泣くなら、ここで/後編

 急な来客とあって、何の支度もしていなかった。
 お茶の他に用意できたのは作り置きの軽い焼き菓子だけだ。それでもルドミラはにこやかに、上機嫌で受け取った。
「ありがとう。あなたの入れてくれるお茶、大好きよ」
「もったいないお言葉です」
 マリエが相好を崩すと、ルドミラもほっとしたように続ける。
「だけどよかったわ。今日お邪魔してあなたがいなかったら、どうしようかと思っていたところなんですもの。あの性格のひん曲がった近衛隊長殿がいらっしゃらなかったのは幸いですけど」
 アロイスのことを口にした時だけ、ふんと鼻を鳴らすのも忘れなかった。
 マリエはどちらの肩も持ちにくく、そこは黙っていることにする。

「お咎めなしで済んだようね」
 人心地つくと、ルドミラはそう確かめてきた。
 マリエは迷ってから首肯する。
「はい……殿下のお計らいで、ご寛恕いただきました。あの、ルドミラ様にも、昨日は大変なご迷惑をおかけしまして」
「わたくしは別に構いませんのよ。実に得がたい経験ができましたもの」
 澄ましてルドミラが答える。カレルの昼食が並べられたままの卓上で、焼き菓子を可愛らしくつまみ始めている。
「ただ、あなた方がとても心配でしたの。殿下は命を懸けてもあなたを守ろうとしてくださるでしょうけど、あなたはお一人で責任を取ろうとしていたでしょう? それをあの忌々しい男がずけずけと踏み込んできたものだから、ややこしいことになって」
「いえ、元はと言えばわたくしが……」
 言いかけた言葉は鋭い視線に遮られた。マリエが口を噤むと、ルドミラは人差し指を立てて諭してくる。
「せっかくお咎めなしとなっただから、殿下のお計らいを無駄にしては駄目よ」
「申し訳ございません、ルドミラ様の仰る通りです」
 マリエは心から詫び、改めて令嬢の聡明さに感銘を受けた。
「わたくしに謝るのもおかしな話じゃなくて?」
 ルドミラはそこで苦笑する。
「殿下のお気持ちを未だわかっていないのかしらね、あなた」
「え、あの」
「ねえマリエ。殿方から察しが悪いとか、勘が鈍いなんて言われたことあるでしょう」
 令嬢の問いかけは冗談めかしていたが、マリエは笑えなかった。それどころか表情を変えまいとするのが精一杯で、喉が詰まったように声が出てこない。
 察しの悪さは今日、最も望ましくない形で自覚したところだった。
「そろそろ気づいてもよろしいんじゃなくって? 殿下だって、あなたのことがあるからこそ書庫へ向かわれたのでしょう」
 その言葉で、マリエもまた先程の疑問を蘇らせた。
 カレルはなぜ書庫へ向かったのか。そこでは一体、何をしているのか。ルドミラの言った通りだとするならば、歴史にどんな知識を求めているのか。
「ルドミラ様」
 尋ねようと口を開くと、ルドミラも心得たように頷いた。
「ええ。あのお芝居のことを知りたいのでしょう?」
「はい……。一体、どういうわけなのでしょうか」
「と言っても、わたくしも全てを存じてはいないの」
 そう前置きして、話し始める。
「噂によれば、あのお芝居はある種の風刺なんですって」
「風刺、でございますか」
「まあ、ほんの軽い程度の、柔らかい風刺ですけどね。やんごとなきご身分の方たちも下々の者とさして変わりない悩みを抱えておいでなのだ、といった程度の。それでも不敬なことには違いないでしょうけど」
