狼とかつての少年(1)

 二人で指輪を買いに行くまで、私は自分の指輪のサイズを知らなかった。
 仕事のない土曜日の夜。指輪を買って、夕食の材料を買って、その足で瑞希さんの部屋へと招かれて、食事の支度をしなければならないところを二人揃って放棄して、ソファーに並んで腰掛けている。ただただ同じ時間を共有している。
 今の私は、自分の指輪のサイズを知っている。

「今までは、指輪のサイズなんて知る必要のないものでしたから」
 そう言って笑った私に、
「ほら、僕といると新鮮で、いいことずくめだろ?」
 瑞希さんはどこか得意げに応じる。
「指輪のサイズもわかったし、自分に似合う服もわかってくれるようになった。楽しい休日の過ごし方も知ったし、恋人がわがままを言い出した時のあしらい方も身についた。君は僕といて、随分いろんな『初めてのこと』を味わってる」
「瑞希さんはわがままなんて言いません」
 私としてはそこだけは訂正しておきたいところだった。瑞希さんはわがままを言うような人じゃない。ただほんの少し、ごくたまにだけど、いたずらっ子のような一面があるだけだ。
「でも、新鮮だというのは本当に、そう思います」
 私は言って、瑞希さんが私の手に指輪をする、その瞬間を注視していた。きれいな、すべすべした彼の手が、私の手を取り、軽く指を開かせる。薬指の先端に掛けられた指輪は、きらりと光りながら指の根元へ下りていく。
 飾り気のないシンプルな指輪だった。私の要望で、いつでも、どこへでも着けていけるようなデザインを選んだ。美しく磨き上げられた表面は傷一つなく、蛍光灯の明かりを弾いている。
 指の一番奥で指輪を止めると、彼は優しく私の手の甲に触れてきた。
「よく似合う」
 うれしそうに、彼は笑んだ。
「ありがとうございます、瑞希さん」
 もちろん私もとてもうれしい気持ちになった。人生のうちでこれほどに満ち足りた思いをしたことがあっただろうか。――いや、きっとまだまだこれからだ。今までにそういう思いをして来なかっただけで、これからはもっとたくさん、更に満ち足りた思いを味わっていくことになるのだろう。瑞希さんが私を幸せにしてくれる。私の知らない幸せがこの世界にはたくさんある。それらも全て、瑞希さんとなら手に入れてゆけるはず。
「もっといろんなことをしようか。二人で、初めてのことを」
 瑞希さん自身も、今は大変幸せそうに見えた。彼が私と同じように満ち足りているなら、私はこの上なく光栄に思う。
「次は二人で、婚姻届を書こう。お互い初めてだから新鮮に違いない」
 冗談めかした彼の言葉が何だかくすぐったい。
「その次は君に、ウェディングドレスを着せてあげよう。きっと指輪と同じくらい、よく似合うよ」
「まるでプロポーズの言葉みたいですね」
 私が笑いながら応じれば、彼は意外にも真面目な顔で語を継いだ。
「そう。結婚するまでは毎日がプロポーズだ。僕はしつこいくらい何度でも言うからな」
 彼なら実際やりかねないなと思う。

