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二年目(2)

 そして数日後の日曜、二十四歳の誕生日。
 届いたカボチャはダンボールいっぱいの量で、あまり広くない部屋はたちまち野菜の匂いで埋め尽くされてしまった。

「それでここのところ、お弁当のおかずがカボチャなの?」
 いつもと同じ昼休み、清水がおかしそうに尋ねてくる。以前とは趣の違う弁当を見せたら、一層笑われてしまった。
「先週からずっとだよね。プレゼントにしても、いっぱいだと大変そうだね、播上」
「本当にな」
 頷き返しつつも、こっちはあまり笑う気になれない。何せ一週間以上もカボチャのおかずが続いている。そのうちに手も顔も黄色くなってしまうんじゃないかと思う。
 母さんは『ちゃんと保存すれば長持ちする』と言っていたものの、安アパートの部屋にカボチャを保存しておくスペースがどれだけあると思っているのか。それでなくとも夏の盛りで日中の室温が恐ろしいことになっているのに。
 ここ数日は仕事を終えて部屋のドアを開ける度、むっとする野菜の匂いに出迎えられていた。
「それにしても、お誕生日プレゼントがカボチャなんて面白いね。ちゃんとろうそく立てないと、二十四本」
 清水はまだ笑っている。どんなささいなことでも面白がれて、羨ましいなと思う。
 今日は渋澤も、藤田さんも、他の連中もいなかった。清水と二人、一つのテーブルを二人だけで、並んで使用している。お蔭でその笑顔がよく目についた。
「ユニークという意味なら面白いけどな。贈られた方はたまったもんじゃない」
 正直に答えた俺に、ようやく笑うのを止めた彼女が応じた。
「あ、もしかしてカボチャが好きじゃないとか?」
「いや。嫌いではないけどいい加減、飽きてきた」
「へえ……。播上でも自分の料理に飽きるってことあるんだね」
「カボチャのレパートリーはそんなに多くないからな。ご飯のおかずにするには甘みの強い野菜だし、毎日続くとさすがに」
 西洋カボチャは嫌いではないが、毎日食べたいというほどでもなかった。カボチャだのサツマイモだのはご飯の友には向かないと俺は思う。
 とは言え両親の厚意もむげには出来ない。あっちは俺が大喜びすると思って送ってくれたのだし、食費が浮くのも事実だった。せめて部屋がもう少し広かったら、こんなにハイペースで片づける必要もないのに。
 うちの両親は俺がどんな部屋に住んでいるか知らない。大学に入る時に借りたアパートは俺が一人で選んだもので、両親は保証人になってくれたにもかかわらずどんな部屋かを見に来ることはなかった。店が忙しいから離れられないというのが最もたる理由のようだが、俺の方も親に来てもらいたいとは思っていなかった。今では家賃も自分で払うようになっていたから、ますます実家との距離が開いてしまったように感じる。
「なら、お菓子を作ればいいんじゃない?」
 実に軽い口調で清水は言う。
「お菓子?」
「そう。パンプキンパイとか、プリンとか……播上はお菓子作りはしないの?」
「しないな。そっちは専門外だ」
 正直に答えれば、ほんの少しだけ清水が得意そうにしてみせた。
「私、そこそこいけるよ。何なら教えてあげようか?」
 俺に教えられるだけ『そこそこいける』のか。食べてみたい。
「播上は甘いもの嫌いじゃないよね?」
「嫌いじゃない。でも、お菓子なんて作ったって食べる暇もない」
 仕事の後で部屋に帰って、夕飯を食べて、それからすることと言えば翌日の弁当の準備と風呂くらいだ。寝る直前にものを食べるのも気が引ける。そういえば、お菓子なんてしばらく食べていなかった。
「夕ご飯の後に食べればいいと思うけど」
 あっけらかんとした清水の答え。
「デザートとして。甘いものは別腹でしょ?」
「いや、俺、別腹ないから」