 ルドミラは言って、首を竦めた。
「事実を基にしたお話だというのはよく知られていることらしいの。でもね、その事実がどこにあり、どこから来たものかはあまり知られていないようよ」
 その話に、マリエは身を固くしてじっと聞き入る。
「わたくしも興味を持って、屋敷にある歴史書を片っ端から読み漁ったわ。けれどそのどこにも、そのような事実は記されていなかったの。王族はおろか下級の貴族に至るまで、酒場の娘を妻に娶った殿方のことなど、一文の記述も見当たらなかった」
 マリエは歴史書なるものを読んだことがないが、歴史書というからには、この国に起きた出来事が綴られているのだろう。この小さな国のうちで生まれた、いくつかの運命についても。
「どれだけ調べても辿り着けなくて躍起になったわ。店で売られている歴史書をあるだけ買い込んで、全てに目を通して……それでも芝居についての噂を、裏づけるような記述は一つも見つからなかったの」
 ルドミラはそこでお茶を一口飲んだ。
 喉を潤してから、続けた。
「でも、それもよくよく考えれば腑に落ちる話ね。だって酒場で働くような娘を妻にするだなんて、下級貴族でも大騒ぎになるはずですもの。そんなことを歴史書に、堂々と載せるはずがないわ。市井の人々の目につくようなところには。そうでしょう?」
 彼女の視線がすうっと動く。カレルの居室の扉、しっかりと閉ざされたその向こうを見やる。
「あるとすれば、このお城の書庫。他にはない、門外不出の蔵書もあると言われている書庫にでしたら、人目に触れてはならない事実も記されていると思うの。そして、殿下はその事実を求めて、書庫へ足をお運びになったのでしょう」
 マリエはすっかり呆気に取られていた。
 そもそも芝居の内容が事実らしいという噂さえ、マリエには疑わしく感じられる。どこの世界に、身分の違う娘を妻に迎える男がいるのだろう。そしてそれを易々と受け入れる娘も、いるはずがない。それは甚だ不敬なことだ。
 そこまで考え、ふと思い当たる。
「ルドミラ様は、あのお芝居の結末をご覧になりましたでしょう」
「ええ、当然よ。それがどうかして?」
「お芝居の中では、お二人が夫婦になったとは言われていなかったはずです。初めての逢い引きがまさに始まらんとするところで幕が下りていました。お二人が結ばれたとは、はっきり明言されておりませんでした」
 熱に浮かされた頭でも、そのことはしかと覚えていた。幕引きの瞬間も、身分の高い青年と酒場の歌姫との辿る結末は明らかにされていなかった。
 だが、ルドミラは訝しそうな顔をする。
「結ばれたに決まっていてよ」
 他の結末は考えられないというように、断言してみせた。
「そうでなければ、本当のお話だなんて噂が広まるはずがないでしょう。あのお二人は幸せになるの。ならなければおかしな話よ、お互い想い合っているのに」
「ですが、あのお二人は身分が違います」
 すかさずマリエが反論すると、ルドミラも不服そうに応じてくる。
「だからどうだって言うのかしら。身分の差なんて、いざとなれば乗り越えられるものでしょう。歴史書にも記されないような婚姻ですもの、苦難は多いでしょうけど、乗り越えてこその愛よ。そう思わなくって?」
「お言葉ですが、乗り越える術があるとは、わたくしには到底思えないのです」

