致死量の優しさ/後編

 アロイスが面と向かってカレルの言葉を疑うなど、今までなかったことだ。
 ましてあからさまな嘘というわけでもなく、むしろカレルの言葉はまごうことなき真実だった。なぜアロイスはその真偽を、マリエに向かって尋ねたのだろう。
「アロイス様、それはどういう――」
 言いかけたマリエを制するように、カレルが口を開いた。
「何を申す。私を疑うのか、アロイス」
「無茶はなされども心優しい殿下のことです。この度のことで、マリエ殿を庇っていらっしゃる可能性も考えられます」
 アロイスのいつになく冷徹な口調に、マリエは密かに身を震わせる。
 一方、カレルは眉を逆立てた。
「勘繰るな。これは私のしでかしたことだと言ったはずだ。それも信じられぬと申すか」
 だが、アロイスはあくまで事務的に答えた。
「思慮深い殿下ならおわかりでしょう。城を抜け出し、護衛もつけずに街をふらつく際にいかような危険が想定されるか。結果としてご無事であったからよかったものの、殿下の御身にもしものことがあれば大事であります」
 それでマリエは視線を巡らせ、辺りを包囲する兵たちの、疲れきった表情に気づく。
 ランタンの灯火の中でも、彼らがどれほどにカレルを案じ、神経を張り詰めさせていたかが容易に読み取れた。
「殿下もそれを理解しておいででしょうから、私は、マリエ殿を疑っているのでございます」
 アロイスの視線は、再びマリエに向けられた。

 マリエはようやく、彼の言わんとすることを飲み込んだ。
 この時の為に、自分は覚悟を決めていたのだと思う。

 唇を結ぶマリエに、アロイスは畳みかけてくる。
「今一度尋ねましょう、マリエ殿。殿下が仰ったことは事実ですか」
 だが、マリエが唇を開くより早く、
「当然だ!」
 カレルが声を張り上げ怒鳴った。
「アロイス、それ以上おかしなことを申せばただでは済まぬぞ! マリエも答えるな! 答えてはならぬ!」
 こちらへ駆け出そうとするカレルを、両脇に控えていた兵たちが取り押さえる。
「離せ! この……っ」
 カレルも抵抗を見せたものの、鍛え上げた男たちに押さえ込まれればひとたまりもない。両腕を掴まれ、地面に組み伏せられた主が愕然とするのを、マリエは酷く寂しい気持ちで見守った。
 楽しく、幸せだった時間が終わってしまうのは、とても悲しいことだった。
 それでも永遠に続く時間などなく、いつかは終わらせてしまわなくてはならない。主の為になることだと思えば、ためらいもなかった。
「アロイス様のお考えの通りです」
 熱のせいで乾いた声を、それでも精一杯張り上げ、マリエは答えた。
 ゆっくりと、アロイスが息をつく。
「やはり、そうでしたか」
「ええ。この度のことは全てわたくしに責任がございます。殿下に無理を申し上げ、お城から出ることをそそのかしたのもわたくしです。殿下に非はございません」
 マリエがそう続けると、たちまち二方向から声が上がった。
「嘘を申すな、マリエ!」
「あなた、この無礼な男の言いなりになる気!?」
 片方はカレルで、もう片方はルドミラだ。動きを封じられたカレルとは違い、自由の身のルドミラは足音も荒く歩み寄ってきた。
 そうしてマリエの前に立つなり、繊手でがっちりと肩を掴み、強く揺さぶった。
「マリエ、駄目よ、認めては駄目! あなた一人で罪を被る気!?」
「ルドミラ様……」
 眩暈を覚えつつもどうにか堪え、マリエは静かに反論した。
「罪を被るのではございません。元よりわたくしの罪なのです」
「冗談でしょう? 本当のことを聞けば、誰もあなたが悪いだなんて言わなくてよ!」
 言い返してくるルドミラの瞳は真剣そのものだ。眼差しのひたむきさはマリエの主が持つものとよく似ていた。思わず呑まれそうになるのを、踏み止まる。
「ですが、殿下にもしものことがあれば、責を負うのはわたくしと、ここにいる近衛の皆様です」
 マリエも、目を逸らさずに反論した。

