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神無月(5)

 秋雨がさらさらと降る音は、耳に心地よかった。
 室内は締め切られていたけど、今は温かい紅茶の香りが一面に漂って、とてもいい匂いがしていた。
 この部屋の空気は決して悪くない。窓の向こうに広がる雲もそれほど暗い色ではなく、おかげで明かりを点ける必要はなかった。私は雨が嫌いなわけではないから、こうして黙って雨音を聞いているのもいいものだと思う。傍に先輩がいるなら尚のこと素晴らしい。
 だけど先輩はそう思っていないようだ。耐えられそうにない、とまで言われたこの場の空気が雨によってもたらされたものなのか、あるいは私のせいなのかも判然としない。先輩がそんなことを言い出すまで私はこの部屋の居心地をいいものだと思っていたし、私と先輩の間にも特に空気を悪くするようなやり取りはなかったはずだ。
 直前に話していたのは箱入りのチョコレートについてだった。まだ手をつけていないすべすべのチョコレートを一度見下ろしてから、私は改めて先輩を見た。
 先輩は、まだ横を向いている。
 でも少ししてから、私の問いには答えた。
「お前には申し訳ないことをしたと思っている」
「え!? な、何ですか急に」
 唐突な切り出し方に私は狼狽した。近頃何か、先輩に謝ってもらうような出来事があっただろうか。考えてみたけどすぐには思いつかない。
 でも、今の言葉は謝罪の前置きのようだ。どうして先輩はこんなことを言い出したのだろう。
「仕出かした以上は腹を括り、墓場まで持っていくつもりでいたが……」
 私の疑問を置き去りにして、鳴海先輩は苦渋の表情で語る。
「どうやら俺にもなけなしの良心があったらしい。何も知らないお前を見ていると、どうにも息苦しくてたまらなくなってきた。今日が潮時だと思った」
 その内容もやけに穏やかではない。先輩の良心が咎めるようなこととは何だろう。私が知らないと言うのだから、考えても仕方のないことではあるけど、私まで息苦しくなってしまう。
 動揺から立ち直れない私が見守る中、先輩はようやくこちらを向いた。ただ表情はやはり強張っており、とても辛そうだった。薄い唇がためらいがちに次の言葉を紡ぐ。
「俺は、お前に隠し事をしている」
「えっ……」
 私は息を呑んだ。

 もともと鳴海先輩は私に対して大変秘密の多い人だった。
 自分の気持ち一つとってもなかなか口にはしてくれないし、特に恋愛感情に関わる内心を打ち明けてくれる機会は本当に稀で、奇跡のようなものだった。そのくらい気軽に言ってくれればいいのにと、何度も思ったことがある。
 ただ、先輩はそれ以外の事柄に関しても秘密をたくさん持っている。例えば先輩の家庭環境については先々月に少し教えてもらっただけで、私が知らないことはまだまだたくさんある。それは私も無理に聞き出すべきではないとわかっているし、むしろ先輩が近頃ぽつぽつと話してくれるようになっただけでも十分だった。
 前にも思ったように、鳴海先輩の人生を一冊の本とするなら、私はそのわずかなページを読ませてもらっただけにすぎない。
 もう少し触れてみたい、知りたい気持ちも確かにあるけど、それ以上に大切なのは、この人が私に読ませてくれるという意思そのものだ。先輩が私に自分自身について伝えたいことがあると思ってくれたのなら、その思いこそが私には嬉しい。

 しかし今回の話はどうだろう。隠し事というフレーズ、そして前置きに謝罪の言葉が来たことで、私の内心には一抹の不安が過ぎった。先輩は私に何を告げようとしているのか。
「隠し事って何ですか」
 私が尋ね返したところ、先輩はその問いが信じがたいというように瞠目した。
「そう聞かれてたやすく答えられるなら、そもそも隠したりはしない」
「そ、それはそうですけど」
 間違ってはいないけど、先程のはいかにも嵐が吹き荒れそうな火蓋の切り方だった。私は先輩を真面目な、そして誠実な人だと思ってきたけど、先輩は私の信頼を裏切ったと言わんばかりの口調をするから、こちらだっていろいろ考えてしまう。
「まさか……」
