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二年目(3)

 下心なんてない。かけらほども抱いたことはなかった。
 それは清水に異性としての魅力がないからではなくて、むしろ彼女はそんじょそこらの女の子よりもずっと可愛かった。美人とは言えないのかもしれないが、それを補って余りある愛嬌と朗らかさがあった。彼女の笑顔に心惹かれたことが全くないと言えば嘘になる。
 ただ、彼女に対して感じる魅力はあくまで表面的なものだけだ。それこそ友情を育むのに差し支えない程度。清水を可愛いと思うのもいい子だと思うのも、友人としての立ち位置を弁えてこそだ。恋愛感情や、性的な興味を持つ機会は一度としてなかった。そもそもそんな気持ちを抱けるほど、俺は彼女のことを知らない。車や車の免許を持っていることや、一友人の誕生日を祝ってくれるほど気のいい子だってことも今日知ったばかりだ。
 藤田さんの言葉は否定したかった。そういう目で見られることに、訳もない嫌悪感が込み上げてくる。
 だが強く言い返せないのも事実だった。藤田さんと言い争いたくないからではなく、清水が――俺の部屋に来ると決めた時の、奇妙な感覚を思い出したからだ。
 あの時、意識するだろうと思った。彼女と俺の部屋で二人きりになったら、いつも通りの態度ではいられないと察していた。決して下心と呼べるほどのものではないはずだった。それでも、清水を異性として見ているのは事実だ。藤田さんの発言は、俺のうろたえる内心を確実に抉ってきた。

「私、播上くんと清水さんみたいな人が一番むかつくんだよね」
 藤田さんは、他人の一番言われたくないことを会話の内から探り出す術に長けている。
 そして見つけ出した弱点に容赦のない攻撃を浴びせてくる。そういう人だった。
「きれいなこと言っちゃって、汚い本音は上手く塗り固めてる感じがね、見ててすっごく気持ち悪い。不自然過ぎるよ」
 いつの間にか、ペンを持つ手が止まっていた。
「播上くんはどうなの。清水さんのこと、密かに狙ってるんじゃないの? そうじゃなきゃ友達なんてやってないよね。あの子があんなに可愛くなかったら、そもそも一緒にお弁当だって食べてないでしょ?」
 清水のことは可愛いと思っている。でもそれは友情の後についてきた感覚のはずだ。顔を見て仲良くなろうと思ったわけでもない。彼女が可愛くなくたって、今の関係は築けていたに違いなかった。
「どうせ男なんてそんなもんなんだから」
 俺が黙り込んでいると、藤田さんが勝ち誇ったように言った。
「思考回路が全部本能で出来てるみたいな生き物だよね、男って。まあ全部が全部とは言わないけど、もてない人ほどがっついてるって言うか。そういう男に純粋な友情とか結べるはずがないじゃない。ねえ、播上くん?」
 嫌味な上にサディスティックな糾弾だった。ひたすらむかむかした。
 藤田さんこそ、男の何をわかっているって言うんだろう。どうしてそこまで言われなきゃならないんだ。いくら出来の悪い後輩が気に入らないからって。
 そりゃあ、純粋な友情ではないのかもしれない。渋澤とは気軽に食事へ行けても、清水とは出来なかった。今日までは誘う気さえまるでなかった。それは俺が無意識のうちに、男に対する友情と女の子に対する友情を選り分けていたからだ。清水には、渋澤と接するような態度ではいられなかった。
 だからって、俺にだって分別はある。男が皆、本能だけで動く生き物だと思ったら大間違いだ。
 声を荒げないように苦心しながら、言い返した。
「そんなことはしません」
 藤田さんの表情は動かない。笑んだまま、わかったような顔つきで俺を見ている。
「誰が何と言おうと、俺にとっての清水は友達なんです。端から疑ってかかられちゃ反論のしようもないですけど」
 つい、口が滑って言い訳がましいことを付け足した。
