泣くなら、ここで/前編

 カレルの居室はもぬけの殻だった。
 朝食を拵えたマリエが慌ただしく駆けつけると、居室の前にいた近衛兵が出迎えた。
「マリエ殿、殿下はご不在です」
 それを聞いて呆然とするマリエに、兵は気遣わしげに説明を添える。
「明け方まではお部屋にいらっしゃったのですが、急に何かを思いついたように飛び出していかれて、我々には書庫に行くと言い残しておいででした。隊長を始め数名が追い駆けてゆきましたが、揃って戻らぬままです。恐らくはまだ書庫にいらっしゃるのでしょう」
「殿下が、書庫にいらっしゃるのですか?」
 勉強嫌いで名高いカレルが、夜明けを待っていたかのように書庫へ足を運ぶ。その事実はマリエを戸惑わせた。これまでにこんなことは一度もなかった。まして朝食も取らずに出かけていくことなど。
 マリエは内心の動揺を悟られないよう、兵に尋ねた。
「わたくしには、どのようにせよと仰っていましたか」
「ええ、お言付けを預かっております」
 近衛兵は背筋を伸ばして続ける。
「マリエ殿は食事の支度をして、お部屋で待っているように、とのことでございます。なるべく早く戻ると殿下は仰っていました」
「……そうですか」
 わずかな落胆と、それよりも大きな安堵に、マリエは深く嘆息した。
 追い駆けてこいと言われなかったのは、ある意味幸いだったのかもしれない。

 主のいない居室は、がらんどうのように広く感じた。
 窓の鎧戸を開け、ついでに窓も開けておく。朝の爽やかな風がたちまち吹き込んできて、怠さの残っているマリエの身体にも心地よく感じられた。緑の匂いがする風だった。
 居室の窓からは城の裏手の森が見える。
 その向こうに、霞むような遠さで城下町の景色も見えている。
 そういえば、カレルは窓際に立っているのが好きだった。風を受けるのが好きなのだろうとマリエは思っていたが、もしかするとこの景色を眺める為だったのかもしれない。街の景色を遠目に眺め、手の届かぬ世界に思いを馳せることもあったのかもしれない。
 マリエも一時、思いを馳せた。昨日の出来事を、既に遠い日の記憶のように感じている。城を抜け出し街へ出かけていったことも、初めて見た芝居のことも、帰り道でのひと騒動も、今や全てが過ぎ去ってしまった。残っているのは苦い記憶と、突きつけられた現実だけだ。

 やがてマリエは窓辺を離れ、食卓を整え始めた。
 運んできた朝食を卓上に並べると、食卓の傍らに立ち、じっとカレルの帰りを待った。だが待ちながらも、胸中は複雑だった。
 全ての答えを知った今、主の前でどんな顔をしていればいいのだろう。
 マリエにはまだ覚悟がなかった。今でも尚、アロイスの言葉や自分の確信をカレルが否定し、笑い飛ばしてくれたらと思っていた。あれほど一途でひたむきだったカレルの想いが、自分に向けられていたとは思いたくなかった。あまりに分不相応で、不敬に過ぎる真実だった。
 そしてその懸想を、マリエがこの手で終わらせるだとすれば、これ以上の不敬はないだろう。
 主の内心から目を背け、主の為にと振る舞うことと、主の意に沿うようにだけ振る舞うことと、果たしてどちらが忠心にふさわしい行為なのだろう。どちらが正しいのだろう。この国の未来の為に、全ての人々の為に、自分が取るべき行動は――。
 マリエは昨日の出来事もアロイスの言葉も、まだ全てを消化し切れていなかった。
 一人きりで主の帰りを待ちながら、かつての主のように、ひたすら溜息をついていた。

 陽が高く昇り始めた頃になっても、カレルは戻ってこなかった。
 マリエは平然とはしていられず、居室の扉を開けた。居合わせた三人の近衛兵が振り返り、マリエに一層憐れむよう視線を注ぐ。そして案の定、廊下に主の姿はない。
 気まずさを覚えつつ、マリエは彼らに急き込んで尋ねた。
「殿下はまだお戻りになりませんか」
「ええ、ご覧の通りです」
 兵たちも、マリエの扱いに困っているようだった。こっそりと視線を交わし合うのが窺え、息苦しさを覚える。
「朝食……お召し上がりにならないのでしょうか」
 独り言のように呟いても返答はない。マリエはかぶりを一つ振ると、気分を変えて近衛兵たちに告げた。
「わたくしは殿下の昼食を支度して参ります。よろしければ、もう冷めてしまいましたけど、朝食の片づけを手伝ってはいただけませんか」
「喜んで」
 兵たちはは安堵の色を隠さずに答えた。一人分の朝食を巡って三人の兵はなかなかの健啖ぶりを見せ、マリエも食器を下げる頃にはいくらか気が楽になっていた。