 私は恐る恐る、考えられる最悪の可能性について言及した。
「先輩に、他に好きな人ができた……ということではない、ですよね?」
 途端、先輩は再度目を見開いた。ただし今回は呆れた様子で、鼻の頭に皺を寄せる仕種もセットでついてきた。
「あり得ると思うか? そんな馬鹿げた話」
「い、いいえ。一応可能性として聞いてみただけです」
「お前一人にここまで手を焼いているくらいだ。他の女に目を向ける余裕などない」
 今の回答には多少反論したい部分もなくはない。けどきっぱり否定してもらえたことにはひとまず安心できた。よかった。
 そういう類の話でないのなら、後はどんな隠し事を明かされても受け止められる自信がある。私は深呼吸をしてから続きを促した。
「では、どういうことなんですか?」
 すると鳴海先輩は眉を顰めて視線を落とす。
「言いにくいことなんだが……」
 本当に言いにくそうにしながらも、言わなければならないという使命感、あるいは良心の呵責と戦っている様子が表情から読み取れた。座卓の上をうろうろと彷徨う視線、膝の上で血の気が引くほど握り固められた拳、震える肩、そしてよほど感情が高ぶっているのか、わかりやすく上気している頬。そのどれもが内心の葛藤を窺わせていた。
「八月の、旅行の話だ」
 まず、先輩がそう言った。
「お前を連れてあの田舎へ出かけた時のことを覚えているな」
「はい」
 つい先々月の話だ、忘れているはずがない。私は即答した。
 私の答えを受け、先輩が慎重に話を継ぐ。
「あの時、俺はお前に、不埒な行為を働いた」
 何とも、反応しがたい打ち明け話だった。
「ふ、不埒な……?」
 先輩の言葉をおうむ返しにした後で、私は困惑する。不埒な行為と一口に言ってもいろんなケースがあるだろうけど、これは、つまり、そういう解釈でいいのだろうか。
 だけど先の旅行についてはほとんど何もなかったという印象の方が強い。先輩の言うような出来事は果たして本当にあったかどうか。
「そんなこと、ありました?」
 私は率直に聞き返した。
 それに先輩は苦々しく答える。
「厳密に言えば、途中で思い留まった。だからお前が知っているはずはない」
「そうなんですか……」
 残念です、という本音が喉まで出かかった。
 とは言え鳴海先輩と不埒という単語はなかなか結びつかないし、何をしたのか、されたのか、私自身がぴんと来ていないのだから反応しようがない。もしかしたら不埒は不埒でも、もう少し健全な――たとえば私の携帯電話の受信メールを盗み見ようとしたとか、そういう類の行為かもしれない。もっとも、そんな鳴海先輩だって到底想像はできないものの。
「一体、何をしたんですか」
 これも、単刀直入に尋ねてみた。
「そう次々に聞くな。言いにくいから言いよどんでいるのがわからないのか」
「でも、聞かないことにはどうとも判断できませんし」
 先輩は焦っていたようだけど、ここまで来たのだから洗いざらい話してもらう方が早いと思う。恐らくは先輩が不埒だと思っているだけで、実情は他愛ない、誰にでもありそうな行動でしかないだろうけど。
「……わかった。今から言う」
 長い長い溜息をつき、鳴海先輩は私を見た。
 今日ばかりはその眼差しも、まるで縋るような弱々しさだった。
「その、お前が寝ている時、むしろあれは寝入り端だったか。……ともかく」
 歯切れ悪くも語られた一部始終について、
「お前の寝顔を見てやろうとしたら、つい魔が差した。つまり、その時に――」
 先輩が全て話し終わらないうちに、私の脳裏にもひらめくものがあった。
 もしかして。
 鳴海先輩の言おうとしている不埒な行為というのは、つまり。
 あの夜、先輩は私を寝かしつけようとして、布団の傍に座りうちわで扇いでくれていた。まだ寝るには早い時間だったし、私はもう少し起きていたかったのにすげなく断られ、不承不承布団に入った。もちろんすぐに寝つけるはずもなく、かと言って眠れない間中ずっと扇ぎ続けてもらうのも悪いと思ったから、寝たふりを敢行することにした。先輩は私が寝たのを確かめて、部屋を出て行こうとした。
 その時に――。
「え、ええと、先輩。ちょっといいですか」
