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願い事はひとつだけ(6)

 パイプ椅子が床を擦る嫌な音は、隔離された図書室を震わせた。
 その椅子から引き剥がされるようにして、春は堂崎の胸に抱き込まれている。膝から下が冷たい床に落ちても気にすることなく、手を離されたらずるずると滑り落ちそうな不安定な姿勢すらどうでもよく、触れている全ての部分で兄の体温を感じ取る。
 いつも、同じだった。
 抱き締められると懐かしい感じがした。
 匂いのせいか、温かさのせいか、気持ちごと寄りかかっている安心感のせいか、はっきりとしない。それら全てが当てはまるのかもしれないし、本当はどれでもなく、春がまだ自覚していない感情のせいなのかもしれない。あるかどうかもわからない、あったとしても思い出せるはずもない昔の出来事、兄妹が今よりももっと近くにいた頃の記憶。
 記憶はなくても考えることはできる。物理的には衣服を隔てて、精神的には生い立ちの様々な違いを隔てて、兄妹は今ここにいる。

「俺たちだけなら、上手くいくはずだ」
 春の短い髪を掻き分けるようにして、堂崎の唇が耳に近づく。
 触れるか触れないかの距離から声がする。
「あの家に生まれたきょうだいたちが上手くいかなかったのは、そいつらだけじゃなかったからだ。他人は憎しみや妬みやその他の醜い感情を持ち込んでくる。きょうだいだから、って理由だけで相手を無条件に信じてられる気持ち、それも赤の他人にはてんで通用しない。信じられる人間なんてそもそも、外にはいないんだからな」
 吐息の熱さは対照的な、低い温度の声がする。
「そういう連中と渡り合う為には力が必要になる。毒をもって毒を制するように、赤の他人の力に頼らざるを得なくなる。そうしてきょうだいたちもお互いだけってわけにはいかなくなる。一番大切な、血を分けた相手を必要としなくなる。それどころか知らなくてもよかった醜い感情を知ったせいで、きょうだいさえ信用しなくなる――全部、他の人間がいるせいだ」
 声のする側とは逆の耳元で、制服のボタンがかちりと、乾いた音を立てた。
 押しつけられて頬が痛い。肩や背骨も軋むようだ。
「でも、きょうだいだけならそうはならない。俺たちだけなら、信じ合っていられる」
 離すまいとしてか、堂崎は腕を緩めない。春が何の抵抗もしていないのに、尚も容赦なく強く抱いてくる。
「そうだろ? 他に誰もいなかったら、俺はお前だけしか、お前は俺だけしか見ない。二人だけなら、お互いしか見ていなかったら、相手を疑う必要も欺く必要も何もない。もちろん憎む必要だってな」
 堂崎の腕に閉じ込められ、春はいまだじっとしていた。それでも心の中では思っている――違う。そんなことない。
 兄しか見ていなかった頃でさえ、春は兄に嘘をついていた。それは他の人間がそうさせた、不必要で不誠実なやり方だったのかもしれない。だが春自身のしたことにも違いない。
 きょうだいだって嘘はつくし、相手の心を疑うことも、妬むことだってある。春はもう知っている。
「二人でいよう、春。俺たちだけで」
 誘惑するような懇願と、そこかしこに触れる心地よい体温。離したくないのは春も同じだ。兄のことが好きだった。この先どんな未来がやってこようと、二人がどんな関係に陥ろうと、兄を疎む機会だけは永遠に訪れないだろうと思う。
 同じだった。二人で、いたかった。
 だから春は顔を上げた。ありったけの力を込めてそれでももがくような動きで起きた。反応した堂崎が僅かに腕を緩め、途端にずるりと落ちかけた身体は自分で、膝をついて支えた。椅子に座る兄を見上げて、懺悔の姿勢で告げる。
「でも私、お兄ちゃんに嘘をついてる」
「知ってる」
 眉一つ動かさずに堂崎が答えたので、春は息を呑んだ。だが次の言葉で、
「ただの偶然じゃ会えるはずもねえって、知ってた。普通なら会わせないようにするだろ、桂木が」
 すぐに得心もした。
 堂崎の為でなければ計られることもない再会だった。それによって春の両親は少なからず動揺し、また打ちのめされたようでもあった。両親の為には、堂崎家の頼みなど引き受けるべきではなかったのだろう。かと言ってあの時、引き受けないという選択肢が春にあったかどうかは最早わからないが。