 太陽が中天に懸かる頃、マリエは作りたての昼食をカレルの居室に運んできた。
 扉の前に立つ兵たちの人数と表情から、カレルが戻っていないことを察した。それでもマリエは努めて普段通りに室内に立ち入り、食卓を誂えた。
 殿下はまだ、書庫にいらっしゃるのだろうか。
 書庫で一体何をなさっているのだろう。
 マリエは頭を捻ったが、心当たりは何もなかった。カレルが書庫で本を読む姿自体、そもそも想像もできなかった。兵の話では何かを調べに出かけたようにも思えたのだが、だとしたらそれは何だろう。
 あれこれ考えても答えは出ず、そうこうしているうちに昼食も冷めてきた。乾かないようにと布巾を掛けた後、マリエは食卓の傍を離れた。ただ待っているのも苦痛になってきたので、寝室の掃除をしようと思い立つ。

 近年になり、カレルはマリエが寝室の掃除に立ち入るのも疎ましがるようになっていた。それは年頃ゆえの繊細さからというよりも、マリエがあれこれ注意をしたくなるような事柄が寝室には数多く存在しているからだった。
 カレルに言わせれば、夜具を起床した時のままにしておくのは就寝時にするりと潜り込めるようにしておく為とのことだし、寝間着をその夜具の中に押し込んでおくのも、よそへしまうよりもよほど効率的だから、なのだそうだ。それでもマリエは隙を見つけては寝室に立ち入り、夜具を片づけ、寝間着を畳み、寝室にお菓子を持ち込んではいないかと目を光らせていた。母親となる王妃がおらず、乳母たちにたっぷり甘やかされて育ったカレルは、なかなかに手を焼く存在だった。
 しかし、今日の寝室は普段と趣が違った。
 夜具は片づけられたまま、寝間着も寝台の上に畳まれている。
 使われた形跡のない寝台を見遣り、マリエははっとした。昨日、掃除をした時のままだ――カレルは恐らく横にもならず、一睡もしなかったのだろう。疲れていたに違いないのに、眠らなかったのか、眠れなかったのか。マリエは知らず知らずのうちに唇を噛み、寝台から目を逸らす。
 そこで、もう一つの大きな変化に気づいた。

 花瓶が空になっていた。

 マリエは覚えていた。
 その花瓶には昨日まで、マリエとカレルが城の庭園で摘んだ花々が活けられていた。
 花は既に枯れ、元の鮮やかな色彩が見る影もなくなっていたのに、カレルは捨てることを拒んだ。マリエが捨てようとすると猛然と噛みつき、人目につかないところならばよいだろうと、わざわざ寝室に置かせたのだった。いい加減捨てなければならなかったものだ、カレルが捨てたのだとしても構わないはずだった。けれど。
 花瓶の隣にリンゴを見つけた時、マリエは再び打ちのめされた。
 昨日、カレルが街で購入したあのリンゴだ。
 花の代わりに、花瓶の傍に添えられたリンゴがどういう意味を持つのか、マリエにはわかった。ようやくわかった。
 カレルがずっと花を捨てたがらなかった理由も、カレルがどれほどに、花を摘んだ日の記憶を大切にしていたかも。逢い引きのようだと言った、その言葉の意味も。
「――殿下」
 思わず、マリエは声を発した。
 呼んでも、応えてくれる人はここにはいない。
 一人きりで部屋を眺めていた視界が滲んだ。目の奥が熱くなった。唇を噛み締めても堪えようがなく、あっという間にひとしずく、落ちた。
 マリエはまだ知らない。悲しいのか、苦しいのか、辛いのか、寂しいのか。それとも――それら全ての想いが余すところなく、胸に満ち満ちているせいなのか。もうひとしずく落ちるのを踏み止まらせようとしたが、叶わなかった。
 寝室にはカレルの想いが、形となって残っていた。全てはマリエが、本当ならもう少し早いうちに気づいて、片づけてしまわなければならないものだった。それを放っておいたから、こんなふうに、マリエにもわかるほど鮮明に残ってしまった。
 その想いの痕跡に、マリエは打ちのめされ、そして一人涙を流した。