「ないの? じゃあデザートどうしてるの?」
「清水こそ、いつもデザートなんて食べてるのか?」
 彼女に驚かれて、逆にこっちが驚きたくなる。去年の夏はダイエットがどうこうと言っていた気がするんだが、記憶違いだったかな。
「いつもじゃないけど、たまに作るよ。疲れてない時はね」
 胸を張って答えた清水がやけに眩しかった。夏バテも、ダイエットも無縁そうなその笑顔。女の子ってこういうところがすごいな。
「だったら貰ってくれないか、カボチャ」
 俺はそう持ちかけた。
「えっ、いいの?」
「いいのも何も。そうしてくれると助かる」
「貰う貰う! 遠慮しないで貰っちゃうよ!」
 清水はうきうきと答えてくれて、安心した。
「じゃあ今度持ってくる。あ、会社に持ってきて大丈夫か?」
「いいけど、重くない? 播上って電車通勤じゃなかった?」
「どうってことない」
 あの狭い部屋を占領しているカボチャを減らせるなら、そんな苦労はどうということもない。五個だろうが六個だろうが抱えて電車に乗ってみせよう。
「もしあれなら、車出してもいいけど」
 清水のその言葉で、俺は彼女が車持ちであることを初めて知った。免許を持っていたことすら今の今まで知らなかった。
「車運転するのか、清水」
「するよ。上手いよ、私」
 彼女の得意そうな顔を見ると、その可愛さに笑いたくなってしまう。
「なら、マイカー通勤なのか」
「あ、それはしてない。駐車場探すの面倒だったから、いつもはバス通」
「そうなのか……それこそ、持って帰るのが大変そうだな」
 だったら車で取りに来てもらうのもありだな。よくよく考えればいくら清水が健啖家でも、五個六個のカボチャを抱えて帰宅する根性はないだろう。家まで来てもらうのは悪いから、最寄り駅で落ち合って渡すとか、そういう方法でどうだろうか。
 俺がそこまで考えた時だった。
「だったら播上の家に行くから、ついでに播上のお誕生日祝いをするっていうのはどう?」
 不意に、清水がそう言った。
 あまりの気安さに、うっかり聞き逃すところだった。
「え?」
 誕生日祝い?
 清水は嬉々として言葉を継いでくる。
「お台所貸してくれたら何か作るよ。それこそパンプキンパイでもカボチャプリンでも。オーブンあるよね?」
「い、いや、あるにはあるけど」
「播上さえよければそうしようよ。いつもお世話になってるし、たまにはお礼がしたいもん。そういう機会がないかなあって思ってたとこなんだ」
 何のためらいもなく彼女は言う。
 しかしそれはつまり、俺の部屋を彼女が訪れるという意味合いに他ならず。
「本当言うと、一度は遊びに行きたいと思ってたんだよね、播上の部屋に」
 こちらの動揺をよそに、清水は平然としている。
「どんなキッチン使ってるか見てみたかったんだ。播上ならいつもきれいにしてるよね」
「ど、どうだろうな」
「遊びに行ってもいい?」
 笑顔で問われて、とっさに拒絶出来なかった。
 そもそも清水は平気なのか。色気も何もない間柄とは言え、同い年の男の部屋に上がり込んで、料理を作るっていうのは。
 それは客観的に見れば非常に危なっかしい行動だと思う。いや、こっちはやましいことなんて考えてないし極めて安全だ。安全ではあるが。
 清水の感覚からすると、そのくらいは普通のことなんだろうか。異性の友人だろうとも、家に上がり込むくらいはどうってことないのか。何の意識もなく料理やらお菓子やらを作ってやれるくらい、気さくな付き合い方が出来るのか。
 それとも単に、俺が慣れてないだけなのか。女友達との付き合い方に。
 俺がまごついているのを見て取ってか、清水も小首を傾げた。
「あ、無理にとは言わないよ? 迷惑じゃないならの話だから」
「迷惑じゃない、でも」
