その為に生きている/前編

 青みがかった闇の中、マリエはふと目を覚ました。
 窓に下りた古い鎧戸の隙間から、微かな光が漏れている。小さな天井と、簡素な調度だけが置かれた室内には見覚えがあった。城内の片隅に宛がわれたマリエの居室だ。

 何度か瞬きをして、霞む意識を奮い立たせる。
 どうしてここにいるのか、寝台で横になっているのか、何も思い当たるふしがない。身体のだるさはまだ残り、頭も重い。
 それでも上体を起こそうとすると、傍らで大柄の影が動いた。
「気がつかれましたか」
 アロイスの声がすぐ近くから聞こえ、マリエはとっさに振り返る。
 彼は寝台の横に椅子を引き、腕組みをして座っていた。近衛兵の軽装鎧を身に着けたまま、その険しい視線はマリエではなく、すぐ傍の壁に向けられている。薄暗さのせいで表情まではわからない。
「アロイス様、わたくしは……」
 マリエが発した言葉はかすれていた。酷く喉が渇いている。
 アロイスも、かぶりを振ってそれを制した。
「あなたは城に着いてすぐ、意識を失われたのです。覚えておいでですか」
「はい……漠然と、記憶しております」
 それでマリエも思い出した。アロイスに付き添われて夜の森を抜け、城の明かりを見た直後の記憶が抜け落ちていた。直前の体調を思えば、倒れたと聞かされても驚きはない。
「随分とお疲れだったようですね。もうじき夜が明けます」
 アロイスがそう言った時、マリエは昨晩の出来事をおおよそ思い出していた。はっとして尋ねた。
「もしかして、ついていてくださったのですか」
 近衛隊長は首を竦める。
「あなたにもしものことがあっては、いよいよもって殿下に顔向けできません。ご婦人の部屋に、こんな時分まで留まるのも気が引けたのですが」
 返ってきた答えは存外軽く、もう少し手厳しいものを想像していたマリエは戸惑いを隠せない。
 しかし、すぐに別の、もっと大切な疑問が浮上してきた。
「殿下は? 殿下はどうなさいましたか?」
「既にお休みになっております。もっとも、眠っていらっしゃるかどうかは存じませんが」
 答えると、アロイスは脇机に置かれたランタンを見やる。
「明かりを点けてもよろしいですか、マリエ殿」
「はい、構いません」
 マリエは目を擦りながら答え、アロイスが燐寸を擦る間に身を起こし、髪と着衣の乱れを整えた。着衣は昨日身に着けていたもののままで、麻の外套は向こうの壁にかけられていた。

 ランタンに火が入ると、狭い室内は丸く、明々と照らされる。
 先程まではおぼろげだったアロイスの表情もよく見えた。苦渋に満ちた面持ちを目の当たりにして、マリエもやりきれない思いを抱く。俯いているのも罪深い気がして、しばらく視線を彷徨わせていた。
 以前にもこんなふうに、ランタンの明かりの中で、この方と話をしたことがあった――かつて書庫で行われたやり取りを、マリエは遠い昔のように思い返す。
 あの頃も今でも、マリエとアロイスが大切に思う相手は同じだ。
 なのに、あの頃とは何もかもが変わってしまった。
 互いの置かれている立場も、主を思う形もまた。