 そのせいかどうか、藤田さんは片眉を上げた。
「ふうん、ま、いいけど。播上くんがそう言い張りたいんなら」
 あからさまに納得していないトーンの後、笑いを含んだ声で続ける。
「でも清水さんはそんなふうに思ってないかもね」
「どういう意味ですか」
 放っておけばいいのに、つい、尋ねてしまった。
「案外、清水さんの方が播上くんをキープしてるのかもしれないじゃない? 他に本命がいるけど、そっちが駄目だった時の滑り止めみたいな感じで」
 世の中の何もかもを見てきたような口ぶりをする。俺より五つも年上の人だ、いろいろ知っているのも確かなんだろう。でも。
 根拠なんてないが、俺は思う。
 清水はそんな子じゃない。
「友情なんて薄っぺらなもの、本気で信じてるのは播上くんだけかもしれないよ?」
 藤田さんが偉そうに続ける。
「もっと現実的に考えてたりしてね、清水さんの方は。他に相手がいなかったら付き合ってあげてもいいかな、みたいに。そうだったらどうするの? 友達辞める? 何だかんだ言って据え膳は拒まないんでしょ、どうせ」
 自分のことを言われるのは我慢出来た。どうせ大層な人間じゃない、悪く言うなら言えばいいと構えてもいられた。ただどうしても。
 その口で、清水について言及されるのが嫌だった。
 あんたに、彼女の何がわかる。そう思った。
 気がついたら、発注書を放り出していた。
 代わりに、藤田さんの手首を掴んでいた。
「痛っ!」
 不快そうな悲鳴が上がり、強く睨みつけられる。
「何すんの!」
「訂正してください」
 俺じゃない他の誰かが声を出しているみたいに、やけに平坦な口調になった。
「清水はそんな子じゃない」
 俺は藤田さんを睨み返して告げた。倉庫内の澱んだ空気を挟み、お互いに鋭い視線を交わしている。こうして見ると彼女は嫌に小柄で、この上なく苛立った様子の顔が思いのほか低いところから俺を見上げていた。
「離してよ」
 藤田さんがそう主張する。ぐいと腕を動かし、俺の手を振り解こうとする。肩がスチール棚にぶつかって、がつんと音がした。
 俺は力ずくでその動きを押さえ込むと、もう一度繰り返した。
「清水のこと、訂正してください。そしたら離します」
「……何、むきになってんの」
 手首を掴まれても尚、藤田さんは挑発的な言動を止めない。
「普段へらへらしてるくせに、あの子のことだけは本気になるんだ?」
 笑みの消えた顔が尋ねてきて、俺はすぐさま言い返した。
「俺のことはどう言われたっていいんです。でも清水のことは言われたくない」
「どうして?」
「友達だからです」
 あり得ないと思うなら思えばいい。でも事実だ。俺と清水の間にあるものは友情だけだ。事実ではないことをあれこれ言われたら腹が立つ。
 俺は清水を信じている。彼女のことはまだよく知らないが、信じるだけの理由はある。
 あんなに一生懸命な彼女が、悪い奴のはずがない。
「もう二度と、清水のことを悪く言わないでください」
 俺は続ける。藤田さんの険しい顔を睨みながら。
「清水はそんな子じゃない。俺はそう思ってます」
 手首を握る力を込めると、険しかった顔が歪んだ。張り詰めた空気を割って、苦しげな息をつく。
「わかった。わかったから、手ぇ離しなさいよ」
「訂正してもらえますか」
「わかったって言ってるでしょ!」
 自棄気味の叫びが聞こえ、俺はようやく手を解放する。赤くなった手首をさすりつつ、藤田さんは眉を吊り上げた。
「暴力に訴える男なんて最低」
「他人の友達を悪く言う女も最低です」
 どっちもどっちだとわかっていても、言い返さずにはいられなかった。
「播上くんにとっては、清水さんは天使なんでしょ。信じたいなら勝手に信じてれば?」
「そうします」
 言われなくたってそのつもりだ。俺は汗ばんだ手のひらを拭う。呼吸が苦しくなるほどむかむかしていた。
「後で思い知る羽目になるだろうけどね」
