全て焼き付けて/後編

 劇場前にできた長蛇の列に、カレルとマリエも加わった。
「芝居見物には、一体いかほどかかるものなのだろう」
 カレルは懐に手を突っ込み、渋い表情になる。
「恐らく、金貨一枚ではお釣りが山ほど来るのではないかと」
 マリエは推測で答えた。
 行列には様々な風体の者が並んでいる。財布を持たず、貨幣を握り締めた子供たち、重そうな財布をこれ見よがしに持った身なりのいい男女、旅装の者もいれば、接ぎの当たった服を着た者もいる――貧富も年代もまちまちだ。その点から察するに、切符代はさして高額ではないだろう。
「また釣りがないと言われては面倒なことになるな」
 カレルがぼやく。先の買い物で得た経験から、金貨を用いればどうなるか予測がついたらしい。
 そこでマリエは口を開いて、
「それでしたらわたくしが」
 懐から自らの財布を取り出したが、すかさずカレルが咎めた。
「何を申す。お前に金を出させるつもりはない」
「お言葉ですが、細かいお金はお持ちでないでしょう?」
「こういう時、女に金を出させるものではないと聞いたのだが」
 どこでそんな話を仕入れたか、カレルはむくれた様子で言った。
 マリエが読んだ『求婚入門』にもそのような記述があった。男女で連れ立って出かける際は、殿方の側が一切の会計を持つこと、と。そうして器の大きさと裕福さを示すことで、求婚を受け入れてもらえる可能性が高まるのだという。
 しかしそれはあくまで求婚を前提にした外出の場合だ。そうではない場合なら、何も金銭のやり取りくらいで器の大小を決める必要もない。
「年上の者が持つというのも礼儀に適ったことだと思うのですが」
 マリエが語を継ぐと、カレルはいよいよ眉を吊り上げた。
「お前に年上ぶられるのは気に入らぬ。三つしか違わぬというのに」
 三つも違えば大したことだとマリエは思ったが、そもそも身分の高い相手に対して『礼儀に適った』申し出ではないようだった。慌てて言い換えた。
「失礼いたしました。では、一時お貸しするという形でいかがでしょうか」
 その提案はどうにか受け入れられ、切符代はひとまずマリエが支払うことで決着した。ちょうどその頃には列も進んで、切符売りが二人のところへやってきた。
「大人一人で銀貨が二枚、二名様だと四枚だよ」
 言われた通りの額を支払えば、薄い紙切れを二枚渡される。それを入り口で半分に切り取ってもらい、ようやく入場が許された。
「銀貨が四枚だな。必ず返す」
 切符の半券を握り締め、カレルが誓いの言葉を呟く。
 マリエは驚き、慌てて訂正した。
「銀貨二枚でございます。切符売りの方はそのように……」
「いや、四枚だ。お前の分も私が払わなくては筋が通らぬ」
 頑迷に主張したカレルは、その後でマリエにこう命じた。
「私も忘れぬようにするが、お前も覚えておくように。後日必ず返す」
 覚えておくにしても、よもや殿下に貸した金をどうこうと申し立てることができるだろうか――マリエは困惑しつつ、劇場へ足を踏み入れた。

