逢瀬の暇もないくらい(4)

「あいつ、どこ行ったんだろ……」
 公衆浴場下のパン屋のテーブルに、力なく突っ伏してロックはぼやく。
 クリスターが姿を見せなくなってから一週間が過ぎていた。その間、ロックとフィービは毎日のように露天市を見に行き、彼の姿を探した。夕方だけではなく朝早くや昼間など、日によって時間帯を変えてもみたが、それでもクリスターと会うことはなかった。
 それどころか、露天市に店を出す他の商人たちも彼を見ていないという。
「あの男が商売もせず引きこもってるだなんてね」
 フィービもお手上げなのか、疲れた様子で肩を落とす。
「次に会ったら締め上げてやろうと思ってたのに」
「僕らから逃げる為に出てこない、とかじゃないよね」
「例の大口のお仕事が忙しいんじゃないの?」
 愚痴を零し合うロックとフィービは、肩透かしの日々にうんざりしていた。

 クリスターを見かけなくなってからも、『フロリア衣料店』は連日の賑わいを見せていた。
 もちろん全てが歓迎できる来客というわけではなく、ロックの腕を買い叩く者もまた絶えない。正規の値段を伝えれば文句を言われたり凄まれたりするのも相変わらずだ。
 ただ、客たちの態度は確実に変わった。初めの三日間は『クリスターに勧められたから』と言っていたのが、一昨日あたりからは『クリスターの屋台を見かけないから仕方なく』という物言いになった。それはそれで腹立たしく思うロックだが、同時に奇妙な違和感を覚えつつもある。
 クリスターは一週間も店を出せないほどの、大口の仕事を抱え込んでいるのだろうか。
 本当に仕事のせいだけで姿を見せないのだろうか。
 ロックはそんな疑問さえ抱き始めていた。

「どうしたのさ、お二人さん」
 そこで二人のテーブルに陽気な声がかけられて、
「お腹空いてるから元気がないんでしょう。ほら、たんとおあがり」
 ジャスティアが山積みのジャガイモパンと共に現れた。
 焼き立てのパンの香りが、ロックをいくらか元気づけてくれる。たちまちお腹も空いてきて、大喜びでパンにかぶりついた。
 それを見守るフィービも気を取り直したか、去り際のジャスティアに尋ねた。
「ジャスティア、クリスターの野郎を見てない?」
 するとジャスティアは足を止め、きょとんとする。
「クリスター? ああ、そういえば最近見ないね」
 それから竈の前に立つ夫に向かって声をかけた。
「カルガス! いつから来てないか覚えてる?」
 彼女の寡黙な夫は振り向かず、しかし即座に答える。
「ここ一週間は来てない」
「一週間……やっぱり」
 奇しくもそれは、彼の姿を見なくなったのと同じ時期だ。
「あいつがうちの店に来ればすぐわかる。焼き損じのパンがあったら欲しいだの、常連のよしみでまけてくれだの言うから」
 ジャスティアは鼻の頭に皺を寄せてみせる。
「だからあたしは、あいつの店では買い物しないって決めてるんだ。物の値打ちがわからない奴がいい品を売るはずがないからね」
 そう語る彼女は、ありがたいことに『フロリア衣料店』の常連客だ。
 ここ連日のごたごたに疲弊していたロックにとって、ジャスティアの言葉はまさしく励みであり癒しとなった。
「エプロンを新調したくなったら来てよ。またいいのを作るから」
 感謝を込めてそう告げると、ジャスティアはころころ笑う。
「あんたの仕立てじゃ、しばらくは買い替えの必要もないよ」
「それはもう、うちは優良店ですもの」
 フィービは鼻高々のようだ。誇らしげに言って、今度はロックを笑わせた。

 しかしクリスターの行方は依然として不明だ。
 行きつけの店にも現れていないのなら、寝食も惜しんで仕事に打ち込んでいることになるが――。
「で、クリスターがどうしたって?」
 ジャスティアの問いに、ロックとフィービはパンを食べながら事情を打ち明けた。
 ここ一週間、露天市に店を出していないこと。お蔭で彼の得意客がロックの店へ流れてきて、それが柄の悪い客ばかりで大変迷惑していること。
 そういった経緯を告げると、ジャスティアの顔にも同情の色が浮かんだ。
「そりゃ大変だ」
「本当だよ、こっちはいい迷惑なんだ」
「けど、あいつが店休んでるなんて珍しいね」
 クリスターが金儲けに執心していることは当然知れ渡っている。その彼が店を出さないとなれば、誰もがジャスティアのように不思議に思うだろう。
「仕事が忙しいとは言ってたんだけどさ」
 ロックは深々と溜息をつく。
 漠然とだが、妙につきまとう不安のようなものがあった。

