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佐藤さんのメールアドレス

 修学旅行から帰ってきた直後は浮ついていたクラスの空気も、数日も経てばあっさり落ち着いた。
 佐藤さんもいつも通りだ。席から立ち上がる時は椅子を倒し、授業中先生に指されれば真っ赤になって口ごもる。ノートを取るのは遅いし、僕のノートのふりがなをありがたがっている。体育の授業のある日はちょっとだけ憂鬱そうで、だけど昼休みには友達と鬼ごっこを楽しんでいるらしい。
 クラスの他の女子と話す佐藤さんは、いつも笑顔だ。誰かの話に相槌を打って子供っぽく笑う顔は、佐藤さんのいつも通りの顔と言えた。
 そうじゃない顔を、僕は知っているけど。

 昼休みの終わり頃、僕は鬼ごっこを終えて、席に戻ってくる佐藤さんを待ち構えていた。
 次の授業の教科書を広げ、予習でもするふりをしながら待っていた。
「今日は暑いね」
 息を切らした佐藤さんはそう言いながら席に着く。
 手のひらでぱたぱたと自分の顔を扇いでいる。下敷きを使わないのは、しょっちゅう手が滑ってどこかへ吹っ飛ばしてしまうからなのだそうだ。
「暑いね」
 僕は頷き、教科書を閉じた。それからストレートに切り出した。
「佐藤さん、メールアドレス教えてくれないかな」
「えっ」
 顔を扇いでいた佐藤さんの手が、電池の切れたように止まった。
 驚く表情は予想通りだ。その先の反応は読めないけど、僕は今更引く気もなかった。どんな反応が返ってきてもいいように、シミュレーションはしていた。
「せっかく隣の席になったんだし、いろいろ話すようになったからさ」
 僕は装いようのない態度で告げる。それでも本音は巧みに押し隠していた。
「よかったらメールでも話せるようになったらいいなと思って。駄目かな」
 考えていた通りに畳みかけると、佐藤さんはたくさん瞬きをした後で、おずおずと答えた。
「いいけど……いいの? 山口くんは」
「いいの、って何が? 僕が教えて欲しいって言ってるのに」
 白々しく笑った僕とは対照的に、彼女は俯いた。
「だって、私……。私とメールしたいなんて、思ってもらえると思ってなかったから」
 昼休み中走り回っていた彼女の額には、汗が浮いていた。一つ結びの髪は解れて、まだ結び直されていない。頬は真っ赤に上気して、肩が大きく浮き沈みしている。
 無遠慮な僕の視線には気づかず、俯いたままで佐藤さんが続ける。
「私、でよければ……アドレス、教えて欲しいな」
「そう、よかった」
 僕は内心ほっとしながら、表向きは平然と、用意していたメモ用紙を渡す。そこには昼休みの間に書いておいた、僕の電話番号とメールアドレスが載っている。
 佐藤さんの手がメモを受け取ってくれた。じっと見つめて、目で辿っている。それから、不器用な手つきながらも四隅を合わせてきれいに折ると、制服の胸ポケットにしまい込んでくれた。
「じゃあ、私も」
 そう言い出した彼女はペンケースに手を伸ばす。慌てているのか引っ繰り返しそうになりながら蓋を開け、シャープペンシルを取り出した。その後で書くものがないと視線を巡らせ始めたので、僕はまっさらのメモ用紙を手渡す。
「これに書いてもらえるかな」
「あ、うん、ありがとう」
 律儀にお礼を言って、佐藤さんはメモに記し始める。今のところ、全部シミュレーション通りだ。
「はい、どうぞ」
 佐藤さんが書き終えるのは早かった。返してくれたメモの文面を目で追えば、十一桁の数字の下に携帯電話会社のドメイン名をくっつけただけのアドレスが書かれていた。このことだけは予想外で、僕は吹き出しそうになるのを堪えた。
「佐藤さん、メールアドレス変えてないんだね」
「そうなの。変え方、教えてもらったんだけど、よくわからなくって。そのままなの」
 僕は携帯電話を取り出し、片手で彼女のデータを入力しながら告げる。
「教えてくれてありがとう。後で早速メールするよ」
「ううん、こちらこそ」
 佐藤さんはかぶりを振った後で、あ、と何か気づいた顔になって、
「でも私、学校に携帯持ってきてないから……お返事するの、夜になっちゃうけど、いい?」
「わかってる。待ってるよ」
 その話は前に聞いていた。佐藤さんはメールを打つのが遅いから、じっくり考えてから夜に返事をするのだそうだ。
 あの頃はまだ佐藤さんへの感情を認められなかった。佐藤さんがメールを送る相手に対する、嫉妬めいた複雑な思いもだ。一日中返信内容を考えて、じっくりじっくり考えて、そして返事をしてくれるなんて、とても幸せなことじゃないかと思う。今なら素直にそう思う。
「山口くん」
 乱れた髪を不器用に結び直しながら、佐藤さんが言ってきた。
「これからも仲良くしてね」
 はにかむ笑顔に不意を打たれた。
 でもすぐに、僕は表情を装った。同じように友好の笑みを返すことにした。本音はおくびにも出さない。多分僕は、本音を表さないようにするのが上手い方なんじゃないかと思う。
「こちらこそ、よろしく」
 優等生的返答の後で、五時限目の開始を告げるチャイムが鳴った。
 お蔭でそれ以上、表情を装う必要がなくなった。
 上手くいった。
 授業中、教科書の陰であのメモ用紙を見ながら、胸を撫で下ろす。
 彼女の丸っこくて小さな字を指でなぞってみた。改めて観察すると、なかなか可愛い字を書くんだなと思う。こんな小さな字をしているから書き取るのが遅いんだろうな。
 盗み見た佐藤さんの横顔は、ぼんやりしていた。先生の話が耳に入っているのか、入っていないのか――僕だって彼女のことは言えないけど。

 修学旅行から帰ってきて、少し考えた。
 諦めた方がいいのかもしれない、とも思った。佐藤さんには好きな奴がいる。いろいろとよくない予感はするけど、それでも佐藤さんは真っ当にそいつのことが好きらしい。そう思うと、やっぱり悔しくて堪らなかった。
 僕が『別世界の人間』で、顔も知らないっていうそいつが佐藤さんにとって距離の近い、同じ世界の人間だなんて、おかしな解釈だ。僕の方が近くにいるはずなのに。すぐ隣の席にいるのに。
 だから諦める気なんて起こらない。僕らの間に横たわっているこの距離をどうにかして、もっと縮めて、いつか僕の方が近い人間だって思わせてみせる。
 もちろん簡単なことじゃない。それでもようやく見つけた気持ちを、易々と捨てたくなかった。どうせ僕は佐藤さんに酷いことを言うような極悪人だ。だったらとことん悪い奴になって、彼女には不似合いな不安だらけの恋愛を諦めさせて、僕の方へと振り向かせたかった。
 僕は佐藤さんが好きだ。
 気づくまでに遠回りしすぎた。既に途方もないアドバンテージをつけられてる。でも、諦められない。絶対に追い駆ける。
 佐藤さんが言ってくれたんだ。僕が、何でもできるって。佐藤さんにないものをたくさん持っていて、僕は佐藤さんにできないようなことができるんだって。
 その言葉を、今は何より信じてる。
 彼女にとっては傍迷惑な話だろうけど、それでも僕は信じているんだ。
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