 まるでつい昨日のことのように蘇る記憶を背負いつつ、私は口を開いた。
 ただでさえ言いにくい話の腰を折られ、先輩は困り果てているようだ。だけどそれなら私の方こそ打ち明けなくてはならない。
「あの、私、知ってました」
 今度は、先輩がぽかんとした。
 理解が追い着いていない様子なので、説明を添えてみることにする。
「先輩こそ知らなかったでしょうけど、私、あの時、起きていたんです」
 恐らく私の方の告白には、爆弾並みの破壊力があったようだ。
「はっ?」
 疑問とも叫びともつかない声を上げた後、先輩の薄い唇は驚きの形のまま開いていた。その代わり表情がみるみる変化していく。困惑の色が驚愕に変わり、更に動揺まで辿り着くと、額には汗が滲み始め、喘ぐような言葉が漏れた。
「いや、まさかそんな……そんなはずはあるまい。お、起きていただと?」
「はい。あんまり寝つけなくて、でもずっと扇いでもらうのも悪いと思って」
 私の言い訳を聞いた先輩も、ようやく事態を飲み込み始めたらしい。非常にショックを受けた様子で、座卓の上に身を乗り出すようにして私を問い詰め始めた。
「なぜ黙っていた!? あ、あの時だって、声を上げるくらいはできたはずだ!」
「そ、そんなこと言われても、できないですよ普通」
「それになぜ今の今まで秘密にしていた! 非難でも何でもすればよかっただろう!」
「非難なんて、そもそもそんな必要ないですし……」
 あの状況で何かできたとは思えない。すぐに起きていることを知らせたらよかったのかもしれないけど、そうしたところで鳴海先輩は今と同じく自責の念に駆られてしまうだろう。それに私だって鉄の心臓の持ち主ではない。いきなりあんなことをされたら、身動きが取れなくなったって仕方ない。
 でも、これだけは言っておきたい。先輩の為にも、私自身の為にもだ。
「私、嬉しかったです」
 なるべくはっきり告げようと思っていたのに、声が震えてしまった。
 後に続く言葉はせめて、聞き間違われないよう想いを込めることにする。
「だから非難はしません。先輩にも不埒な行動だと思って欲しくありません」
 できれば今度は私が寝ている時じゃなく、起きている時にして欲しい。もし寝たふりじゃなく本当に寝入っていたとしたら、すごくもったいないと思うから。――そんな胸中も、さすがに言葉にはできなかったけど。
「馬鹿なことを、言うな」
 鳴海先輩は眩暈を覚えたみたいに目を伏せる。たどたどしく言った。
「昔から思っていたがお前は、そういう勘の鈍さ、隙のあるところがよくない。直せ。俺が思い留まっていなかったら、一体どうなっていたかわからんぞ」
 当の先輩にお説教されてしまうのも妙な感じがする。大体、私は繰り返し言われるほど鈍くはないと自覚しているし、誰の前でも隙があるわけではない。
 そこまで考えてふと、先輩はさっきも『思い留まった』と口にしていたことに考えが及んだ。でもあの夜、先輩は私にキスしていた。思い留まったと言うなら、それこそ本当に何もされていないはずじゃないだろうか。
 もし先輩が思い留まっていなかったら、どうなっていたんだろう。
「……だから言ったんだ。俺はお前にとって有害な人間にもなり得る」
 言われるほど鈍くない私が赤面するのを見てか、先輩も心やましいというように眉を顰めた。
「旅行を終えてからのこの二ヶ月、ずっと考えてきたことだ。二度とおかしな考えが頭を過ぎらないよう、お前とも距離を置こうと思っていた。少なくとも、お前が受験生のうちはな」
「二ヶ月も……ずっと、だったんですか」
「そうだ」

 いくつかの疑問、釈然としなかった思いが氷解した。
 あの旅行から戻り、その後約一ヶ月もの間、私が連絡を取るまで先輩からは何の音沙汰もなかったこと。
 顔を合わせた時、あるいは電話などでも、先輩が事あるごとに『会わない方がいい』と主張していたこと。
 今日もこの部屋へ来る前に、しきりと抵抗を示していたこと。なるべく長く留まりたくないそぶりを見せていたこと。そして私の視線から逃れたがったり、二人でいる空気に耐えられないと口走っていたこと――。
 疑問は解けた。
 でも、別の意味で変だと思う。
 そんなことでずっと、二ヶ月も悩んでいたなんて。

