Tiny garden

最後の夏は蜜の味

 高校生活最後の夏が来た。
 俺にとって一番重要なのは、やっぱりボクシングだ。三年連続のインターハイ出場、そして去年の雪辱を果たすことを目標に、トレーニングに打ち込み続けてきた。今年は部長として他の部員を引っ張る役目もあったから、弛んだところは見せられないと練習漬けの日々を過ごしていた。

 そうこうするうちに気がつけば七月だ。
 俺は無事にインハイへの出場権をもぎ取っていたが、もう一つ、部長として肝心なことを疎かにしていた。
 うちの学校では、七月に文化祭がある。この時期は大体どこの運動部も忙しいから、文化祭では少ない人手で済む屋台を出すのが定番だ。ボクシング部でも申請は出していたが、肝心のメニューがまだ決まっていなかった。
 去年はベビーカステラの屋台を出した。部員の家にあったたこ焼き器を使って、生地を流し込んで焼くだけのお手軽な代物だ。それなりに美味いし売り上げも悪くなかったが、七月の炎天下に焼き物は正直きつかった。たこ焼き器の前に立つだけでサウナスーツ並みの汗をかき、あの一日だけで随分絞られた気がする。
「今年は火使わねえやつがいい」
 部長として出した俺の意見は、部内でも満場一致で支持され、可決された。
 といってもボクシング部は男所帯、屋台で出すもんなんて肉かジャンクフードかって知識しかない。火を使わないメニューなんてそもそも思いつきもしない。おまけに部活の方に気を取られて、考える時間もないと来た。

 そういう時に頼りになるのが家庭部の可愛い部長殿だ。
 何かいいアイディアはないかと尋ねたら、即座に答えてくれた。
「白玉だんごとかどう? 朝作って冷やしとけば、あとはトッピングして出すだけだよ」
「おお、いいなそれ」
 どうせ当日も気温高いだろうし、冷たいデザートの方が受けはいいだろう。調理の手間が少ないのもいいし、トッピング次第でいろんな味が楽しめるのもいい。
「けど、ボクシング部に白玉だんごって可愛すぎねえか?」
「可愛いのがいいんだよ。これぞギャップ萌え!」
「その辺はちょっと、俺にはわかんねえな……」
 わからねえけど、一穂がいいって言うんだから大丈夫か。
 ともかくも文化祭では、つるりとした坊主頭の集団がつるりとした白玉だんごを売るってことで決まった。トッピングはぜんざいとみたらしの二種類だ。そちらは市販品を使う決まりで、だんごだけが部員の手作りになる。
「白玉は冷やすと硬くなっちゃうから、水の代わりにお豆腐で作るといいよ」
 一穂が、随分と斬新な情報を教えてくれた。
「実はうちの部も和風茶房やることになって、和パフェの材料に白玉作るんだ。それで豆腐白玉試してみたら、これが一日置いても柔らかかったの。お薦めだよ」
 衛生上の観点からもずっと冷やしとく必要があるから、柔らかいままにしておけるならそれはありがたい。
 しかし、豆腐か。
 俺にとっては減量中の友だから、そうじゃない時はあまりつるみたくねえ相手だった。
「豆腐を使う白玉って、美味いのか」
「もちもちしてて超美味しいよ。一度試しに作ってみる?」
 そう言うと一穂は、次のボクシング部のミーティングに手製の豆腐白玉持参で現れ、うちの部員たちにプレゼンまでしてくれた。その白玉は確かにもちもちと柔らかく、豆腐の風味は一切しない美味いだんごに仕上がっていた。
「美味いっす! 姐さんさすが!」
「姐さんは菓子作りの神、いや女神っすよ!」
 後輩たちから興奮気味に賞賛されて、一穂は照れに照れていた。
「ほ、誉めすぎだよ……えへへ……」
 その様子を見て俺は、変わったな、と思う。

 ちょうど一年前の今頃、俺と一穂はまだ付き合ってなかった。
 彼女は家庭部に関する何もかもについて自信なさげで、それを努力でカバーしようと一生懸命だった。俺はそういうひたむきさを可愛いなと思っていたし、ずっと目が離せなかった。先代の部長に跡を継ぐよう頼まれて、悩んでいたのも記憶に新しい。
 だが今の一穂を見て、そんな時代があったなんて誰が思うだろう。
 今の彼女はどこからどう見ても頼れる家庭部長だ。俺がSOSを出したらすっ飛んできてくれて、豊富なレパートリーの中から俺たちにも作れそうなものを選んでくれて、おまけに味見までさせてくれた。その優しさ、気配り、フットワークの軽さ、そりゃ女神なんて呼ばれるよな。
 正直、俺もそう思ってる。
 さすがにベタすぎて口にする気にはなれないが――俺の努力も、勝利も、いつだって一穂に支えられている。支えて欲しいなんて昔は思ってなかったのに、今じゃ俺が一人で背負ってるものを、気がついたら一穂が自然と半分持ってくれてる。そういう感じだ。
 高校生活最後の夏も、一穂のお蔭で全部上手くいきそうだった。

