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23日、閉じ込めたい衝動(3)

 コンサートは二時間ほどで無事に終了した。
 演奏の善し悪しまではわからない私にも、素晴らしいコンサートだったと思えた。『赤鼻のトナカイ』や『サンタが街にやって来る』、『諸人こぞりて』などのお馴染みのクリスマスソングをアレンジした楽曲は聴き易く、また奏者の衣装替えがあるなど、視覚的にも飽きさせない演出があってとても楽しかった。

 クリスマス気分を掻き立てる演奏は、けれど心なしか切ない。
 本当のクリスマスは明日、明後日だ。なのに先輩は、明日は大学に行くと言っていた。まだ私の知らない場所に行く。そうして私の知らない人と会い、私の見たこともないような顔をする――たった二つしか違わないのに、私と先輩の見ている世界は、全く違うものだ。
 先輩のいる世界は広い。
 果てしなく広がっている。きっとこの先も果てしなく広がって行く。
 まだ狭いところにいる私は、思う。このまま、ちっとも追いつけないまま、世界を広げて行く先輩を見失ってしまったら、私はどうすればいいんだろう。


 アンコールまでが終了し、場内に明かりが灯り出すと、先輩はすぐに立ち上がった。
「帰るぞ、雛子」
「はい。……大槻さんには、お会いしなくていいんですか?」
 つられて立ち上がったものの、ふと気になって私は尋ねる。
 すると、既にコートを着始めていた先輩はしかめっ面をして、
「冗談じゃない。会えばまた喧しいだけだ」
 心底不快そうに言ってみせたけれど、それが本音かどうかはわからない。そう言えばあの村上先生に対してもそんな顔をしていた。
「駅まで送る」
 鳴海先輩の言葉に、私は曖昧に頷いた。
「お願いします」

 市民会館を出ると、外は一面白に覆われていた。
 たった二時間ほどの間に随分雪が降ったようだ。すっかり積もって辺りはフライング気味の銀世界。
 そして市民会館の前にはタクシーを待つ人の長い列が出来ている。赤いテールライトがぽつりぽつりと残像を残す。
「まずいな」
 鳴海先輩が言った。
「電車、止まっていないといいんだが」
 先輩の部屋はここから歩いてでも帰れる距離だ。だけど、私の家は駅から電車に揺られて、終点まで行かなくては帰り着かない。電車が止まってしまえば、それこそタクシーでも拾わないと帰れないだろう。双方の運賃を鑑みるなら、タクシーは本当に最終手段にしたいものだ。
「思ったより降りましたね」
 私は溜息をつきたい気分で、次第に踏み固められていく歩道の白さを見つめる。
 そこに、先輩が先に一歩を踏み出した。
 振り向いて、
「足元に気を付けろよ」
 と言ってから、先に立って歩き始める。ゆっくりと、私にもついて行けるスピードで。
 後に続く私は、そんな優しさを素直に喜べない。

 付き合い始めた頃と比べたら、鳴海先輩は変わった。
 優しくなったと言うより、柔らかくなった、気がする。
 先輩の気持ちがわからずに、漫然と二人の時間を過ごしていた頃もあった。関係がまるで恋人らしくないと思い悩んだ時期もあった。それらを解決してくれたのは、私たちの間にある年月だと思っていたけど、――違ったのかもしれない。
 大学と言う、高校よりも広い世界で、先輩が得た出会いや経験が、私の知らないところで先輩を変えてしまったのかもしれない。
 もちろんそれは、いい変化だ。鳴海先輩に限っては、道を踏み外すような真似はしないと信じているし、生真面目な人らしい成長をこれからも遂げて行くだろう。先輩の持つ夢にだって、手が届かない気はしていない。
 でも、私には追い着けない。
 私が瞬きする間にもどんどん置いて行かれてしまう。
 そのことが寂しい。

 私は先輩の変化を、成長を見届けられない。
 そうしてある時、以前との決定的な違いに気付いてはっとさせられる。
 そこに私は係わっておらず、あるのはただ、たった二つしか違わないはずで、その実大きな隔たりを生み出す年の差の壁だ。
 出来ることなら何もかもを知っておきたいのに。先輩の、何もかもが知りたい。何もかもが欲しい。先輩について、他の人が知っていて私が知らないでいることなんて、何もあっては欲しくない。
 恋心は貪欲だ。自分でも恐ろしくなるほどに。

「――どうした?」
 先輩の怪訝そうな声にはっとする。
 顔を上げると、どこまでも白く続く歩道の先に、立ち止まり、こちらを顧みるコート姿の先輩がいた。
 街の明かりに照らされても尚、陰りのある面立ちをした鳴海先輩。
 少し離れたところから眺めて、私はあの面立ちが好きなのだ、と思う。初めは漠然と。ゆっくりと加速して、だんだんと強くなる。鼓動が打つように速く、急くように自覚する。
 私は、あの人が好きだ。
 物憂げにする表情も、ひたすらに真っ直ぐなあの立ち姿も、何より頑ななまでに崇高で、時に過ぎるほど純粋な心が、私は好きだ。
 その心で、先輩は私を好いていてくれる。こうして私を、待っていてくれる。
 だから思う。
 私は、先輩のことが知りたい。先輩の、何もかも全てを知りたい。そして先輩の全てを私のものにしてしまいたい、と。
 待っていてくれるのなら、先輩もまた私と共にありたいと思っていてくれるなら、今すぐは無理でも、いつか追い着くことができるかもしれない。先輩と同じ世界に立ち、並んでいても見劣りしないようになれるかもしれない。
 焦れずにいるのは難しい。急かずにいるのも、難しい。
 でも、鳴海先輩は待っていてくれる。
 それなら私は、先輩を見失うことにはならない。常に先輩を追い駆けていれば、何をも見失うことはない。


 足元に注意しながら私は先輩に追い着いて、それから、待っていてくれた先輩の右手を取った。
 ひやりと冷たい、器用そうな長い指に自分の指を絡める。
 その後に尋ねた。
「手を繋いでもいいですか、先輩」
 私に手を取られた先輩は、酷く面食らった顔をした。
「もう繋いでいるじゃないか」
「そうですね、でも」
 確かめたい気持ちは、いつだって胸にある。
 その時、その瞬間ごとの相手の気持ちを、知っていなくては気が済まないのだ。
「……好きにすればいい」
 やがて諦念の色を隠さずに、先輩が言った。 「じゃあ、そうします」
 ぎゅっと握ると、鳴海先輩はほんの少し笑ったようだった。水銀灯の明かりのせいで、影が落ちただけかもしれないけれど。
「その代わり、気を付けろ」
 先輩の言葉に、私は思わず目を瞠った。
「何にですか?」
「足元だ。お前が転ぶと、俺まで巻き添えを食う羽目になる」
「心に留めておきます」
 今度は私が、少し笑う。
 本当にそうだ。それこそが、共にある、共に歩くということだと思う。
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