 劇場内は、小窓から差し込む光でうっすらと照らされていた。
 他に窓はなく、篭もる熱気と人いきれの中、二人は空いている席を探す。
「こう暗いとよく見えぬ……離れるなよ、マリエ」
 カレルがそう言って、マリエの手を力強く掴む。マリエもすっかりされるがまま、主に手を引かれて歩いた。
 暗がりの中を進むうちに、やがて目が慣れてくる。あまり広くない場内は緩やかな扇形の階段状になっていて、客たちはそこへ、直に腰を下ろしている。階段の一番下には開けた空間があり、どうやらそこが演壇らしい。観客は演壇を取り囲んで芝居を鑑賞ことになるようだ。
「どうせなら真正面がよいと思ったのだが」
 呟いたカレルがようやく見つけたのが、客席の最上段近く、ほとんど隅の方だった。辺りをぐるりを見回した後、マリエに向かって首を竦めてみせた。
「後は前の方しか空いていないようだ。ここにするが、よいな」
「わたくしは、どちらでも」
 芝居を見ること自体が初めてのマリエには、どこがよい席なのか、わかるはずもない。よい席にしか座ったことのないであろうカレルは不満げだったが、観念した様子で腰を下ろした。マリエも隣に続く。
 ここは酷く蒸していた。マリエはフードを下ろさず風を扇ぎ入れようと試みたが、上手くいかなかった。
「汗を掻いているな。暑いか、マリエ」
 カレルに問われ、マリエは控えめに苦笑した。
「平気です。ご心配ありがとうございます」
 マリエと違い、カレルは汗一つ掻かずに座っている。暑いと思っているのはマリエだけのようだ。やはり鍛え方の差だろうか。

 やがて、演壇に人影が進み出た。
 大きなランタンを提げているのは、街角で見かけた奇抜な服装の男た。白く塗りたくった顔をこちらへ向けて、大仰なお辞儀を繰り返し、そして大きく描かれた唇を開く。
 これより紡がれる物語は――とある、愚かしくもいとおしい人間の話。
 とある小さな小さな国に、一人の青年がいた。
 彼は賢く温厚で、周囲から優れた指導者として慕われていた。

 紹介を受けて演壇に現われた青年は、貴族のような立派な身なりをしている。
 その傍らには二つの人影を従えている。青年と同じ格好をした二人は、片方が白い顔を、もう片方が黒い顔をしている。それぞれが青年の善の心、悪の心を表しているらしい。
 青年は二つの心を有している。事あるごとに二つの心は、自分こそが正しく、もう一方の心の言うことには耳を貸すなと告げてくる。青年はその度に迷い、悩みながら、どちらに従うかを決めていく。
 しかし青年は多くの人から慕われる存在だ。それゆえ悪の心は常に退けられ、善の心ばかりが勝っていた。青年は善の心に従い、人々の前で善行を積んでいく。悪の心に従いたいという気持ちがあっても、気位と周囲の期待がそれを許さない。そのうちに善の心は力を増していき、やがて青年の意思を押し切るようになる。
 青年は善の心に引っ張られ、他人の為に働く。
 困っている人があれば労を惜しまぬ彼の姿を、人々はまた敬い慕うのだった――。

「あの男の気持ち、よくわかる」
 芝居を観ていたカレルが、ふと独りごちた。
 マリエが小首を傾げると、もっともらしい言葉が続く。
「人は皆、善の心と悪の心を持ち合わせているものなのだろう。私もその二つを戦わせることがよくあるのだ」
「それは一体、どのような時でございましょうか」
「うむ。例えば、家庭教師どもがやってくる頃になって、急に身体を動かしたくなった時など、私も善と悪の心を戦わせている。ああいう時は非常に悩ましいな、やりたいことを勉強などという面倒くさいことの為に犠牲にするというのは」
 カレルが真面目くさった顔で語るので、マリエは思わず絶句した。カレルの言う通りだとすれば、我が主の悪の心の、何と手強いことか。
「あと、夕食の前にケーキが食べたくなった時もそうだな、実に悩ましい」
「さ、さようでございますか……」
「さしずめお前の焼くクルミのケーキは、悪の手先というところか」
 いつの間にやらマリエも悪事の片棒を担いでいたらしい。実に悩ましい問題だった。

 現実における些細な葛藤はさておき、壇上では青年の運命が大きく転換していた。
 青年は、ある日恋をする。
 相手は街の酒場の歌姫で、ご自慢の歌に惹きつけられた青年は、酒場で賑々しくも胸ときめくような一夜を過ごす。
 だが翌朝、酔いから醒めて思いを馳せれば――相手は卑しい身分の娘。結ばれることはもちろん、思いの丈を告げることさえ許されない。それどころか他の者にも知れてしまえば、たちまち指導者としての評判も地に落ちてしまうだろう。
 青年は他人の目を恐れ、自らの抱く想いを恐れた。
 そこへしゃしゃり出てくるのが例の、二つの心たちだ。

