人狼屋敷の甘美な記憶(6)

 石の床に背中が触れる直前、そっと大きな手が差し込まれた。
 お蔭でロックの背中は痛みを覚えることなく、優しく床に下ろされた。

 無論、だからと言って嬉しいはずがない。人狼の大きな体躯が覆い被さり、広い影でロックをすっぽり呑み込んでいる。こわごわ見上げれば、人狼は金色の瞳をゆっくりと細めた。
「さて……始めようか」
「な、何をですかっ」
 ロックが上げた声はかすれた。
 身の危険を察知してもがこうとしたが、エベルの両手がロックの腕をやんわりと床に押しつける。そうすると身じろぎもままならず、ただ真上にある顔を睨むことしかできない。
「離してください!」
「力で私に敵う者はいない。特にあなたなら、振り解くこともできまい」
 軟弱さを改めて揶揄されたようで、ロックは恐怖も忘れてむっとした。
「あなたも、僕を女のようだとお思いですか?」
 噛みつく勢いで聞き返せば、エベルは少し笑ったようだ。開いた口から吐息が零れた。
「『女のよう』だとは思っていないな」
「は……?」
「私は自分の鼻に自信がある」
 ぎらつく眼差しとは対照的に、彼の声はいやに冷静だった。
「人狼の力を得てから、私の五感は人より鋭敏になっている。その私の鼻が、あなたが女であると告げている」
 それは、以前にも彼から指摘されていた事実だ。
 ロックはたちまち凍りつき、押さえつけられつつも抵抗していた腕の力がふっと抜けた。
 その隙をつくように、人狼の舌がロックの頬をぺろりと舐める。分厚い舌は生温かくざらついていて、ロックは思わずぞくっとした。
「なっ……、や、やめてください!」
「この姿では人のように優しい口づけはできない」
 そう答えた後、エベルは片手だけを離し、その手でロックの頬をそっと撫でた。
 人狼の手のひらは肉球のように硬く、だが手の甲や指先を覆う毛がロックをくすぐる。尖った爪が刺さらないように優しくつつかれ、ロックはこの状況にいよいよ戸惑い始めた。
「僕を女だと思ってこんなことを? 前にもお答えしたはずです、僕は――」
「私も前に言ったはずだ。あなたが男であろうと、女であろうと構わない」
 エベルが遮るように言い切った。
 そしてロックの頬を離れた人狼の手がゆっくりと下りていく。丸みを帯びた細い肩、先程まで押さえつけられていた貧弱な腕、肉がついていないのに柔らかい脇腹、そして引き締まった腰――人狼の手は一度そこでぴたりと止まると、その感触、あるいは形状を確かめるようにじっくり撫でてきた。
「ひゃうっ……」
 ロックは戸惑いに呻き、漏れ出た情けない声を気まずく思う。
 それを誤魔化すように、自由になった片手で人狼の頑強な顎を押し上げた。
「本当にやめてください、殴りますよ!」
「あなたは可愛いな」
 エベルは顎を押さえつけられても余裕ありげで、それがロックをますます焦らせる。
「可愛くないです、女扱いしないで!」
「もちろん、あなたが望むならそうしよう。だが」
 人狼の手はロックの腰から離れない。腰骨の形をなぞるように撫でさすり、そして彼は言う。
「あなたは匂いだけではなく、身体つきもまるで女のようだ」
 そこでロックもようやく気づいた。
 エベルの手はロックをくすぐっていたわけではなく――その違いを、確かめていたのだ。
「聞かせて欲しい。あなたは本当に男なのか?」
 彼が問う。
 金色の目を渇望に光らせ、しかし口調は落ち着き払って、何よりもまず真実を求めようとしている。
 口先だけでごまかせる状況ではないと、ロックもいよいよ察していた。

 ロックが男装をする理由は、自らの身を守る為だ。
 娘としてはごく普通の、愛らしい容貌をしていたロクシー・フロリアも、男装をすれば華奢で軟弱で頼りなげな仕立て屋ロックに成り代わる。その姿で有象無象が行き交う貧民街での平穏を手に入れてきた。
 だがフィービが男装を勧めてきた時、ロックは大喜びでそれに飛びついた。当時はまだ付き合いの浅かった『父の恋人』からの、突飛な提案だったにもかかわらずだ。
 理由は至極単純だった。
 父親のいなかったロックはその代わりを務める為、そして母を守る為に、ずっと男になりたかったのだ。

