男装婦人の恋と憧憬(1)

 男装のロックは、朝の身支度にも一手間かかる。
 寝間着を脱いだら服を着る前に、手製のコルセットを身に着ける。胸を潰す為のものだ。
 男装を始めたばかりの頃は、巻木綿を胸にぐるぐる巻きつけて誤魔化していた。だがそれだけで身体の線を隠すのは容易ではなく、上手く巻けず胸に段差を作ったり、妙に胸板が厚く仕上がったりと大変だった。肌に不恰好な跡が残るのも憂鬱で、それならばと自分でコルセットを縫い上げた。

 コルセットを胸に着け、その上からシャツを着込み、更には仕立て屋のベストを羽織る。
 そうすると鏡の中には、平坦な胸と痩せた身体の貧弱な青年が現れる――はずだ。
「どう見ても、男のはずだけどな……」
 自室の姿見を覗き込み、ロックは一人ぼやいた。
 葡萄酒色の髪が少し伸びて、顎に届く長さになっていたせいかもしれない。
 帝都に来てから食うに困らなくなり、頬がふっくらしてきたせいかもしれない。
 あるいは――エベルは匂いでわかると言っていたが、それは本当だろうか。人狼の鼻がそこまで優れたものかはロックも知らない。仮にそうだとしても、男と女でそこまで匂いが異なるものだろうか。
 納得がいかず、ロックは試しに自分の髪や腕の匂いを嗅いでみた。
「そんなに、違うものかな」
 自分ではちっともわからない。香水の類はもちろん白粉一つはたいたことのないロックには、女らしい匂いをさせる要因は皆無のはずだ。強いて言うなら、フィービがよい香りの石鹸を分けてくれるので、その残り香を感じ取ったのかもしれない。
 何にせよ、エベルはロックの男装を看破した。
 要因はもはや二の次だ。その事実を、ロックはどう受け止めるべきか悩んでいた。

 まだほんの三日前のことだ。
 エベルは彼の屋敷の秘密の小部屋にて、ロックが女であると言い当てた。
 正確にはそれも二度目だった。一度は仕立て屋の試着室にて、やはり人狼の彼に指摘されていた。
『あなたは、女の匂いがする』
 その時も、そして先日も、ロックは彼の追及を口先だけで退けた。だがそれはその場しのぎの強弁でしかない。仮にエベルが聞き分けよく詮索をやめてくれたとしても、その疑念は――もしかすると確信に至っているかもしれないその思いは、彼の中から消えてしまうわけではない。
 それならいっそ、彼には真実を打ち明けてしまう方がいいのかもしれない。
 エベルは手の早い男だが、伯爵という身分がありながら身を挺してロックを守ってくれるような人物だ。秘密を握っているのはお互い様でもあるし、明かしたところで言い触らすような真似はしないだろう。
 何より『男でも女でも構わない』と公言して憚らない彼なら、事実次第で態度が変わることもないはずだった。

「……いや、変わってもいいんだけど」
 自分の思案に独り言で答え、ロックは溜息をつく。
 それから何気なく首筋に手を添え、自然と顔を赤らめた。あれから三日も経っているのに今なお鮮明に覚えている。酷く優しい甘噛みの感触が、残っている。
 エベルはあれを口づけの代わりだと言っていた。
 その記憶が三日経っても一向に消えないのは、色恋沙汰への免疫がないせいだろう。
「変なの……」
 首筋に指を這わせて呟けば、鏡には頬を薔薇色に染めた娘の顔が映り込む。
 それに気づけば居心地が悪くなり、ロックはわざと顔を顰めた。
「こんな顔してたら、女の代用品って言われるだけだ」
 あの甘い記憶と同じ日にエベルの屋敷で出会った貴族――グイドの言葉は、男に憧れるロックを少なからず傷つけた。
 日頃からひ弱だ華奢だと馬鹿にされているロックではあるが、グイドの悪意剥き出しの言葉は不快だった。無論、グイドの方もロックを傷つけるつもりで言ったのだろう。彼はあからさまにロックを疎んでいた。それもエベルの恋の相手が男だから、身分卑しい相手だからというだけではないようだ。
 もしエベルに事実を打ち明ければ、グイドは更に面倒な存在になるかもしれない。
 それならばやはり言わない方がいいだろう。
「いっそ、少し鍛えてみようかな」
 ロックはシャツを着た二の腕を鏡に映し、ほぼ骨と皮だけのそこを指先でつまんだ。
 ずっと男になりたかった。女手一つで育ててくれた母の為に、早く働きに出て、楽をさせてあげたかった。しかし男ならともかく、十代の娘に真っ当な働き口は多くない。それを見越してロックの母は仕立ての技術を教えてくれたが、覚えきる頃には病に倒れ、母の為に針を持つことはできなかった。
 ロックの男装はただの擬装ではなく、憧れの実現でもある。
 だから、男のままでいられるならその方がいい。代用品などと呼ばれないような男になればいい。
「よし、そうしよう」
 甘い記憶を振り切るように、ロックは姿見の前から急いで離れた。

