二十歳の彼女と十九の僕(1)

 この七月で、佐藤さんは二十歳になる。
 僕より四ヶ月ほど早く、一足先に大人になるというわけだ。
 先を越されて悔しい気持ちはちょっとある。でもこればかりは仕方ない。ひとまずは彼女にとって特別なはずの誕生日を、盛大にお祝いしてあげたいと思っている。

 そうなると大切なのはリサーチだ。
 僕は誕生日前に一度彼女と会い、直接尋ねてみることにした。
「佐藤さん、誕生日に欲しいものってある?」
「えっ、そんな。気持ちだけで十分だよ」
 空気を読まない佐藤さんは遠慮するそぶりを見せた。
 だけど、はいそうですかと引き下がるわけにはいかない。どこの世界に、彼女の誕生日に何にもしない男がいるっていうんだ。何でもいいから言ってもらわないと困る。
「行きたいお店、とかでもいいよ。誕生日だしさ」
 僕が尚も尋ねると、考え込んでいた佐藤さんが急にはっとした。
「あ、そういえば! 行きたいなって思ってたお店があるの」
「なら、二人でそこへ行こうよ」
「いいの? 私も山口くんに来てもらえたらって思ってたけど……」
「もちろんいいよ。佐藤さんの行きたいところへ行こう」
 彼女の口ぶりからして、きっと一人では入りにくい店なんだろう。空気の読めない佐藤さんが入りにくいお店というのも珍しいけど、例えばカップル御用達の店とかなら理解できなくもない。あるいは、ちょっと高級店だとか。
 それなら一応、先に聞いておこう。
「ところで、行きたい店ってどんなとこ? 予算も知りたいし」
「えっと、駅前にあるお店なんだけどね」
 佐藤さんは考え考え、言葉を続ける。
「予算は……できれば三万円台で収めたいって思ってる」
「さん……っ」
 危うく、声を上げるところだった。
 三万円。コンビニバイトがせいぜいのしがない大学生にとっては大金だ。
 それ以上に、佐藤さんがその金額を呆気なく口にしたことも衝撃だった。確かに彼女は社会人、誕生日のお祝いに三万円かけるくらい、どうってことないのかもしれない。経済力の差を見せつけられた感じだ。
 もちろん、僕にだって払えない額ではない。免許取ったし、車を買おうと思ってこつこつ貯めていたお金がある。でも佐藤さんの為なら――ましてや今年は特別な、二十歳の誕生日なんだから、ちゃんと祝ってあげたかった。
「わかった、いいよ」
 僕は決死の覚悟を気取られないよう、平静を装って告げた。
 途端に彼女が安堵の表情を浮かべる。
「ありがとう、山口くん。やっぱり一人だと不安で……」
 そんなに行きたかったお店なのか。佐藤さんを不安にさせるほどの高級店なんて、全く想像がつかない。
 そうなると予算以外にも気になることがいくつかある。
「予約はどうする? 僕が入れとこうか?」
 これだけ覚悟してお店を訪ねて、『満席ですのでお引き取りを』なんて言われたら目も当てられない。それにその手の高級店では、ディナーの時間は大抵が要予約と決まっているものだ。
 あとは、服装も気になる。普段着じゃ嫌な顔をされそうだし、最悪の場合、入店拒否なんてこともありそうだ。一度店について調べた上で、必要ならスーツを着ていかなくては。
 佐藤さんとのデートで、スーツを着る日がやってくるとは思わなかった。
 僕がそこまで考えた時、
「予約は、今回はしないつもりなんだ。ちょっと覗きたいだけだから」
 彼女は、何だかすごくピントのずれた発言をした。
「……え? 覗く、だけ?」
「うん。ほら、お店の前にいっぱい張り紙してあるじゃない」
「張り紙?」
「そうだよ。ほら、1DKとか、洋間とか、駅から五分とか――」
 何かがおかしい。
 僕と佐藤さんの話が全く噛み合っていない。そのずれっぷりもいつものことと言えばそうだけど、今回は特にずれている。
「佐藤さん」
 僕は改めて、彼女に確かめることにした。
「行きたいお店って、どんな店?」
 すると佐藤さんもほんのちょっと怪訝そうにしながら、答えてくれた。
「不動産屋さん、っていうのかな。お部屋借りるとこだよ」
 そういうことか!
 どうりで話が噛みあわないと思った。僕は思わず天を仰ぎ、込み上げてくる疲労感をどうにかやり過ごす。
 びっくりした。佐藤さん、どんだけ高級な店に行きたいのかと思った。そうか、不動産屋さんか――。
「――なんで?」
 よくよく考えれば、それもまた衝撃の発言だった。
 実家暮らしの佐藤さんが不動産屋さんへ行く。その理由は、何だろう。
 僕の問いに、彼女は言いにくそうに口を開く。
「じ、実はね。私、一人暮らしを始めたくて……」
 本日最大の衝撃発言は、これだった。

