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『好きだよ』、震えた声で紡いだ(4)

 外はとてもいい天気だった。
 いつの間にか日も長くなっていて、放課後になったばかりのうちはまだ空が青い。三月らしい白っぽい青の中、うっすら月が浮かんでいる。風は強いが止んでいればぽかぽかと暖かく、もうじきコートも要らなくなりそうだ。
 桜の季節もそろそろだろう。
「学校、どうだった?」
 初めて二人で同じ道を帰りながら、春はまずそう尋ねた。学校からは堂崎の家の方が近いが、堂崎は遠回りになっても春を送っていくと言って聞かなかった。まだ明るい町並みの中を、肩とカバンがぶつからないくらいの距離を置き、兄妹は並んで歩いていた。
 堂崎はその類の質問が来ることを予期していたと見えて、喉の奥で短く笑った。それからこちらを見ずに答える。
「どうって、普段通りだろ」
「そうじゃないでしょ。今日紹介した友達の話!」
「ああ。……お前って似たような連中とつるんでるんだな」
「それは、うん、そうかもね」
 確かにいくつか似ている。春は納得したが、望んでいた答えとは違っていたから更に突っ込んでみた。
「可愛い子ばっかりだったよね? えっと、誰が好み?」
「まだ顔も覚えてねえよ」
 堂崎はまた笑う。今度は呆れたように、少し弱く。
「え、でも静乃は中等科も一緒だったって言ってたよ。知らないの?」
「知らねえって。何人生徒いると思ってんだよ、いちいち覚えてられっか」
「そっか……そうだよね」
 肩を竦めた兄に、春はそれほど落胆しなかった。口調が存外にきつくなかったせいだろうか。
 友人たちについても予想していたより優しい評価をくれたようだ。初日としては、感触は悪くない。この分だとクラス替えがあるまでにはもう少し、皆と話せるようになっているかもしれない。
「あ、皆がね、今度カラオケ行こうって」
「カラオケぇ?」
「うん。好き? って言うか行ったことある?」
「そりゃあるよ。けど……あいつらとか? 女ばかりの中に交ざってか?」
 これは予想通りの反応だった。つい吹き出した春を横目で見て、堂崎はむっつりとカバンを抱え直す。
「気にするだろ。つかそれでなくても、あんま知らねえ奴とカラオケはハードル高いって」
「じゃあ何がいいかな。普通にお茶とか?」
「てか集団で出かけるのは決定なのかよ」
「駄目? せっかくだから仲良くして欲しいんだもん」
 温子の恋に協力したい気持ちも、もちろんある。だが一番強いのは、堂崎にもたくさん友達が出来ればいいという希望だ。自分と同じように、堂崎にとっても好きな人たちが大勢いてくれたらいい。
「まあ、考えとくってことでいいか? 今んとこは」
 堂崎はそんな言葉で会話を打ち切ると、しばらく黙って歩いた。