「殿下から伺いました」
 やがて、アロイスは静かに切り出した。マリエの方をあまり見ないのは、寝起きの婦人に対する気配りだろう。
「あなたは城を抜け出す前から体調を崩していたにもかかわらず、殿下をお連れして城下町まで出向いたとのこと。どうしてそんな無茶をなさったのです」
 マリエは答えに窮した。
 少しくらいの不調は気に留めまいとしていたのも事実だった。自身の体力を過信していたといえば、そうなのかもしれない。
「この度のことは全て、無茶としか言いようがない」
 溜息まじりにアロイスが続ける。
「城の外にはどんな危険が潜んでいるかもわからぬというのに、あなたのような非力な方が付き従ったところで、殿下をお守りできるはずもない。なのに、どうしてです」
 次第に苛立たしげになる声が、彼の胸中を如実に表していた。
「せめて我々の耳に入れてくださればよかった。あなたが我々を出し抜こうとするとは、非常に残念です」
 主の意思に背いてでもアロイスに報告するという手段を、マリエも考えなかったわけではない。実行しなかった時点で、近衛兵に対する裏切りと思われても仕方がなかった。
 マリエは渇いた喉を震わせて、告げた。
「あの方の、お望み通りにして差し上げたかったのです」
 それを聞いたアロイスは、再び深々と嘆息した。
「では、あなたは殿下のご命令なら、殿下の御身を危険に晒すことさえも是とするのですか。殿下のご命令を、あなたは諾々と受け入れることしかできないのですか」
 厳しい問いが投げかけられたが、それでも、マリエは本心を口にした。
「殿下のお望みこそが、わたくしの望みです」
 口にした途端、その思いははっきりと形になって現われた。
「殿下が叶えたいと願っていらっしゃった事柄が、わたくしにとっても願うべき事柄だったのです。ですからどうしても、殿下のお望みを叶えて差し上げたかったのです。そうすることが罪に当たるのだと承知しておりましたけど、それでもです」
 覚悟はしていた。
 むしろ罪の意識があったからこそ、マリエは城の外へ踏み出していけたのだろう。カレルの望む通りに共に町へ出て、そして幸せな、心弾む一時を過ごした。そのことにもはや悔いはない。
 あとは、責任を取れさえすれば。
「アロイス様。わたくしは、どのような罰をも受けるつもりでおります」
 背筋を伸ばし、声を張ってマリエは言った。
 償えるのならば自分の持ちうる全てを懸けても償うつもりでいた。もしそれが叶わぬのなら、暇を出されることも承知の上だった。
 アロイスはすぐには答えず、渋面のまましばらく壁を注視していた。何か思索しているようにも、ためらっているようにも見えた。
 だが、そのうちに答えが出たのだろう。
「殿下のご命令で、この度の一件は内々に始末をつけることと相成りました」
 感情を抑えた口調で、マリエの問いに答えた。
「まさか、殿下が?」
 あまりのことにマリエは瞠目したが、アロイスは淡々と続ける。
「あの方が仰るには、マリエ殿にも、我々にも罪はないとのことだそうです。よって誰もお咎めなし、あなたにも償っていただく必要はございません」
「そんな、でも――」
 覚悟していただけに、マリエは慌てふためく。カレルがそう言い出すことは想像もついたが、カレルの命令をアロイスが、それこそ唯々諾々と聞き入れるとは思わなかった。昨夜はカレルの抗弁に、聞く耳すら持たなかったのに。
 そこでふと、マリエは壁を睨むアロイスの横顔に違和感を覚える。そして彼の左目の下に、青々とした痣があるのを見つけた。まだ真新しい、実に見事な青痣だった。
「アロイス様、そのお顔は……!」
 思わず声を上げると、アロイスも心得た様子で目を伏せた。
「あの方に身体の鍛え方を示教して差し上げたこと、昨夜はとても悔やみました」
 二人の間に何が起きたか、容易に察しがついた。
「殿下がアロイス様を? あの方が、乱暴なことをなさるなんて」
「いえ、お互い様です。こちらも少々手荒なやり方でお部屋に放り込んで差し上げたので、仕方のないことです」
 マリエの狼狽とは裏腹に、返答は思いのほか落ち着いていた。

 改めて、マリエは主の身を案じた。
 恐らくまんじりともせず一夜を過ごしているのだろう。もしも本当に、お咎めなしということになるのなら、今すぐにでも飛んでいってご様子を伺いたい。何か自分にできる精一杯のことをして差し上げたい。そう思う。
 しかしアロイスは、まだ何か言葉を続けたがっている。マリエの方を一切見ないまま、どこか沈鬱な横顔を見せている。膝の上に置いた拳がきつく握り固められているのは、恐らく躊躇のせいだろう。
 マリエは逸る気持ちを抑え、アロイスの次の言葉のを待った。

