黒い髪/前編

「連中、余程私が信用ならぬと見える」
 カレルが歩きながら呟いた。
 廊下の角を曲がる度、ちらちらと振り返る。追ってくる兵の姿は目につく距離にあるのだろう、次第にカレルは足を早めた。
 マリエはあたふたと主に付き従う。カレルより背が低く、日頃は身体を動かす機会もないマリエは、遅れずついていこうとすると小走りになってしまう。早々に息が上がり、汗が滲み、まとめた髪が頭巾からほつれ落ちている。当然、後ろを見る余裕などない。
 そんなマリエを認めて、カレルは低い声で告げてくる。
「どうした、辛いか」
「いえ、わたくしは……」
 答えようとしたが、上手く息が継げなかった。すっかり呼吸を乱し、ふうふう言うばかりだった。そんなマリエを、カレルは苦笑気味に見やる。
「お前も少し鍛えた方がよいのではないか」
「え、ええ、わたくしも少々、そのように思います」
 絶え絶えの言葉をようやく口にした。
 もはや何の為にこんなことをしているのか、わからなくなってきたマリエだった。

 カレルは、予行演習だと言った。
 つまり例の、芝居行きの日の為のものだ。その日、万が一追っ手をつけられた時には上手く撒くことができるように。あるいは人混みの中でも迅速に、かつお互いはぐれぬようにする為の演習だ。
 城内の廊下は複雑に入り組んでおり、構造を熟知している者にとっては、本来なら街中と同じように身を潜めやすい空間のはずだった。
 だが事実はそうならず、兵たちはぴたりと遅れず追い駆けてきているらしい。マリエもカレルも当然のように構造を覚えているが、それは近衛の者たちも同じことだ。撒くのは難しいようだった。

 そんな状況にしびれを切らしたのだろう。遂に、カレルが言った。
「マリエ、走れるか」
 既に走っております、とは言えないマリエだった。仕方なしに頷いた。
「よし」
 カレルも顎を引く。
 そしておもむろに、斜め後ろにいたマリエの手首を掴んできた。
 それだけでマリエはびくりと震え、ごつごつした手の感触に、驚きのあまり息が詰まった。ランタンを取り落としそうになり、すんでのところで持ち直す。
「置いていくわけにはゆかぬ」
 呟いて、カレルは握る手に力を込める。
 一呼吸置いて、直後、
「走るぞ!」
 抑えた声で指示したカレルが、靴底で強く床を蹴る。
 その勢いにマリエはたちまち呑み込まれた。掴まれた手首から腕にかけて、強く引っ張られてぐいと伸び、つんのめりながらも足だけを必死に動かす。息苦しさの中で汗が散る。視界が滲む。掴まれた手首が熱を持つ。
 見慣れているはずの廊下が、見覚えのない光景へと変貌を遂げていく。流れるように過ぎていく壁、床、すれ違う人。ごうごうと耳元で、風を切る音がする。
 何の為に走っているのだろうと、マリエは朦朧とする意識の下で思う。
 主に手を取られ、風の速さで、苦しい呼吸を繰り返しながら、自分はどこへ向かうのだろう。
 いつでも行く先は、主の傍らのはずだった。マリエが一人でどこかへ行くことはないはずだった。いつでも付き従うべきはこの手の持ち主だ、だから決してはぐれてはならない。影のように、どこまでもどこまでもついていかなくてはならない――そこに理由はなかった。
 ただそれこそが生まれ持った運命だと、マリエ自身が思っていた。