「怒らないの?」
 聞き返すと堂崎はやはり表情も変えずに、
「お前を怒る必要はねえだろ。むしろこれがいい例だ、他の誰かがいるから、お前は嘘をつかされた。初めから俺たち二人だったら、嘘なんてつく理由もなかった」
 一途だ。兄に対して、春はそう感じた。
 妹に対する堂崎の態度はいつでもそうだった。一途でひたむきで、だが盲目的だった。本当に春しか視界にないようで、春にはそれがとても不安だった。かつての自分も同じだったからだ。
 堂崎しか見ていなかった頃、春はどんな想いを兄に対して抱いていたか。
 それを伝えなければならない。
「でも私、望んで嘘をついてたよ。お兄ちゃんと一緒にいたかったから、この学校にだって来た」
「だから、なら怒らねえって」
「でもね。それでわかったの。私はお兄ちゃんと一緒にいたいけど……二人だけではいられないんだって」
 その事実は春の方が先に知ったはずだ。
「二人でいようと思ってもできないよ。だって、いるんだもん。この世界には私たち以外の、数え切れないくらいたくさんの人が」
 堂崎がそこで眉を顰める。何か言いたげにしたが、春は構わず言葉を続けた。
「いるの。それはもう、私たちにはどうにもできない。その人たちを世界からいないことにはできないし、そういう人たちと関わらず生きていくことだって無理。その人たちの何人かに嫌われても、優しくされなくても、もっと大勢の人たちに知らない顔をされて無視し続けられてたって、その人たちをいないことには絶対、できない。そういう人たちがいる世界に、私たちだっているんだもん」
 あの教室は言わば世界の縮図だ。堂崎の存在を腫れ物のように扱って、怯えるクラスメイトがいる。一方で堂崎に思いを寄せる生徒もいる。いない方がいいと思っているらしい者も、そもそも無関心な者も無関心を装っている者も混在している。クラスに属している以上、彼らの存在をいないことにはできない。そこが息苦しかろうといづらかろうと、優しくなかろうと、与えられた居場所には違いない。
「私はそういう世界に、お兄ちゃんと一緒にいたい」
 隔離はもう望まない。
 春の願いもまた、たった一つだ。
「お兄ちゃんのこと好きだけど、世界で一番好きだけど、お兄ちゃんだけを見てたら駄目になるってわかったんだ。今は好きって気持ちだけでも、いつか違う気持ちになっちゃうかもしれない。お兄ちゃんがちょっと傍から離れただけで、すごく寂しいって思うかもしれない。お兄ちゃんが他の人と話してるのが嫌になっちゃうかもしれない」
「じゃあ、お前以外の奴と話さないようにする」
 堂崎は言うが、それは無理な話だ。春も笑って首を横に振る。
「いいの。今はもう違うんだ、お兄ちゃんほどじゃないけど好きな人たち、出来たから」
 何度となく見た、堂崎に刃を向ける悪夢を思い出す。
 あの時、春は兄の心が離れていくのを悲観していた。引きとめようともがいていた。兄しかいなかったからだ。兄のことしか見ていなかったからだ。堂崎に必要とされなくなったら、自分にはこの学校に通う意味もなくなるだろうし、それどころか生きていく価値もないと思っていた。
「今は……そんなに多くないけど、好きな人たちがいるから。お兄ちゃんと、お兄ちゃんのことを好きな人たちと、クラスの友達と、育ててくれたお父さん、お母さんと。世界中の人口と比べたら本当に少ないくらいだけど、繋がっていたいって思える人がいるから、私はこの世界が好き……ここで、生きていけるって思う」
 立ち膝で訴える妹を、堂崎は諌める目つきで制した。
「わかってない。お前が好きだっていう連中は、いつかお前を裏切るかもしれない」
 それから春の肩に手を置いて、軽く揺さぶりながら、
「俺だけだ、絶対裏切らねえって言えるのは。何があってもお前を離さないって誓えるのは! 他の連中なんていなくてもいい、俺がいるだろ! お前には!」
 そう言い切れる堂崎が、春には少し羨ましい。裏切らないと自分も言えたらいいのだろうが、あいにくとうに嘘をついてしまっている。
 好きな人に全く、一度も嘘をつかずにいることなんて、きっとすごく難しい。
「双子、だから?」
 春が尋ねると、堂崎は一秒間だけ言葉に詰まった。
 しかし直に答えた。
