狼とかつての少年(2)

 同窓会の会場は、駅前の居酒屋だった。

 高校生の頃なら、絶対に足を踏み入れられなかった店に、懐かしい顔ぶれが揃う。小規模の集まりとあってか、久しぶりに会ったぎこちなさはすぐに雲散し、あの頃の騒々しさが戻ってきた。
 記憶の中の曖昧な顔が、目の前でお酒を飲む大人びた顔と次々に符合していく。驚くほど大人になってしまった人、面影がまだ残っている人、既に結婚している人も子どものいる人もいて、流れた年月をひしひしと実感させられた。
 ――というと、瑞希さんのいつも言うように他人事めいているのだろう。居合わせた皆が言うには、あの頃と一番変わってしまったのはどうやら私、らしい。
 見違えた、と言われた。
 きれいになった、とも言われた。
 口々に、これまで聞いたこともなかったような誉め言葉を向けられた。学生時代とはえらい違いだ、とか、上手い具合に化けたもんだ、とか、大人っぽくなった、とか。正直なところ、容姿を誉められるのは慣れていない。皆が言及してくるのが気恥ずかしくて、居心地が悪くてしょうがなかった。
 指輪も忘れず、していった。そのせいで女の子たちには気付かれた。尋ねられなければ黙っていようと思っていた楽観的予測は、鋭い追及の数々によってあっさりと覆された。やはりどうしても気恥ずかしかったのでごく最低限の回答に留めたけど、結婚する予定は皆に知られた。
「一海、結婚するの!? 嘘でしょう!」
「まさか本当なの? 相手誰?」
「小松くーん、一海が結婚するんだって!」
 一人が名前を呼んで、その人はふと顔を上げた。私の方を見たので、たちまちパズルのピースが填まるように記憶が甦った。
 あの頃の面影がぴたりと重なり合う。彼はあまり、変わっていないように思えた――実際のところはどうか、自信はない。
 小松くんは表情を和らげ、ごく穏やかな声音で言った。
「へえ、そうなんだ。おめでとう」
 声にも確かに覚えがあった。
 すぐに視線は逸らされて、彼は他の子と話し始めた。私も密かにほっとした。

 彼のことが好きだったのは、とても優しい人だったからだ。
 優しかった。とても。私に対してすら、優しかった。
 あの頃から私は醜くて、女の子扱いされることなんてなくて、だから小松くんが向けてくれる優しさがうれしかった。彼が誰に対しても優しいのだということをわかっていながらも惹かれた。別に叶わなくてもよかった。伝えられなくてもよかった。私の心のうちだけでじっくりと育んでいける想いならよかった。想いだけを失わずにいられたら、それだけでいいと思っていた。
 だけど、十代の頃の私に、今のような慎重さはなかった。
 よくある友人同士の打ち明け話を経て、小松くんのことが好きだと友人に告げた――ほんの弾みだったのだと思う。友人が、小松くんに、私の想いを伝えた。本来なら口にされることもなく、その必要すらなかった想いを、まるごと彼に知られてしまった。教室で。皆のいるところで。
 冷やかしの声と好奇の視線に晒されて、彼は私を拒絶した。優しい人が、慣れない厳しい言葉を吐いた。手酷く振られた。そのつもりもなかったのに、呆気なく打ち砕かれてしまった。
 全ては過去の話。同窓会の席でも、誰も口にしないような、些細でどうでもいい出来事。
 私は忘れることは出来なかったけど、痛みと傷を捨て去ることは出来た。今なら心から笑い飛ばせる。あの頃の私は滑稽なくらい迂闊で、無神経だった。何も知らない頭で、一番好きだった人に嫌な思いをさせてしまうほど愚かだった。今となっては懐かしい痛みと、罪悪感。


 同窓会を終えると、私は皆と別れた。時刻は午後九時を回った頃、明日は日曜日とあってか、皆はこのまま二次会へと雪崩れ込むらしい。手を振りながら去っていく姿が、学生時代と重なって見えた。
 瑞希さんが『迎えに行くから』と言ってくれていたので、駅前通りの外れ辺りまで歩いてから、彼に電話を掛けた。彼は待っていてくれたのか、すぐに電話に出てくれた。
「同窓会、終わりました」
『そうか。楽しかった?』
「ええ、お蔭様で。瑞希さんはどうしてましたか?」
『……一人で寂しく夕飯を食べてた』
 心なしか沈んだ声に聞こえた。職場でも毎日会っているのに、たった一日会えなかったくらいで瑞希さんは寂しがり屋だ。
 でも、本音を言えば私だって会いたかった。だからこそこうして電話を掛けている。
『一刻も早く君に会いたい、すぐに迎えに行くよ』
 彼の言葉がうれしくて、自然と笑みが浮かんだ。
「気を付けてくださいね、瑞希さん」
 そう告げてから電話を切って、そして――。

