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神無月(4)

 二十二日の朝はあいにくの曇天模様だった。
 晴れるなら晴れる、降るなら降るではっきりして欲しいものだ。家を出るまでは空に低い雲が垂れ込めているだけだったから、私は先輩に電話で確認を取り、戸外で過ごしても支障がないようにがっちり着込んで出かけた。
 ところが電車に乗り、待ち合わせ場所である先輩の最寄り駅まで向かう途中で、雨がぱらぱら降り出した。日曜の午前中とあって車内は楽に座れるほど空いていたけど、車窓に張りつく雨粒を見た瞬間、浮かれていた気分ががくっと落ちた。低空飛行の雲は空一面をくまなく覆い尽くしていて、雨が止む可能性はあっても晴れる可能性は期待できそうにない。
 雨の日が嫌いなわけではなかった。ピクニックの予定が流れてしまうのは残念だし、初めからわかっていればアウトドア向きの服装ではなく、もっと可愛い格好をしてきたのにと足元のスニーカーを見下ろしつつ思う。それでも鳴海先輩に会えないわけではない。雨天の場合の予定も考えておくと言ってくれたのだから、その点では期待を抱いてもいいはずだった。
 ただ、雨の日はどうしても感傷的になる。
 鳴海先輩と過ごす雨の日の記憶は忘れがたいものばかりだった。去年の初夏、初めて先輩の家に招かれた日のことも。今年の六月にほんの短い間だけ味わった、甘くも儚い一時も。どちらも思い出す度に嬉しいような、恥ずかしいような気持ちで胸がいっぱいになる。
 くしくも今日、私は十八歳の誕生日も雨と共に迎えることとなってしまった。
 今日は私にとって、あるいは鳴海先輩にとって、忘れがたい新たな記憶となるだろうか。

 電車を降り、改札を抜けた私は、すぐに佇む鳴海先輩の姿を見つけた。
 先輩もピクニックに備えていたんだろう。パーカーにカーゴパンツの立ち姿が素敵だった。すらりと細身で背も高く、常に姿勢がいい先輩は何を着てもよく似合う。私は鳴海先輩の外見も素晴らしく好みだと思っていたけど、それを伝えたところでご本人にはさして喜ばれないことも知っていた。
 近づいていく私が声をかけるより早く、先輩もこちらに気づいた。手荷物は水滴をまとった紺色の傘だけだった。そして目が合うと、憂慮すべき問題が起きたとばかりに深刻な顔をしてみせた。
「昼過ぎまでは持つかと思ったが、見込みが甘かったな」
 先輩の第一声はそれだった。
 誕生日だというのにあいにくの天候に、私も苦笑するしかない。
「本当ですね。空はそれほど暗くないように見えたんですけど」
「降るなら降るで、いっそ朝のうちから降っておけばいいものを」
 珍しく私と一致する見解を述べた先輩は、くたびれた様子で溜息をつく。そして忌々しげに切り出してきた。
「この悪天候のせいで一つ問題が起きた」
「問題? 一体、どんなことですか?」
「既にピクニック用の弁当を用意してしまったことだ」
 いやに深刻そうだったから何かと思えば。
 私は笑いかけたけど、それだけ早起きをして、前もって準備してくれたのだろうと思い直す。急いでお礼を言った。
「ありがとうございます、先輩。お弁当作りは大変でしたか?」
「そうでもない。作る分にはな」
 先輩はにこりともせずに答える。
「しかし食べる分には大変だろうな。お前さえよければ少し持って帰ってくれないか」
「も、持ち帰りですか? あの、せっかくだから一緒に食べるんじゃなくて……?」
 私は思わず聞き返した。
 確かに私は、先輩の手作りお弁当がプレゼントというのも素敵なことだと思っていた。だけどせっかく作ってもらったものを一人ぼっちでいただくのは、作ってくれた人の気持ちに報いる行動ではないような気がする。やっぱりここは二人で一緒に食べて、感想も誉め言葉も存分に伝えるのが礼儀だろうし、醍醐味でもあるだろう。
 なのに、鳴海先輩は仏頂面で答えた。
「この天気ではピクニックは無理だ。考えればわかることだろう」
「いえ、そういうことじゃないです。お弁当だけなら屋内で食べたっていいでしょう」
 私だって雨が降ったのにピクニックを強行したいと言い出すほどわがままではない。でもせめてピクニックの気分だけでも味わいたいという思いはある。どうせなら先輩と一緒にお弁当が食べたかった。
 それに、今日は私の誕生日なのだから。
 二人で過ごせる時間は多ければ多いほどいい。
「もし迷惑じゃなければ、先輩のお部屋にお邪魔したいです」
 私は一応は控えめに切り出してみた。
 すると鳴海先輩ははっきりと眉を顰めた。私の提案をあまりよく思わなかったらしいことが見て取れ、私は慌てて言い添える羽目になった。
