雨の日に

 城の外では、しとしとと雨が降っている。
 先日カレルが言っていた通り、あるいは歴史の家庭教師が言っていた通り、ここ数日は雨の日が続いていた。

 鎧戸を下ろした部屋は薄暗く、夜と同じように明かりを必要としていた。
 ゆらゆら揺れる灯火の傍で、地図の写しを睨んでいたカレルが、一つ大きな欠伸をする。椅子に背を預ける仕種が気だるげだった。
「マリエ、窓を開けてもよいか」
「なりません、殿下」
 傍らで繕い物をすることを許されていたマリエは、すかさず針を持つ手を止めた。
「雨が入ってきては、敷物や調度が傷んでしまいます。どうかお止めくださいませ」
 しかしカレルは意に介さず、地図の写しを懐にしまった後、屈託のない笑顔を浮かべた。
「何、濡れるのは私だけだ。窓辺に立って雨を浴びる程度では、敷物まで届きはしまい」
「それはもっとなりません。風邪をお召しになられては大変です」
 マリエが異を唱えると、カレルはむしろ憐れむような目を向けてきた。
「雨を浴びるのは気持ちがよいのだぞ、マリエ。それを知らぬとは人生を損しているな」
 まるでやんちゃ坊主の顔で言うものだから、マリエも手に負えない。
 ここ数日の悪天候で身体を持て余しているのだろう。雨が続くとカレルの他愛ないわがままも続くので、マリエは密かに頭を悩ませていた。退屈な時間に飽き飽きしているらしく、しきりと無茶を言ってくる。
「殿下は湯浴みではあんなにお早いのに、雨はお好きなのですか」
「湯は熱いから嫌いだ。のぼせてしまう」
 照れ隠しの表情になったカレルが、その後で眉間に皺を寄せた。
「それに私とて、雨が好きだというわけではない。晴れた日の方が余程よい、外で剣を振るうことも出来るし、馬を乗り回すことも、森まで散歩に出ることだってできるのだからな。しかし、こう雨が続いていては……」
 カレルが鎧戸の下りた窓へ目を向けたので、マリエもつられて視線を投げる。二人分の影が長く長く伸びて、固く閉ざされた窓に触れたがっている。
 微かな雨音は、息を潜めて耳を澄まし、ようやくさらさら聞こえるほどだ。室内に篭もる湿気がなければ、雨の日であることすら忘れてしまいそうな、とても静かな日だった。
「私は暇を持て余しているのだ。わかるか」
 カレルは昔から、雨の日ともなればとかく不機嫌になった。ちょうど今のようにあれやこれやと子供じみたわがままを言っては、たびたびマリエを困惑させていた。今も、退屈から気を紛らわすべく、他愛ないやり取りすら楽しもうとしているかのようだ。
「殿下のお気持ち、お察しいたします」
 針を針山へ置き、マリエは控えめに苦笑する。
 するとカレルはにんまりして、得意げに語を継いだ。
「そうであろう。お前ほどの忠心篤い近侍であれば、私がせめて窓を開けて、冷たい雨でも浴びたいと思う気持ち、理解できるのではないか?」
 理解はできるが、近侍として到底看過できることではない。マリエは生真面目に答えた。
「わたくしが殿下を諌めておりますのも、ひとえに殿下の御身を慮ってのことでございます」
「……相も変わらず、融通の利かぬ奴だ」
 大きく息をつき、カレルは椅子の上で両足を投げ出した。
 あまり行儀のよいふるまいではなかったが、二人きりの室内ではたまに見られる光景でもあった。何せ今日は、面会の予定があった客人もやっては来ないのだ。カレルは誰に気遣うこともなく、自室の中で奔放に振る舞っている。
「申し訳ございません、殿下」
 マリエは一応詫びてから、気遣う言葉を続ける。
「本日はルドミラ様も外へは出ないとのことでしたから、時間がぽっかり空いてしまいました。さぞや殿下も退屈でいらっしゃるでしょう」
「あの女のことはどうでもよい」
 一方、カレルはたちまち顔を顰めた。
「私はあれほど生意気で無礼な女を他に見たことがないぞ。寄越した文を見せたであろう、言葉も飾らず簡潔に、道がぬかるんでいるから行かぬと――断るにしてももう少し言いようがあるのではないか?」
 カレルの元へ、ルドミラから手紙が届けられたのは昨日のことだった。
 本来ならば今日はルドミラとの六度目の面会が予定されていたのだったが、ルドミラは簡潔かつ実務的な文面でいともあっさりと断りを入れてきた。――馬車が走らなければそちらへは参れません。次の機会を楽しみにしております。
 かの令嬢はあくまでも、カレルの町行きの協力者として城を訪ねてくる予定だった。雨が降れば用はないというのも事実ではあるし、カレルとてルドミラとの面会を心待ちにしていたというほどではないようだ。しかし婦人にこうもすげなく袖にされたのは恐らく初めてのことで、少なからず自尊心が傷つけられたらしい。昨日から愚痴ばかりを零している。
「大体、いい身分ではないか。雨如きで面倒事を避けて通れるのだからな。私はそうはゆかぬ。雨が降ろうが家庭教師どもはやってくる、公務にも行かねばならぬ。雨くらいで面会を断ってきたのはあの女ぐらいであろう、マリエ」
「……わたくしも、そのように記憶しております」
 首肯するマリエの胸裏には、これまでにカレルを訪ねてきた他の令嬢の顔が過ぎった。

