menu

12:意外な一面

 伊瀬はあの重そうなリュックサックを私の部屋に置いてきていた。
 でも帰りが思ったより遅くなってしまって、家に着く頃には午後5時を回っていた。勤めに出ているうちの両親がぼちぼち帰ってくる時間だったから、私はひとりで荷物を取りに戻り、伊瀬とは近くの公園で落ち合ってそれを渡した。
「やっぱり、お会いするわけにはいかないもんな……」
 ベンチに座った伊瀬がそうぼやく。
 外はまだ明るくて、蝉も元気に鳴いていた。家への往復だけで汗をかくくらいには気温も高かったけど、私は熱せられたベンチに腰を下ろした。伊瀬にお金を貸すためだ。
 財布からなけなしの5千円札を出すと、伊瀬はちょっと申し訳なさそうにそれを受け取る。
「ありがとう、悪いな」
 公園にひと気がなくてよかった。悪い取引みたいに見えたに違いない。
「気にしなくていいよ」
「返せたら返す。どう返していいのかわかんねえけど」
 それはそうだ。伊瀬も未来に帰れば手持ちの新札だろうと、キャッシュカードだろうと使えるはずだけど、今はどちらも使えない。そして未来に帰ってしまえば、またこちらに来られるかどうかもわからない。
 だから、私は首をすくめる。
「そういうのも気にしないで。それより野宿はだめだよ、カプセルホテルくらいは泊まってね」
 言い聞かせるように私が言うと、伊瀬はお札を見つめた後で意を決したようだ。
「わかった。キクからの貴重なカンパ、大事に使わないとな」
「風邪なんて引いたらキャンプも行けなくなっちゃうからね」
「気をつけるよ」
 急に言葉少なになった伊瀬は、それから黙り込んでしまう。
 私もなんとなく、そこで何も言えなくなって、しばらく蝉の鳴き声ばかりを聞いていた。

 キャンプの約束はしたけど、私たちは明日も会えるだろうか。
 そもそもがイレギュラーで、ありえないはずの出会いだった。どうして伊瀬が過去へ来たのかはわからないままだし、帰る方法だってわからない。逆に言えば彼がいつ未来へ戻されてしまうかもわからないわけで――。
 こうして今、伊瀬が私の隣にいること自体が奇跡みたいなものだ。
 目を離したらふっといなくなってしまうんじゃないか、とさえ思う。

 見つめる先で、伊瀬はらしくもなく物憂げな横顔をしている。
「明日のキャンプか……」
 そうつぶやいたのは、彼も同じ不安を抱いていたからかもしれない。
 不安、ではないのかな。伊瀬にとっては帰りたい場所のはずだ。このまま帰れてしまったほうがいいに違いない。
「寝て起きたら、未来に戻ってるかもしれないね」
 根拠のない慰めを口にしてみたら、伊瀬は片眉を上げる。
「なんだそれ、夢オチ?」
「だったらいいなって思ったの。伊瀬が早いとこ帰れたらいいのにって」
「そうなのかね……」
 唸った伊瀬が、ちらりと目の端で私を見た。
「でも帰っちゃったらキャンプ行けねえだろ」
 そんなに行きたいのか。そりゃ伊瀬はそういうの大好きだろうけど。
「無事に帰れるのとキャンプとどっちが大事?」
「えー……どっちも」
「冗談でしょ!」
「いや、まあそうだけど。せっかくキクとも再会できたのにって思うだろ」
 彼がそう言ってくれたことは内心、素直にうれしかった。
 考えてみれば伊瀬はこっちに帰ってくるなり、実家にも寄らず他の友達にも会わずに私のところへ来てくれた。その事実はやっぱり、どうしたってうれしくてたまらなかった。
 片想いだったけど、一番に会いに来てくれるくらいには大切に思ってくれてたんだって。
「また会えて、うれしかったよ」
 私はベンチの上で膝を抱えた。
 そうしないとうまく言えそうになかった、恥ずかしくて。
「伊瀬、全然別人になっちゃってたけど――大人になってるんだから当たり前だけど、それでも元気だってわかってよかったって思うよ」
「キク……」
 伊瀬が私を呼んで、すぐに口を閉ざす。
 何か言葉を飲み込んだようにも見えたけど、もしかしたら彼も恥ずかしいことを言いかけたのかもしれない。

 なんか青春っぽい雰囲気だ。
 夏の夕方、ひと気のない公園、むせ返るような緑の匂いと響き渡る蝉の声。
 それでいて静かに暮れていく茜色の空にはどこか非現実的な怖さもあって、この不思議な状況を改めて考え直したくなる。