 藤田さんは憤然と倉庫の出口へ歩いていく。一度も振り返らず、ただ捨て台詞を残していった。
「そんだけむきになっといて、友情も何もないっての」
 友達の為にむきになって、何が悪い。
 燃え上がった怒りは、一人きりになると急速に萎んだ。床に打ち捨てた発注書を拾い上げ、思わず溜息をつく。
 間違ったことは言ってない。そう思う。
 でも、相手が悪かったとも思う。
 同じ総務の先輩に、日頃から鬱憤が堪っていたとは言え、よくもあんな行動に出られたものだ。それも勤務中に。それも自分のことじゃなく、清水のことで。
「……後でいろいろ言われるんだろうな」
 思わず声に出してぼやくと、胃がきりきりと痛くなってきた。

 不気味だった。
 あれから藤田さんは、一言として俺に話し掛けてこなかった。総務課のオフィスで顔を合わせても完全無視の姿勢を取られた。視線すら合わせられなかった。
 機嫌は悪いらしい。総務の他の人間に対しても、決して柔らかくはない態度を取っていた。でもいつものように誰かをなじることもなく、むしろ口数が少なかった。お蔭でそれ以降の総務課は至って平和だった。
 てっきり、何かにかこつけて糾弾されると思っていた。小さなミスをあげつらってああだこうだと言われるんじゃないかと。拍子抜けした気分で仕事をこなす。
 何も起こらなくても、胃は相変わらずきりきりしていた。小心者め。

 そしてその日の帰り、俺は渋澤の車に乗せられていた。
 帰り際に呼び止められ、送るから付き合えと有無を言わさず連れ込まれていた。どんな用件かはわかっていたので、憂鬱だった。
 運転席の渋澤は、車が発進した直後に尋ねてきた。
「お前、何やらかした」
 苦々しげでも、どことなくおかしそうでもある問いかけ方だった。
 後部座席に乗せられた俺は、鞄に肘をついて答える。
「何って言われてもな……」
「お前と一緒に倉庫に行って、戻ってきてからずっとああだ。心当たりがあるだろ?」
 大いにある。あり過ぎる。
 ただ、そこに至るまでの過程が理不尽だった。
「なぜかよくわからないけど、とにかく恐ろしい勢いで絡まれた」
「いくら藤田さんだって、理由もなく絡んでくるわけがないだろ」
 渋澤はバックミラー越しに話しかけてくる。奴は藤田さんの本性をまだ知らないのかもしれない。
「理由は、なくもない」
 重い気分を引きずりつつ、打ち明ける。
「心当たりと言うほどではないんだけどな。諍いはあったから」
「あの人を怒らせるなよ。後が怖いって十分なくらいわかってるのに」
 フル稼働するエアコンの音に紛れて、大きな溜息が聞こえる。
「今日だって酷かったじゃないか。総務課がまるで葬儀会場のような空気だった」
「俺にとっては処刑場みたいだったけどな」
「……播上。俺はお前を心配してるんだ」
 苦笑いの渋澤に、俺はどう応じていいのかわからない。心配してもらえるのはありがたいと思う。しかし倉庫でのやり取りを洗いざらい話すのも気が引けた。藤田さんの言う通り、あの時の俺はむきになっていたのだと思う。
 車が通りを走り抜けていく。夏場は日が暮れるのが遅く、ようやく街並みが夕陽の色に染まり始めている。帰宅ラッシュが続いていて、歩道を行き交う人の数は多かった。
 清水はバス通だったっけ、とふと思う。
 それから、今日交わしたばかりの、何だかよれよれにされてしまった約束も思い出す。
「渋澤」
 俺は窓の外を眺めながら、聞いてみた。
「お前、女の子の友達が『家に来たい』って言い出したら、どうする?」
「は? 何だそれ」
 引っ繰り返った声の後、渋澤は喉を鳴らして笑い出した。
「そんな、何があったかすごくわかり易い質問をするなよ」
 ぎくりとした。語るに落ちたとはこのことだろうか。
「わかるのか?」
「清水さんとそういう約束をして、その件が藤田さんの耳に入ったんだろ?」
 完璧な正答ではないものの、いいところを突いている。