 春の歩幅に合わせてくれているのか、兄の歩くスピードはゆっくりだった。
 日の光が降り注ぐ道をそうしてのんびり進んでいると、気持ちが静かに、穏やかになる。この辺りの住宅街は車通りも人の行き来もごく少なく、道は既に歩き慣れた通学路で、隣には世界で一番好きな人がいて――春は眠気にも似た心地よさを覚えていた。アスファルトがきらきら光って眩しいから、時々目を閉じていたくなる。
 ただ、その感覚を堂崎とは共有していられなかったらしい。
「もう呼んでくれねえのか」
 不意に隣から声がして、春はぼんやりと面を上げた。
 堂崎の複雑そうな横顔が見えた。唇は重たげに動く。
「『お兄ちゃん』って呼ばねえのか。これからは、二人の時でも」
 春が目を瞬かせていれば、深い溜息までつかれた。
「友達になるってとこからしてハードル高いよな。他人じゃねえかよ」
 そうぼやく気持ちはわかる。わかっている、と思う。でも元々違う家庭に育った同士だ、他人であるというのも間違いではないはず。
 かといって二人の繋がりが、この先全く消えてしまうというわけでもない。血の繋がりはちゃんと残る。誰もが知らないままでも、春と堂崎はいつまでも兄妹だ。
「呼んで欲しいなら、二人の時は呼ぶようにするよ」
「呼んで欲しいっつうか……いや、何つうかさ」
 そこは肯定せずにもごもご誤魔化した後、堂崎は恨めしげな顔になった。視線を宙に泳がせながら、実にらしくもなくためらいがちに、
「だって、お前、他人になってもさ……」
「うん」
「結婚、は、してくれねえだろ?」
「えっ?」
 足を止めたのはどちらが先だったかわからない。
 驚きのあまり棒立ちになる春の目の前、堂崎は、言わなきゃよかったと後悔でもしているように頭を掻く。しかし前言を翻す気にはならなかったらしく、すぐ自棄気味に呟いてきた。
「俺はそっちでもいいんだけどな。一緒にいれるなら」
 物言いは冗談なのか本気なのかもわかったものではない。春は困惑した。
「無理だよ。子供作れないじゃない」
 すると堂崎にはもっと困った顔をされた。その上やけにびっくりした様子で、
「お、お前、ガキの作り方とか知ってんのか」
「知ってるよ……。私、保体のテスト満点だし」
「はあ!? 何だよその驚愕の事実……意外すぎんだろ」
 堂崎の中で双子の妹は一体どんな存在だったのか。
 しかし春自身にも『意外』だというのは何となく理解できていて、現に温子が同じようなことを言った時にはその話題に乗れなかった経緯もあった。今度、チャンスがあったら言ってみよう。笑いを取れるかもしれない。
「お前、意外と大人だったんだな」
 しみじみと感嘆する堂崎。もっともらしい顔つきが、春にはちょっとおかしい。
「別にそんなことないけど……でも、昔よりはいろいろ呑み込めるようになったし、受け止められるようにもなった、かな」
 自分にはどうしようもないこと。変えられようもないこと。それらをそのまま受け入れた上で、自分にできることだけをする。
 兄妹ではいられないのなら、それは仕方がない。他人にはなりきれないのもしょうがない。友達でいるのが一番合っているなら、せめてとびきりいい友達にならなくては。
「だから、これは返すね」
 春はカバンを開けると、奥の奥に巾着に入れてしまい込んでいた携帯電話を、取り出した。
 桜の花びら色はまだ褪せることも磨り減ることもなくきれいで、手のひらに載せて差し出すと、日差しを浴びてつややかに光った。
 堂崎が瞬きを止める。気の抜けたような顔つきで春を見下ろす。
「新しいの、買ってもらったの。別にいい奴じゃないし、料金プランも安いので、使いすぎたら駄目って言われてるんだけど、でもそっちの方が今の私には合ってると思って」
 あの空色の携帯電話は、購入時の経緯も含めて普通の高校生に相応しい。
「電話は返すけど、いっぱい連絡するよ、これからも。メールも、電話だってたまにはするから」
 そういう付き合い方が、大切な友達との間には、相応しい。
「今までありがとう、お兄ちゃん」
 そう呼びかけるのが正しいのかは、十六歳の春にはまだわからない。そう呼ばれるのを兄が喜んでいたのは知っている。自分も、そう口にするのが堪らなく嬉しくて幸せだったのは知っている。でもそれは事実であり、事実ではない呼び方だ。本当に大人になった時、自分はその呼び方に対してどんな判断をしているか――少しだけ、想像がつくのだ。
 妹を見下ろす堂崎は、儚げに微笑んでいた。
 普段の仏頂面より何倍もきれいで、意外にも似合う表情だった。春もこの顔は見たことがなかった。知らなかった。
「――こちらこそ」
 そして大人びた口調で応じると、春の手から桜色の携帯電話をさらっていった。軽くなった手のひらが日差しで暖かくなる。
 堂崎は携帯電話を制服の胸ポケットに、大事そうにしまい、じきに息をついた。
 改まって語を継ぐ。
「春。お前が好きだ」
 初めて、言われた言葉だった。
 春はとっさに反応できず、呆けていた。まさかそれを、兄が言ってくれるとは思わなかったから。言ってくれたとしても、その言葉の意味を自分が、受け止めきれるとは思えなかったから。
「もう言わねえから。……今は言わせてくれ」
 そして堂崎は端正に目を伏せる。
「俺はずっと、お前が足りねえんだって思ってたけど……本当はお前が、単に欲しかっただけだった」
 過去には、双子は、隔てるものが辺りを包む水しかないくらいすぐ近くにいたはずだ。しかしその頃でさえ、二人は既に別々の個体だった。一つではなかった。
 足りなくはなかった。二人は、お互いに、初めからずっと。
「認めたくなかったけど。俺たちは一緒にいるのが当たり前だって言い聞かせてきたけど、これでやっと受け止められそうだ」
 堂崎が素直に打ち明けてくれたから、春もなるべく真摯に向き合おうと試みた。にわかに胸がぎゅっと締めつけられて、苦しくなって、息もできないほどだった。悲しくもないのに急に泣きたくなったけど、上手く泣けないだろうこともわかっていた。それらの情動が何かわからずに戸惑いもした。それでもどうにか言葉を見つけて、心の奥から掘り出してみた。
「私、いつまでも覚えてるよ。一番最初に好きになった人がお兄ちゃんだったこと。これから先に誰かを好きになっても、どれだけ大勢の人を好きになっても、一番初めはお兄ちゃんだったこと、絶対に忘れないよ」
 その感情を、心の動きを何と呼ぶのか、十六歳の春はまだ知らない。
 でも大人になったら、全てわかっていそうな気がする。
「……好きだよ。お兄ちゃん」
 震える声で紡いだ。
 好きだった。過去には兄だけを欲しいと思ったことが確かにあった。でもそれは兄も、自分自身も幸せになれないあり方だと気づいたから、すんなりと別の形に落ち着いてしまった。
 好きな人の幸せを何より願えるくらいには、春は大人で、子供だった。
「ありがとな」
 兄は一度深く頷き、言った。
「明日からはずっと、友達らしく呼んでくれ」
「いいの?」
「いいよ。ちょっとずつ慣れるようにするから」
 二人はお互いに弱く笑って、それからどちらからともなく、まだ明るい道を歩き出した。

 かつて双子の妹は、兄よりもほんの数時間早く、光溢れる世界を知った。
 十六歳の春は世界の眩しさと美しさを知っている。好きな人のいる幸せを知っている。どうしても叶わないことや抗えないことがあるとも知っているけれど、それを受け止める為のやり方を身に着け始めている。
 これから先、何度新しい季節が来ても、知っている大切なことを忘れはしないだろう。
 初恋は忘れられない。誰もがそれに結びつく思い出ごと、覚えているものだからだ。
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