 眼前でふと、扉が開いた。
 いつの間に現われたのかわからなかったが、カレルが半ば体当たりするように開けた。
 飛び込んだ先はやけに薄暗く、マリエはここがどこか、すぐにはわからなかった。恐らくこの部屋の窓も、鎧戸が下りているのだろう。
 ゆっくりと立ち止まったカレルは扉を閉め、マリエの手首から自らの手を離した。それからランタンを取り上げ、燐寸を使って火を点す。途端に室内は揺れる明かりに照らされた。
 明かりを頼りに見回せば、どうやらここは書庫のようだとわかった。ランタンの光が届かぬ薄闇の向こうまで、ずらりと本棚が立っている。人気のないこの部屋に、今はむっとするような重い空気が立ち込めている。鼻で息をするようになれば、たちまち黴の匂いを感じ取ることができるだろう。
「……足音が消えたな。こちらへは来ておらぬか」
 独りごちたカレルは、ほとんど息を乱していない。
 肩でぜいぜいと息をするマリエとはまるで正反対だ。苦しげな近侍を見て、カレルは気遣わしげに背を擦ってくれた。
「無理をさせたようだな。平気か、マリエ」
「は、はい……」
 そう答えるのがやっとで、マリエは実際、平気ではなかった。
 これほどの距離を全速力で走ったのは、随分と久し振りだった。のぼせたカレルの為に水を汲みに行った時も、花瓶の代わりを探し回った時も、ここまでくたびれることはなかった。
 カレルは再びマリエの手首を掴んだ。そして書庫に備えつけられた机まで引っ張っていくと、座るようにと仕種で促した。ランタンを一度置き、丁寧に椅子まで引いて。
「少し休むといい」
 カレルの言葉に、しかし易々とは従えない。呼吸が苦しくともここは譲れない一線だった。
「い、いけません、殿下。もったいないことでございます」
「何がだ」
 拒まれて、カレルはいかにも不満そうだった。
「疲れているようだから座れと命じたまで。なのに従えぬと申すか」
「ですが、殿下の御前でわたくしが……」
 どうにか呼吸が整ってきた。マリエは深く息を吐き、それからきっぱりと答える。
「わたくしなど、床の上で十分でございます。どうぞ殿下がお座りください」
「ならぬ。お前がそう申すなら、私も床に座る」
 カレルの頑なさも大したものだった。マリエが従わぬとわかれば、その手首を強く引き、ずかずか大股で書庫の奥へ進む。そして無言のまま、本棚の陰に腰を下ろした。床の上に、何も敷かずに。
 慌てて、マリエが手巾を取り出す。片手が塞がっているのでややもたつき、出てきたのはカレルが座ってしまった後だった。それでも膝をつき、差し伸べた。
「殿下、これをお使いください」
「私は要らぬ。お前が敷くとよい」
「……それでしたら、わたくしも結構でございます」
 答えたマリエはしばらくの間、カレルの前に跪いていた。しかしカレルが青い目でじっと訴えかけてくるので、しばしの逡巡した後、そこへ座った。
 主と同じ床の上、並んで腰を下ろしているのは実に居心地の悪いものだった。今までにないほど不敬なふるまいのような気がして、マリエは内心祈った。
 ――アロイス様たちが、ここを見つけませんように。
 それから、更に不敬な事態に気づいた。
 カレルはまだマリエの手首を握っていた。既に何度か繋いだり離したりを繰り返していたのだが、マリエが事の重大さを考える余裕ができたのは、今が初めてだった。
 手のひらが広く指が長い、じわりと熱い手だった。
 以前、寝室で手首を掴まれた時の記憶が蘇る。皮膚に伝わる体温に、またしても眩暈がした。
「で、殿下。あの、お手を……」
「ああ」
 カレルは指摘されて初めて気づいたとでもいうように、ゆっくりと手を離した。そして切なげな顔になったかと思うと、マリエから目を逸らしてしまった。