「――芹生」
 背後で声がした。
 驚いて振り返れば、三メートルほどの距離を置いて、小松くんが立っていた。街角の賑々しい光の下、少し硬い表情をしている。
「小松くん」
 私は彼の名前を呼んで、それから尋ねた。
「皆と一緒に行ったんじゃなかったの?」
「いや、帰る」
 小松くんはかぶりを振る。学生時代よりも短い前髪が、動きに合わせて揺れた。
「芹生も帰るんだろ?」
「うん。迎えが来るから」
「そっか」
 短い答えの後で、会話が途切れた。
 ごみごみした通りを走り抜けていく車と、まだ絶えない人波。それらを眺めやりながら、私はふと言葉を探した。何か話すべきだろうかと思いながらも、アルコールの回った頭では話すことさえ浮かんでこない。
 学生時代でさえ、私たちはそれほど親しかった訳じゃなかった。おまけに例の一件以来、私の方が彼を避けるようにしてきた。近づけば傷つけるとわかっていたから、とにかく距離を置くようにしていた。
 今も距離を置いている。三メートル。沈黙。視線も合わせない。
 通りを行き過ぎる人波が途切れた一瞬、
「皆も言ってたけど」
 そのままの距離で、目を逸らしたまま、小松くんが切り出した。
「芹生、変わったよな」
「……そう?」
 くすぐったい思いが舞い戻ってくる。私は反応に困って、少し笑った。
「変わったよ」
 小松くんは重ねて言って、やはり笑った。
「でも、当たり前だよな。結婚するんだもんな」
 その言葉に、私は違う意味で反応に困った。と言うのも、変わったのだということと結婚するということがまるで結びつかず、どう応じるのが正しいのかわからなかったからだ。結婚しようとしている人は、昔と変わっている、変わっていくものなんだろうか。
 少なくとも、私に限ってはそうかもしれない。瑞希さんと一緒にいられるのも、変わることが出来たからだ。むしろ瑞希さんのお蔭で変われたのだとも言えた。間違いなく。
 私があれこれと思案をめぐらせている間に、小松くんは次の言葉を継いでいた。
「あの時」
 と、言った。
 ぎこちない口ぶりと、笑みの消えた表情で言った。
「……あの時。ごめん」
 思わず、私は視線を落とす。彼の言う『あの時』がいつか、はっきりとわかった。彼が覚えていたことに驚かされた。皆が忘れてしまっているように、彼も忘れているのかと思っていた。
 とっさに答えに窮していれば、尚も続けてきた。
「酷いこと言って悪かった。芹生のこと――狼みたいだとか言って、ごめん」
 パズルのピースは一つ残らず組み合わされて、一枚の絵に変わった。
 あの時、あの日の教室の光景。クラスメイトたちの冷やかしの声、好奇の視線。私の背を押そうとする友人。頭が真っ白になって、正常な判断の出来なかった私。顔を真っ赤にして、一人凍りついたように立ち尽くしていた、小松くん。
 つい昨日のように何もかも鮮明に思い出せた。あの時。私の未熟過ぎた恋は打ち砕かれて、私も彼も傷を負った。幕を引くのにとてもとても時間の掛かった、深い傷だった。
 私へと向けた、彼の言葉も覚えている。『狼みたいな顔してて、まるで取って食われそうだから、嫌いだ。絶対付き合いたくない』――彼は私をそう評した。およそ間違った評価ではないと思ったけど、あの時の私はそんな言葉を聞きたい訳じゃなかった。
 せめて笑い飛ばしてくれたらよかったのに、と思った。叶わなくていいから。忘れてくれてもいいから。
 彼がそうしなかったから、代わりに私がそうした。笑ってやり過ごすことをあの時に覚えた。そしてそういった傷も全て、終わらせた。私が私の手で全て。
 ずっと、小松くんも終わらせたかったのかもしれない。今日まで終わらせられずにいたのかもしれない。あの時の傷と痛み。終わらせようと思っているのかもしれない。ふと、そんな考えが浮かんだ。
「ううん」
 私はかぶりを振った。
「気にしてない。私の方こそごめんね。あの時は、迷惑掛けて」
「芹生が謝ることなんてない」
 小松くんは語気を強めた。
 今は、ぎこちなく笑んでいた。複雑そうな笑みだった。
「俺、本当はずっと謝りたかった。あの時言い過ぎたこと、酷いこと言ったって謝りたかった。せめて卒業までにと思ってたのにチャンスがなくて、そのまま――」
 どこか苦しげに息をつく。
「今日がそのチャンスだと思った。芹生が来るって聞いたから、絶対会って謝ろうと思ってた。でも」
 小松くんは、三メートル向こうで目を伏せた。
「でも、遅過ぎた」
 はしゃぐような声が聞こえてきて、私たちはお互いに黙った。
 ほろ酔い加減の集団が、楽しげに脇を通り過ぎていく。土曜の夜、駅前の空気は明るい。居心地が悪いくらい、人波もネオンサインもヘッドライトも明るかった。夜風はお酒を飲んだ頬にさえ、冷たいくらいだった。
 また、しばらく間があった。次は私の方から、何か言おうと思った。
「遅くないよ。ありがとう」
 せめてそう言いたかった。小松くんに。
 遅くない。大丈夫。今、その気持ちをくれただけでもうれしい。謝りたいと思っててくれたことだけでも、本当にうれしい。
 だけど小松くんは俯いていた。声だけははっきりと聞こえるように、言ってきた。
「遅かったよ。芹生が変わってしまう前に、ちゃんと謝りたかった。嘘ついてごめんって」