「先輩こそどうして、私に黙っていたんですか」
 おかしくなって私は少し笑った。
 そのせいか、先輩にはぎょっとされてしまった。
「言えるわけがなかった。俺がお前に対していかがわしい感情を持っていることを知られたら、軽蔑されるものと思っていた。そのくらいならまだ黙っているべきだろう」
 そしてくたびれた様子で肩を落とす。
「だが、結局は言ってしまったな。我ながら悪手を打ったものだ」
 沈む先輩とは対照的に、私は浮かれたいような、でもものすごく気恥ずかしいような気分だった。浮つきがちな自分を誤魔化す為、チョコレートに手を伸ばした。でもせっかく買ってもらったチョコレートは、緊張のせいであまり味がわからなかった。
 こういう時は素直に喜んでしまっていいのだろうか。先輩の悩みは世間一般の恋人同士らしいありふれた悩みだから、その点はちょっと嬉しい。興味も持たれないよりは何倍もいい。
 ただ世間一般の恋人同士は、ここまで真面目に話し合ったりはしないような気もする。と言っても私はろくな恋愛経験もないし、そういう類の知識は小説本頼みだ。物語に出てくる恋人同士は大概スマートで、愛を語る場合も喧嘩をする場合ももっときれいにやり遂げる。そして関係の進展だって実にさりげなく済ませてしまうので、実用知識として役立つものはなかなか見当たらなかった。
 だから私は反応に困り、チョコレートを飲み込んだ後はひたすら硬直していた。顔が紅潮するのを感じつつも、黙って先輩を見つめているしかできない。もう少しわかりやすく恥じらった方が可愛く見えるのかもしれない、と頭ではわかっていても身動きが取れなかった。
 先輩は開き直ってしまったのか、自棄気味に続けた。
「前にも尋ねていたはずだ。俺が、お前の考えるような理想的な人間ではなかったら、お前はどう思うのかと。失望はしないかと」
 私もそう問われた時のことを覚えている。奇妙な質問だと思ったし、その時に味わった不思議な甘い空気をしばらく引きずる羽目にもなった。
 でもまさか、そういう意味の問いかけだったとは。
 やはり私は勘が鈍いのかもしれない。
「だがお前はよくわかっていないようだったし、俺を買いかぶって無闇に尊敬している様子も窺えた。それなら俺は、お前にとって理想的な人間であらねばならないと思い、なるべくそう振る舞ってきたつもりだ」
 まくし立てる先輩は、そこで苦しそうに顔を歪めた。
「俺も……」
 パーカーの胸元を何か堪えるように片手で握り、尚も語る。
「俺だって、そうすべきだと思ってきた。お前を失いたくないのなら、馬鹿な考えは持つべきじゃないとわかっていた。あんなもの、どうにか誤魔化して、やり過ごしてしまえる程度の感情だと思っていた……見くびっていたのかもしれない」
 どうやら私が思っている以上に、先輩は事態を深刻なものと捉えているようだ。溜息混じりに言った。
「いっそ、なくなってしまえばいいのに。この身体がなくても、お前を想い、慈しむことはできるだろうに」
 先輩の言葉を、考えすぎだと笑い飛ばすのは簡単だろう。
 でも私は、この人のことを知っている。ほんの少しだけだけど、先輩の人生の数ページを開き、過去を教えてもらったことがある。
 先輩はかつて、とても寂しい思いをしてきた人だ。
 私が傍にいる以上はそんな思いをすることもないのだと、寂しい気持ちには決してさせないと、はっきり伝えなければならない。私を失う心配も、壊れてしまう可能性だってないのだと、わかってもらわなければならない。

 だから私は立ち上がり、座卓を挟んで向かい側に座る先輩の真横に腰を下ろした。正座をして先輩に向き合い、眉根を寄せてこちらを窺う先輩の印象的な瞳を覗き込む。薄暗い部屋では、先輩の両目にはいつものような鋭い光はなく、ただただ深い闇の色に見えた。
「じゃあ次にそう思った時は、私にも聞いてみてください」
 柔らかい雨音が満ちた中、私は先輩にそっと告げた。
「私の気持ちも尋ねてください、先輩。そうしたら、そんなに悩む必要がないってわかります」
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