 守るべき母はもういないが、密かな願望を叶えられたことが嬉しかった。
 だがそれを暴き立てようとする者が現れるとは――。

「なぜあなたは……そこまでして僕を探ろうとするのです」
 ロックは深く息を吐きながら、覆い被さるエベルに尋ねた。
 彼の答え次第では、正直に明かさねばならないだろう。元より彼に対しては男装も意味をなさなかった。正直に言ったところで彼の求愛が止むわけでもあるまい。
「なぜとは愚問だな」
 人狼が目を瞬かせる。
「惚れた相手のことは独占しなければ気が済まないものだ。私はあなたの全てを知りたい」
 そういうものだろうか。ロックにはまだわからない心情だった。
「あなたが抱えている秘密も、押し隠している心も、いっそ暴き立てたいくらい知りたくてたまらない」
 人狼の手が上へ戻ってきて、呆然とするロックの頬を再び撫でる。
 その手つきは優しく、毛に覆われ硬い爪の存在すら意識させないほどだった。
「あなたを教えてくれないか、ロック」
 エベルの囁きは甘く、だがそれゆえに、ロックに一つの決意をさせる。
 相手を知りたい、暴き立てたいという思いが恋だと言うなら――ロックはそれに、応えることはしない。
 だから、改めて彼を睨んだ。
「僕は男です、エベル」
 そこで人狼は息を呑み、それから聞き返す。
「それは……答えたくない、という意味か?」
「僕は男だと言っているんです。それが答えです」
 自分の秘密は、自分とフィービだけが知っていればいい。
 他の誰にも明かす予定などない。
「教えてはくれないのか」
 エベルの声は落胆に沈んだ。だが諦めきれない様子で、尚も食い下がろうとする。
「頼む、決して他言はしない」
「お答えした通りです。秘密も何もありません」
「気になって仕方がないのだ。あなたはこんなにも女らしいのに――」
 そして懇願のその言葉が、遂にロックを激高させた。
「僕は男です! これ以上詮索したら、あなたを嫌いになります!」
 そう怒鳴った途端、人狼の巨体は雷に打たれたように震えた。
「嫌いに……なるのか?」
 尖った両耳をぺたんと寝かせ、大きな肩を力なく落とし、尻尾も丸めて寂しそうに聞き返す。
 当然、ロックを押さえつけていた力も緩んだ。これ幸いとロックは身を起こし、落ち込むエベルの鼻先に指を突きつけ諭しにかかる。
「なります! 詮索されて喜ぶ人間なんて、男にも女にもいません!」
「そうか……確かに、それもそうだ……」
「それと、いきなり押し倒す人も駄目です! 最低です!」
「……済まなかった」
 伯爵閣下は他人から叱られ慣れていないのだろうか。ロックが語気を強めると、それだけでしょんぼり沈んでしまう。
 あまりの素直さに、叱ったロックの方が面食らう。
「わかってもらえたなら、いいんですけど」
 すると人狼はこくんと頷き、
「ああ、わかった。ついでにもう一つ教えて欲しい」
「何です?」
「あなたに嫌われない為に――もっと言えば、好いてもらえるようになる為に、私は何をすればいい?」
 縋るように尋ねてきたので、ロックは嘆息した。
「そこまでして僕に好かれたいんですか。なぜです?」
「惚れているからだ」
「それがよくわかりません」
「窮状に何度も手を差し伸べてくれた。伯爵として身分を証明できず、持ち合わせもなかった私をだ。それ以上にどんな理由が必要になる?」
 説明されたところで、やはりロックにはわからなかった。
 それで首を捻っていれば、エベルは鼻先をぐいと突き出し訴える。
「お父上のことを調べたら、少なくとも嫌わないでいてくれるか?」
「えっ……いや、それとこれとは別問題です!」
 父のことを持ち出され、ロックはあからさまにうろたえた。
 そんな態度を見せればエベルも引き下がるはずがない。
「是非とも私に調べさせてくれ。挽回の機会が欲しい」
「い、いいですってば。そこまでしてもらうのは悪いです」
「あなたは私に詫びの機会をくれただけだ。利用したなどと思わなくていい」
 畳みかけてくる言葉は真摯で、それでいて誘惑的だった。
 めまぐるしく揺れ動いた後の心に、するりと入り込んでくるようだった。
「必ず情報を見つけてみせる。お父上の名前を教えてくれ」
 エベルが、そう繰り返すから――。

