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七月三十日の過ごし方(1)

 福益商店前のベンチに、今日は二人で並んで座った。
 アイスは以前食べたのと同じ棒アイスで、大地も私も一緒のバニラ味を選んだ。
「萩子、悪いけど開けて」
「いいよ」
 三角巾で左腕を吊っている大地の代わりに、私がアイスの包み紙を剥がしてあげる。その間、私のアイスは大地が右手で持ってくれていた。
「片手使えないっていろいろ不便そうだね」
「地味にな」
 アイスの皮を剥く私の手元をじっと見つめながら、大地はちょっと笑う。
「利き手無事ならどうにかなるかって思ってたけど、頭洗うのも結構大変だし、靴紐結べないのもストレス溜まる」
「そっか……早く治るといいね」
 重傷じゃないってことは百も承知だけど、大地が怪我をするなんて今までになかったことだから、私は未だに心配でしょうがない。早く治って欲しいから、今日は無理をしないで過ごせたらいいなと思う。と言うか、私が無理なんて絶対させない。
「もし靴紐解けたら、私が結んであげるよ」
 だからそう告げたら、なぜか大地は目を丸くした。それから名案でも思いついたような顔つきになって言う。
「お前がそんなに優しくしてくれんなら、ずっと怪我したままでもいいな」
「えっ、何それ。まるで普段の私が優しくないみたいな言い方」
「そこまでは言ってねえけど、俺にはもっと甘くしてくれてもいい」
「そうかな……。とりあえず、できたよ。はいどうぞ」
 銀色の包装を全部剥いてから手渡そうとしたら、大地はいきなり大きく口を開けて、私の手から咥えて持っていこうとした。
「わっ」
 手首ごと丸かじりされそうな気がして、思わず手を引っ込める。
 空振りしたせいでベンチの上、軽くつんのめった大地は、急いで上体を起こしてから私を睨んだ。
「フェイントはなしだろ。ほら見ろ、優しくねえ」
「ち、違うよ。だって、びっくりしたんだもん」
「何に」
「何にって……。私の、手まで食べられちゃうんじゃないかと思った」
 そりゃあ今の大地は人間と同じ見た目だから、雷獣の時みたいな牙の生え揃った大きい口をしてるわけじゃない。でも今の勢いは、まるで私までまるごと食べにきたようだった。ちょっとびっくりした。
 冷静になって考えれば、いくら大きく口を開けたからって食べられちゃうはずがないんだけど。
「手で受け取ってよ」
 自分でも恥ずかしいくらい驚きすぎた自覚はあったし、私は取り繕うみたいにそう言った。
 言ったら言ったで、大地は呆れ顔になる。
「右手はお前のアイス預かってるだろ。手塞がってんだし、しょうがねえじゃん」
 そうだった。包み紙を開ける間、持っててもらってたんだ。そんなことまで忘れてた。
 私は気まずく思いながらも、先に大地の手から自分のアイスを受け取る。
 そして改めて包みを剥がしたアイスを手渡そうとしたら、大地は代わりに私の手首を掴んだ。そのままぐっと引き寄せるようにして口元へ持っていく。力比べじゃ到底敵うはずもなく、私が握っていたアイスは大地の口に、本当に丸かじりみたいな勢いで収まった。
 さすがに手まではかじられなかったけど、それでも、
「だ……だから、手で受け取ってって言ったのに!」
 私は自分でも不思議なくらいひやっとした。真夏らしくもなく。
 大地はそんな私を怪訝そうに横目で見る。一度、アイスを口から引き抜いてから言った。
「何でそんなにびっくりしてんだよ」
「……だって。何か、……何となく」
「訳わかんね。つか、お前も早く食えよ。溶けかかってんぞ」
 にやにやしつつも急かされた。からかわれてるんだろうか、それとも気のせいかな。私は不満を抱えつつも自分のアイスの包みを解き始める。

 不満って言うか。
 どうしてこんなことで、こんなにどきどきするんだろう、って言うか。
 大地はいつもと変わらないのにな。怪我はしてるけど、頭洗うの大変って言う割にはワックス使って、髪型ちゃんと決めてきてるところもそうだし、普通のTシャツを着てるだけでも格好いいところもいつもと同じだ。
 むしろいつもと違う格好をしてるのは私の方こそ、なはずなのに。何だか今日は、ちょっと距離が近づいただけで変に意識してしまう。さっき、ここに来るまで手を繋いでたせいかな……。結局誰にも見咎められることはなくて、ほっとしたような、意識しすぎなのかなって自分でそわそわするような。