 身支度を終え、部屋を出たのは日が上り始めた頃だ。
 これから店へ向かい、開店の為の支度をする。朝早くから客が入ることはまずないが、店の鍵を開けたら一通りの掃除を済ませ、いつでも客を迎えられるようにしている。そういう地道な努力が小銭稼ぎに繋がることもあるから侮れないのだ。
 だが今朝は、店の前に人影があった。
 まだ施錠された扉を背に、鳶色の髪の青年が一人ロックを待っていた。
「おはよう、ロック。随分と早くから店に来るんだな」
 早朝だというのに眠そうでもなく、端整な顔立ちに微かな笑みを浮かべている。身に着けているのはかつてロックが仕立てたシャツとベスト、それにサッシュベルトのズボンだ。
「お……おはようございます、エベル」
 声をかけられ、ロックはあたふたと返事をする。
 早いというならこんな時分から店の前にいる彼も大概だろう。客としては何度も足を運んでいるエベルだが、開店前に来られたのは初めてだ。予期せぬことだけにロックはうろたえた。
 それでなくとも、あの日の『口づけ』がまだ記憶に残っているのに。
「あなたの方こそ、ど、どうかしたんですか?」
 落ち着きのないロックの問いに、エベルは珍しく真面目な顔で応じた。
「話したいことがある。この時間を選んだのは他でもない」
 そこで一旦言葉を区切り、朝靄かかる市場通りを見回した後で声を落とす。
「……フィービは?」
「彼女はまだです。いつも少し遅くに来るんです」
 ロックが開店準備を済ませ、店の看板を『営業中』に掛け替えた頃にやってくる。フィービは開店から閉店までやってもいいと言ってくれるのだが、ロックとしては自分が店主という自負がある。少ない給金で手伝ってもらっている以上、あまり負担をかけたくはなかった。
 それを聞いたエベルはどこか安堵した様子だった。
「そうか、では彼女が来る前に済ませてしまおう」
「あの、お話というのは……?」
「この間、あなたから請け負った一件についてだ」
 そう言われて、ロックの脳裏にも閃くものがあった。
 彼に託したのは、他でもない父親の名前だ。もしや――。
「父さんのこと、わかったんですか?」
 すぐさま食いつけば、エベルはロックを見据えて頷く。
「ああ。いくつか、あなたの耳に入れたいことがある」
 あれからまだ三日しか経っていないのに、エベルはロックの父親を引き当てたようだ。その迅速さには戸惑いつつも、ロックは素直に浮かれてしまう。
「ありがとうございます! どうぞお入りください、中でお話をしましょう」
「では、失礼する」
 声を弾ませるロックとは対照的に、今朝のエベルは普段よりもおとなしい。物思いに耽るような顔で、ロックが扉の鍵を開けるのを見ていた。

 開店作業は後回しにした。とても手につくとは思えなかった。
 ロックはエベルに椅子を勧め、自らもカウンター内の椅子に腰を下ろす。それからそわそわと、逸る思いで切り出した。
「それで、お話というのは……」
 待ち切れないロックの様子がおかしかったのだろうか。エベルはわずかに口元を緩めた。
「ああ。フレデリクス・ベリックという傭兵について、情報を得た」
 それは確かに先日告げた、ロックの父親の名前だ。
 そして母ベイル・フロリアが死の間際まで愛した人の名でもある。
「奇縁と言うべきだろうか……」
 エベルはそう前置きして、金色の瞳でロックを見つめた。
「実がルドヴィクス――うちの執事が、あなたのお父上の名前を知っていた」
「あの方が?」
 マティウス邸で出会った白髪の執事の顔を思い浮かべる。エベルが言うには彼は古株の執事ということだった。ロックは挨拶を交わした程度であまり話をしなかったが、優しそうな人だったと記憶している。
「うちの父が以前、仕事を頼んだことがあるそうだ。父の骨董品蒐集に付き合わせ、遺跡に潜ってもらったとのことだ」
「父さんが、そんなことを……」

