致死量の優しさ/前編

 マリエが異変を察したのは、劇場を出てすぐのことだった。

 外は日が傾き始めていて、眩しい西日が暗がりに慣れた目を灼いた。
 その途端、マリエの視界はぐるりと反転した。
 芝居の余韻に浸っていた頭が揺れ、おかしいとその時に思った時には、音を立てて地面に倒れていた。受け身を取る余裕もないまま、大地に背中をしたたかに打ちつけた。
「――マリエ!」
 カレルに名を呼ばれたのが確かに聞こえた。
 なのに返事ができなかった。にわかに胸が苦しくなり、喉がひゅうひゅう音を立て始めた。暑くもないのに全身から汗が噴き出し、だが全身に力が入らず、一向に起き上がれない。
「どうした? おい……」
 呼びかけに目を開ければ、不安げなカレルの表情と、その肩越しに広がる青空が見えた。
「わ、わたくしは……」
 一体どうしたのですか、そう尋ねようにも呼吸が苦しく、声が出ない。
 普段、どんなに働き詰めでも堪えない健康な身体が自慢だった。体力には自信があった。なのに今は、異常なまでに身体がだるい。意識を保とうと努めてはいたが、ともすれば眠りに落ちるように何も考えられなくなる。
「具合が悪いのか」
 カレルは仰向けのマリエをそっと抱き起こした。フードの中の顔を覗き込み、すぐに眉を顰める。
「酷い汗だ。暑かったか?」
「いいえ……」
 かぶりを振る動作さえ、無性にだるくて仕方がない。劇場内は確かに蒸していたが、暑い時の汗のかき方とは明らかに違った。じわりと滲み出てくる脂汗は、体調の異変を何よりも如実に語っている。
 だがそこで、周囲に人が集まり始めた。皆、急に倒れたマリエを心配そうに見下ろしている。ざわめきの中で気遣う声がする。
「人が倒れたって?」
「ああ、そこの若い娘さんだよ」
「中は蒸し暑かったからねえ、冷たいものでも取った方がいいんじゃないかい」
「ほらほら、あっちの木陰へお行きよ、あちらの方が涼しいよ」
 次々にかけられる声を聞き、カレルはフードの中で眉を顰めた。顔を見られれば王子殿下と気づく者もいるだろう。焦る思いはマリエも同じだった。
「この場を、離れましょう」
 絶え絶えの息で、マリエはそう訴える。
「しかし……歩けるのか?」
「平気です」
 そうは答えたものの、マリエは上体を起こすのがやっとだ。カレルが手を貸しても、その手を握る力さえ弱々しい。どうしてこんなに力が入らないのか、腹立たしくて、もどかしくてしょうがなかった。
「抱えていく、動くな」
 痺れを切らしたのか、カレルが短く命じた。そしてマリエを両腕で抱え上げる。
 マリエも普段なら畏れ多いと慌てるところだが、今はその余裕もなかった。
「お連れさん、大丈夫かね」
 群衆の一人が、おずおずと声をかけてくる。マリエは内心ひやりとしたが、カレルは思いのほか冷静に応じた。
「大丈夫だ。騒がせてしまって済まぬな」
「少し休ませてやった方がいいよ、具合が悪そうだ」
「そのようにする」
 答えるや否や、カレルはマリエをしっかりと抱え、小走りにその場を立ち去った。呼び止めるような声や心配そうなざわめきも聞こえてきたが、振り返りもしなかった。

 いつの間にか、意識が途切れていたようだ。
 ふと気がつけばマリエは地面に降ろされていて、大きな影の中にいた。冷たい壁に背を預けている。目の前にも白い石の壁がある。
 まだぼやける景色に目を凝らせば、どうやらそこは建物と建物の狭間、路地裏のようだった。細く差し込む光の向こうに、人の往来や道を行く馬車の姿が覗いていた。そこまで確かめてから、マリエははたと気づいて辺りを見回す。
 カレルの姿がない。
 建物の影の中、どこにも見当たらない。
「殿下」
 思わず、封印していた呼称を口にしていた。壁に手をつきつつ立ち上がれば、まだ頭がぐらぐらしていたが、黙ってはいられなかった。
「殿下、どちらに?」
 声を潜めて問いかける。返事はない。
 どうやらこの辺りにはいないようだ。では、どこへ行ってしまったのだろう。