 城を出る前からわかっていた。
 カレルにもしものことがあれば、マリエのみならず兵たち全てが責任を取らされていただろう。職を失うだけでは済まなかったかもしれない。
 そう理解していたにもかかわらず、カレルとの町行きを決めたマリエこそが最も罪深いのは事実だ。
 それでもマリエは、何一つとして後悔はしていない。
 二人で町へ出かけたことも、こうして罪を負うことも。
 いや、悔やんでいることが一つだけある。自分が倒れさえしなければ、この件も露呈せずに済み、ただ楽しいばかりの記憶として閉じ込めておけたかもしれない。こうして大勢に迷惑をかけてもなお、マリエは浅ましく思ってしまう。
 自らの罪深さを、マリエはとうに自覚していた。

「罪を負うのがわたくし一人で済むのなら、それは幸いだと存じます」
 マリエが告げると、ルドミラは目に見えて動揺した。マリエの顔をまじまじと見つめながら、その小さな唇を震わせる。
「あなた……正気なの?」
 そしてマリエの肩から手を離し、ふらふらと視線を彷徨わせた後、成り行きを見守っていたアロイスに突き刺さる。
 吐き捨てるように嘆息した令嬢は言った
「これがあなたたちのやり方なの? 一人に罪を着せて、他の人間は揃って助かろうとするだなんて。騎士の位を賜った皆様も、責任逃れの為には随分と卑怯な手をお使いになるのね!」
 罵倒の言葉が夜の森に響く。
 それでもアロイスは微動だにしない。居合わせた兵の誰もが、その言葉を冷たい夜風と同じようにやり過ごそうとしていた。
「ルドミラ様、ご理解ください」
 堪らずマリエも口を挟んだが、ルドミラの糾弾は止まらない。
「仮にもお城勤めの方々が保身に気を回そうなんて、とんだおためごかしね! あなたたちみたいな浅ましい連中に、殿下の御身が本当に守れて?」
「――ルドミラ嬢」
 アロイスがそこで令嬢を制した。
 彼の表情に怒りの色はなかったが、口元には冷めた苦笑が浮かんでいた。
「ご高説、心に留めておきましょう。しかしもう日が暮れてしまいました。あなたはそろそろお帰りになられてはいかがです?」
「何ですって!」
 その言葉にルドミラが鼻白むと、アロイスはとどめを刺すように語を継ぐ。
「夜道が不安でしたら、兵の一人にお屋敷まで送らせましょうか」
 途端にルドミラは唇を噛み、その強い眼差しが辺りを一巡した。
 取り押さえられたカレルを見て、風に身を震わせるマリエを見て、そしてアロイスまで戻ってきた時、彼女は憤然と栗色の髪を振り上げた。
「結構よ、城に馬車を待たせてあるの! こんな森を歩くのに、あなたたちを引き連れていく方が余程物騒だわ!」
 捨て台詞を残し、令嬢は単身歩き始める。もはやこちらを振り返ることもなく、怒りに任せた早足で立ち去った。アロイスは傍らの兵に目配せをし、数人の兵がルドミラの後に続いて、森の奥へ消えていった。

 ルドミラに掴まれた肩が痛んで、マリエは深く俯いていた。
 かの令嬢は確かに聡明だ。言い放たれたのは純粋無垢な正論だった。マリエにも理解できないわけではない。しかし、従うわけにもいかない。
 人に仕えるというのはそういうことだ。身分貴き者を助け、案じ、気遣い、尽くし、そして守り抜かねばならない。そのくらいの心構えがなければ、マリエも今日までカレルの傍らにはいられなかった。それほどの心構えを抱けるほどに、マリエにとってのカレルはこの上なく貴い存在だった。
 本来なら守らねばならない相手に守られてしまった。身を挺してでも救わなくてはならない対象に救われ、負われてここまで辿り着いた。そのことだけでも罪深いのだと思う。
 償わなくてはならない。

