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願い事はひとつだけ(7)

 堂崎がぴくりとも動かないので、春はずっと不安定な姿勢でいなければならなかった。
 顔を上げない兄の首にずっとしがみついていた。相手のつむじがぎりぎり見えない体勢だった、支えてもらっているのは自分の方なのに、まるで胸を貸しているような気分にもなって、少しくすぐったい。
 思いつく限り、言いたいことは全部言えた。
 堂崎への想いは告げたことが全てではないが、伝えるべき言葉は撃ち尽くした。
 あとは、――他の人たちに。堂崎以外の人にも、言いたいことを伝えてしまわなくてはならない。さしあたってはまず両親からだ。家に帰ったらすぐに言おうと決めた。
 外はもう暗く、夜の学校特有の不気味な気配が図書室にも忍び寄っていた。月光か街灯の明かりかわからない光が差し込んでいて、夕暮れ時とは違う影を床に描く。海底のような色合いが子供じみた不安をにわかに駆り立てた。そろそろ帰った方がいいかもしれない、帰宅の遅いことを咎められたら『言いたいこと』が切り出しにくくなる。
 春は兄のちくちくする髪を撫でた。するとようやくその頭が気だるげに、左右に動いて、
「何だよ……慰めてるつもりじゃねえだろうな」
「単に撫でただけだよ。触り心地いいから」
「うわ。思わせぶりな女だ」
 舌打ち混じりに言われると、さもありなんという気分になる。春は撫でるのを止めて一度、大きく息をついた。
 振るにしてもあまり手酷くしないでくれ、と吉川には言われていた。彼の想像が事実とかけ離れていることはともかくとして、その約束くらいは守っておきたい。
「ごめんね」
 優しくするつもりで春は謝ったが、かえって振ったみたいな言い回しになったと後で気づいた。
 堂崎は春の胸に頭を預けたままで応じる。
「お前、気変わってねえの?」
「変わってない、ごめん」
「そっか。時間置いて、変わってりゃいいのにって思った」
 ずっと黙っていたのはそういう狙いがあったから、なのだろうか。ともかく堂崎は肩を落とす。それからもう一度、確かめるように聞いてきた。
「もう少し待ったら変わってたりしねえ?」
「……だって、もう夜だよ。そろそろ帰らないと」
 謝罪よりも薄情な主張を聞いてか、堂崎がのろのろと頭を持ち上げた。双子なのに似ていない顔はこの数分間ですっかりくたびれてしまったようだ。
「帰んのかよ」
「帰るよ。明日も学校あるし」
「兄妹なのに、違う家に帰んのかよ」
 堂崎のその言い分はもっともだ。春が出した結論はどうであれ、二人の生い立ちはあまり普通ではない事情に歪められてしまっている。同じ家に帰ることができたら、それが初めから当たり前だったなら、もっと幸せだったのかもしれない。堂崎を悲しませることだってなかった。
 でも、同じ家に住んでいたとしても、普通の家に生まれていても、いつまでも一緒にはいられなかった。
「きょうだいは皆、いつか別々に暮らし始めるものなんじゃないかな。私たちはそれがちょっと、早かっただけ」
 春は精一杯笑って、首を竦める。
「皆、大人になったら自立するっていうし。進学とかでそれより早く家を出ちゃう人だっているだろうし。あと、私がお嫁に行くかもしれないし」
「行く気なのか」
 最後の言葉に、兄は敏感に反応した。どことなく非難がましい口ぶりだったので、春もつい拗ねたくなる。
「相手がいたらの話、だよ。だっていつまでもお父さんお母さんの厄介に、ってわけにもいかないもん」
「そういう理由か」
「今のところはね。できるかどうかだってわからないから」
 言っている当の本人ですらまだぼやけたビジョンしか持っていないのだから、どんな結婚をするかなんてわかったものではない。もしかしたら、おとぎ話みたいな王子様が颯爽と現れるかもしれないし、生まれの複雑さとは正反対の、ごくごく平凡で人並みな結婚をするかもしれない。あるいは一生独身で、女友達とぐだぐだ語り合いながら過ごすのも悪くはなさそうだ。
 あの日、堂崎の母が言っていた。離れて初めて、本当のきょうだいになれたようだと。――春と堂崎もそうなるだろうか。こうして離れて暮らしていることが、長く一緒にはいられなかったことが、いつか何かをいい方向へと転がしてくれるだろうか。
「しなきゃいいだろ、結婚なんて。別にきょうだいだけでずっと暮らしてたっていいだろ。文句なんか誰にも言わせねえし」
 力のない反論を口にした堂崎は、その後で思い出したように付け足す。
「そりゃ俺だって、ずっとあの家にいられるわけじゃねえけどさ。進学だってするし」 
「あ。卒業したらどうするか、もう決めてるの?」
「一応、大学行く。決めたっつうか半ば決まってるらしいし……お前は?」