 善の心は囁く。
 ――今日まで築き上げてきた評判を、女一人の為に失ってしまってもよいのか。
 一方で、悪の心は喚きたてる。
 ――善行の為に何もかも失うのか。そういう生き方をこれからも、死ぬまで繰り返す気か。

「身分違いの恋とは、いつの世も厄介なものだ」
 低い声でカレルが言ったので、マリエは思わず身を固くする。
 そっと隣を窺えば、物憂げな眼差しは壇上に注がれていた。
「こればかりは生まれ持ったものゆえ、どうにもならぬというが……どうにもならぬのだというのなら、なぜ惹かれるようになるのか……」
 大人びた呟きを聞けば、胸を痛めずにはいられなかった。
 きっとカレルはこの芝居の内容に、自らを重ね合わせているのだろう。
 カレルの想う相手が誰か、マリエは今や漠然とした予感を抱いている。だがそれは、やはりどうしても、どうにもならぬものだろう。マリエにはどうすることもできない。
 思わず唇を噛み締めたマリエをよそに、カレルの独り言は続く。
「命令だと、無理にでも言うことを聞かせられたら、いっそたやすいのだろうがな」
 溜息まじりに愚痴を零した後、真横からの視線に気づいたようだ。慌てたように言い添えてくる。
「も、もちろん芝居の話だぞ。あの男、どうせなら身分を後ろ盾に、先程の女を強引にでも服従させればよいと思ったのだ」
「お言葉ですが、同意できかねます」
 マリエは率直に応じた。
 品のよい解決法とは思えないし、身分の低い者にもそうそう従えぬ命令はある。マリエにだって、ある。
 カレルはその言葉に黙って肩を竦め、芝居に視線を戻した。
「難しいものだ。命じるだけでは、表向きは従えられても心の内までは従えられぬ」
 だからこそ、芝居の中の青年は人格者として振る舞おうとするのだろう。その地位に見合うだけの善行を、自ら積もうとするのだろう。
「逢い引きに連れ出そうが、よそへ嫁に行くなと言おうが、従ってはくれる。だがそれ以上を申しつければどうなるものか……どうしてよいのやらだ」
 カレルは尚も呟いている。
 この芝居にそんな場面などあっただろうか。マリエは怪訝に思ったが、そんな近侍の疑問を切り捨てるようにカレルは嘆息した。
「おまけに何かと融通の利かぬ奴だからな。命令しても聞かぬこともあるくらいだ、いっそはっきりわからせてやった方がよいのか……」
 主が、芝居のどの場面の話をしているのか、マリエには全くわからない。違う芝居を観ているのではないかとさえ思えてきた。

 さて、演壇では悩める青年の葛藤が続いている。
 酒場の歌姫に懸想し、身分の壁に嘆息する日々を過ごすうち、善行を積む機会は減っていき、善の心は次第に力を失っていく。遂には悪の心が押し切って、青年を恋へと向かわせる。
 青年は身分を隠したまま思いの丈を歌姫へと告げ、逢い引きに誘う。
 彼女から快い了承を得、天にも昇る心持ちだった青年だが――その逢い引き当日、善の心と悪の心は決定的に対立し、互いに青年の意思を引きずり込もうとする。
 逢い引きの待ち合わせ場所は、人通りの多い街角だった。青年は花束を抱え、一度はそこへと踏み出したものの、知己に声をかけられ、あるいは往来の多さに臆し、たびたびその場を去ろうとする。
 善の心は青年に、まだ間に合う、屋敷へ帰れと諭してくる。
 悪の心は、人目を気にせず女を待てとそそのかす。
 悩める青年はどちらにも従えず、思案に暮れながら辺りをさまよい始める。
 ちょうどそこへ、酒場の歌姫が現われる。彼女は青年を探すが、葛藤する青年は辺りをふらつき、一向に彼女の前へと辿り着けない。彼女がぐるぐる視線を巡らせる度、青年はその視界から外れたところへ転がり出る。二人は壇上ですれ違い、なかなかめぐり合えない。