 身分の隔たりはある意味で、死別の隔たりよりも大きい。
 マリエからすれば乗り越える術があるとは思えなかったし、そもそも乗り越えようなどと考えること自体が不敬だった。
 身分の違う者同士は結ばれるべきではない。
 自らの身に降りかかって、初めてそう思う。それが一番、当人たちの為になるのだと思う。
 マリエもかつては、カレルの想いを支えていた。叶えばよいのにとさえ思うこともあった。しかしそうして取った行動の全ては実を結ばず、カレルの想う相手に伝わることもなかった。そんなものなのだと思う。

 だがルドミラにとっては、そうではないらしい。
「あなたがそんなことを言うようでは困るわ。殿下がおかわいそうじゃない」
 たちまち柳眉を逆立て、マリエに食ってかかった。
「では、あなたはどうするつもり? 殿下のお気持ちをわかっているのなら、身分の壁を乗り越えようと思っているのでしょう?」
 まさか、とマリエは瞠目した。
「いいえ、とんでもないことでございます」
「……マリエ、あなた正気なの?」
 ルドミラは呆れ果てたように聞き返してくる。
「お会いしてほんの少ししか経っていないわたくしにもわかってよ、殿下がどれほどにあなたを想っていらっしゃるか。なのにあなたと来たら、そのお気持ちをも蔑ろにする気?」
「あの、それは……蔑ろというわけでは」
「では何だと言うの? 殿下のお気持ちを足蹴にして、それすらも叶えて差し上げないで、あなたは殿下のお気持ちを考えてみたことがあるの?」
 問いを突きつけるルドミラの目はあまりにも真っ直ぐで、マリエに罪の意識を抱かせた。
 視線を逸らせぬまま、かすれた声で答えた。
「考えたことは、ございません。大変畏れ多いことですから」
 水を打ったように一瞬、室内が静まり返る。ルドミラが一呼吸置いたせいだった。
 沈黙はすぐに打ち破られる。
「――それなら」
 眉間に皺を寄せ、唇を尖らせて、ルドミラは幼い表情になった。
「それなら、殿下のお気持ちはどうなるの? 叶えてもらえないままなの? 殿下にはあなたしかいないというのに? あのお芝居だってそうでしょう、二つの心を持った青年には、酒場の娘しかいなかったのよ。何にも自由の利かない生き方をしてきたあの方の、ありのままを見てくれる人はあの娘しかいなかったのよ。結ばれないなんてことあってはならないわ、そうしたらあの方には、誰もいなくなってしまうじゃない!」
 普段の強気さが一転、泣き出しそうな顔つきに変わる。
「わたくしには殿下のお気持ち、とてもよくわかってよ。自由になることなんて本当に少ししかなくて、もしかするとそれすら何年か先にはなくなってしまうかもしれない。そんな日々にあって一つきり、叶えたいと思うことがあったってよいでしょう? たった一人に傍にいて欲しいと思うくらい、許されたってよいでしょう? それを叶えられるのはただ一人、あなただけなのに!」
 怒りをぶつけられ、きつく詰られた方がよほどましだった。ルドミラの声はもはや切ない懇願でしかなく、マリエは直視に堪えず、俯いてしまう。
「……お願い。叶えてちょうだい」
 がたんと、椅子が倒れる音がした。
 ルドミラが立ち上がったことを、足元の影が知らせてきた。
「たったの一つも叶わないなんて、そんな結末、見たくないもの」
 必死の頼みにも、マリエの唇は動かない。動かせなかった。
 そんなことができるはずもない。
 逆に言えば、カレルやルドミラには絶対に理解し得ないことがある。
 二人には、身分の低い者の気持ちはわからないだろう。身分の低い者たちが自らよりも身分が上の者たちをどう捉え、どう思い、どう扱っているのか、決してわかることはないだろう。ルドミラの言葉は正しいが、結局は一面的でしかない。
 そしてマリエもやはり、一面的にしか考えられない。カレルやルドミラの気持ち、そのものを理解することはできない。決して。
 沈黙を答えと受け取ったのだろう、やがてルドミラは部屋を飛び出していった。扉が閉まった直後、近衛兵たちが廊下で声を上げたのが聞こえたが、マリエはそちらに注意を払うこともしなかった。

 注意を払うことが、できなかった。
 何かが音もなく押し寄せてきた。たちまちのうちに溢れて、零れ落ちて、エプロンの上に染みを作った。もう堪える気も起こらずに、泣いた。一人きりで、恥も外聞もなく泣いた。

 叶えられるものならどんなによいだろう。
 あの方の想いに報いることができたら、どれほどよいだろう。
 身分の差も出自も職業も何もかも気にせずに、あの方の一途さに惹かれることができたなら、きっと幸せだっただろう。
 たった一つの願い事すら叶わない、そんな結末は、マリエだって見たくはなかった。昨日見たあのお芝居は素敵だった。あの二人が幕が下りた後も幸せであればと思った。
 だが一方で、幕が下りてくれたことに安堵もしていた。もしお芝居が更に続いていたなら、幸せではない結末を目の当たりにしていたかもしれないから。カレルが、自身の懸想をいつか終わらせなくてはいけないと、思い知らされてしまうかもしれないから。
 マリエからすれば、できるだけ長く続いていて欲しかった。懸想の相手が誰かも知らぬままに、ただカレルの傍らにいられたらそれでよかった。煩悶する主の傍らで、羨望と憧憬とを押し隠しながら、ただひたすら主の懸想のおこぼれに与っていられたらよかった。
 自分が想うことは決して、決して許されないだろうから、自らの想いからは目を逸らしたまま、ひたすらカレルだけを見つめていたかった。
 カレルが自らの手で懸想に幕を下ろし、身分の貴い婦人を妃に迎えるその日まで。

 いつしか、マリエは泣くのを止めていた。
 泣くなら、ここで。
 この先はもう二度と泣きはしない。まだなすべき務めがある。カレルの懸想が終わってしまっても、マリエの務めと懸想は延々と続いていくことだろう。だからこれ以上はもう泣かない。
 マリエはエプロンの裾で涙を拭うと、卓上ですっかり冷え切ってしまった昼食を手近な籠に詰め込み、居室を出た。
 近衛兵が何か声をかけようとしたようだ。
 けれど耳を貸す余裕はなく、マリエは廊下を走り始めた。

 行き先はもちろん、主の元だ。
 一度きりでいい。自分自身の心に、素直になりたかった。