 機械的な返答を聞いて、春は内心ほんの少し焦った。何も考えていないし、考えつかない。
「まだ決めてないの。残り二年しかないけど、どうしようかなって」
 この高校に入学した当初は、全てを兄の為に捧げるつもりでいた。その為の高校進学だった。自分自身の進路については考える余裕もなかった。しかし今のままでは、本当に『ずっと両親の厄介に』ということにもなりかねない。落ち着いたら真面目に考え始めよう。
「そうだよ、あと二年だぞ。同じ学校にいられんのも」
 堂崎はまだ諦めきれない表情だ。話を戻してきた。
「その間くらい一緒にいろよ、俺と」
「いるって言ったよ、さっき」
 また笑って、春は答える。兄を見下ろしているのが、真顔の兄にじっと見上げられているのが不思議な感じだった。
「他の奴も一緒だって言うんだろ」
「うん」
 頷くと堂崎にはしかめっつらをされたから、その頬に片手を添えてみた。
「でも忘れないで。私には好きな人が何人かいるけど、中でも一番好きなのはお兄ちゃんだよ」
 妹の手に触れられても、堂崎は顔をしかめたままだ。感情を抑えた声が問い返す。
「それも、今のところは、か?」
「え? ……どうなのかな」
 兄より好きな人が現れるとは、今の春には想像もつかない。事実としての血の繋がりだけではなく、互いの境遇への共感や相手に対する確かな、いささか視野狭窄気味の信頼、自分が必要とされていることへの喜び、逆に相手に対する甘えや縋りたい気持ち、それに出会った時から当たり前のように湧き起こったいとおしさ。全てが兄に対してのみ存在している。そういった感情を他の人間に対して抱けるとは思えないし、それらの超える感情が自分の中に存在しているとも思わない。
 ただ、人を好きになるという志向は意外と曖昧で、流動的で、単純だ。春自身が経験してきたように、誰かに好意を抱く瞬間はいつでも、どこにでも起こりうる。全てにおいて可能性はゼロではなさそうだ。
 ふと思索に耽った春を、堂崎は再び強く抱き寄せた。お蔭で春の上体はがくんと揺れ、兄の頭を包むように折れたが、向こうに頓着するそぶりはなく、また胸元に顔を埋めてくる。
 制服越しに言葉が震えて、届いた。
「春。俺も嘘ついた」
 言われた方はきょとんとするより他ない。
「嘘? どんな?」
「……言わねえ。でも、嘘ついてた」
 それでますます春は怪訝に思い、だが堂崎は本当に言う気も、詳しく説明する気もないらしく、やがて抱いていた腕の力を抜いて春を、膝から下ろした。ゆっくりと、優しく床に着地させた。
 堂崎はその後も俯いていた。項垂れて、肩も落として、いつになくか細い声を立てた。
「お前、遅くなったら怒られんだろ」
「あ、うん、そうかも。そろそろ――」
 気遣うつもりで春が言いかければ、
「いいよ、帰って」
 場違いに、軽く笑われた。
 急に解放された春はこの期に及んで少しばかり心細くなった。それで尋ねた。
「お兄ちゃんは? 帰らないの?」
「俺はまだ、いい。つか、こういう時ってのはさ……」
 次の笑いは自嘲めいていた。
「何か、そっとしといてくれるもんだろ? 普通は」
 本当に振られた人みたいなことを言う。返事に困る。
「えっと……いつまでそっとしとけばいい?」
「聞くなよ。俺だって知らねえよ」
「じゃあ、明日は学校来る?」
「休みてえな、できれば」
「私は来て欲しいな。もうすぐ春休みだし、そしたらクラスも変わっちゃうし」
 クラスメイトでいられる期間も残り僅かだ。春の言葉を聞いた堂崎は憂鬱そうに呻いてみせた。
「本気で言ってたのかあれ。本当に、あいつらの前で俺と口利く気か」
「うん。駄目?」
「いいことねえぞ。お前まで変な目で見られるぞ」
「そんなことないよ」
 堂崎と話したがっている子はちゃんといる。知っていた。
 だからなるべく早く、教室で話せたらいいなと思う。
「明日会えたら会おうね、お兄ちゃん」
 別れ際にかけた言葉に直接の返事はなかったが、ぽつりと聞こえた。
「兄妹なのにな、俺たち」
 その呟きにはどうとも答えられなかったから、春は帰ることにした。兄が住んでいるのとは違う自宅へ。

 図書室を出ると、少し離れた廊下で複数の人影が動いた。
 ぶうんと音を立てる蛍光灯の下、吉川たちがこちらを見ている。カバンを提げた春が一人で歩いてくるのを、何とも言えない面持ちで凝視している。宣言どおり、ずっと廊下にいたのだろうか。
 すれ違う時に春は会釈をして、吉川にだけは一声かけた。
「あの、堂崎のこと……お願い」
 吉川には絶望的な目で睨まれたが、仕方がない。
 約束はできるかぎり守ったと思いたいのだが、どうだろうか。
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