人狼閣下と道化の仕立て屋(2)

 だがロックの懸念をよそに、エベルはその日、再び店へやってきた。
 昨夜と同じ夜分遅くに、昨夜と同じ人狼の姿で。

「ご店主、約束を違えて済まない」
 フィービを帰し、店じまいを始めていたロックの前で、人狼は尖った耳をしゅんと垂らした。
 まるで叱られた犬のように縮こまる姿を見ていると、昨夜あんなに恐ろしかったのが嘘のようだ。
「違えた? 僕はむしろ、あなたが来てくださるとすら思っていませんでした」
 一日中待ちぼうけていたロックは、恐怖も忘れ率直に応じた。
 途端にエベルは心外そうな声を立てる。
「私は盗みなどしない。こんな見かけだが、地位に恥じぬ振る舞いを心がけているつもりだ」
 確かに、盗みがしたいなら人狼の姿で脅すなり何なりすればよかっただけのことだ。それをせずあくまで紳士的に振る舞う彼は、少なくともロックに害なす気はないのだろう。
 不承不承納得するロックに、だがエベルは申し訳なさそうに続けた。
「しかし……言いにくいのだが、またしても財布を落としてしまった」
「どういうことです」
「貧民街を歩いているとよく酔漢に絡まれる。軽くいなしてやろうとこの姿になったはいいが、途中で兵を呼ばれてな」
 絡まれやすい人間というのも確かにいるものだが、その度に人狼に化けていては大事だろうとロックは思う。今朝の新聞には何も書かれていなかったが、明日の新聞には人狼騒ぎが大きく報じられていそうだ。
「撒くのに精一杯で、財布を拾い損ねてしまった」
 エベルは鋭い爪の生えた手で、耳と耳の間を掻いた。
「そして今宵も、服がない。無理を言っているのは承知の上だが……」
 そう切り出されれば、ロックも心底呆れて溜息をつく。
「閣下はそうやって、人狼になられる度に服を粗末にしてるんですか?」
「粗末に、したいわけではないのだが――」
「いいえ、粗末にしてます。仕立て屋として、服を大切に扱わない人は、たとえ伯爵閣下であろうと許しがたいです」
 昨夜渡した服も、ロックが一枚一枚心を込めて縫い上げたものだ。
 伯爵閣下がお召しになるにはあまりにも劣悪な品だっただろうが、それでも大切な商品であることに変わりはない。あれをびりびりに破かれるのかと思うと、代金が返ってこない以上に腹立たしかった。
「悪かった。しかし、あなたの店で買った服は大事にしていたつもりだ」
 エベルは力のない声で言い、ますます項垂れた。
 見れば、ふさふさした立派な尻尾がすっかり丸まっている。見るからに異形の人狼なのに、本当に犬のように落ち込んでいる。ますます彼のことがわからなくなる。
 ロックは毒気を抜かれ、嘆息した。
「閣下。あなたは服を粗末にしたくないと思っておいでなのですか?」
「無論だ。昨夜も今夜も、いわば不可抗力というものだった」
 エベルが勢い込んで何度も頷く。
「服を粗末にせずに済む方法があるのなら、是非そうしたいと思っている。毎度これでは、そのうち裸で屋敷に帰る羽目になりそうだ」
「それならば、僕がお力になれるかもしれません」
 幸いなことに、ロックには仕立て屋としての腕と知恵がある。
「昨夜と今夜の代金をいただき、更にお金をくださるなら、僕があなたの為の服を仕立てましょう。当然、ただの服ではありません。あなたがそのお姿になる際に破けなくなるような服です。いかがです?」
 毎度破かれる服と気落ちするエベルを見かねての提案だった。
 するとエベルは弾かれたように面を上げ、金色の瞳を輝かせた。
「何と素晴らしい提案だろう!」
 萎れていた耳がぴんと立ち、尻尾をぶんぶん振りながら、エベルは身を乗り出してロックの顔を覗き込む。
「感謝する、ご店主! 是非その通りにしてもらいたい!」
「お……お待ちください。何はなくともお金が先です、閣下」
 濡れた鼻を頬にくっつけられて、ロックは慌てながら人狼を押しやった。
 人狼も笑う声で応じる。
「それもそうだ。では明日こそ、必ず」
 口約束だが、信用するより他ない。

 昨夜と同じように、ロックは紳士物の一揃いをエベルに手渡し、試着室で着替えを済ませたエベルは美青年の姿で戻ってきた。
「ご店主、よければ名を聞かせてはもらえないか」
 鳶色の髪のエベルは、去り際にそう尋ねてきた。
 やぶからぼうの問いをロックは不審に思ったが、彼の名はとうに聞いている。自分だけが名乗らないのも不公平だろう。もっとも本名については、この帝都で教えているのはフィービだけだ。
「ロック・フロリアと申します」
 偽名の方を名乗ると、エベルは優雅に微笑んでそれを口にする。
「ロック。……あなたの名にしては、少々無骨な響きだ」
「僕は気に入っているのですが」
「では私も、これから気に入るようになるだろう」
 エベルが頷いた。真っ直ぐに見つめてくる彼の瞳は、人の姿の時でも美しい金色をしている。
 これだけ容姿端麗なら、貧民街ではさぞかし人目を引くだろう。
 そう思い、ロックは口を開く。
「明日こそは酔漢と喧嘩などなさいませんよう」
 皮肉交じりの警告だったが、そこでエベルは一度目を見開き、それから嬉しそうな顔をした。
「ありがとう、ロック。今度こそ約束は守ろう」