「迷惑じゃなければ、です。もし問題があるなら他の場所でも構いません」
「迷惑というわけではない」
 先輩はそう言ったけど、表情は強張っている。その後しばらく黙り込んだのも、まるで断り文句を考えているように私には見えた。
 まずいことを言ったかな、と私は一層慌てた。
「本当に、駄目なら駄目でいいですから」
「駄目というわけでも……」
 いつも歯に衣着せぬ人には珍しく、先輩はその時言葉を濁した。
 通学ラッシュのない日曜と言えど、駅の構内には少なからず人気があった。ざわめく雑踏に掻き消されそうな口調で先輩が続ける。
「ただ、あまり感心できることではない」
「そうでしょうか」
「そうだ。男の部屋に軽々しく足を運ぶのは決して誉められた行動じゃないだろう」
「え、ええ……?」
 つい、私の口からは気の抜けた声が出た。
 先輩の言葉は正論であるとは思う。多少古めかしい考え方かもしれないけど、そういうふうに生真面目に考える人がいるのはわかるし、そういう人たちが懸念する事態というのも想像がつく。
 ただ、それを先輩に言われると奇妙と言うか、この期に及んで何をという気持ちになってしまう。何しろ初めに私を部屋に招いたのは鳴海先輩の方だし、それはもう既に一年以上の昔の話だし、以来私は何度となく先輩の部屋に招かれ、合鍵を貰ったのをいいことに時には押しかけたりもしていた。そしてその間、先述のような懸念すべき事態は一度として起きなかった。多少残念なことながら。
 そういうわけで私は鳴海先輩を大変生真面目な人だと思っていた。当然のように信頼もしている。これまで部屋にお邪魔した機会は数え切れないほどだけど、そのうち身の危険を感じたことは一度としてなかった。
 だから今の発言は意外すぎたし、先輩の方にはそういう意識があったのかと心底驚かされた。いや、先輩のことだから単に外聞が悪い程度に考えているだけかもしれない。それにしても、なぜ今になってという疑問が浮かんでくる。
「私は、先輩をとても真面目で誠実な人だと思ってますから」
 フォローのつもりで私は言った。
「今までだって何度もお邪魔しましたけど、問題のあるような過ごし方はしてないですよ。いつも本を読んだり、先輩は書き物をしたり、私は受験勉強をしたりして……ほら、実に清廉です。外聞が悪いということもないと思います」
 私の言葉にも鳴海先輩は硬い表情を崩さない。ただ、直後の返答は幾分か柔らかかった。
「確かにそうだが……」
 隙が生じた。ここぞとばかりに畳みかけてみる。
「今日は残念ながらピクニックの予定が流れてしまったので、やむを得ない措置ってことでどうでしょう」
 本音を言えば先輩には、そんなこと気にしないでいて欲しいくらいだけど。こんなふうに正論らしきものに雁字搦めになってしまうと、そのうち二人で会うことさえままならなくなりそうだ。
 ともかくも、鳴海先輩はようやく納得した様子で息をついた。
「そういうことなら仕方ないな。弁当を作ってしまった俺にも責任はある」
 気に病んだそぶりは相変わらず窺わせた後、
「仕方ないな、弁当を食べるだけだぞ」
「はい。ありがとうございます、先輩」
 どうやら許可がいただけたようだ。
 内心胸を撫で下ろす私に、先輩は早速促してきた。
「そうと決まればさっさと行くぞ。雨が酷くなったら困る」
 しかし幸いにもそこまでの心配は必要なかったようで、今のところ雨は小降り程度だった。先輩は紺色の傘を差し、私は念の為に持ってきた折り畳み傘を開いて、先輩の部屋があるアパートまで歩いた。
 雨脚が弱いとは言え、日差しのない十月の空気は意外と冷たく感じられた。風が吹く度に首を竦めていると、先輩は気にするようにこちらを見る。
「もう少し厚着してきてもよかったな。油断していると風邪を引くぞ」
「気をつけます」
 私が歩きながら頷くと、それでも案じるそぶりで眉を吊り上げられた。
「必要なら帰りは何か貸してやる。寒いようなら正直に言え」
「はい」
 答えた私は嬉しくて、傘の陰でこっそり微笑んだ。
 鳴海先輩はこのところ、随分と私に優しい。元々心根の冷たい人ではなかったけど、近頃はわかりにくかったその優しさが言動に表れるようになった。そういう時は本当に嬉しくて、温かい気持ちになる。
 しかし一方で、近頃の先輩は気にしすぎというほど様々な事柄を気にしているきらいがある。私が部屋へ行くことについて難色を示したのも今回が初めてだ。今まではそんなこと口にしなかったし、胸裏でこっそり考えているようにさえ見えなかった。
