我が愛しのフロリア嬢(6)

 これまで何枚もの絹の生地を扱ってきたのに、自分で身に着けるのは初めてだった。
 上質の絹地は滑りがよく柔らかで、しっとりと肌に馴染む着心地だった。そのとろける肌触りにうっとりしつつ、ロックは自分の身体がまとうドレスを見下ろす。
 ここ数年はずっとズボンをはいてきただけに、ドレスのスカートは何だか少し落ち着かない。薄雲のような紗からうっすら透ける暁色のスカートは、ロックの微かな身じろぎに美しく光沢を揺らした。腰回りはミカエラよりも肉づきが悪く、その分はサッシュをきつく結んで調整するしかなかった。
「こんなにスカートが長くて、上手く歩けるかな」
 足元を気にして下ばかり見ているロックに、フィービが釘を刺してくる。
「だからって俯いて歩いてちゃ駄目よ。ちゃんと胸を張りなさい」
「う、うん。わかってる」
 それでロックは少しだけ胸を逸らしてみた。
 首の後ろでリボンを結ぶ当世流行のドレスは、仕立てた通りにロックの女らしい鎖骨やなめらかな肩を晒させている。こういう型のドレスを仕立てたのも初めてではないが、自分で着ると少しばかり恥ずかしい。かぎ編み生地の小さな袖は腕を動かす度にひらひら揺れて、その可憐さはロックも気に入っていた。
「まさか自分で着ることになるなんてね」
 呟いてみたら、今更のように照れてきた。
 ずっと男のふりをして、男の格好ばかりしてきた。そのことに微塵も不満はなかったものの、ドレスに袖を通してみればどうしてか心が躍り始めた。

 ドレスを着終えたロックに、フィービが化粧を施してくれた。
「道具が全部揃ってるわけじゃないから、軽くだけするわね」
 その言葉の割に、彼女の懐からは次々と化粧道具が現れた。透明な小瓶にはさらさらの白粉が詰め込まれ、ボタンのように平たい木の容器には柔らかい紅が納められていた。細筆も二本三本と現れて、化粧をしないロックは目を疑うばかりだ。
「これ、本当に全部使うの?」
「そうよ。さ、少し口を閉じててちょうだい」
 フィービはロックに言い含めると、まずその顔全体に白粉をはたいた。
 独特の甘い香りがする白粉に訳もなく胸を高鳴らせていれば、フィービは細筆を手に握り、その先端に紅をほんの少しだけ取った。
 そしてロックの顎を優しく、公爵子息とは比べものにならないほど優しく掴むと、ほんの少し上向かせてから筆先を唇の上に置いた。
「く、くすぐったい……」
 唇の輪郭を縁取る筆の動きに声を上げれば、フィービが諌めるように苦笑する。
「こら。それ以上動いたら、お化けみたいな大きな口にするわよ」
 それでロックは慌てて口を閉ざした。
 その唇を、紅筆が鮮やかに色づけていく。輪郭をなぞった後は一番柔らかい部分を、繊細な筆さばきで紅く塗り潰す。
 くすぐったさにどうにか耐えきったロックに、フィービも化粧の手を緩めない。少女のような細眉は眉墨で形を整え、目の際にも柔らかな色の隅を入れ、最もロックらしい瞳の形をよりきれいに際立たせた。最後に頬紅をごく薄く、円く入れてみせた後、フィービはロックの肩を掴んでその身体をくるりと反転させた。
「ご覧なさい。とびきり美人になったでしょう」
 フィービの声を背中で聞きつつ、ロックは目の前にあるものに呆然と見入った。

 そこには、とっぷり暮れた夜闇を敷き詰めたガラス窓があった。
 夜の暗がりが鏡のように、おぼろげにではあるが今のロックの姿を映し出していた。
 美しく色づいた唇、心を込めて仕立てた暁色の夜会服、そしてたった今フィービが櫛で梳いてくれている、いつもより少しだけおとなしい葡萄酒色の髪の婦人が、自分の姿に驚いているのが映っていた。

