見てもらいたかったんですけど」
 私がそう言うと、鳴海先輩は静かにかぶりを振る。
「気にしなくていい。楽しめなかったわけじゃない」
「本当ですか?」
「ああ。その格好も、芝居に打ち込んでいるお前も、可愛かった」
 言われたことのない誉め言葉だった。少なくとも、鳴海先輩からは。
 どきっとして、思わず唇を結んだ。だけど先輩は意識していないのか、あるいはそこまで特別な言葉だと思ってもいないのか、いつもの淡々とした口調で続けた。
「思えば久し振りだな。あんなに遠くにいるお前を眺めていたのは」
「え……?」
 どういう意味だろう。私は一層戸惑う。
「昔は測り知れない距離を感じて、何とも言えない気分になったものだが、今はそうでもなかった。むしろ、幸せな思いがした」
 しみじみ語った先輩は、その後でここのところよく見せる柔らかい表情を向けてきた。
 が、すぐに私の剥き出しの肩に目を留め、面食らったような顔になる。
「と……ところで、いい加減着替えてきたらどうだ。その格好は確かにいいが、ずっとそれでいるのはどうかと思う」
「先輩にせっかく誉めてもらったのに、着替えなきゃいけませんか?」
 私が聞き返すと、諌めるように眉を顰めてくる。
「当たり前だ。人前でそんな格好をするな、じろじろ見られるぞ」
 そうだろうか。私は異論を抱いたけど、そういえば確かに廊下で通り過ぎていく人たちがちらちらこっちを見てくるようだ。それはもちろん、仮装をしているからというのが第一の理由だろうけど、さすがに恥ずかしいかもしれない。
「それに、俺もつい視線が行くと言うか、どうしても見てしまうから……」
 更に先輩がもごもごと続けた。
「格好つけたいわけではないんだが、やはり目の毒だ」
 言いにくいことを、それでもちゃんと伝えてもらって、私はくすぐったい気分になる。もちろんすぐに頷いた。
「そういうことなら着替えてきます」
 途端に先輩はほっとしたようだった。
「ああ。戻ったら何か買ってきて食べよう、俺も昼はまだなんだ」
「わかりました。じゃあ、ここに戻ってきますから、また後で」
 脱いだブラウスはC組の教室に置いてきた。あれをもう一度着てこようと、私が踵を返そうとした時、
「雛子」
 先輩の声がどういうわけか、私を呼び止めた。
 振り向けば先輩は着ていたジャケットを脱いでいて、それを私の肩に、まるで覆い隠すように厳重に被せた。そうして生真面目な口調で言う。
「着ていけ。お前にその格好でうろうろされるのも、心配でしょうがない」

 いつもなら、考えすぎじゃないだろうかと思うところだけど。
 可愛い、なんて言ってもらった後だ。そういう心配もちょっと嬉しくて、私は緩む口元を隠すように俯きながら歩き出す。袖の長いジャケットは着ていると温かく、そしてほのかに先輩の匂いがした。
 先輩の目に、ステージ上にいた私はどう映ったのか、後でじっくり聞き出してみよう。すっかり遅くなってしまったお昼ご飯を食べながらでも。
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