 彼女自身にとっても、まだ決心したとは言いがたい考えのようだ。
 驚く僕の目の前で、佐藤さんは叱られた子供みたいに項垂れた。
「あのね。はっきり、決めたわけじゃないの」
「そ、そっか」
「うん……できたらそうしたいな、って思ってるけど」
 そう言った後、彼女は僕の顔色を窺うみたいに上目遣いになる。
「変、かな。私がこういうこと言うの」
「いや、そんなことないよ」
 僕は大慌てでその懸念を否定した。
「独り立ちするのって立派なことだろ。友達にも何人か自活している奴がいるけどさ、充実してて羨ましいなってよく思ってるよ」
 大学生ともなれば、実家を出て、一人暮らしを始める奴も結構いる。
 ただし、そういう連中が独り立ちだの自活だのと立派な考えを持っているかといえばそうでもない。大抵は朝ゆっくり寝ていたいとか、親が煩わしいとか、友達と夜中まで馬鹿騒ぎしたいとか、はたまた彼女を連れ込みたいとか――不純な動機を持ってる奴の方が多いように見受けられる。そして大学のすぐ近くに部屋を借り、溜まり場にされて後悔するんだろう。ご苦労なことだ。
 僕自身は、一人暮らしを夢見たことがない。うちの両親は共働きで、しかも同じ職場なので、いつも同じ時期に繁忙期となる。そうすると二人とも日付が変わるまで帰ってこないから、僕は一人暮らしと変わりない自由な孤独時間を得られるというわけだ。もちろん洗濯や掃除は僕の仕事で、時には両親の分の食事も用意してやらないといけないから、元から実家暮らしの気楽さはないようなものだ、とも言える。
 佐藤さんは料理とか洗濯とか、得意なんだろうか。前に、冷凍みかんを作ってもらったことがあるけど――あれは料理ではないか。あとフォンダンショコラも。凍ってたけど。
 とりあえず、彼女が一人暮らししたら、遊びに行きやすくなるのはいいな。
 僕が下心ありありのことを考えている間に、佐藤さんの表情も明るくなっていた。
「やっぱり、そう思うよね。一人暮らしって自立への第一歩だって」
 そして勢いづいたように続ける。
「私も二十歳になるんだから、もっと大人になりたいなって思って……」
「それで一人暮らしを?」
「う、うん。真っ先に思いついたのが、それで」
「へえ……」
 まあ、わからなくはないけど。
 僕が曖昧に頷いたからか、彼女はあたふたと言い添える。
「もちろん他にも理由はあるよ。もっと職場に近い方がいいかなって思うし、あとほら、うちお弁当屋さんだから、制服にお線香の匂いがつくとちょっとなって思うし……」
 そういえば、前に訪ねた佐藤さんの家は、ほのかにお線香の匂いがした。
「でも……一番はやっぱり、自立したいから、かな」
 佐藤さんはどこか気まずそうにしていた。まだ迷いがあるらしい。
 それからまた僕の表情を窺い、
「大人になるって、山口くんは、どういうことだと思う?」
 何だか哲学的な質問をぶつけてきた。
 大人になる、か。法律上は二十歳が成人と決まっているけど、佐藤さんが聞きたいのはそういうことではないんだろう。
「それはやっぱり、自立ができたらじゃないかな」
 僕は自分の考えを伝えてみる。
「生活的にも、経済的にも自立できて初めて一人前って感じだと思う」
 その考え方で行けば、僕はまだまだ子供だ。
 そして佐藤さんは、もうじき大人になる、というところだろうか。
「私もそう思うの」
 佐藤さんが真面目に頷く。
「昔はね、就職したらすぐ大人になれるって思ってたんだ。社会に出て働いて、自分でお金を稼いだら、それが大人っていうことなんじゃないかって。でも……」
 そこで少しはにかんで、
「私にはそれだけじゃ足りない気がして、家を出ようと思ったの」
 首を竦めながら語を継ぐ。
「もうじき二十歳になるけど、私、ちっとも大人になれてないから」
「そんなことない」
 とっさに反論していた。
 そりゃまあ、大人の女性に見えるとは言わない。相変わらず滅多に化粧はしないし、僕が手伝わない時はいつもの一つ結びだし、服だって彼女チョイスのものは微妙なセンスだ。それでも高校時代の垢抜けなさと比べたら、最近はちょっときれいになってきたと思う。こんなふうに難しい考え事をする時の思案顔は、少し色っぽく見えて、どきっとする。
「佐藤さんは変わったよ。大人になった」
 きれいになった、って言えればよかったんだけど。
 そんな台詞は気障に思えて、僕には恥ずかしくて言えなかった。
「……ありがとう」
 それでも佐藤さんはほんのり赤くなって、潤んだ目で僕を見る。
「山口くんにそう言ってもらえると、嬉しいな……」
 こういう反応とかも、やっぱり変わったなって思う。
 佐藤さんはもう、東高校にいた頃の佐藤さんじゃない。
 そんな彼女が二十歳になって、一人暮らしを始めたら、もっと変わっていくんだろうか。大人になって、きれいになって、それから――どうなるんだろう。
 見てみたくてたまらなくなって、僕は彼女の背中を押した。
「そういうことなら付き合うよ、不動産屋」
 本人もまだ決めていないということだから、予約はしないけど。
「誕生日、一緒にちょっと覗いてみようか、張り紙とか」
 僕が続けると、佐藤さんは思いっきり大きく頷いた。
「うん! 山口くんが来てくれると心強いよ」
「僕もそんなに詳しいわけじゃないけどね。実家暮らしだし」
「それは私もだから大丈夫。一人だと寂しいなって思ってたんだ」
 彼女は屈託なく笑っている。
 だけどこれから一人暮らしをするかもしれないのに、一人でお店に行くのさえ寂しいって、大丈夫かな。
「佐藤さん、一人暮らしは寂しくないの?」
 心配になって尋ねると、佐藤さんはもじもじしながらこう答えた。
「寂しい……かもしれないけど。でも、山口くんが遊びに来てくれるかなって思えば……」

 決めた。
 僕は佐藤さんの一人暮らしを全力で応援することにする。