 その上、先輩は自分自身についてもやけに穿ったような、考えすぎとも言える言動を繰り返すようになったし――それもこれも全て私が受験生であり、大事な時期だから、ということなのかもしれない。
 だけどそれにしても、どうしてか、何となく釈然としない。
 私の方こそ気にしすぎだろうか。
 ちらりと隣を窺えば、先輩は不機嫌そうな顔のまま歩くスピードを上げた。同時にパーカーのポケットから鍵を取り出すのがわかった。
 ちょうど目前に見えてきたアパートは、雨にしっとり濡れていたせいで外壁も屋根も色を変えている。そのせいで私は懐かしさよりも、知らないところへ来てしまったような寂寥感を抱いた。

 鳴海先輩の部屋へ上げてもらったのも、いつ以来だっただろう。
 几帳面な主の性格を反映して、室内はきちんと片づいていた。ちり一つ落ちていない机、行儀よく並んだ本棚、壁の一部のようにぴったり閉ざされたクローゼット、ラグの上で鈍い光沢を放つ座卓の天板。この辺りは記憶の中に残っていたものと何ら変わりがなく、それだけで少しほっとした。
 私が座卓の前に座ると、玄関と台所に通じる戸口に立った先輩が私を見下ろし、こう言った。
「弁当の用意はできている。食べるか?」
「えっ、もうですか?」
 駅での待ち合わせは午前十時の約束だった。さすがに早いだろうと携帯電話の時計を確認してみたところ、表示された時刻はようやく十時半を過ぎたばかりだった。
「食べられなくはないですけど、もうちょっと後でもいいと思います」
 私の答えを聞いた先輩は、真面目な顔で続けた。
「腹は減ってないのか」
「そうですね、まだ……先輩はお腹空きましたか?」
「それほどでもない」
「じゃあ、もう少し後にしましょうか」
 どうせならちゃんとお腹が空いてから食べる方が美味しいに決まっている。そう思って言ったのに、鳴海先輩はなぜか気まずそうだった。食べないと決定した後も戸口に立ち尽くしたままで、そわそわ落ち着かない様子だ。そしてしきりにこちらを窺っている。
「どうかしましたか?」
 さっきは私に遠慮してああ答えたけど、実はお腹が空いているんだろうか。恐る恐る尋ねてみると、先輩は私以上に恐る恐る聞き返してきた。
「いや。それより何か飲むか、雛子」
「え? いえ、お構いなく」
「不似合いな遠慮をするな。どうせ大した手間じゃない」
 なぜか噛みつくような口調の先輩は、そのくせ熱心に勧めてくる。
「寒い中を歩いてきた後だ、温かいものでも飲んでおくべきじゃないのか」
「そういうことなら、いただきます」
 気遣いに感謝しつつ、私は頷いた。
「紅茶とコーヒーならどっちがいい?」
「紅茶がいいです」
 わかった、と応じた先輩は早足で台所に消え、いくらもしないうちにお湯を沸かし始める静かな音が聞こえてきた。私のいる部屋からは台所の奥までは見通せない為、しばらくの間、先輩の姿を見ることはできなかった。まるで隠れられているようだと密かに思う。

 先輩を待つ間、私は所在なく室内を見回していた。
 久し振りと言っても何度も通って見慣れていたし、どこかが変わった様子もない。先輩の部屋はいつでもきれいで、だけど飾り気がなく色彩にも乏しい。雨の日特有の薄暗さの中では物寂しい印象も受けた。
 男の人の部屋だと思っていなかったわけではない。ここに比べるとクラスの友人の部屋はどれももう少し華やかで色彩に富んでいたし、可愛いものがいくつも置かれているのが普通だった。ここ以外に知っている男の人の部屋と言えば今はもうない兄の部屋くらいだけど、あの部屋にはプラモデルや男の子の好きそうな漫画がごちゃごちゃと並んでいて、たまに脱いだ服がそのまま放置されていたりもして、私には立ち入りにくい雰囲気があった。
 鳴海先輩の部屋はいつもきれいだし、私にとってはずっと居心地のいい場所だった。男の人の部屋だからといって立ち入りにくさを感じたこともなかった。でもそれはあくまで私個人の印象であって、客観的に見ればこうした訪問は感心されないことなのかもしれない。
 先輩はどうしてそんなことを、今になって急に口にするようになったのだろう。
 先輩が黙っていたなら私もそれほど意識することはなかったのに。
 気にし始めると落ち着かなくなり、私は今更のように緊張を覚えた。今後は訪問を断られるのではないか、合鍵も返せと言われるのではないかと、不安ばかりが募り出す。

 ちょうどその時、先輩がティーカップを二つ持って戻ってきた。
 硬い表情のまま二つとも座卓の上に置き、私がお礼を言う間もなく台所へと取って返す。どうかしたのかと目で追えば、向こうでは冷蔵庫が開く音がした。