 床の上に置かれたランタンが、二人の影を浮かび上がらせている。
 本棚にかかる影は二人と同じように座り込んでいる。男らしいがっしりとした肩幅の影と、細身で小柄な女の影。そこからは身分も年齢も読み取ることはできず、同じ色をして揺れている。それでもマリエの目には、カレルの影は貴く立派なもののように映った。
 それからふと、影の自分の髪が乱れていることに気づく。長い距離を駆け抜けてきたせいだろう。マリエはほつれ出た髪を被っていた頭巾に押し込んだ。主の手前、頭巾を取ることはできないが、どうにか小奇麗にしておかなければならない。
 それをカレルに見咎められ、すかさず笑われた。
「お前の髪は酷い有り様だな。強い風に吹かれたようだ」
「申し訳ございません、殿下」
 縮み上がったマリエに、しかしカレルは慰めるような言葉を継ぐ。
「あれだけ走ってきたのだ、仕方があるまい。鏡のあるところで直させてやりたいのだが、今しばらくは外へ出るわけにゆかぬ。身を潜めていなければならないからな」
 その言葉に、マリエもここまで来た目的を思い出す。
「予行演習とは、ここで、こうしていることでございますか?」
 マリエが口を開けば、すかさず答えが返ってきた。
「そうだ。街へ出た時に追っ手を撒き、走りながらでも決してはぐれぬようにする為の演習だ。加えて――逢い引きの、でもある」
 最後の一言はぼそりと、低い声で付け足された。
 マリエは瞠目し、思わず尋ねた。
「逢い引き、と仰いましたか?」
「その通りだ」
「では殿下は、かのご婦人と約束をなさっておいでなのですか?」
「……ああ」
 カレルが唇を尖らせて答える。
 マリエは未だに、カレルの想い人を知らない。近頃では町行きの支度に追われ、そのことに言及される機会すらめっきり少なくなっていた。
 それが、いつのまにやら逢い引きの約束を済ませていたという。しかもマリエは毎日傍らにありながら、カレルにそんな約束を交わす相手がいるとは全く知らなかった。
 そしてここまでの情報を与えておきながら、カレルは一向に想い人の詳細を教えるつもりはないようだ。尋ねることは無礼とわかっていても、やはり気にはなる。
 一体、どこの、どのようなご婦人なのか。
 マリエの疑問は膨らむばかりで、すっきりしない気分だった。
「ともかく、そういうことだ」
 話を強引に打ち切るが如く、カレルは続けた。
「この時間、今しばらく付き合ってくれるか、マリエ」
「わたくしでよろしければ、どのようなことでも」
 マリエは恭しく頭を下げたが、その後で髪の乱れを思い出し、慌てて言い添える。
「わたくしの髪は酷い有り様でしょうから、逢い引きの場に居合わせるにはいささか、ふさわしくはないかもしれませんが」
「さほどでもない」
 カレルは鼻を鳴らし、マリエの不安を一蹴した。
 それからマリエの方を向き、そろそろと、慎重に手を伸ばしてくる。頭巾からほつれ出した黒髪の一筋を指先で掬うようにして、顔を近づけ見つめてきた。
「それに、お前の髪はよい色だ。私はその色は好きだ」
 微かな、震える声だった。
 しかしマリエの耳にははっきりと聞こえ、即座に耳朶が反応した。燃えるように熱くなる。
 たちまち気恥ずかしさと居た堪れなさがマリエの心を埋め尽くす。異性から容姿を誉められる機会がなかったマリエにとって、その言葉は甘美で、それでいてえもいわれぬ不安を掻き立ててくるものだった。
 主を、異性と思ってはならない。
 今の誉め言葉は、そういうものではない。
 ほんの一瞬、その言葉をくれたのが主でなければよいと思った。他ならぬカレルでなければ、素直に喜び、うれしさを噛み締め、頬を染め、どぎまぎしていることもできたのに。
 カレルが相手ではそれすらも不敬であり、マリエは浮かれてはならず、平然としていなければならなかった。
「お褒めにあずかり光栄です、殿下」
 平静を装った感謝をどう受け止めたか、カレルは嘆息し、マリエの髪をするりと解放した。

 二人きりの書庫は静かだった。
 雨脚が弱まっているのか、雨音のさらさらいう音も次第に聞き取りにくくなってきた。

 呼吸が落ち着いてきたマリエは、今度は別の理由で口を利けなくなっていた。
 ランタンの明かりで見る主の横顔が、普段よりもぐっと大人びて見える。何か思い煩っているようでも、物憂い様子でもある面差しから、目が離せなくなっていた。
 すっかり大人になられたのだと、改めて思う。
 何度も繰り返し思ったように、カレルの成長を見た目にも、内面にも感じ取っている。誰しもいつまでも幼いままではないと頭では理解しつつ、マリエにか受け入れがたいことでもあった。雨の日に不満を唱え、あれこれとわがままを口にしていたカレルと、目の前で大人びた横顔を晒すカレルが、同じ人物には見えなかった。
 いつの間にこんな顔をされるようになったのだろう。
 いつの間に、逢い引きの約束を交わせるようにまでなられていたのだろう。

 マリエは主の成長を喜ぶより早く、一抹の寂しさを抱いていた。
 その寂しさの起因するところが何かは、自分でも気づいていなかった。