「殿下も、そろそろ参りませんと」
 アロイスがカレルを促す。
 地面に押さえつけられたカレルは、顔を上げてマリエを見ていた。愕然とした面持ちのまま、青い瞳を震わせてマリエだけを見ていた。
 視線を受け止めたマリエもまた、主だけを見つめている。
「マリエ」
 かすれた声で名を呼ばれた。
 懇願する呼び方に、マリエの罪悪感も募る。即座に告げた。
「殿下、申し訳ございません」
 謝罪したいことはたくさんあった。楽しいはずの町行きを台無しにしてしまったことも、帰り道、心配も迷惑も掛けてしまったことも。
 そして何より申し訳なく思うのは、最後の最後で、主の意に反した振る舞いを取ることだ。こればかりは挽回のしようもない。主の思いを裏切ることになるとしても、譲れなかった。
「マリエ、お前はまさか」
 カレルは喘ぐように言った。両腕を無理に振り解くと、取り押さえていた兵たちも心得たように一歩下がった。
 それでカレルはよろめきながらも立ち上がり、厳しい語調で問いかけてくる。
「初めからこのつもりで、同道すると申したのではあるまいな」
 果たして、どうだったのだろう。マリエ自身にもよくわからない。
 あの日の誓約から今日まで、マリエの胸には様々な思いが過ぎり、そして燻り続けてきた。カレルに随伴して街へ出かける、それだけのことに無性に心惹かれていた。久方ぶりの町行きか、街で評判の芝居にか、カレルへの忠心か、あるいは他の感情か。何がそこまでマリエの心を惹きつけたのか、今となっては思い返すことも、考えを巡らせることも難しい。
 ただ、以前とは違い、密かに思っていた。
 今日の出来事はもしかすると、逢い引きと呼んでも差し支えないのかもしれない。
 畏れ多く、分不相応な認識には違いないのだろうが、マリエの二十一年の人生において、最も忘れがたい日になるのかもしれない。
「ここは風があります、殿下」
 マリエは先の問いには答えず、平静を装って告げる。
「冷えてしまう前にどうぞ、お城へお戻りくださいませ」
 告げられた後もしばらく、カレルはマリエを見つめていた。失望とも絶望ともつかぬ表情は、ひたむきに、まっすぐにマリエへと向けられていた。
 マリエも今だけは目を逸らさずに、カレルを見つめ返していた。
 幼少の頃よりずっと見守ってきた面差しは、既に少年のものではなくなっている。今でも時折子供じみたふるまいをしたり、あどけない顔を見せたり、無邪気なわがままを口にしたりもする。だがその顔立ちは凛々しく、端整で、立派な青年に成り代わっていた。
 今のカレルに足りないものがあるとすれば、それは如才なさかもしれない。恐らく子供のうちでは持ち得ない、純粋さと併せ持つことは決してできないものだ。
 夜風に撫でられて、白金色の髪がさらさらと揺れた。あの髪が頬に触れていた時間を、マリエは懐かしく、いとおしく思い起こす。
「私は必ず約束を守る」
 不意にカレルがそう言った。
 マリエに対し、張りのある声で宣言する。
「忘れるな。必ず守るぞ、必ずだ! だからお前もそれまで――」
 その声を、マリエも忘れずにいたいと切に願った。
「それまで元気でいろ。身体を早く治し、気を強く持て。私の言葉を忘れるな。お前は必ず、私が守り抜いてみせる!」
 守られるべきはマリエではなく、カレルのはずだ。
 なのにどうしてその言葉を、忘れずにいたいと思うのだろう。
 呆然とするマリエの眼前では、カレルが兵に腕を引かれ、城へ連れていかれようとしている。カレルも遂には自らの足で歩き出したが、何度も何度もマリエの方を振り返った。
 その間、マリエは身じろぎもせずに立ち尽くしていた。

 カレルの姿が夜闇の向こうへ消えてしまうと、アロイスが待ち構えていたように口を開いた。
「あなたにこう申し上げるのはなかなか心苦しいものがありますが」
 そう前置きして、マリエに正対する。
「帰還後、あなたを尋問することになります。お話を伺いますが、よろしいですな」
「構いません」
 マリエはしっかりと頷いた。元より覚悟の上だった。
 答えを聞いたアロイスは目を伏せ、無言でかぶりを振る。それから珍しくためらいがちに切り出した。
「私が憎いでしょう、マリエ殿」
 思いがけない問いに、マリエは目を瞬かせた。
「まさか、そんなことは」
 アロイスも近衛兵たちもこれが務めだ。彼らを欺き、こんな時分まで振り回したのはマリエの方だ。恨まれこそすれ、憎む理由は何もなかった。
 しかしアロイスは、マリエの答えを不服そうに受け取った。
「あの方にもあなたにも、憎んでいただけた方が気が楽です」
 そうしてマリエを促し、城に戻りましょうと告げてきた。

 森を抜け、城の明かりを目にした後の記憶はなかった。
 どこをどう歩いたかもわからぬまま、マリエは城に辿り着いてすぐ、再び意識を失った。