 ちょうどその時、パン屋に女が入ってきた。
 人種の坩堝である帝都でも珍しい、褐色の肌の女だった。南方からの移民だろうと思われたが、見たことのない顔だとロックは思う。
 だがその顔は知らなくても、職業については大方察することができた。極彩色に染め上げたドレスは胸元が大きく開いていて、丈も膝が覗くほど短い。無造作に切っただけの短い黒髪とは対照的に、異国情緒漂う顔立ちには濃い目の化粧が施されている。
 こういう風貌の女は十中八九、酒場勤めだ。

 女は席を探すことも、どこかに座ることもなく、真っ直ぐにロックたちのテーブルへ歩いてくる。
 そして傍まで来ると、紅を引いた唇を微笑ませて切り出した。
「坊や、クリスターの話してたでしょ。彼を知ってるの?」
 男装のせいで軟弱に見えるとは言え、ロックは既に二十歳だ。さすがに『坊や』呼ばわりには戸惑った。
 それに、彼女は誰だろう。
「知ってるけど……あなたは?」
 ロックが尋ね返すのと同時に、ジャスティアが顔を顰める。
「ニーシャ、うちで客引きはお断りだからね」
「わかってるよ。この子と話してみたかっただけ」
 ニーシャと呼ばれた褐色肌の女は、無遠慮にロックを指差した。
「ロックは初心なんだ、からかうんじゃないよ」
 ジャスティアはそう言い残すと、心配そうにしつつも仕事に戻っていった。
 代わりにニーシャがロックの隣に、一言もなく腰かける。
「相席していいなんて言ってないわよ」
 警戒心を隠さぬフィービが釘を刺せば、ニーシャは驚きに跳び上がった。
「その声、男!? なんでそんな格好してるの?」
「悪かったわね、好きでやってることよ」
 フィービの表情が一層きつくなる。
 ニーシャは悪びれもせず、胡乱げに呟いた。
「ふうん……変なの」

 どうもこの女、礼儀を知らないようだ。
 無論、フィービが嘲笑や罵声を受けるのも珍しいことではない。だがそれでも、ロックはできる限りフィービに嫌な気分をさせたくないと思う。

 そこでロックは彼女に告げた。
「ええと、ニーシャ? 僕らは食事中なんだ。邪魔をしないでもらえるかな」
「邪魔はしないから。食べてていいよ」
 しかしニーシャは意に介さず、上目遣いにロックを見つめる。
「で、聞きたいこと。あんた、クリスターを知ってるの?」
 卓上に、まるで胸を載せるように両肘をつく。剥き出しの二の腕をさりげなくロックの腕に押しつけてくる。
「名前、ロック……だっけ? きれいな顔して、名前は男らしいじゃない」
 蠱惑的な表情でそう囁くニーシャは、誘惑の術に長けているようだ。
 もっとも、ロックにそれが通じるはずもない。
「貧民街であいつを知らない奴はいないよ」
 冷静にそう答えれば、ニーシャは意外そうに瞬きをした。
「そうなの? じゃあクリスターってすごいんだ!」
「……今度は僕が聞くよ。あなたは誰?」
 ロックの問いに、彼女は警戒もせず答える。
「あたしはクリスターの恋人なの」
 意外な回答にロックは驚いた。
 もしもそれが事実なら、彼の所在も間違いなく知っていることだろう。これでようやく文句を言ってやることができる。
「あいつ、最近見ないわね。どうしてるの?」
 フィービも同じことを思ったか、すぐさま口を挟む。
 だがニーシャは小首を傾げた。
「知らない。あたしもずっと会ってないから」
「ずっとってどのくらい?」
「半月くらい、かなあ。仕事が忙しくなるからしばらく会えないって、それっきり」
 それから彼女は不服そうに身体を揺すってみせる。
「逢瀬の暇もないくらい忙しくなる、ってクリスターが言ってたの。でもそれにしたって放ったらかしで、店にも来てくれないんだもの」
 彼女が身じろぎをする度、重ねづけの腕輪がしゃらしゃらと鈴のような音を立てた。貝殻と小さな宝石で飾った、工芸品のような腕輪だ。
「恋人なんでしょう、家まで訪ねていけば?」
 フィービの指摘に、ニーシャはむっとしたようだ。
「家なんて知らない。会う時はあたしの部屋かお店でだったから」
 それでフィービは呆れたのか、何か言いたげな顔をした。だが結局何も言わず、ニーシャはロックに詰め寄ってくる。
「あんたはクリスターの家、どこか知ってるの?」
「知るわけないよ。僕らも親しいわけじゃないんだ」
 ロックはかぶりを振った。