 しかしその時、廊下がにわかに騒がしくなった。
 マリエは慌てて涙を振り払う。そして寝室を飛び出し、応接間から廊下へ通じる扉に歩み寄った。
 そこで、外の騒ぎが異質なものであることにに気づいた。響いてくるのはカレルの声ではない。女の声だ。
「話のわからない方々ね! わたくしはマリエに会いに来たんですのよ!」
 ルドミラだった。
 それに応じるように、近衛兵の声も聞こえた。
「ですから、何度も申し上げている通り、殿下はご不在でして……」
「殿下のことはわかりましたわ、一度伺えば十分です! それよりマリエはここにいるのでしょう? 会わせてくださいまし!」
 扉に耳を押し当てたマリエは、予想だにしない事態に目を瞬かせた。ルドミラは自分に会いに来たのだと言っている。一体、何用だろう。
 それにかの令嬢も、昨日、あんな酷い目に遭ったばかりだというのに。
「しかし、殿下のいらっしゃらない時にお通しするのは……」
 近衛兵の回答は歯切れが悪かった。アロイスならば突っ撥ねただろうが、一介の兵では弁舌巧みなルドミラをあしらえるはずがない。
「つべこべうるさい方々ね、何の問題があると言うのかしら! あなた方では話になりませんわ、いいからマリエを出してちょうだい!」
 ルドミラが腹を立てているのが十分に伝わってきたので、マリエは扉を開けた。
「マリエ!」
 途端に令嬢は表情を輝かせ、兵たちは困惑の眼差しを向けてくる。
「ルドミラ様、どうしてこちらへ?」
 マリエは率直に尋ねた。
 会う約束があったのは昨日で、今日は何の予定も入っていないはずだった。カレルに会いに来るのに事前の約束もせず、一言も断らずにやってきたのは、今日までこの令嬢くらいのものだ。
 しかしルドミラは悪びれることなく、美しく笑んでこう言った。
「あなた方のご様子を見に来て差し上げたのよ。中に入れていただけるでしょう?」
 どこまでも衒いのない笑顔を目の当たりにして、マリエもさすがに拒絶の言葉が継げなかった。

 マリエはカレルの居室に、ルドミラを招き入れた。
 主の不在時に、客人を立ち入らせたのは初めてだった。マリエは落ち着かない気分だったが、ルドミラの方は実に平然としていた。食卓に目を留め、布巾の掛けられた皿を見遣ってこう言った。
「あら、お食事がまだでしたのね。すぐにお暇した方がよろしいかしら」
「いえ……」
 何とも説明のつけようがなかったが、マリエはルドミラに事実を打ち明ける。
「実は、殿下は朝からずっと、お戻りになっていないのです」
「あら。どちらへ行かれたの?」
「書庫と伺っております」
「書庫ですって? お城の?」
 ルドミラの顔に、なぜか喜びの色が浮かんだ。
 ぎこちなく、マリエは頷く。
「はい。朝からずっと、書庫に篭もっておいでのようなのです」
「そう。やっと気づいてくださったのかしらね」
 ルドミラは自ら椅子を引いて腰かけると、得意そうに語り出した。
「あなたは覚えているかしら? わたくし、殿下に申し上げたでしょう。殿下のような方こそ、歴史を学ばれるべきだって」
 覚えがあった。ルドミラは歴史書を好む婦人だ。かつてはカレルにも歴史書を熱心に薦めていたが、当のカレルは何とも複雑そうな返答をしていた。
「昨日、あのお芝居を見てきたのでしょう」
 ルドミラが昨日の出来事に言及し、マリエは表情を強張らせた。対照的に、ルドミラの口調はいたって軽快だった。
「実はね、あのお芝居って、本当のお話なのですって。だから殿下は書庫へ向かわれたのよ。歴史を調べに行かれたに違いないわ」
 昨日の芝居が実話だということと、カレルが歴史を調べに行ったらしいということが、マリエの中でどうにも結びつかなかった。本当にカレルは歴史を調べに書庫へ向かったのだろうか。昨日の芝居、あれが本当にあった出来事なのか、真偽を確かめに行ったということになるのだろうか。
 思案に暮れるマリエを、ルドミラは軽く笑い飛ばした。
「ところで、お茶は出してくださらないの? 乾いた道を馬車を飛ばしてきたものだから、わたくし喉がからからよ」
「は、はい。ただいまお持ちいたします」
 マリエは我に返り、大慌てでお茶の支度を始めた。