「当たり前だろ。ちゃんと血の繋がってるきょうだいだから、ちょっとやそっとじゃ揺るがない」
 多分それは事実だ。春と堂崎の持つ絆は容易く壊れるような硬度ではなく、それと比べたら他の誰との関わりも、儚く脆く映ることだろう。赤の他人と築く確かな絆なんて一朝一夕で仕上がるものでもない。
「そうかもしれない」
 春は、だからこそ思う。
「だけどそれでもいい。お兄ちゃんの言うとおりだとしても構わない。私の気持ちだっていつかは変わってしまうかもしれないけど、私は今の『好き』を大切にしたい。好きな人たちの為に何かしたいって思うし、その人たちと繋がっていたいし、これから先、私やお兄ちゃんのことを好きになってくれる人が、私たちが好きになれる人たちが、少しでも増えたらいいなって思う」
 世界という単語が大げさなくらい、春が持つ繋がりはごく狭い。これからどこまで広がっていくのか、いつまで続いていけるのかもわからない。この先、本当に誰かから裏切りにあった時、自分が本当に『構わない』と思えるかどうかも少し、自信がない。
 それでもいい。春は自信を持てないままでも思う。
「むしろ、だからこそ一緒にいようよ。裏切られるかもしれないし、好きな人がもっと出来るかもしれない。でもどっちでも、二人でなら乗り越えられる気がしない? 人目を避けて隠れている時しかいられないなんて嫌だよ。皆から切り離されて、二人だけでいるなんて寂しいよ」
「寂しくねえよ、俺はお前がいれば」
 堂崎の反論は心細げだった。春の心境の変化をまざまざと見せつけられて、気力を失ってしまったようだ。
「一緒にいたい。あの教室で」
 そんな兄の手を、肩に乗せられていた大きな手を、春はそっと撫でた。
「同じクラスにいるのに、本当はすごくすごく好きなのに、知らないふりなんてもうしたくない。お兄ちゃんが本当はすごく優しくて何でも頑張れる人だってこと、クラスの皆に教えたい」
 そうしたら友人たちはどんな反応をするだろう――温子なら一も二もなく惚れ直したと言ってくれそうな気がする。静乃はやっぱりとばかり、うれしそうにしてくれるはずだ。美和の反応はなかなか想像つかないが、まずは面食らうのではないだろうか。疑わしげな顔つきで、どういうこと、と春に尋ねてくる顔が目に浮かぶようだ。本当に見てみたい。
「兄妹でいられなくてもいいから……」
 もしかするとそれは、端から望んでいなかったのかもしれない。
「仲のいいクラスメイトになりたい。教室で、普通に話したりするような」

 窓の外ではいつのまにか、とっぷり日が暮れていた。
 廊下の照明だけが頼りとなった図書室の中、相手の顔がかろうじてわかる距離で双子は見つめ合っていた。春の目に堂崎は硬い面持ちにも、泣き出しそうなほど悲痛にも映った。青みがかった薄闇が兄の整った顔立ちを際立たせて、きれいだと妹にさえ思わせた。
 堂崎は黙っていた。春の願いには答えず、しかし一蹴することもなく口を閉ざしていた。春も答えを促しはせず、じっと待つことにする。こちらはもう後には引けない。一歩たちとも譲れはしない。
 しばらく何とも言えない沈黙が続いた。
 その後、今度は兄の手が、春の肩から滑り落ちた。
 春が離すまいとするよりも早くその二の腕を掴んで、軽く持ち上げるようにした。暗がりに慣れ始めた視界が浮く。意外にあっさりと抱き上げられたので春は慌てる。
「え? 何……」
 堂崎は無言で春を自身の膝の上に乗せる。そこで場違いに行儀よく正座する妹を見上げて、深く、溜息をつく。
「私、重い?」
「馬鹿。違うよ」
 答えた拍子に堂崎の頭が傾いて、ぼすん、と春の胸元で留まった。椅子に座った膝の上という不安定な高さでぐらついていた春は、とりあえず身体を支えようと兄の頭を抱える。整髪料の要らない短い髪が手のひらに柔らかく刺さる。
「お前さ」
「何?」
「こうされてるの、嫌じゃねえ?」
「ううん、別に」
 ぐらぐらするのと落っこちそうなのは苦手だったが、春はそう答えた。
 胸の辺りで堂崎が、もう一度嘆息したようだ。
「だったら……なのに、何でだよ……」
 呟いた兄は、その後でまたしばらく、黙った。
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