「女、後ろ! 後ろだ!」
 すぐ横で起こった絶叫に、マリエは一瞬恐慌をきたした。
 事もあろうに隣のカレルが立ち上がり、壇上に向かって叫んでいたのだ。
 大急ぎで飛びつき、宥める。
「お、落ち着いてくださいませ!」
 マリエの方がろくに落ち着かずに告げたが、カレルもむきになっていた。
「あの女、背後に男がいるというのに気がつかぬのだ。教えてやりたくもなる!」
「いえ、ですが、そもそもこれはお芝居でございますゆえ……」
「ほら見ろ! 私が叫んでもまだ気づいておらぬぞ!」
「ええ、ええ、お気持ちはわたくしにもわかりますが、叫んではなりません!」
 カレルを取り押さえようとマリエは必死だった。当のカレルはといえば、まるで悪びれた様子がない。憤然と顎を逸らして告げてくる。
「そうは申すが、あの者たちも叫んでいるではないか」
 言いながら指し示したのは観客席の前方、真正面の一帯を陣取っている子供たちの一団だ。彼らは壇上の青年たちに声援を送っていた。壇上では尚もぐるぐるとすれ違いが続いている。
「あちらは皆、小さな子供たちばかりでございます」
 どうにか平静を取り戻し、マリエは主に告げた。
 それでカレルは頬を赤らめて、その場に素早く座り直した。
「……済まぬ。つい、夢中になった」
 周囲の席からはくすくす笑いが漏れる。どう見ても幼子ではないカレルがむきになっているのを、居合わせた人々もおかしがっているようだ。お忍びで来ているというのに、マリエも生きた心地がしない。
 それでも、夢中になる気持ちもやはり、よくわかる。
 いつしか気恥ずかしさも遠ざかり、カレルもマリエも再び芝居へ惹きつけられた。

 二つの心を持った青年は大いに悩み、葛藤する。
 善の心も悪の心も、どちらの言い分にも一理ある。どちらにも従いたい思いでいながら、どちらにも容易くは従えない。そうこうしているうちに待ち合わせの時刻は過ぎていき、女はからかわれたものと思い込み、その場から立ち去ろうとする。
 去り際の女の背中を見た青年は、遂に――追い縋る二つの心のどちらをも張り倒し、引き離す。
 そうして善でも悪でもない心で、彼女に駆け寄るのだ。
 ただ、彼女に愛を告げる為に。
 身分の差を乗り越えられなくとも、想いを寄せた事実だけを告げる為に。
 結ばれなくてもよいのだとその瞬間、青年は思う。ただ彼女を想ったことを、誤魔化さず、嘘偽りない真実として彼女に伝えられたなら。
 歌姫は青年から豪奢な花束を捧げられ、あの日酒場にやって来た彼が、身分の高い者だと初めて知る。
 人々が驚き、見守る中、女は少しの思案の後で花束を受け取る。そうして青年の一途な想いに報いるべく、その頬にそっと口づけて、そこで物語の幕は下りる。

 青年と歌姫が迎える未来は、芝居の中では語られない。
 人々の驚きの視線に晒されて、身分の壁に立ちはだかられて、二つの心に尚も追い縋られて、二人がどんな未来を選び取ったのかまでは示されない。青年の想いが一時でも報われた、そのことだけに観客は惜しみない拍手を送る。
 マリエも人々と同様に、物語の結末だけを喜んだ。
 目の前の芝居に夢中になり、現実のほろ苦さを一時、忘れていた。