 なぜかさっきよりももたつきつつ、私はどうにか包装紙を全部剥がした。
 真夏の気温の中で柔らかくなりかかってるアイスを早速口に運ぶと、ひんやり甘いバニラの味がいっぱいに広がる。暑い最中に食べるアイスは本当に美味しくて、夏っていいなあ、って思う。
 大地もアイスを食べながら、私をずっと見ている。どことなく面白げに。
「……何で、そんなにこっち見てるの」
 視線が気になる。面白がられてるっぽいのも気になる。私が尋ねたら、大地はわずかに目を逸らしながら答えた。
「いつもだろ。いつも見てるよ」
「嘘。今日はものすっごく横から視線感じるし、それに何か言いたそうだし」
「別に嘘でもねえけどな」
 そう言ってから、大地の目線がこちらに戻る。口元にほんのり笑みを浮かべて、やっぱり楽しそうだった。
「むしろそんだけめかし込んできて、俺にスルーされてる方が癪だろ。違うか?」
「ち……違わない、かもだけど」
 それは実際、誉めてもらいたくてあれこれ、おしゃれしてきたのはあるけど。
 でもいざ本当に誉めてもらったり、じっと見つめられたりすると、ものすごく恥ずかしくなるから奇妙だ。こんなんだったら私も普段着で来た方が、まだ平然としてられたんじゃないだろうか。
 午前中の商店街は各店舗の開店時間がまちまちなせいで、シャッターと営業中の店構えとが混在している。そこの角にある理髪店はもう回転灯がくるくるしていたけど、向かいの履物屋さんはようやく店の前の掃除を始めたところだったし、雷光軒はまだのれんも外に出ていない。道のあちらこちらに打ち水の跡がまだ色濃く残っていて、雨上がりみたいな、水分を含んだアスファルトの匂いが辺りに立ち込めている。
 こんな時間から駄菓子屋さんの前で、こんなにめかし込んでアイス食べてたら、ちょっと浮くかな。今更ながら心配になってきた。
「そこまで誉めてくれなくてもいいよ。ほどほどで、お願いします」
 私が頼んだからだろうか、ひねくれものの性分もある大地は、わざわざ身を乗り出すようにして私の手元を見た。
 ふと、冷やかすような笑い方をする。
「さっきから思ってたんだけど、爪、きれいだな」
 不意打ちの誉め言葉だった。
 今日の為に磨いて、ぴかぴかにしてきたのは事実だった。事実だけど、こんな細かいとこまで見られるとは思わなかった。気づかれないかもと踏んでただけに、いきなり言われると何だかすごく、駄目だ。馬鹿みたいに慌ててしまう。
「い、いいってば急に誉めなくても!」
 とっさに指先を握り込んだら、すかさず突っ込まれる。
「あっ、隠すなよ。もったいねえ」
「だって恥ずかしいから! あ、あと一応、これも校則違反だし」
「そのくらい皆やってるだろ。もっと盛ってる女子とかざらにいるしな」
「そうだけど……」
 もごもご言う私は、それでも内心ではこう考える。――大地も、きれいにネイルしてる爪の方が好きなのかな。クラスの女子の中にはスカルプとかカルジェルとかで爪を可愛くしている子も何人かいる。そういうものには全く無縁だった私でも、どういうものなのかなって調べてみるくらいには興味があった。爪の先まで常に手入れしてきれいにしていたら、もっと大地にも誉めてもらえたのかな。
 ……いや、それを知ったところで私にそこまで踏み出す勇気なんてない。爪を磨いただけでもやけに背伸びしたような気分になったくらいだから、そういうのはもうちょっと先、大人になってからにしよう。十七歳になったばかりの今は、これだけ誉めてもらえたら十分だ。
 鏡面みたいにつるつるした、自分でも慣れないなめらかな爪を見下ろしていたら、その手を急に現れた大地の右手が真横から攫っていった。
「わっ、こ、今度は何?」
「別に」
 もうアイスは食べ終えて、外れ棒をくずかごに放った大地が、私のよりもずっと大きな手で私の手を取る。指先を鑑定するみたいにしげしげと見入っている。私は手首を晒すようにしてされるがままになっていたけど、そうやって見られるのも恥ずかしいし、くすぐったくて、どうしていいのかわからない。
「手、意外とちっちゃいよな」
 大地はそんな感想を口にした。
 手のサイズでも私が大地に敵うはずなかった。まだ十六歳のはずの大地の手は、それでも指は長いし関節もしっかりしてて、手のひらだって分厚い。もう男の子の手ではなくて、それこそうちのお父さんや大地のおじさんとよく似た、男の人の手だと思う。この間やった指相撲だって、これだけのハンデがあったら完敗するのも当然だ。