 翌日、ロックはいつもより早い時間に店を閉めた。
 当然ながらフィービも早く帰した。
「なあに、早く帰れだなんて。やっぱり誰か連れ込む気なんでしょう?」
 フィービはロックをしきりに怪しんだが、ロックはそれを適当にかわした。
「払いのいい客が来るんだ。貸し切りにするだけだよ」
「それは信用できる客なんでしょうね?」
「当たり前だろ。フィービ、僕はもう子供じゃないんだから」
 押し問答の末にどうにかフィービを帰した後、店の扉に『本日貸し切り』の札を下げる。

 エベルは夕刻に、今日は鳶色の髪の青年として現れた。
「遅くなって済まなかった。まず、これが約束の代金だ」
 彼は宣言通り、代金に色をつけて支払ってくれた。金貨がたっぷり詰まった革袋を受け取ったロックは、その中身を一枚一枚勘定してから、嬉々として礼を述べた。
「ありがとうございます、閣下!」
「……あなたのそんな笑顔は初めて見たよ、ロック」
 エベルは苦笑していたが、ロックとしては何より信用の置けるものはやはり金。こうして確かにいただいたことで、ようやくエベルを信用する気になれた。
「仕立ての方の代金も、今日のうちに払おうか」
 どうやら伯爵閣下は、財布さえ持っていれば非常に気前のいい方のようだ。これは上客を掴んだと、ロックは浮かれ気分で告げた。
「採寸が終わったら計算いたします。こちらへ、閣下」
 そしてエベルを店の奥の試着室に通すと、まずはそのままで軽く採寸をする。
「お身体が大きくなった場合に備え、するりと脱げる仕様にしましょう」
 ロックの言葉に、巻尺を身体に当てられたエベルは怪訝な顔をした。
「そんなことができるのか」
「ボタンを使わず、ホックにすれば脱ぎ着がしやすくなります」
 シャツとベストはそれぞれホック留めにして仕立てるつもりだった。ズボンだけは難題だったが、人狼の身体に合わせて大きめに仕立て、サッシュベルトにして解きやすくしておけば、いざという時も脱ぎやすいはずだ。
「閣下は、随分と酔漢に絡まれやすいお方のようですからね」
 ロックがおかしさに笑うと、エベルもやはり笑った。
 もっとも彼の方の笑みは、もう少し控えめで、寂しそうに映った。
「あれは嘘だよ、ロック」
「嘘? 酔漢に絡まれたということがですか?」
「ああ。本当は、ただこの辺りの警邏をしていただけだ」
 警邏という言葉に、ロックは巻尺を持つ手を下ろして瞬きをする。
 するとエベルは思い出を手繰るように、静かな口調で続けた。
「私の父は――もういないが、生前はこの界隈が好きだったと言っていた」
 先代のマティウス伯のことだろう。
 骨董品が好きだったという、エベルの父親。
「仕事の合間に家を抜け出し、ここまで買い物に来るのが何よりの楽しみだったそうだ。柄の悪い者も多いが、ここいらの猥雑さが気に入っていると私に語ってくれた」
 エベルはそこで、金色の目を伏せる。
「人狼の力は父が私に遺してくれた、一番の財産だ。私はそれを用いて、この辺りを警邏している。父が愛したこの街を、ずっと守っていくつもりだ」
 それから口元を照れたように緩めて、
「こんなによい店もあるからな……私もこの街が、好きになれそうだ」
 と言い添える。

 その時、ロックは不思議と彼に共感を覚えた。
 父がいないという点が自分と共通しているせいかもしれない。父が残してくれたものを財産として活用している、そのこともまた同じであるからかもしれない。エベルは人狼であることを恥じてもいなければ、疎ましく思ってもいないようだ。ちょうどロックが、男のふりをすることを苦にも思っていないように。
 この貧民街に店を構えて三年目になる。自分の仕事には誇りを持ってやってきたつもりだが、『よい店』と言ってもらったのは初めてだった。

 胸を満たす温かな気持ちは、もしかするとその言葉のせいかもしれない。
 気がつくとロックは目の前の美しい青年に見とれていた。
 そしてエベルは、その視線をくすぐったがるようにはにかんだ。
「採寸は終わりかな、ロック」
「あっ……人の方は終わりです、閣下。あとは人狼のお姿で――」
「わかった。では少し待っていてくれ」
 言うなりエベルは着てきたシャツを脱ぎ捨て、あっという間に上半身裸になった。それからズボンのバックルにも手をかけて――。
「お、お待ちください閣下! なぜ脱ぐのです!」
「なぜって、このまま人狼になれば服が破けてしまうだろう」
「で、でしたらっ、僕は出ておりますので!」
 ロックは大慌てで試着室を飛び出し、後ろ手で帳を閉めた。
「なぜ慌てる。男同士ではないのか」
 試着室内で怪訝そうに呟くのが聞こえ、ロックは反論しようとしたが、それを遮るようにみりみりと皮膚の避けるような異音が響いた。
 そして帳に尖った耳の大きな影が映ったかと思うと、低い獣の彷徨が聞こえ、
「……済んだぞ、ロック。次はこちらを頼む」
 次いでエベルの声が、ロックを試着室に呼び戻した。