「すごい……。フィービ、化粧の腕もいいんだね」
 紅を入れた唇をぽかんと開けたロックに、フィービは得意そうな口調で応じた。
「慣れてるからね。――さ、髪も済んだわ。こちらを向いて」
 その声に、ロックは改めてフィービに向き直る。
 見上げる先のフィービは、初め少し笑んでいた。だが身支度を整えたロックを見つめるうち、その表情がふと陰った。青い瞳を驚きに瞠り、なぜか息を呑んだ後、両手でロックの頬に触れてきた。
 顔を軽く持ち上げて、真贋でも見定めるようにじっくりと見入るその表情は、どこか懐かしいものを見ているようでもあった。
「フィービ、どうかした?」
 不思議に思ったロックが問うと、フィービは静かに息を吐きながら、
「驚いた……そっくりだ」
 と言った。
 誰に、とは言わなかったが、彼女がそう言う相手は一人きりしかいないだろう。そう思ったロックは心を弾ませ聞き返す。
「父さんに? 僕、似てるかな」
 だがフィービはロックから目を逸らさず、陶然と答える。
「違う。ベイルに――ベイル・フロリアに、とてもよく似ている」
「……え?」
 今度はロックが息を呑む番だった。
 亡き父の恋人であるフィービが、なぜ母の顔を知っているのだろう。面識があるという話はこれまで一度も聞かされていない。
「母さんを知ってるの?」
 思わず問い質そうとするロックの前で、フィービは一瞬だけ優しく微笑んだ。
 しかしすぐに目をつむり、何かの感情を堪えるように、もう一度深く息をつく。
 次に瞼を開いた時、彼女が浮かべたのは目を奪うような凛々しい表情だ。
「ロクシー。お前はフレデリクス・ベリックとベイル・フロリアの子だ」
 フィービが、ロックの本当の名を呼んだ。
 それは三年前の出会いの頃以来、本当に久しい出来事だった。
 戸惑うロックに、フィービは語気を強めて言う。
「決して臆するな。今のお前なら、どんなうるさ型の目だって眩ませられる」
 それから軽く額をぶつけて、誓いの口調で続けた。
「もしもの時は、傍にいる。いざとなったら攫ってやる。だから何も心配しないで突っ込んでいけ」
「……はい」
 ロックはそう返事をしてから、気圧されている自分に気づいてうろたえた。
 目の前にいる人がどういうわけか、フィービではないように思えたからだ。

「身を潜める場所を探しとく。ちゃんと見てるから、心配しないで」
 そう語るフィービと物置で別れ、ロックは一人で廊下へ出た。
 既にミカエラの誕生日を祝う宴席は始まっているのだろうか。三階の廊下は静まり返っており、人の姿どころか気配すらしない。ロックはドレスの裾に気を配りつつ廊下を進んだ。
 途中、一度だけ振り返って、閉ざされた物置の扉を見た。
 フィービは、一体誰なのだろうか。ふとそんなことを思った。
 彼女は――彼は、ずっとロックの傍にいてくれた。恋人の隠し子というごく薄い縁でありながら、甲斐甲斐しく世話を焼き、帝都で暮らし始めた頃から今に至るまでロックを支え続けてきた。
 そのフィービが、ロックの母の顔を知っていた。
 父と母が別れたのはロックが生まれる前のことだ。フィービともその頃から付き合いがあったというなら――あり得なくはないだろうが、何かが引っかかる。
 エベルが、いくら聞き込みをしてもフィービの傭兵時代を突き止められなかったことも。
 トリリアン嬢が、フィービの若い頃を『いい男だった』と表現したことも。
 今になってロックの胸裏を過ぎり、ある一つの、途方もない仮説を組み立てようとしている。
 だがロックはその思いを立ち切り、あえて振り返るのをやめた。
 尋ねるのはあとでいい。今はすべきことがある。父と母の名を汚さぬように、これから先は二度と振り返りはしないと心に決めた。

 中央階段を一階まで下りた時、玄関で会った使用人とすれ違った。
 彼はロックを認めると見惚れるように目を見開き、それから取り繕うように微笑んだ。
「大広間は向こうの奥でございます。もう祝宴は始まっておりますので、お急ぎください」
「ありがとうございます」
 急変した態度に笑いを堪えつつ、ロックは礼を述べて立ち去った。
 もしかすれば彼の目には、今のロックが身分貴き令嬢にでも見えていたのかもしれない。ドレスと化粧だけでこうも変わるというなら、仕立て屋冥利に尽きるものだとロックは思う。

