目を逸らしたくなる理由

 俺はまだ、並川さんの顔をちゃんと見たことがない。
 彼女の背が低いから、ではないと思う。教室の片隅で、クラスの他の女の子と話している、彼女の横顔は知っている。ほんの些細な世間話をする時の、僅かに目を逸らした表情も見ている。それから、ごくたまに視線を感じて振り向いた時、斜め下で俯いている小さな姿も見たことがある。
 姿を捜すだけなら簡単だった。並川さんはいつも静かなところにいた。教室の隅や廊下の端の方、楽しそうに笑う誰かの隣、図書館の本棚の陰。そういう目立たないところでひっそりとしているのに、どうしてか見つけるのは簡単だった。
 それなのに彼女の顔は、ちゃんと見たことがない。いつも見せて貰えない。逃げられているみたいに、視界に上手く捉えられない。
 実は見てみたい、と思っている。
 
 今日も、放課後の図書館で並川さんを見つけた。
 本棚の高い位置にある本に手が届かなくて、困っていた彼女に声を掛けた。本を取ってあげると、彼女らしい小さな声でお礼を言ってくれた。並川さんはいい子だ。決してこちらを見ないけど。
 役に立ててうれしい気持ちと、だけどほんの少し寂しい気持ちを抱えて、俺は並川さんの傍を離れる。
 そして、名前も知らないような外国文学のコーナーに迷い込んでから、溜息をつく。
 毎日ここへ足を運んで、ろくに本も読まない。並川さんのことを捜しに来ているだけだ。それでいて、見つけてもいつも物足りない気持ちになる。彼女の顔は今もまた見えなかった。
 事あるごとに彼女の姿を捜している。見つけ出せるとほっとする。だけど傍を離れる時、やっぱり少し寂しくなる。特別仲がいい訳じゃないクラスメイトをわざわざ捜し出そうとするなんて、傍から見れば間違いなくおかしなことだ。だけど明日も、俺は並川さんを捜すだろう。小柄な彼女がどこかでひっそりとしているのを、どうにかして見つけようとするだろう。彼女の顔を、ちゃんと見てみたいから――他には何の意味もなく、ただそれだけの為に。

 知らない異国の作家の名前が並ぶ、外国文学の棚。カタカナの羅列に目を眩ませながら、そこからも離れようとした時だった。
「好き、だなぁ……」
 微かな呟きが、本棚の向こうから聞こえてきた。
 小さな声。誰のものかはすぐにわかった。並川さんの声だ。
 可愛いな。そう思って、ちょっと笑う。彼女は本が好きなんだ、毎日のように放課後、図書館へ通っているくらい。
 思いを巡らせると、脳裏には次々と浮かんでくる。廊下を静かに歩く、本を抱えた並川さんの歩き姿。教室の片隅で本に読み耽る小さな背中。誰かに声を掛けられて、本にそっとしおりを挟む動作。そういったことを全て記憶しているのも、他の人からすればおかしなことかもしれない。毎日図書館へ通う並川さんを捜して、同じように図書館へとやってくる俺は、どう考えても変だと思う。『顔が見てみたい』なんて言ってみたところで、およそまともじゃない理由だ。誰にも言えやしない。
 それでも、彼女を捜さずにはいられないのだろうけど――彼女の顔を見てみたいから。途轍もなく奇妙で、密やかにしなくてはならない、たったそれだけの理由を携えて。