「ちょっと違う」
 渋澤に話せるぎりぎりのラインを模索しながら、語を継いでみる。
「清水と約束をしたのは当たりだ。でも、藤田さんはその話を知らない」
「へえ」
「ただ倉庫にいる時、会話の流れで清水のことを言われた。言い返したら藤田さんが切れた。それでこっちも切れた」
 思い起こしてみても、散々な言われようだった。
 俺が悪く言われるのも、渋澤と比較されるのも、そう珍しいことではない。でも清水のことまで悪しざまに言われたのは、よくよく考えれば初めてかもしれない。どうしてあの人は俺と清水の関係を否定したがったんだろう。
「それであの態度か? しかし流れがよくわからないな」
 渋澤も首を捻っている。
「清水さんのことを言われたって、どんなふうに?」
 そして聞き返されると、俺は答えに窮した。
 言われたままのことを口にする気にはなれない。清水の耳に入れたくないのはもちろんだが、声に出すのさえ憚られる内容だった。
「いや、その。男女間の友情はあり得ないとか、そういうことを」
 曖昧にぼかせば、渋澤がまた笑った。
「お前もよくわからないことで絡まれてるな」
「本当だよ。渋澤はいいよな、藤田さんに好かれてて」
 別に羨ましくはないが、徹底的に嫌われるよりはまだ好かれてる方がいいだろうなと思う。飲み会での渋澤は藤田さんに必ず隣の席をキープされている。そういう時の彼女は、美人の顔立ちに相応しい女らしさを見せる。
「好かれてればいいってものでもないよ」
 ぼそりと、運転席から声がする。俺もようやく少し笑えた。
「嫌われてるよりはいいだろ?」
「どうかな。……多分、だけど」
 渋澤の声がそこで冷めたように低くなる。
「あの人は、他人のものが欲しくなるタイプなんだと思う」
「藤田さんか?」
「ああ。いるだろ、他人が食べてるものをねだってくる奴。食べたいなら注文すればいいのに、後になって誰かが食べてるのを見ると、途端に横取りしたくなる人間って」
 確かにいる。でも藤田さんがそうかと言われると、いまいちぴんと来なかった。
 他人のものが欲しくなる。だとすると、渋澤のことを気に入っているのもそういうことなんだろうか。
「播上も油断しない方がいい」
 考え込む俺をよそに、渋澤が続ける。
「あの人はお前らの関係を羨んでるんだと思うから」
「よくわからないな」
「僕だって羨ましいさ。フリーになった直後だと、播上と清水さんが眩しく見えるよ」
 うっかり聞き逃しかけた。
 渋澤、彼女がいたんだったよな。別れたのか。普段からそういう話はしないから知らなかった。励ましの言葉でも掛けてやるべきだろうか、しかし下手に気を遣うとかえって失礼かもしれない。俺は反応に迷った。
「別に気を遣わなくてもいい。そういうつもりで言ったんじゃないから」
 迷いを悟られたようで、渋澤には笑われた。
「ただ、人から羨まれる関係だってことは自覚しといた方がいい。たとえお前らが付き合ってなくて、本当にただの友達だとしても、妬む人間はいる」
「そんなものなのか」
 結局は、上手く受け流すより方法がないんだろうか。
「さっきの質問に答えるなら、僕は、女友達を部屋には呼ばないな」
 ハンドルを握る渋澤が、不意に話題を戻した。
「誤解させたら悪いからさ」
 そういう言い方をされたので、俺は苦笑したくなる。
「それはもてる奴の台詞だろ。俺には関係ない」
「いや、違う。誤解するのは周りの人間だ」
 思いのほか強い口調で渋澤が言った。バックミラーにも鋭い眼差しが映っている。
「播上も清水さんのことを思うなら、付き合い方は考えた方がいいよ。お前らの仲に水を差したいとも思わないけど、男女間の友情は難しい」
 渋澤に言われると気分がやけに落ち込んだ。駄目押しで否定された思いだった。
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