 でも、いつまで眺めてるんだろう。恥ずかしいからそろそろやめてくれないかな、と思っていたら、大地は私の手をしまうように自分の手でぎゅっと握った。ちっちゃいと言われた私の手はすんなりと収まってしまう。
 思わずびくりとした私の緊張がうつったのか、大地もどこか硬い面持ちでいた。 急に落ち着かなくなった視線を遠くの町並みへ投げている。
「お前もそろそろ食べ終わるから、繋ぎ直しとこうと思って」
 何も聞かないうちからそう言われた。
 誰に言い訳をする必要もないはずだったけど、私までつられて、そういうことなら、って気持ちになる。
「そっか。そうだね……プレゼント、だもんね」
 だって約束した。誕生日プレゼントだって。
 それならもう少し一緒にいてもらってもいいのかな。
「肩、痛くない?」
 私の問いに大地は、なぜ今それを聞くのかと不思議そうな顔をする。私は照れながら続ける。
「もし平気だったら、もうちょっとだけ、一緒にいられないかなって……」
 気合入れたおめかししてきて恥ずかしいとか、何か妙に距離を意識しちゃうとか、そういうのもあるけど――でもそれ以上に今日は、大地が私の傍にいるんだってことを確かめて、実感しておきたかった。
 つい一昨日にあんなことがあって、大地が怪我をして、私はすごくすごく心配したり泣いたり無事だとわかってほっとしたりして、気持ちがとてもめまぐるしく動いた。ましてそういう出来事と同時進行で辰巳さんのことを考えたり、栄永さんがどうしてるかなって心配したりもしたから、ずっと心が忙しかった。
 今の辰巳さんにはもう帰るところができた。まだ暫定的な場所なのかもしれないけど、あの人はもう自分の道を歩き始めてるんだって、昨日思った。私たちが辰巳さんの為にできることは、もう多くはないのかもしれない。代わりにこれからは、ご近所さんとして顔を合わせることになるのかなあ。
 栄永さんとは今日話して、逆に元気を貰ってしまった。嬉しかったな。誕生日まで祝ってもらえたし……あ、黒川さんと上渡さんにもだ。今年の夏休みは始まる前からいろいろ、いいことも大変なこともあったけど、今年の誕生日は素晴らしい幕の開け方をしたって思う。
 だから今日はもう一日中、のんびり大地のことだけ考えててもいいよね。
「いいけど、この後どうする? どっか行くか?」
 大地もすぐに乗っかってくれた。
 とは言え大地はまだ怪我人だし、あんまり炎天下を歩かせるのもよくない。遊びに行くにしても近場で。できれば左肩を使わなくて済むような遊び、かなあ。
 うーん。あんまり思い浮かばない。とりあえず利き手が無事だったんだから、できそうなことと言えば、
「どうしよっか。一緒に宿題でもする?」
「しねえよ。何でよりによって今日みたいな日に宿題だよ」
 私の提案は意外と冷たく一蹴された。
「今のうちにやっておいたら、怪我が治ってからたくさん遊び回れるよ」
 しつこく食い下がってみたけど、大地はうんざりとかぶりを振る。
「それはまた別の日にな。今日ばかりは、もうちょいそれっぽいことしようぜ」
「それっぽいことって? あ、誕生日だからケーキ食べるとか?」
「お前まで食いしん坊かよ。そんなとこ、黒川先輩に似なくていいよ」
 いつもの食べっぷりを思い出したか、苦笑いを浮かべた大地はその後、不自由そうに首を竦めて続けた。
「けど、ケーキってのはいいかもな。買って帰って、俺ん家で食うか」
「本当? あ、でもこんな時間からお邪魔しちゃって大丈夫?」
「平気平気。どうせもうじき店開くし、そしたらうるさい連中もいなくなるし」
 うるさい連中……って、おじさんとおばさんのことかな。大地は相変わらず、遠慮のない言い方するなあ。素直じゃないと言うか、何と言うか。
 でも私は大地よりもずっと素直だから、ケーキを食べたい気持ちにも素直に従うことにした。アイスの残りを片づけて、『あたり』の文字がないことを確認してから頷く。
「じゃあ、お言葉に甘えようかな」
 私の答えに大地は一度、嬉しそうに笑んだ。
 ところが、すぐに表情を曇らせたかと思うと眉間に皺まで寄せてみせる。視線は商店街の通りの向こう側、少し離れた位置へ向けられている。
「噂をすれば、うるさい奴が何かいる」
 ぼそっと呟くので、私もその視線の先を追ってみた。
 私たちのいる駄菓子屋さんの真向かいは履物屋さんで、そこから右手側に三軒進むと眼鏡屋さんがある。そこの電球が点る大きな看板の陰、オレンジの雷光軒Tシャツを着た長身の中年男性がこちらを窺っているのがすぐに見つかった。実は隠れる気もなかったんじゃないかな、ってくらい頻繁に顔を出してはこっちを見ている。にこにこ笑顔がここからでもよくわかる。