 呼吸は大分落ち着いてきたが、まだ汗は引かず、気だるさも手足に残っている。
 原因はマリエにもわかっている。間違いなく、ここのところの寝不足が影響しているのだろう。
 加えて街までの全力疾走と劇場の蒸し暑さ、そして胸裏のやましさも少なからず、マリエの体調を蝕んでいたようだった。その結果がこの有り様だ。居た堪れない思いで一杯だった。
 今や、マリエは途方に暮れていた。カレルの姿が見えないことに酷く取り乱していた。自分が意識をしっかり保っていれば、見失うこともなかったのに。もしかして自分をここへ置いた後、街の人々に感づかれ、取り囲まれてしまったのかもしれない。あの方の御身にもしものことがあれば――不安のあまり、胸が潰れそうになる。

 そこに、足音が近づいてきた。
 マリエは顔を上げ、路地裏へと飛び込んできた姿を見定めようと目を眇める。
 相変わらず身軽に現れたのは、麻の外套をまとったカレルだった。
「殿下……!」
 驚きと安堵の声がかすれた。
「マリエ、気がついていたのか」
 カレルもマリエの姿を見るや、青い目を大きく瞠った。
「日暮れまでにはまだ時間がある。もう少し休んでいろ」
「わたくしは平気です」
 虚勢を張ったマリエの答えに、カレルは真顔で首を横に振る。
「駄目だ、平気なようには見えぬ」
 力をこめて肩を押し、カレルはマリエを地べたに座らせた。その後でそっとフードを下ろし、手に握った手巾でマリエの顔を拭いた。水で濡らした絹の手巾は、汗の滲んだ額や頬にとても心地よかった。
「井戸を探すのに手間取った」
 マリエの顔を拭きながら、カレルが済まなそうに言う。
「お前がやけに汗をかいているから、拭いてやった方がいいと思い、水を探していたのだ。しかし存外に時間が掛かってしまった。一人きりにされて、不安ではなかったか?」
 問われてマリエは俯きたくなる。
 顔を拭かれていることも、気遣われていることも、むしろ今、こうして薄暗い路地裏に二人でいること自体に身の置きどころがない思いだった。
「わたくしは……殿下のことだけが不安でございました」
 マリエがそう訴えると、カレルは呆れたように薄く笑う。
「私のことだと? 今のお前に、何を心配されることがある」
「ですが、近衛の皆様のいないところで、御身にもしものことがありましたら」
「案ずるな。いざとなれば自分の身くらい自分で守れる」
 自信たっぷりに言い放ったカレルが、濡れた手巾を懐にしまった。そうしてよく冷えた手で、優しくマリエの額に触れる。
「無論、お前のことも守ろう。約束していたからな」
 以前の約束をした時には、その言葉をうろたえながら聞いていた。
 後ろめたさ、畏れ多さを抱きながらも、マリエは一人どぎまぎしていた。そうして殿下が懸想している相手のご婦人に対し、羨望とも欽羨ともつかぬ感情を持った。
 あの時と同じ言葉を聞いたにもかかわらず、マリエが胸に抱くのは、口惜しさただ一点のみだった。
 そんな言葉を主に言わせてしまう自らの不甲斐なさが悔しかった。
 身体が自由に動きさえすれば、この方を不安がらせることも、気遣わせることもないのに。
 沈む気分を反映したかのように、辺りには夕闇が忍び寄り始めていた。路地裏から見上げる空は狭く、だが茜色に染まっているのは確かにわかる。
「殿下、そろそろ戻りませんと」
 堪らず進言したマリエに、カレルは鋭い視線を向けてきた。
「そうは申すが、お前、城まで歩けるのか?」
「はい。宵に森を歩くのは危険でございます」
「しかし……」
 カレルはマリエの顔色を見て、ためらうそぶりを見せた。
 だが、急ぐべきであることはカレルもわかっているはずだ。マリエは焦燥を抱きながら尚も言い募る。
「不在を気取られる前に帰らなくては。ルドミラ様もお待ちです」
「……わかった。だが、決して無理はするな」
 やがてカレルは渋々頷き、マリエに対してこう言い渡した。
「歩けぬと思ったら迷わず申せ。必要とあらば途中で休憩を取る」
「お気遣いありがとうございます、殿下」
 口ではそう答えたマリエも、内心は頑なに決意していた。
 ――これ以上、この方にご迷惑をおかけしてはならない。

 内心と身体の乖離は、著しいものだった。
 フードを被り直し、二人は早足で街の外へと向かった。だが早足で歩くことさえ、マリエの思う通りにはならなかった。
 足が動かない。呼吸が苦しく、引いたはずの汗がまた噴き出してくる。頭もがんがんと痛み始めた。いつしかカレルが少し先を行き、マリエはその影を追いかける格好となった。
 次第に長く伸びてくる影に、それでも初めのうちは追いつけていた。
 しかしやがて、足先すら届かなくなった。カレルは時々足を止め、マリエの方を振り返る。その度にマリエは奥歯を噛み締める。