 彼女が来て困ることはない。こっちはガールフレンドなんていないし、そのくせ台所はいつもきれいにしてあるし、来られてまずいことはない。せいぜい、あの狭い部屋で清水と二人きりになって、いつも通りに会話が出来るかどうか。悩みどころはそのくらいだ。
 それだって俺の考え過ぎなのかもしれない。こうして並んで弁当を食べる間柄を続けてきて、皆に冷やかされたり噂を立てられても意識することのなかった清水を、部屋に呼んだくらいで特別視するようになるとも思えない。
 多分、ない。
「その……清水は、抵抗ないのか。俺の部屋に来るの」
 一応、尋ねてみた。
「うん、全然」
 人懐っこい笑顔で言われると、やはり考え過ぎなのかと思えてしまう。
 それなら俺も、全然どうってことないって思う方がいいのか。
「じゃあ、わかった。是非来てくれ」
 心なしか硬くなる口調で告げると、清水は笑んだまま頷いた。
「うん」
 その平然とした様子が羨ましい。俺はまだ、平然とはしていられない。誘った後も、これでよかったんだろうかという思いが燻っていた。

 夏場の備品倉庫は微妙な匂いがする。
 学校の体育館の倉庫から汗の臭いを差し引いたような、それでも決して快くはない空気が漂っている。おまけにいつでも埃っぽい。
 総務課にいるとどうしても倉庫に立ち入る用事が多い。備品の管理、発注も俺達の業務だった。夏は暑いし冬場は冷えるし、空気は澱んで埃っぽい。真夏の昼下がりともなれば、程好く熱せられた空気がちょうど充満している頃で、非常に居心地が悪い。そんな倉庫での仕事が好きになれるはずもなかった。
 ましてあのうるさい先輩が一緒にいるなら。
「――播上くんさあ」
 来た、と直感した。
 藤田さんが溜息をつきながら口を開いた後は、必ずお叱りの言葉が続く。倉庫に並ぶスチール棚越しに、苛立っているらしい声が聞こえてきた。
「もうちょっと迅速に、てきぱき出来ないもんかな? 棚一つの発注に何分掛けてんの? こっちはもうすぐ終わるんだけど?」
「すみません」
 叱られた時は真っ先に謝ることにしている。下手に言い訳をしようものなら倍になって返ってくるとわかっているからだ。
「仕事覚えてくれたのはいいんだけどね」
 彼女がぶつぶつ言っている間も、俺は備品の在庫チェックを続ける。ここで手を止めようものならたちまち噛みつかれてしまう。お説教の受け方も十分に覚えていた。
「料理もそんなにのんびりやってるわけじゃないんでしょ? 仕事にもそのくらいのやる気持って欲しいんだけど」
 藤田さんの物言いはきつい。俺が言われたくないと思っていることを、容赦なく、次々と繰り出してくる。
「渋澤くんはもっと仕事速いよ。いつもいつも比較して、悪いとは思ってるけど」
 同期と比べられて堪えないはずがない。渋澤が有能なのも、翻って俺が不出来なのもちゃんとわかっているつもりではいる。それでも奴の名前を出されると、へらへらしているのが難しくなる。
 俺だって、やる気がないわけではないんだけどな。
「ねえ播上くん、聞いてる?」
 棚の向こうから問いかけがあり、俺は一呼吸置いてから返事をした。
「聞いてます」
 答えた途端、口の中まで埃っぽく感じた。
 それからコピー用紙の冊数を数える。前回の発注からいくつ減っているかを確かめ、発注書に注文の数量を記入する。
「なら返事くらいしてよね」
 七年目の先輩は攻撃の手を緩めない。更に続けてきた。
「私が二年目の頃はもう少してきぱきやってたんだけどなあ。上の人から文句言われんのもやだったし」
 藤田さんの若かりし頃はなかなか想像出来なかった。ルーキーの頃からばりばりに個性と刺々しさを発揮していたのではないかとすら考えてしまう。
 俺が社会人七年目を迎える頃、果たして藤田さんのようなふてぶてしさ――もとい、打たれ強さが身につけているだろうか。何とも想像しにくかった。
「播上くんって、私に怒られるのが好きだったりする?」