 秘密主義なのか何なのか、クリスターはニーシャにも住所を明かしていないようだ。
 露天商の彼が市場通りに店を出さなくなり、恋人にも住まいがわからない。これでは彼の所在を掴むのも容易ではなさそうだ。
 ただ、彼の雲隠れぶりはまるで逃げているようだとロックは思う。
 一週間、誰からも見つけられずにいるなんて――引きこもっているのだとしても、何か妙だ。

「もしクリスターを見かけたら教えてね」
 ニーシャもその言葉だけは、切実そうに口にした。
「お金儲けも大事だけど、会いに来てくれないと寂しいもの。それにたまに元気な顔見せてくれないと、心配になっちゃう」
「わかった。会えたら本人にも伝えるよ」
 ロックは共感を胸に頷く。
 フィービはじっとロックを見ていた。だが口は挟まず、黙ってパンをかじっている。
「ありがとう、坊や」
 ニーシャは嫣然と微笑み、それからロックの手を取った。
 柔らかい彼女の手が、ロックの手を包むように握る。恐らく感謝を伝えようとしたのだろうが、いきなりのことにロックは困惑した。
「ニーシャ?」
 しかし、なぜか握った方のニーシャも怪訝そうにしている。
「この手……」
「え、何?」
「ううん。ほら、クリスターと同じ、硬いのがある」
 ニーシャは指の腹で、ロックの中指にある硬い部分をそっと押した。
 それは縫いだこだ。裁縫をしているとどうしても避けられないもので、ロックの場合は中指の背と手のひらに少しある。母ベイルにも同じものがあって、母の手に似ていく自分の手をロックは嬉しく思っていた。
「もしかして、坊やも仕立て屋?」
 ニーシャの問いにロックは目を瞠った。
「これだけでわかるんだ、すごいな」
「仕事じゃ男の手ばかり見てるからね」
 そう言うと彼女はロックの手を離し、席を立つ。
「じゃあね、ロック。クリスターに会ったらあたしのこと、ちゃんと伝えてね」
 そしてそのまま何も頼まず、パン屋の店内から出ていった。

「クリスターの恋人か……」
 ニーシャが去ってしばらくしてから、ロックはそっと呟いた。
「あいつ、恋人まで半月も放ったらかしなんて酷いな」
 しかしそこで、
「本当の恋人ならね」
 フィービがぼそりと釘を刺す。
「どういう意味? ニーシャが嘘をついてるってこと?」
「違うわよ」
 問い質そうとするロックに、彼は静かにかぶりを振った。
「クリスターがそう思ってるとは限らないってこと」
 それから肩を竦めてみせる。
「あの子、帝都に来てから日が浅いのよ。見ない顔だし、あたしのこともあんたのことも知らなかった。田舎育ちの娘が都会の男に引っかけられて騙される、まあよくあることよね」
 フィービの言説には妙な説得力があった。
 だが納得のいかないロックは慌てて反論する。
「そんなのわかんないよ。クリスターだって本気かもしれない」
「本気だったら、長く会えない時は家の場所くらい教えるでしょう」
「そう、だけどさ……」
「教えてもらってない時点で、そういうことよ」
 フィービもどこか寂しげに、しかしきっぱりと言い切った。
 ロックとしても、フィービの意見の正当性はわかっている。だが理解できるのと、呑み込めるのとは違う。
「僕は、もうちょっといい方に考えたいな……」
 そうぼやいて、フィービには見透かすような目を向けられた。
「なあに、ロック。自分と重ねちゃったりしてるわけ?」
「えっ、ま、まさか!」
「あんたは一週間前に会ったばかりでしょうが!」
 否定したところで、父はお見通しのようだ。

 恋する婦人にとっては、一週間だって決して短くはない。
 逢瀬の暇もないのはロックも同じだ。ここ最近は慌ただしく、エベルから注文を受けた礼服の仕立ても満足に進んでいなかった。その仕事に一段落つけるまでは、彼を店に招くわけにはいかない。
 だからニーシャの切なさは他人事ではなく、クリスターに会えたら必ず伝えてやろうと思っていた。

 それから更に一週間後――。
 貧民街のあちらこちらに、尋ね人の張り紙が貼られるようになった。
 張り出したのはニーシャだ。そして尋ね人はやはり、クリスター・ギオネットだった。