 これまで幾人もの令嬢たちが、カレルの心を射止めるべく――実のところはその親たちの望む通りに、我先にと拝謁にやってきた。彼女たちは品性も美しさも申し分なく、カレルの前では関心を引こうとひたむきだったが、カレルにとってはあまり印象に残る存在ではなかったようだ。
 一方のルドミラは、現在のところカレルに最も強い印象を残した令嬢だ。
 城内でも噂になり始めている。初日に口論をして威勢よく出て行ったかの令嬢が、さして日も経たぬうちに何度も会いに来ている。頻繁な来訪はカレル殿下が熱望したものであると実しやかに囁かれていて、そう遠くないうちに婚儀の運びとなるのでは、ともて言われていた。
 マリエはそういった噂の真偽を城勤めの者たちによく尋ねられたが、ルドミラとカレルが以前ほどには険悪ではない事実だけを肯定し、残りの真偽については黙して語らずにいた。カレルの為にもルドミラの為にも、余計なことは喋るまいと決めている。

「あの女でも、多少の退屈しのぎにはなっただろうに」
 噂話はつゆとも知らないはずのカレルが呻く。
「何の目新しいこともなく、外にも出られず、これでは何もかもが鈍ってしまう。マリエ、お前とて退屈であろう」
 水を向けられたマリエは、すかさずかぶりを振った。
「殿下のお傍にいるうちは、わたくしはいささかも退屈しておりません」
 退屈どころか、話しかけられる度に繕い物の手を止めなければならず、かえって忙しいくらいだ。
 しかしマリエはカレルと、他愛ない会話をするのが好きだった。わがままの方は程ほどにして欲しいと思うが、わざと意地悪な冗談を言ってきたり、マリエの生真面目さをからかってくるそぶりは可愛らしいと感じることもある。不敬な考えではあるが、カレルとの会話を密かに楽しんでもいるマリエだった。
 マリエの返答を聞き、カレルは焦った様子で弁解を始める。
「ご、誤解をするな。私もお前といるのが退屈だと言っているのではない。お前とこうしてくだらぬことを話すのもなかなか趣があって、よいものだと思っている」
「光栄なお言葉にございます、殿下」
「そうであろう。私もぐちぐちと不満を言ったが、あれはあくまで外へ出られぬことへの思いであってだな。お前のことをつまらぬだの、退屈だのと思っているわけではないぞ。しかと心に留めておくがよい」
 急に慌てふためき出したカレルの態度を、マリエは畏れ多く思う。
 何も近侍ごときに気を遣うことなどないのに――幾分かの申し訳なさも感じつつ、しかしカレルが他人を気遣うようになった成長ぶりは、やはり素直に嬉しいのだった。
「それに、雨では芝居にも行けぬ。よく晴れた日と思っていたからな」
 カレルは息をついた後、懐にしまった地図の写しを再び取り出し、ひらひらと振る。
「もう道筋もすっかり覚えた。お前の方の準備はどうだ、マリエ」
「全て整ってございます」
 麻布の外套は既に仕上がり、洗いも一度かけてある。これで旅人として街中に紛れ込むことができるだろう。
「そうか。では、晴れの日を心待ちにするとしよう」
「はい、殿下」
 ようやく満足げな笑みを浮かべたカレルに、マリエも嬉しさを隠さなかった。主の幸いは自らの幸いでもある。それは今までもこれからも、何一つ変わらないマリエの内の真実だ。
「……それまで、もうしばらく地図を眺めておくか」
 カレルが地図の写しを開き、また熱心に眺め始めた。
 それでマリエも針山から針を抜き、繕い物を再開する。
 二人きりの室内に、微かな雨音だけが響き出す。