 ふと思いついて、俺は本棚の陰から声のした方を覗き込んだ。
 そこにはさっき、本を取ってあげた時と同じように並川さんが立っていた。
 小さな身体で本を抱き締めて、一歩歩き出そうとした彼女が顔を上げる。目が合って、びくりとされた。だけどその時、初めて正面からの顔が見えた。
 ああ、可愛いなと思った。並川さんは確かに可愛かった。声の通りに、或いは彼女のひっそりとした性質通りに可愛い子だった。怯えたようにも見える顔、驚いた瞳が真っ直ぐにこっちを見つめている。唇は僅かに開いて、すぐにでも小さなあの声が聞こえてきそうだ。本を抱える両手が力を込めたのがわかった。大切なものを守ろうとするように、ぎゅっと。
 俺は少し笑った。それから、不思議に優しくなった気持ちで告げた。
「良かったね」
 並川さんは何も言わず、目を瞠った。
「好きな本が読めて。本、大好きなんだろ」
 今日は来てよかったと思う。奇妙で人には言えないような理由しか持たずに、ただただ並川さんを捜し続けている俺は、それでも彼女の役に立てた。彼女を助けてあげることが出来た。こんなまともじゃない行動も、今日ばかりは意味のあるふるまいだったんじゃないかと思う。少なくとも俺自身は、彼女の為になれたことがとてもうれしかった。
「ち、違うの」
 だけど、並川さんはかぶりを振った。震える声でそう言った。
「違ったの? 本が?」
 思わず聞き返すと、彼女はたどたどしい口調で続けて、
「ううん、あの、そうじゃなくって。さっきの」
「さっきの?」
「好きって言ったの、本のことじゃなくて――」
 そこまで口にしてから、はっとしたように唇を閉ざした。
 本のことじゃなくて――じゃあ一体、何のことだろう。俺はぽかんとしていた。並川さんがどうしてそんなことを言い出したのか、まるでわからなかった。
 並川さんは俺を見上げている。多分、三十センチメートルくらいはある視線の高低差。怯えた顔と困り果てたような目で、じっと俺を見ている。こんな風に強く、真っ直ぐに見つめられたのも、もちろん初めてだ。
 不意に彼女が顔を伏せた。その後の言葉は本当に、ごく微かに聞こえてきた。
「あの……」
 射し込む夕陽が、俯く彼女を照らしている。
「その……」
 乾いた声を零してから、並川さんはそれきり黙り込んでしまった。

 図書館の中は静まり返った。
 何も動かず、ただただしんとしていた。
 並川さんの小さな小さな言葉を拾う為に、俺もじっと息を殺した。
 だけど彼女は何も言わない。逃げるように俯いて、いつもみたいに俺の方を見ない。さっきの言葉の説明も、何もしてくれない。
 俺も、しばらく黙っていた。本当は彼女の口から聞くことが出来たら、一番いいと思っていた。どういうつもりで言ったのか――彼女の『好き』は、何に対してのものなのか。彼女が言ってくれたらいいと思った。
 もしも彼女が、俺の無意味な行動を肯定してくれたら。俺の、奇妙な理由しかない日々のふるまいを意味のあるものとしてくれたら、とてもうれしいだろう。だけど、そう受け取るには言葉が足りなくて、幾分楽観的過ぎた。逆にこれから、深いところへ突き落とされるような気がして、落ち着かない気持ちになった。
 一度、尋ねてみたかった。本当に尋ねたら、優しい彼女はきっと正直には答えないだろうと思っていたけど。ずっと、否定的な意味合いで目を逸らされているのだと思っていたけど。でも尋ねてみたかった。
 どうすれば君は、俺の方を向いてくれるんだろう。

 少ししてから、俺は彼女に近付いた。足元から伸びる影が、すっぽりと彼女の姿を覆ってしまう。そうしても彼女は何も言わず、俺は、沈黙に耐え切れなくなって切り出した。
「あのさ」
 声が震えて、格好悪いと思った。でも、今しかないはずだった。彼女が零した言葉から、彼女の正直な気持ちを引き出す機会は、今しかない。だからはっきり、告げることにした。
「あんまり思わせぶりにされても、……困るんだ」
 そう言ってから、俺は急に気恥ずかしくなって、彼女から視線を外した。
 少しわかった。彼女が目を逸らしたくなる理由。もし、同じ気持ちでいてくれるのなら、多分こういうことだったんだろう。
 今は並川さんを見つめているのが、見つめられているのが恥ずかしかった。毎日捜してしまうほど、その顔をちゃんと見てみたいと思うほど好きな子に、その気持ちを伝えようとするのは、とても勇気の要ることだとわかった。
 でも、意味のあることだ。少なくとも、黙って見ているだけよりはずっと。だから確かめてみなくちゃいけない。
 俺はもう一度、並川さんに視線を向けた。
 ちょうど彼女も俺を見ていた。強く、揺るぎない眼差しを向けられていた。俺の話を聞こうとしてくれている、真摯な態度が背を押してくれた。
 ようやく、俺は尋ねた。
「さっきの、あれはつまり、俺、期待していいってことなのかな」

 並川さんは目を逸らさず、しっかり俺を見上げている。
 これから彼女が口にする言葉がどんなものであろうと、聞き逃さずにいようと思った。彼女の小さな声を必ず、全て拾い集めて、大切にしていようと思った。彼女が俺の影の中にいる、ひっそりとしているのに鮮烈なこの光景を、記憶の中へ焼き付けておこうと思った。
 見つめる先で、彼女の唇がゆっくり動き出す。
「あのね、私は――」

 そっと続けられた並川さんの言葉を、俺はひとかけらも零さずに全て拾い集めた。
 ちゃんと聞こえた、と告げた時、並川さんははにかみながらも俺を見つめていてくれた。

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