 傭兵の仕事について、ロックは多くを知らない。
 だがフィービが言うには『食いっぱぐれない為なら何でもやる』のが傭兵らしい。一兵士として戦場に赴くこともあれば、個人に雇われて用心棒をやることも、時には悪党に雇われて恐喝まがいのことをする者もいるという。
 その中でも帝都周辺に点在する古代遺跡の探索は、てっとり早く金が欲しい傭兵にとって格好の稼ぎ場だったという。エベルの父親のように骨董品を買い漁る好事家もいれば、歴史的価値のある品には金に糸目をつけない学者もいる。だがそういった古代遺跡には設計者が意地悪く工夫を凝らした罠が残っているそうで、半端な実力で挑むのは無謀でしかない――フィービが以前、そんなふうに語ってくれた。

「ルドヴィクスの話では、あなたのお父上はとても優秀だったそうだ」
 エベルは優しい声音で続ける。
「遺跡潜りに長け、頼んだ仕事は必ず完遂してくれた。それも大抵、怪我一つなく戻ってきた。父もいたく信頼を置いていたそうで、何度か家に招いてはもてなしていたと」
 ロックはその話を、カウンターに身を乗り出して聞いていた。
 会ったこともない父の生き様が、ほんの少しだけ覗けたような気分だ。それも憧れていた通りの――。
「おまけに彼は大層見目麗しい男だったそうだな」
 エベルはそこで、ちらりとロックに目を向ける。
 ロックは父の顔を知らないが、母が語っていた話なら覚えていた。
「うちの母も言っていました。父さんはとてもきれいで、素敵な人だったって」
 そう語る時の母は、捨てられた身だというのに幸福そうだった。
 ロックがしつこくねだっても、髪の色や瞳の色、そして馴れ初めについては決して教えてくれなかったが――それは母なりに、父の思い出を独り占めしたかったから、なのかもしれない。きっと宝物のような、大切な記憶だったのだろう。
「あの、父の髪の色や瞳の色については、エベルはご存知ですか?」
 それについてロックが尋ねると、エベルは一瞬口を閉ざしてから、
「……いいや、ルドヴィクスは何も言っていなかったな」
 かぶりを振ってそう答えた。
「知りたいのなら、この次までに聞いておこう」
「ありがとうございます。嬉しいです、エベル」
 ロックは素直にお礼を述べる。
 父のことは何でも知りたかった。血の繋がった父のことなのに、ロックはほとんど何も知らなかった。母もフィービも、どうしてか彼については口が重かったからだ。
 だから、エベルが父についてもたらした情報は全てが本当に嬉しかった。
「父について、僕はあまり知らないですから……父のことならどんなお話でも聞きたいです」
 熱っぽく訴えるロックの顔を、エベルは眩しげに目を細めて見つめている。
「私もできる限り尽力しよう」
「エベル……。本当に、ありがとうございます」
「ただ、それなら一つ聞いておきたい」
 そこでエベルは真剣な面持ちになり、気遣わしげな口調で続けた。
「私が得てきた情報が、あなたにとって好ましくない情報だった場合、それでもあなたは全てを聞きたいと思うか?」
「ええと……」
 ロックは当然、口ごもった。
 父に恋人がいると知った時、複雑に思ったのも事実だ。フィービがああいう人でなければ、もっと深く傷ついていたかもしれない。生前の父について探ればそういう話も浮かんでくる可能性はあるだろう。もしかすれば、ロックと母を捨てた理由にさえ行き当たるかもしれない。
 だが、その恐怖を押し退けるほどに父への憧憬は強かった。
「……それでも、知りたいです」
 憧れには打ち勝てずに答えれば、エベルは微かに目を瞠った。
 その金色の瞳が、瞬きもせずにロックを射抜く。
「そうか……実はな、ロック」
「はい」
「あなたに、言おうか言うまいか迷っていた話がある」
 彼らしくもなく重々しいその口ぶりは、まるで『好ましくない情報』を、既に得ているように聞こえた。
 愕然とするロックに対し、エベルはためらいがちに告げた。
「それは、彼女――フィービのことだ」