 雨音が支配していた時間は、しかしそれほど長くはなかった。
 不意にカレルが腰を上げ、小さく一度、咳払いをした。
「たった今、よいことを思いついたぞ、マリエ」
 そう言い出した時、カレルの顔にはなぜかぎこちない笑みが浮かんでいた。
「よいことで、ございますか?」
 カレルがそう言い出して、本当によかった例がどれほどあっただろうか。胸騒ぎと、主のひらめきを信じたい気持ちとで、マリエの心は揺れ動く。
 近侍の内心を知ってか知らずでか、カレルは言い放った。
「予行演習をしようと思うのだ」
「よこう……えんしゅうと、仰いますと……?」
 マリエには聞き慣れない響きだった。たどたどしく問い返せば、カレルは得意げに頬を染める。
「芝居へ赴く際の段取りを、確かめる為の演習だ。どのように二人で城内を歩き、なるべく兵たちを遠ざけ、隙を突いてどこかへ身を潜めるのだ。あらゆる状況に備えておくに越したことはないからな」
「さようでございますか」
 ぴんと来ないマリエが間の抜けた声を上げると、
「わかったらさっさと用意だ。針を置き、ランタンを持て」
 カレルは有無を言わさず急かしてきた。それでマリエも針山へ針を戻し、代わりに火が灯ったランタンを手に取った。
 主の思いつきがよいものかどうか、マリエはまだ判別つきかねていた。

 居室の扉を開けたカレルを、廊下に控えていた兵が姿勢を正して出迎えた。
「殿下、どちらへお出かけですか」
 兵の一人からの問いに、カレルは簡潔に答えた。
「マリエを連れ、少し城内を歩いてくる」
「御意」
「いや、大した用ではない。お前たちはついて来ずともよいぞ」
「――何と?」
 近衛兵が揃って目を瞠る。
 カレルは作ったような不機嫌顔で、声だけは照れながら続ける。
「その辺りを歩き回ってくる程度だ。お前たちに足労させることもない」
「しかしお言葉ですが、そのようなわけには」
「どうしてもと申すなら、距離を置いてついて来るがよい。私から離れて歩くのだぞ」
 奇妙な命令だった。兵たちは顔を見合わせ、訝しそうにしている。もちろんマリエも訳がわからず、瞬きを繰り返す。
 そのマリエだけに、カレルは告げる。
「では、ついて参れ」
「は、はい。……殿下、わたくしも離れて歩いた方がよろしいのでしょうか」
 おずおずと尋ねれば、頬を赤くしたカレルが噛みつくように言い返してきた。
「お前が離れて歩いてどうする。お前は私の隣を歩くのだ。よいな!」
「お、仰せの通りに……」
 マリエは大慌てで、先に立って歩き出した主の背を追い駆ける。
 途中、一度だけ振り向けば、命令通り距離を置いて動き出した兵たちは、なぜか全員訳知り顔になっていた。呆れと苦笑いが混在した表情を向けられ、マリエは戸惑いつつ、首を傾げつつ、カレルに追いつこうと歩みを速めた。

 雨の日に、奇妙な追いかけっこが始まった。