 時が止まってしまったような、長い長い沈黙が流れた後、アロイスは重い口を開いた。
「殿下が仰るには、我々にも、あなたにも非はないとのことです」
 そこでようやくマリエの方を向き、
「しかしそれはあくまで表向きの話。この度の一件では私もあなたも、罪から逃れることはできないでしょう」
「アロイス様に非はございません、全てはわたくしが――」
「いいえ」
 マリエの反論をぴしゃりと封じて、アロイスは尚も語る。
「十分、ございましょう。私は殿下の御身をお守りする立場。と同時に、近衛兵を率いる立場でもあります。どちらをも危険に晒したという意味では、あなたよりもずっと重大な罪を犯しました」
 何も言えなくなり、マリエは唇を噛み締めた。
 全ての罪を一人で被るつもりでいた。だが現実にはマリエは小さく、非力な存在で、その罪さえ一人では負わせてもらえないようだ。
「かの令嬢の仰ることも、あながち的外れではありません」
 アロイスは自嘲の笑みを堪えるように、自らの口元を撫でた。
「卑劣で、浅ましいやり方だというのも事実です。保身の為と言われても致し方ないでしょう。だとしても、我々は必ず殿下をお守りしなければなりません。そして私は他の兵たちをも、なるべく守らなくてはなりません。その為に私は、新たな罪を重ねるつもりでいます」
 そこで言葉を切り、アロイスが姿勢を正した。
 常に冷静な彼の目が、この時ばかりは悲壮な色を隠しきれていなかった。
「あなたにも、共に罪を重ねていただきたい」
 息を呑むマリエに、彼は重々しく告げる。
「それがあなたにとっての償いとなるでしょう。殿下と、殿下の周りにかしずく、全ての者たちの為にも」

 マリエはアロイスの意図を測りかねている。
 償いとして重ねるべき新たな罪とは一体何か。それがわからないうちは答えることもできず、寝台の上で息を潜めていた。
 カレルの為になることならば、厭うものは何もない。マリエは諾々とそれを行うだろう。
 しかし、主を思ってすることが罪に値するというのなら、マリエはためらいたくなる。側仕えの身が長くとも、マリエはただの娘だ。ただの娘に、いかほどの罪が重ねられるものだろう。

 アロイスはマリエの反応を見てか、更に言葉を継いできた。
「あの方には、ご覚悟がございません」
 批判的な物言いにマリエは無言で眉を顰めたが、アロイスに気にするそぶりはなかった。
「事実です。あの方は真っ直ぐでとても純粋な気質でいらっしゃいますが、残念ながらまだ幼い。だからこそ、何のご覚悟もお持ちではないのでしょう」
「殿下にご覚悟がないだなんて、そのようなことはございません」
 すかさずマリエは抗弁した。主に対する過小評価は、たとえ相手がアロイスでも正しておきたかった。
 あの方は無責任ではない。覚悟があるからこそ、日々ご公務に、ご勉学に励んでいらっしゃるのだから――いつか父親たる国王陛下の後を継ぐのだと、わが国の未来を担う立場なのだと、あの方は理解しているはずだ。だから。
「ないでしょう。少なくとも、あなたをお傍に置くご覚悟は」
 理解しがたい言葉が、マリエの思索を遮った。
「……何を、仰っているのですか」
 マリエが瞬きをすると、アロイスはどこか憐れむように唇を歪めた。
「ご存知でしたか。殿下がどなたに懸想なさっているかを」
 逡巡の後に、マリエはかぶりを振る。
「いいえ」
 漠然とした予感はあったが、確証はなかった。それすらあったとしても、自ら口にすることはできなかっただろう。
 答えは、極めて穏やかに告げられた。
「殿下が想っていらっしゃるのは、他でもないあなたです。マリエ殿」