 父を求めて帝都を訪れ、そして今も父の影を追って男のふりをするロックは、やがて口を開いた。
「父の名は、フレデリクス・ベリックでございます」
 その名を口にしたのはいつ以来だろう。
 大切な名前だった。病床の母がうなされながら何度となく呼んだ、最期まで愛した人の名前だった。

 その思いを受け止めるように、深々とエベルは頷く。
「わかった」
「あの。……無理はなさらないでください。できたらで構いませんから」
「案ずることはない。有力な情報を得たら、必ずあなたに伝えよう」
 打ち明けた後も逡巡するロックに、エベルは明るく言ってくれた。
「ありがとうございます。でも本当に、何かのついででいいんです」
 ぎこちなく笑い返せば、人狼は金色の目でそれを見つめる。
 それから床に座るロックの傍で身体を屈めると、牙の生え揃った口を大きく開けた。噛まれる、とロックが思った通り、急に首筋めがけて噛みついてきた。
「わあっ……え、あ、あの……」
 上げかけた悲鳴が消え入るほど、人狼の牙は痛くなかった。
 子犬がじゃれ合うような甘噛みはロックの首筋に牙の感触を残しただけで、肌に突き刺さることもなかった。むしろ熱い吐息が肌を撫ぜ、ざらりとした舌先も触れたようで、ぞくぞくした。
「な、何……するんですか」
 声を震わせながら尋ねたロックに、人狼が澄まして答える。
「宣誓と、親愛の口づけだ。必ずあなたの望みを叶えると」
「口づけ? 今のが?」
「人のように優しい口づけはできない。その代わりが今のだ」
「そもそも、そんなことをする必要がありましたか?」
 噛まれたての首筋を押さえながら聞き返せば、エベルは落ち込んでいたのも忘れたように言った。
「このくらい、家族とでもするだろう?」
 家族とするのは頬への口づけだけだ。少なくともロックの場合、母親とはそうだった。
 父とはしたことがないからわからない――今、酷く戸惑っているのはそのせいだろうか。甘噛みされた箇所が、やはり熱を持っていた。

 一通りの採寸を終えた後、エベルは人に戻り、服を着てロックと共に小部屋を出た。
 出てみればそこはマティウス邸の一階廊下で、二人は散策をしていたという体で応接間に戻った。そこではくたびれた様子のフィービが待っていて、どうも小間使いヨハンナに屋敷中を連れ回されたらしいのが窺えた。

「あんた、どこ行ってたのよ。執務室にいないから探したじゃない」
 マティウス邸を後にして、行きと同じ馬車に乗り込んでから、フィービはロックを問いただしてきた。
「採寸の後で時間があったから、閣下にお屋敷を案内してもらってたんだよ」
 ロックが嘘をつくと、フィービは青い瞳をすっと細める。
「ふうん……あんたたち、すっかり仲がいいじゃない」
「そんなことないよ」
 父についてエベルに調べてもらうという話も、父の名を彼に教えたという話も、フィービには黙っていることにした。
「フィービこそ、ずっと執務室の前にいると思ったらいなかったじゃないか。どこ行ってたの?」
 そしてロックが逆に尋ねれば、彼女はうんざりした様子で答える。
「あのルドヴィクスとかいう執事に呼ばれてたのよ」
「何で?」
「是非あんたと二人でご夕食にもって誘われてね、断ったけど」
 それから首を竦めて続けた。
「その後はあのやかましい小間使いに捕まって、あちこち案内されて……まあうるさい小娘だったわ。気が休まらなかったわよ」
「大変だったんだね」
 ロックはフィービを気遣いつつも、その説明にはわずかな違和感を覚えていた。
 嘘かもしれないと思ったのはなぜだろう。
 自分もまた、彼女に嘘をついているからだろうか。
「あたしがいない間、大丈夫だった?」
 フィービの方もロックを気遣い、そんなことを聞いてきた。
「閣下に変なことされなかったでしょうね?」
「だ、大丈夫だよ」
 ロックのその答えもどちらかと言えば嘘だ。

 馬車に揺られながら、牙の感触がまだ残る首筋を指でなぞる。
 人狼に噛まれた、などとはとても言えそうになく、ロックは一人でその出来事を引きずっていた。
 それは後々までロックの中に、奇妙に甘い記憶として残り続けた。