「あれ、おじさんだよね。何してるの?」
 私の疑問に、大地は溜息と一緒に答える。
「知らねえ……。いつからいたのかもわかんねえけど、挙動不審すぎて通報されるだろ」
 私たちが気づいたことにおじさんの方も気づいたみたいだ。やがて看板の陰から飛び出すと、片手を上げながら大股でこちらへ近づいてきた。
 と同時に、大地は警戒するように繋いだ手を引っ込める――解かないで繋いだまま背中に隠したので、それはそれでびっくりした。
「いやあ、うちの息子がこんな時間からどこの別嬪さんと逢引してるのかと思ったら、萩子ちゃんだったのか。今日は一段とめかし込んで、なかなか見違えたもんじゃないか」
 福益商店の前まで辿り着くと、おじさんは私たちの座るベンチの傍に仁王立ちした。にこやかにそんな風に言われて、私は『別嬪さん』という単語に照れていいのか、『逢引』という単語に反応していいのか、わからないまま答えるしかなかった。
「いえ、それほどでも……」
「親父はもう店戻れよ。もうじき開店時間だろ」
 私の言葉を遮り、大地は思いきり顔を顰める。
 そんな反応をされてもおじさんはどうってことないらしく、含んだような笑みを浮かべた。
「そこまで邪魔そうにしなくたっていいだろう。父さんだって萩子ちゃんのお誕生日は祝いたいし、お前があんなに楽しみにしてた三十日をどんな風に過ごしてるかってのも心配で心配で――」
「いいから帰れって! 余計なこと言うな!」
 大地がむきになって怒鳴ってもやはりおじさんはどこ吹く風だ。笑顔のままぽんと手を叩いた。
「そうだ、せっかくだから写真でも撮るか。萩子ちゃんの十七歳記念、及び我が息子の初デート記念でな」
「ちょっ……何言ってんだ馬鹿親父、つか初って決めつけんな! 聞いてんのかおい!」
「よし、そうと決まったらカメラ取ってくるからな。二人ともここで待ってるんだぞ」
「だから待てって親父!」
 制止の声を振り切るように、おじさんは軽快に踵を返す。そして、
「母さーん! カメラカメラー!」
 商店街中に響き渡る声を張り上げつつ、雷光軒のある方向へと駆け出していく。その激走っぷりからは、雷獣らしい力強さと敏捷さがうかがえた。あっという間にお店まで到着して、中に飛び込んで、見えなくなる。
「……逃げるか」
 まだ私の手を握っている大地が、小さく囁いてくる。そっちを向いたら少し恥ずかしそうに目は逸らされたけど、低い声で更に訴えてきた。
「ここにいたら確実に写真撮られるぞ。しかもあれだ、親父のやつ変なとこに凝るから、アルバムに載っけて『大地、萩子ちゃんと初デート!』とかってこっぱずかしいキャプションつけられる。賭けてもいい」
 真剣な訴えはきっと実体験に裏打ちされた何かがあってのことなんだろう。
 でも私は、違うことを考える。
 これはデートなんだ、って今更のように考える。
 知ってたけど。男の子と二人で出かけたらデート、なんだろうし、そうでなくてもその人に誉めてもらいたくておめかししていくなんて、デートじゃなかったらなんだろう。
 プレゼントの約束はカップル的な意味合いでしたものじゃないし、そもそも私たちはカップルでもない。でも、今日のこの時は間違いなくデートなんだろう。そして私は今日という日を、この時間を、大地が傍にいる現実を、プレゼントとして欲しいと思った。
 だから言った。
「私……写真、欲しいな。撮ってもらいたい」
 大地は私の言葉がよほど意外だったと見えて、大きく目を瞠っていた。
「ええ!? 本気かよ……一生残ってネタにされるかもしれねえのに」
「でもこの時間が、形になって残るならいいなあって思って。駄目?」
 重ねてお願いしてみると、大地は困ったように唇を結んだ。
 でも少し考えてから、ふっと笑ってくれた。
「まあ、お前がいいって言うなら。俺も今日の写真は欲しいし」
「いいの? ありがとう」
 よかった。写真、本当に欲しかったんだ。
 嬉しくなって私も笑うと、大地は日差しに目を眇めるみたいにして私を見る。
「……お前、何か変わった? 見た目とかじゃなくて、気の持ちよう的に」

 だって、私、今日から十七歳だから。
 十六の時と比べて何にも変わってないのは、ちょっと嫌かなって。
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