 かくして道化の仕立て屋は、美しい絹の夜会服姿で大広間に辿り着く。
 両開きの扉は開け放たれていて、広大な室内はシャンデリアの煌びやかな光と、それを受けて輝く盛装の客たちとで眩しいほどだった。銀の杯を手にした客人たちが笑いさざめき合う声と、楽団が奏でる静かな調べとが戸口に立つロックを出迎えた。
 深呼吸を一つ。
 それからロックは胸を張り、細身のドレスの裾を捌きながら大広間の中へと進み出る。
 戸口近くの客人たちが一斉に振り返る。現れた夜会服の若き婦人に、誰もが一度は見惚れ、しかしすぐに怪訝な顔をする。社交界では見かけぬ顔だとすぐに気づいたのかもしれない。ましてこの年頃の令嬢が、同伴者もなしに単身乗り込んでくるなど礼儀に叶ったことではない。
「あれは、どちらのお家のご令嬢かしら」
「おきれいだけど、ちっとも見ない顔ね」
 そんな囁き合う声にそ知らぬふりを貫いて、ロックは尚も大広間を進む。
 室内は思い思いのやり方で宴を楽しむ人々で溢れていた。酒を楽しむ者、料理に舌鼓を打つ者、歓談に夢中の者、楽団の調べに耳を傾ける者――しかしそんな彼らでさえ、ロックが傍を通りすぎる時、一度は振り向いてその姿に見入った。無数の視線がロックの化粧を施した顔や剥き出しの肩や、暁色の夜会服に注がれる。ロックはそれらに臆さぬよう、ひたすら胸を張って歩き続けた。
 そして大広間の一番奥で、並んで椅子に腰かけるグイドとミカエラの姿を見つけた。
 目視できるその距離で、兄妹もまたロックに気がついたようだ。途端にグイドは席を立ち、愕然とした顔でロックを見つめた。何度も目を瞬かせて、見えているものがまやかしではないかと疑ってかかっているようだ。だが真実とわかると、その顔からさっと血の気が引いた。
 一方、ミカエラも怪訝そうに瞬きを繰り返していたが、やがて何もかも理解したように口元を両手で覆った。それから無垢で愛らしい顔に、驚いたような、だが愉快そうな満面の笑みを浮かべてみせる。
 妹の反応をよそに、グイドが何か声を上げかけた。
「おい、誰か! あいつを――」
 だがその怒声すら飲み込むようなざわめきが、にわかにロックの周囲で沸き起こった。

 大広間の人波が掻き分けながら、早足で近づいてくる者がいる。
 鳶色の髪を後ろに流し、宴席にふさわしい盛装をしていながら、その端整な顔に今は驚きと焦りの色を浮かべている。どうにかしてロックの元へ辿り着こうと必死のようだ。
 それでも彼の姿を見つけた時、ロックはたまらなくほっとしていた。
 さすがは目も鼻も優れた人狼閣下だ。思っていた通り、すぐに自分を見つけてくれた。
 並み居る客人たちをかいくぐり、エベルはロックの前に転がり出る。そして金色の瞳を丸くしたかと思うと、喘ぐように切り出した。
「あなたがここに現れるとは……」
 それからロックに駆け寄って、その姿が真実であることを確かめるように、とっくりと眺めてきた。
「いや、来てくれるとは……夢のようだ」
 ロックはその視線を恥じらいつつも受け止める。エベルの視線がよく梳いた髪や紅を引いた唇、夜会服をまとう身体を撫でる度、化粧をされている時よりもくすぐったくて仕方がない。ましてや彼の前で、初めて見せた女の姿だ。
「あなたは麗しいご婦人だと、ずっと前から思っていた」
 いたく感激した様子のエベルが、ロックに手を差し伸べる。
 独身の伯爵閣下の行動に、大広間からは一層のどよめきが起こった。だがエベルは構わず続けた。
「是非、その手を私に。今宵のあなたを手引く栄誉を、私にだけ許して欲しい」
 あいにく平民生まれのロックには、この場の作法などとんとわからない。
 でも彼が手を差し伸べてくれるのなら、それを取らない理由はなかった。
「見つけてくださると信じておりました、閣下」
 エベルの手を強く握って、ロックは心から告げた。
 するとエベルはとろける笑顔になって、ロックの繊手を優しく握り返す。
「いつもと同じでいい。どんな場であろうと、誰の前であろうと、あなたには私の名を呼んでいて欲しいんだ」
「かしこまりました、――エベル」
 ロックが呼びかけると、彼は満足げに金色の瞳を細めた。
 その後で同じように呼び返そうとしたのだろう。だが開けかけた口を一度は閉ざし、少し考え込んでから、笑顔で尋ねてきた。
「そういえば、あなたの名をまだ聞いていなかったな」
 確かに、彼とはもう何度となく顔を合わせているにもかかわらず、ちゃんと名乗ったことがなかった。
 今こそ告げるべきだろう。
 そう思って、ロックは親から贈られた自らの名を口にする。
「ロクシー・フロリアと申します」
「……あなたらしい、美しい名前だ」
 偽名を名乗った時とは正反対の感想を呟いた後、エベルはロックの顔を覗き込む。端整な顔立ちの彼は幸福そうに見つめてきてから、とびきり甘い声で囁いた。
「大切に呼ばせてもらうよ、我が愛しのロクシー」

 今日は何かと顔を覗き込まれる日だ。
 だが今ほど頬が紅潮した瞬間はなかったと、ロックは素直に自覚していた。