 そしてもう一度戻ってきた時、先輩は手に薄く平べったい箱を持っていた。透明なビニールに包まれたその箱は、どうやらお菓子のようだ。
「チョコレートだ。前に来た時、食べていかなかっただろう」
 箱を私の目の前に置くと、先輩は愛想のない口調で言った。
「お前が食べないと減らないからな、あれから長いこと冷蔵庫に入りっ放しだった」
 その言葉通り、チョコレートは随分と念入りに冷やされていたらしい。いくらもしないうちに透明なビニールがうっすらと曇り始めた。
「今日食べるなり、持ち帰るなりしてくれ。その為に買ってきたんだからな」
 鳴海先輩がそう話したので、私もそのことをようやく思い出す。
 今年の夏、鳴海先輩は古書店でアルバイトをしていた。その時も私たちはしばらく、と言っても三週間ほどではあったけど会えない日が続いて、少し寂しい思いをしたのだった。先輩はそのことを大槻さんに指摘されたらしく、先輩なりのお詫びのしるしとして私の為にチョコレートを買い、私の訪問に備えていたということらしかった。
 だけど私は当時、八月の旅行に備えてダイエットをしていた。それで先輩からの贈り物は気持ちだけ受け取ることにし、チョコレート自体は次の訪問時にいただくつもりでいた。先輩もそれでいいと言ってくれたから、忘れずに食べに来ようとその時は思っていた。
 あれからいつの間にか二ヶ月以上が過ぎ、私はすっかりチョコレートのことを忘れてしまっていた。先輩の厚意を無にしたことをやっと思い出し、愕然とした。
「す、すみません……。私、ずっと食べに来ないままで……」
 私が詫びると、鳴海先輩は即座にかぶりを振る。
「気にしなくていい。これだけ間が空いたのも、お前が悪いわけじゃない」
「でも、先輩がせっかく買ってくれたものなのに――」
「俺もずっとお前を呼ばなかった。それでは食べる機会もなくて当然だ」
 先輩の口調は優しかったけど、同時に私はふと切なさを覚えた。
 ここにはずっと来ていなかった。
 その間一度も会わなかったわけではなく、先輩と電話をしたり、途中からメールもするようになったり、先輩が東高校まで出向いてくれたりもした。顔を合わせること自体は久し振りでも何でもない。でも以前までのようにこの部屋へ通うことはなくなっていたし、今日が終われば次に来られるのはいつになるだろうか。少なくとも私が受験生のうちは、許可が出ることはないだろう。 
 それならせめて今日一日、悔いのないよう楽しい時間を過ごせたらいいんだけど。
 私が見つめていると、こちらの視線に気づいた先輩が疎ましそうな顔をした。すぐに目も逸らされた。
「しつこいぞ、気にするなと言ったはずだ。いいから黙って食べろ」
「……そうします」
 この後にお弁当が控えているはずだけど、先輩がそうして欲しそうだったので、私はチョコレートの包装を解いて箱を開けた。中には形も、味も一つ一つ違うチョコレートがグラシンカップに納められ、行儀よく並んでいた。どれも宝飾品のようにきれいですべすべしており、どれから食べようか、そもそも手をつけていいものか悩んでしまうほどだった。
「こんなに素敵なチョコレート、ありがとうございます」
 私がお礼を言うと、先輩はそっぽを向いたまま答える。
「誕生日らしくはないがな。雨が止んだら、ケーキでも食べに行くか」
「いえ、十分ですよ。お弁当もありますし、いいお誕生日になりそうです」
 どうせ先輩はケーキを食べないのだから、チョコレートだけで十分だ。
 もっとも、私の答えを聞いた先輩は複雑そうだった。提案を断られたのが残念というふうではなく、ただどことなく、背けられたままの横顔が気まずげに映った。
「そうは言っても、ずっとここにいるわけには……」
 独り言のようにぼやいた後で、またしても先輩は私の視線が気になったようだ。今度は目を合わせないまま、思いきりしかめっつらをされた。
「こっちを見るな」
「え? どうしてですか?」
「どうしてもだ」
 理由も言わない先輩は、心なしか落ち着きがない。瞬きの回数も多い気がする。どうも、緊張しているように見える。
 一体、何についてだろう。
「どうかしたんですか、先輩」
 私は先輩に逆らって、真っ直ぐそちらを見ながら尋ねた。
 姿勢よく正座をし、膝に両手をついた先輩は、そこで歯噛みするような表情を見せた。少し間を置いてから、絞り出すような声で言う。
「俺は、この空気に、長く耐えられる気がしない……」
「……何ですか? 空気って」
 私は先輩の唐突な言葉に、ぽかんとするしかなかった。
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