 大抵の映画やドラマの中ではプロポーズがクライマックスであり、その先に何が待っているかなんて何も知らなかった。
 初めてプロポーズをされて、ようやく知った。プロポーズから結婚までの間にあるもの。例えば指輪を買ったり、結婚後はどこに住むかを考えたり、式を挙げるならどういうものにすべきかを話し合ったり、お互いの親に会ったり、式と新婚旅行の日取りを決めたり――しなければならないことはたくさんあった。次から次へと舞い込んでくる懸案事項の波に、加えてこれまでどおりの仕事、日常、交友関係。何から切り捨てていいのかもわからないまま、現状では押し流される日々が続いている。瑞希さんの手だけは離さぬように、強くしがみついたまま。
 とりあえず、私はしばらく仕事を続けるつもりでいる。瑞希さんとの関係を公表してからというもの職場の雰囲気は落ち着かず、居心地がいいとは言えなかったけど、辞めたくなるほどでは決してなかった。
 住んでいる部屋は籍を入れる頃に引き払い、瑞希さんの部屋で一緒に暮らすことも決めていた。彼は将来的には、もう少し広い部屋に移り住みたいと言っているけど。
「子どもが生まれたら、この部屋だと手狭だ」
 瑞希さんはリビングからキッチンを眺めやりながら、そんなことを言う。私は驚いてしまった。
「そんなに先のことまで考えているんですか」
「先ってほどじゃないだろ? 君こそまるで他人事みたいな言い方だけど」
 軽く笑い飛ばされて、逆に彼の語った仮定が、当たり前にもなり得る未来なのだと気付く。結婚するというのは、つまり家庭を築くこと。そこに子どもの存在があるのもそうおかしなことじゃない。
 もっとも、
「私が子どもを産むなんて、ちっとも想像出来ません」
 私自身には今のところ、現実味のない話だった。家庭を築くことも、家族が増えることも、そもそも結婚生活だってそう。この先どうなっていくのかなんてわからない。待っているのは何もかも知らない、新鮮なことばかり。それでも不安があまりないのは、やはり瑞希さんと一緒だからだ。
「君に似た女の子がいいな」
 一方で瑞希さんは、未来のことを随分としっかり想像しているようだった。子どもが出来るとして、私には似ない方がいいだろうなと思ってしまうけど――それを口にすると瑞希さんが悲しがるから、言葉にはしない。
「まあ、しばらくは二人きりでいいと思ってるけど。新婚生活を出来るだけ長く味わいたいっていうのもあるしな」
 そう言うと彼は、ソファーに並んで腰掛けていた私の肩を抱き寄せる。私は少し笑いながら、彼の動作に従った。
「必ず幸せにするよ、一海」
 私の名を呼んで、瑞希さんは私の左手を取る。贈られたばかりの指輪がそこにはある。
「もう十分幸せです」
 正直に私が答えると、すかさず言い返された。
「じゃあ、もっと幸せにしてあげるよ」
「これ以上なんて、もったいないくらいです」
「もったいなくない。君をこの上なく幸せにしないと僕の気が済まない」
 一体、これで何度目のプロポーズになるのだろう。最早思い返してみても数え切れないほどで、私は幸せだけを噛み締めておくことにした。瑞希さんのその思いだけで本当に、十分だった。
 結婚式と、新婚旅行の日取りはまだ決めていない。当面の間、瑞希さんは有休を取るのも難しいようだから、旅行には行かないかもしれない。それでもいいと私は思っている。

 新鮮といえば、指輪をしていること自体も新鮮だった。
 これまではアクセサリーに興味を持ったこともなかった。きれいなものは好きだけど、自分には似合わないと思っていたから。
 指輪はしてみると、意外にもしっくりと馴染むものだった。金属が冷たいと感じたのはごく付け始めのうちだけで、すぐに気にならなくなった。自分の指を飾るのはまだ慣れないけど、悪くないなとも思う。
「気に入った?」
 瑞希さんの問いに、私は素直に頷いた。
「はい、とても。ありがとうございます、大事にします」
「大事にはしなくていいよ。失くすのは困るけど」
 ひょいと首を竦めた彼が、続けた。
「それよりも、いつでも肌身離さず身に着けていてくれる方がいいな。勤務中でもさ」
「仕事にですか? そんなの、もったいないですよ」
 思わず問い返してしまう。職場に着けていく、というのは考えもしなかった。総務の仕事は多岐にわたり、意外なほど力仕事やら、肉体労働も多いから、指輪に傷がついてしまう可能性もある。せっかくいただいたものなのに、それはちょっと、惜しい。
「職場でも着けててくれたらうれしいな、僕は」
 だけど瑞希さんは念を押すように、言葉を重ねた。
「職場の連中にも君が売約済みだってわかるように。そこは重要だろ? 勘違いした奴に今更出しゃばられると困る」
「勘違い……する人なんて、いないと思いますけど」
 どうも瑞希さんは心配性だ。それも、彼の心配は大抵が杞憂という奴で、他の女の子ならともかく私のような女には全くもって不要なものばかりだから、返答に困る。多分やきもちなのだろうと思うけど、いるかどうかもわからないような相手に嫉妬心を抱くなどというのは無駄だし、そんなことで神経を磨り減らして欲しくはなかった。瑞希さんの心を私が煩わせるのも非常に申し訳ない。
 それに、そんなことを言われてしまったら――言い出しにくくなる。まだ打ち明けていない、例の件。
「一海、君はわかってない」
 ゆっくりとかぶりを振る瑞希さん。
「そういう可能性は芽のうちから徹底して摘んでおくべきものなんだ。現時点で君に言い寄る男がいなくても、将来的には現れるかもしれない。この指輪はその為のお守りだ」
「お守りなんですか」
「そう。だから、肌身離さず持ってて」
 半ばむきになって主張する彼が、何だかおかしかった。時々子どものようなふるまいをする人だ。普段の落ち着きや凛々しさ、穏やかさとあいまって、こんな瞬間が堪らなくいとおしくなる。
「じゃあ、そうします」
 それほど渋らず、あっさり従った私に、彼は満足そうに顎を引いてみせる。
「素直でよろしい」
 彼の主張するようなお守りは不要でも、証としては必要なものかもしれない、とは思った。
 瑞希さんとの関係が公になってから一週間、私たちは好奇の視線と質問の嵐に晒された。違う課の、これまで口も利いたことのなかった人からさえ尋ねられた。――結婚するって本当? あの『総務課の美女』とあなたが結婚するって話、事実なの? そんな質問に、最初のうちこそ礼儀正しくと心がけて答えていたものの、そろそろ疲れてきた頃でもあった。自分で明かしておいて今更だろうけど、これ以上続くと業務にも差し障りそうなので、言葉で説明するよりも手っ取り早い証が欲しかった。
 皆が驚くのも無理はない。そのこともわかっている。何せ瑞希さんは美女で、私は野獣だ。