「明日、もしまた会えたらさ」
 私は、伊瀬に切り出した。
「もう一回考えてみようよ。伊瀬がどうしてここにいるのか、どうやったら帰れるのか。意外なところに解決の糸口があるかもしれないよ」
 根拠はない。一切ない。
 だけど考えないわけにはいかない。明日も伊瀬がこちらに、2003年にいるのだとしたら、もしかしたら本当に理由あってのことかもしれないって思う。彼には何かやりたいこと、あるいはやるべきことがあってタイムトラベルを果たしたのかもって。
 それを伊瀬が思いついて、目的を遂げることができたらその時こそ帰れるはず――ここまで全部、私の当て推量というか願望だけど。
「そうだな」
 伊瀬は、静かにそう言った。
「ありがとな、キク」
 そういうふうにも言ってくれた。
「うん」
 私がうなづくと、彼は長い溜息をつく。
「なんか、思い出すよな」
「何を?」
「高校時代のこと。体育館裏でさ、よく俺の部活終わるの待っててもらっただろ。夏場はよく練習あったし」
 伊瀬がベンチの上で背伸びをした。
 そして大きな手でミルクティー色の髪をかき上げる。大人びた横顔がどこか遠くを見ている。
「ちょうどこんな感じだったよなって、この公園見て思った」

 夏の夕方。
 草木生い茂る体育館裏。
 むせ返るような緑の匂いと響き渡る蝉の声。
 彼の言うとおり、私はよく体育館裏でバスケ部の伊瀬が練習を終えるのを待っていた。待つことになった理由は様々で、一緒に買い物行く約束してたり、次のイベントのミーティングをするためだったり、あるいは他の友達とも誘いあわせて遊びに行く予定があったり――私がそこで待つ理由なんて特になかったんだけど、伊瀬に『待ってて』って言われると断れなかった。
 何度か、バスケ部の他の子に見つかって、伊瀬と付き合ってるのか聞かれた。
 その度に私は笑って否定していた。
 そういう、他愛なくて青春っぽい思い出がある。

 私にとってはせいぜい1年経ったかどうかの思い出だけど、伊瀬にとってはもっと古い記憶のはずだ。
 それを覚えてくれていたことも、私は素直にうれしかった。4年も経ったら高校時代の記憶なんて薄れてしまいそうなのに、伊瀬は大人になってもちゃんと覚えててくれるんだ。意外な一面だった。
 それだけでいいと思うには、もう少しだけ時間が必要そうだけど。

「伊瀬は記憶力がいいんだね、知らなかったな」
 喜ぶ私をよそに、伊瀬は黙って少し笑った。
 いよいよ日が暮れてきたせいか、影が差した笑みは皮肉っぽく映った。
「そうみたいだな。じゃあ俺、そろそろ行くな」
 言うなり彼は立ち上がり、重そうなリュックを背負う。
 そして振り返ると、私に向かって手を振った。
「また明日な、キク」
 迷わずにそう言ってくれた。
 でもその言葉に、同じように答えるべきかは迷った。また明日、会いたい――そんな思いを口にするのはいけないことだ。この伊瀬は私と同い年じゃない、未来にいるはずの伊瀬なんだから。
 押し黙った私を見て、彼は困ったような顔をする。
「あー……確実じゃないけどさ、明日もこっちにいたら、必ず会いに来るよ。お前の家の前まで行くから、一緒にキャンプ行こうぜ」
「うん」
 そうなったほうがいいのか、ならないほうがいいのか。
 本音と建前がぐちゃぐちゃになった心で、私は大きくうなづいた。
「明日、何時に行けばいい?」
「7時に駅集合だから、6時には来て」
「オッケー。じゃあまたな、キク」
 そして伊瀬は私に背を向け、公園を出ていこうとする。
 ゆっくりと離れていく背中を黙って見送っていれば、彼は一度振り返り、また手を振ってくれた。ミルクティー色の髪は夕暮れ時でもよく目立って、ずっと遠くなるまで見送ることができた。

 私の好きな人。
 でも、ここにいるべきではない人。
 明日会えなかったら寂しくて、泣いてしまうかもしれない。そうは思っても追いかけることはできなくて、代わりに深く息を吸い込む。
 むせ返るような緑の匂いに高校時代の記憶がまたよみがえり、私は、もうひとりの伊瀬のことを思い出す。

 やっぱり気になるから、連絡を取ってみよう。
 無事で、元気でいてくれますように。
top