 日暮れの街を抜けた辺りで、マリエの足は縺れ始めた。
 茜空の下でつまづいたのは森の入り口へ差しかかった時で、さすがにカレルも足を止め、心配そうに駆け寄ってきた。
「マリエ、無理はするなと言ったはずだ」
「無理は……しておりません、足が縺れただけでございます」
 言い返しながらも、倒れ伏したマリエはなかなか起き上がることができない。カレルの差し伸べてきた手を借りて、縋るようにして、ようやくその場に立つ。
 即座に目が眩んで、足元が揺れたようにふらついた。
「その調子で無理をしていないと申すか」
 カレルは怒りの口調で告げると、マリエの腕を強く掴んだ。
「少し休め」
「お言葉ですが、わたくしは平気です」
「平気なそぶりには見えぬから言っているのだ」
 カレルが言うように、マリエも自分の限界を感じ取っていた。
 足を引きずって歩くのが精一杯で、カレルの歩き方がやけに速く感じられる。置いていかれまいと足を動かしても、身体はついてこなかった。
 森の中にも、いつの間にやら冷たい夜風が吹き始めていた。日はもう空の端まで滑り落ち、森を通る小道の先が見通せぬほど薄暗い。
「殿下、参りましょう」
 肩で息をしながらマリエは促す。
 カレルは苦々しげな面持ちで、腕を掴む手に力を加えた。
「お前が辛そうにしているのに、無理強いなどできるか。このままではまた倒れるぞ」
「では、わたくしを置いていってくださいませ」
「――何だと?」
 マリエの発言に、カレルが眉を吊り上げた。
 それでもマリエは頑なに続ける。
「殿下だけでもどうぞ、城へお戻りください。殿下がお部屋にいらっしゃらないと知れれば、大変な騒ぎになりましょう」
 今はまだ、そうなっていないことを願っていた。自分が足手まといになり、カレルにも迷惑を掛けた以上、せめてカレルだけは穏便に、何の咎めもないように城へ戻して差し上げたかった。今なら、カレルの足ならまだ間に合うかもしれない。
「馬鹿なことを。お前を置いてゆけるか」
 カレルは憤然と言い返してきた。
「いざとなればお前を背負ってでも帰るぞ」
「殿下、それは……なりません」
 マリエは狼狽した。しかし言い出せば聞かない主だ。マリエが一歩引いたのを見て取るや、すかさずまくし立ててきた。
「お前を城から連れ出したのは私だ、私にはお前を連れ帰る責任もある。違うか、マリエ」
「そんな、殿下に責任を負っていただくことなんて、一つとしてございません」
 応じるだけで息が切れた。頭痛が酷くなり、口を利くのもそろそろ限界だった。その上マリエがいくら抗弁しても、カレルは真っ向から反論してくる。
「ならばお前は私に、女を置き去りにする卑怯者の汚名を着せたいのか」
「卑怯なこととは誰も思いませんでしょう、殿下はやむを得ず、歩けなくなった従者を置いていくだけでございます」
 いつもなら主の頑迷さに折れるマリエも、今日は負けじと言い返す。折れてしまえば更に迷惑をかけることとなる。これ以上ここに留まっているわけにもいかない。
 だが、カレルはマリエを従える術を心得ている。
「私の従者だと申すなら、私の命令は絶対だな、マリエ」
「……殿下」
 マリエは、主の視線から逃れるように目を伏せた。
 だがそれでも、主の言葉からは逃れられない。
「命令だ。私に背負われて城まで帰れ」
 考える暇も与えられない、有無を言わさぬ口調で言われた。
「迷うな、今は一時も惜しい」
 頭上に広がる空は菫色へと変わり、あちらこちらで星が瞬き始めた。もはやためらう時間はなかった。

 親以外の人間に、背負われたのは初めてだった。
 白金色の髪の間から覗く耳元を、これほど近くに見たのも初めてのような気がした。カレルの背中は広く、マリエが身体を預けられるほどに逞しかった。その首元に後ろから腕を回しつつ、マリエはいたたまれない思いで尋ねた。
「重くはありませんか、殿下」
「お前など軽いものだ」
 カレルの答えは素っ気ない。
「ですが、やはり……」
「ああもう喋るな、くすぐったい。いいから黙っていろ」
 街をあれほど歩き回ったのだから、カレルも相当疲れているはずだ。なのに泣き言一つ言わず、マリエを背負っても尚、力強く森の中を歩いていった。