 一方で、学生時代の友人たちにはどう打ち明けるべきか、迷っていた。籍を入れる以上は黙っている訳にもいかないし、別に言いたくないという訳でもなかったのだけど、どう言えば信じて貰えるだろうかという点が悩みどころだ。
 誰だって信じがたいだろう。私だって、今でもそうなのだから。
「瑞希さん」
 肩を抱き寄せられたまま、私はそっと切り出した。
「実は再来週の土曜日、同窓会があるんです」
「同窓会?」
「はい。高校時代の……と言っても本格的なものではなくて、仲のいい子同士が声を掛け合って集まるような、小さなものですけど」
 飲み会の延長のような同窓会が、再来週の週末に予定されていた。私が目まぐるしく行き過ぎる日々を追い駆けているその合間に、紛れ込むように知らされた。親しかった友人たちが揃って出席するらしく、私にも是非来るようにと催促の電話が何度かあった。私も、出席したい気持ちはあった。
 瑞希さんさえいいと言ってくれたら、だけど。
「顔を出してきてもいいですか?」
 私が問うと、瑞希さんはふっと笑った。
「聞かなくてもいいのに。僕が駄目って言うとでも思った?」
 でもその後で、他に誰もいないのに声を潜めて、こう尋ねてきた。
「ところで……その席は、女の子ばかりの集まり?」
 薄々聞かれるような予感がしていた。私は苦笑いを噛み殺す。
「ええと、一応、男子もいます」
「……そうか」
 若干、複雑そうな顔をされた。
「でも大丈夫です。昔から、仲の良かった男子なんていません」
 いなかった。一人も。
 だから瑞希さんを不安がらせるようなことは何もない。ちっともない。たとえその席に、かつての、打ち砕かれた恋の相手がいたとしても。出席するのだと友人から聞かされていても、私の心は驚くほど冷静だった。
 そして相変わらず、その人の顔を思い出せずにいた。
「ならいいけど」
 瑞希さんは長い溜息をついた。その後でいささか気まずそうに私を見る。
「今、僕のこと、とんでもないやきもち焼きだって思っただろ?」
「いいえ、そこまでは」
「じゃあ心配性だって思った?」
「あ、それは思いました」
 さすがに。私の答えを聞き、彼は眉間に皺を寄せる。
「難しいんだよ。曲がりなりにも年上だからな、度量の大きいところも見せときたいけど、やっぱり僕の与り知らないところでの君のことは気になるし」
 指輪をした左手が彼の手に握られた。
「忘れないようにな。指輪」
 彼はそんな言葉で、私に許しをくれた。その言葉は裏切らないように、と思う。
 でも実のところ気にして貰うほど大したことはない。瑞希さんと出会うまでの私は本当に何もなくて、ただ痛みだけを引き摺っている手負いの獣だったのだから。

 あの頃の私も、猛獣注意と呼ばれていた。目つきが悪くて、狼のようだと、――その人は言った。

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