 とんでもない質問が投げつけられて、俺は即座に否定する。
「違います」
「だって、わざとやってんのかって思うくらい怒られてばっかりじゃない?」
 藤田さんの顔が棚の陰からひょいと覗いて、
「もしかして、マゾなの?」
 再びとんでもないことを聞かれた。
 俺もさすがに仕事の手を止め、面を上げた。やたら挑戦的な目つきでいる先輩は、視線が合うと赤い唇で笑んだ。
「違う?」
「違いますよ」
 言うに事欠いて何を聞くのか。俺は内心で首を捻りつつ、また発注書へと目を戻す。
 藤田さんの楽しそうな声が追い駆けてくる。
「そうかなあ。そういう趣味だから、私に怒られたがってるのかと思って。そうでもなければ入社してからずっと言われ続けてるんだもん、普通は学習するでしょ?」
 学習はしている。十分にしている。
 この人には何を言っても無駄だ。言い返すよりも、奥歯を噛み締めておく方がよほどいい。俺にとって、あまり言われたくないような事柄を選び出すことには長けている相手だ。勝ち目なんてあるはずもない。
「渋澤くんみたいに出来のいい子と一緒に仕事して、恥ずかしくないのがすごいよね。でもそれも、そういう趣味があるって言うなら納得かな」
 散々な言われようだった。
 俺は大きく息をつき、とりあえずの苛立ちを追い払う。絶対に受け流してやる。もう一年以上もこんなやり取りを続けてきているんだから、どうってことない。
「ま、私は播上くんを相手にする気はないけどね。なじってくれって言われたってお断り」
 藤田さんも息をついた。
 倉庫の空気は澱んでいる。俺と彼女と、二人しかいないのに、二酸化炭素と埃と何か重苦しいものとですっかり汚染されてしまったようだ。
 俺はいつになく雑な字で発注書を記入した。書き殴った字は後で読み返せるかどうか怪しいものだった。それでもとにかく、藤田さんと二人きりという状況を一刻も早く脱したかった。
「それに播上くんには、あの子がいるもんね」
 とどめのつもり、だったんだろうか。
「秘書課の清水さん。彼女にはいつもなじってもらってるの?」
 清水の名前を、藤田さんが口にした。
「……いつも言ってますけど」
 わかりやすく、ペンを持つ指先が震えた。
 女の性格が悪いのは厄介だ。殴ることも怒鳴ることも許されないんだから。
「清水はそういう相手じゃないんです。付き合ってるわけじゃありませんから」
 清水のことだけはきっちりと、誤解のないように言ってやらなければと思った。
 相手は藤田さんだ。すぐに納得してくれるはずもないとわかってはいるが。
「そうは見えないけどね」
 案の定、即刻切り捨てられた。
「別に隠さなくてもいいじゃない。意地になって否定するの、かえってみっともないよ」
「隠してもいません。そういう誤解は彼女に迷惑が掛かりますから、やめてください」
「じゃあ何? 本当に本物の友情だって言いたいわけ?」
「そうですよ」
 メシ友。俺と清水の関係は、たった一つの単語だけで片がつく。疑われる理由はなかったし、疑われたくもなかった。
 なのにしょっちゅう疑われる。疑念を持つ人達の理由はさまざまのようだが、藤田さんの場合はこうだ。
「だって播上くん、男女間の友情なんて存在しないよ?」
 笑いながら言われた。
 馬鹿にしたふうでもあったし、哀れまれているようでもある口調だった。
「そんなことないでしょう。ありますよ、普通に」
「ないない。下心なしに女の子と友情結べる男なんているわけないじゃない。播上くんだって口ではきれいごと言ってたって、あわよくばなんて考えてんでしょ?」
 否定したくなる言葉を叩きつけられ、俺は息を呑む。
 そして、昼休みに清水と交わした約束が、ふと脳裏をかすめた。
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