 今までで一番長い沈黙が続いた。
 そこへ、滑り込むようにこちらへと、ヘッドライトが照らされた。
 見慣れた車が目の前に停まり、はっとする。瑞希さんだ。
「あ、……私、帰らないと」
 私はそう言って、後に続く言葉を考えた。何を言うのが正しいんだろうと疑問を抱いた。
 確かに変わってしまった。元には戻れない。過去には戻れない。やり直せない。お互いにあの時過っていたとしても、それを謝罪以外で取り戻すことは出来ない。
 それでもいい、と私は思う。私は思っている。戻りたい訳でも、やり直したい訳でもなく、変われたことに幸せを覚えている私は。
 そして小松くんにも、同じように思っていたらいい。謝り合えた、そのことだけでいいと思ってくれたら。きっと、今日で終わらせることが出来たのだろうから。
「いろいろ、ありがとう。私、うれしかった」
 私は告げた。うれしかった。そのことだけは確かに伝えたかった。本当に十分。あの時の言葉を嘘だと言ってくれた、その気持ちだけでよかった。
 すぐに、小松くんが顔を上げた。
 穏やかに笑っていた。
「こちらこそ。……芹生、末永くお幸せに」
 だから私も、もう一度ありがとうを言うことが出来た。それから瑞希さんの車に乗り込んだ。


 意外にも、瑞希さんは何も言わなかった。
 私と小松くんが話していたのを見たはずだから、何か言ってくるんじゃないかと思った。要はいつもの心配、むしろ杞憂。でも、結局何も言われなかった。
 心配性の人はハンドルを握ったまま、優しく笑んでいた。
 もしかすると心配するよりも先に、指輪を見つけてくれたのかもしれない。私が忘れずにしていた、左手の指輪を。
「瑞希さん」
 その横顔に、私は違うことを話し掛ける。
「私、皆に『変わった』って言われました」
「そうなんだろうな」
 と、瑞希さんは真っ直ぐ前を見据えたままで言う。
「僕の知ってる限りでも、君は変わったと思う。もちろん、いい意味で」
「うれしいです」
「でも学生時代のことはわからないからな。君の元同級生たちがちょっと、羨ましい」
 そう言って、彼は嘆息した。
「羨ましい? どうしてですか」
「そりゃあ、君の制服姿やユニフォーム姿を間近で見ていただろうから……というのはもちろん冗談だけど」
 私が視線を向けたので、瑞希さんは慌てて言い添えてきた。その後で、更に付け足す。
「君を学生時代から見ていたら、もっと感慨深いんだろうなと思った。君の変化――というより、成長かな。僕と出会う前の君を、僕の知らない一海を知っている人たちのことは、やっぱりどうしても羨ましい」
 そういうものだろうか。私も、私の知らない瑞希さんのことを知っている人と会ったら、やはり羨ましく思うだろうか。私の知らない姿があるということを、羨ましくも、少し寂しくも思うだろうか。
 でも私は、他の人も知らない瑞希さんのことを、既にたくさん知っている。これからだって知っていくのだろうから、それでいい。
「だけど僕は、一海の未来を手に入れたからな」
 くしくも、瑞希さんもそう言った。
「君のこれからの未来は、僕が一番知るようになる。君がこれからもどんどん変わっていくのを一番間近で見ていられる。久しぶりに会って驚くよりも、日毎変わっていく姿を当たり前のように見ていられるのが、何より幸せな権利だと思う」
 それはまだ想像もつかないけど、本当に幸せなことだと思う。いつか当たり前になっていく、ありふれているけどかけがえのない幸い。結婚とは、家庭を築くというのは、つまりそういうことなのだろう。
「そうですね。私も、そう思います」
 私は深く頷いた。その後でもう一つ、いとしい人に対して言った。
「私が変われたのは瑞希さんのお蔭です。とても感謝しています」
「僕は何もしてないよ」
 ごく軽く、瑞希さんが答えた。でも、そう言われるとつい言い返したくなる。
「でも、瑞希さんの方ですよ。『僕といると新鮮で、いいことずくめだ』って言ってくれたのは」
「……そうだった。そうか、じゃあ、僕のお蔭だ」
 瑞希さんは得意そうに胸を張った。
「感謝は愛情で返してくれればいいよ、一海」
「わかりました。そうします」
「随分あっさり答えたけど、いいのかな。このまま僕の部屋に連れて帰っても」
 ふと気付けば、車は既に彼の部屋の方向へと、夜の道を進んでいる。窓の外の景色と、微かに映り込む自分の顔とを見ながら、私は答えた。
「いいですよ、もちろん」

 ヘッドライトの照らす先には、まだ私の知らない未来がある。
 そこにいる私は、一体何を知っているだろう。――不安はなかった。瑞希さんと一緒なら、何も。

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