 その一穂は文化祭当日も、白玉だんごの仕込みに付き合ってくれると言い出した。
「そこまでさせるのは悪い。散々世話になってんのに」
 俺はさすがに遠慮しようと思ったが、一穂は軽くかぶりを振る。
「乗りかかった船だもん、付き合うよ」
「けどな……」
「どうせ早く登校しなくちゃいけないし、気にしないで」
 そう言ってにこにこしている。
 無理させてんじゃねえかと不安もあったが、彼女がそこまで言うならと、結果的に甘えることにした。
「悪いな。インハイ終わったら、ちゃんと礼するから」
 俺が申し出ると、一穂は明るく笑ってみせる。
「そんなのいいって。実は、陸くんに見せたいものがあるんだ」
「見せたいもの? 文化祭でか?」
「うん。そのついでだから全っ然気にしないで!」
 どうやら一穂は何か企画をしているようだ。だがそれが何か、俺が探りを入れても彼女は何も教えてくれなかった。ただ楽しそうに目を輝かせて笑っていた。

 そして迎えた文化祭当日。
 教室の一つを支度部屋にして、白玉だんごの材料を揃え、大鍋に湯を沸かし始めた俺たちの前に一穂は現れた。
「おはよう陸くん。さ、準備しよ!」
 その弾けるような笑顔に対し、俺はとっさに声も出なかった。
「……お、おお。一穂、その格好――」
「あ、これね。和風茶房だから、和装にしてみた!」
 そう語る一穂はいつもの制服姿ではなく、茶娘の格好をしていた。
 濃紺の着物に赤い前掛け、胸のところにきりっと襷をかけていて、袖が邪魔にならないようにしている。着物は普通のものより丈が短く、その下に赤いスカートみたいな裾除けをはいている。いつもふわふわしてるエアリーショートの髪も、今日は白い手拭いの下にきちんとまとめて、それが妙に大人っぽい。
「わかる? 茶娘の格好なんだけど……」
 俺が何にも言わないからか、一穂が説明を添えてくる。
 それで俺も我に返って、慌てて言った。
「茶娘か。可愛いな」
「本当? 家庭部、皆これ着てるんだよ。よかったらあとで見に来て!」
 たった一言でも一穂は嬉しそうにしてくれたが、実際は、可愛いなんてもんじゃなかった。
 他のボクシング部員たちも、いつもなら『姐さん似合うっす!』とか何とか連呼しているはずだが、今日ばかりは口をぽかんと開けて一穂に見入っている。俺の彼女だあまり見るなと言ってやりたいところだが、俺も一穂の一挙一動から全く目を逸らせなかった。
「じゃあ、生地捏ねるところから始めよっか」
 手を洗う時に見せた袂を押さえる仕種とか、
「豆腐はちょっとずつ混ぜて、耳たぶの柔らかさになるよう調節するんだよ」
 皆に説明をする横顔が、まとめた髪のお蔭でよりきれいに見えるところとか、
「わあ、さすがボクシング部! 捏ねるのすっごく手早いね!」
 ボウルを覗き込んだ時、手拭いの下にちらりと見えたうなじの後れ毛とか、
「お湯、沸いてきたね。じゃあそろそろ茹でよう!」
 鍋の温度を確かめる着物の後ろ姿、特に前掛けの結び目がある腰のラインとか――何もかもが片時も目を離せないくらい、やばかった。
「……うん。美味しくできた」
 一連の作業を見守り、最後に茹で上がった白玉を味見した後、一穂は妙に艶のある赤い唇で微笑んだ。
 それから俺たちに向き直り、小首を傾げてこう言った。
「じゃあ、お手伝いはここまで。私、そろそろ家庭部に戻るよ」
「ああ……ありがとな、一穂」
 もう帰るのか。俺は名残惜しくてたまらなかったが、家庭部の大事な部長殿を長く引き止めてもおけない。
「家庭部の模擬店、必ず行くからな!」
 俺の勢い込んだ誓いをどう思ったか、一穂は目を瞬かせてから、茶娘姿によく似合うはにかみ笑いを見せた。
「待ってるね。お薦めは黒蜜きな粉わらび餅パフェだよ!」
 それからいつもよりしずしずと、足元を気にしながら廊下を去っていく。
 その後ろ姿を、俺たちは戸口に鈴生りになって見送った。
 彼女が見えなくなってから、俺は思わず唸る。
「茶娘、やべえな……」
 そしてその呟きは、ボクシング部内でも満場一致で支持された。

 一穂の指導の甲斐あって、屋台で出した白玉だんごは飛ぶような売れ行きを見せた。
 午後一時過ぎにはめでたく完売となり、俺たちは大喜びで屋台を畳み、いち早く後片づけを始めた。
 それが全部済んだ途端、後輩たちは鼻息も荒く言ってきた。
「向坂さんっ、家庭部行きますよね! 俺らもお供します!」
「茶娘ハーレムっすよ! これは何としてでも見に行かないと!」
 ハーレムかどうかはさておき、一穂が言うには家庭部全員があの格好だそうだ。目の保養がしたいなら十分に期待できるだろう。
 もっとも、俺のお目当ては一人きりだが。
「何でもいいが、騒ぐなよ。集団で押しかけんだからいい客になれ」
「はいっ!」
 威勢のいい後輩たちの返事を聞きつつ、俺は連中を引き連れて家庭部の模擬店へ向かった。

 家庭部は去年と同様、家庭科室で模擬店を出していた。
 和風茶房の触れ込み通り、暖簾の下がった入口をくぐれば、赤い毛氈と番傘で飾りつけられた室内が見える。窓辺にはガラスの風鈴が揺れ、テーブル席までの道には置き石を並べ、隅の方には庭園を模した笹まで立てかけてある。なかなか気合いの入った内装だ。
「いらっしゃいませ!」
 居合わせた茶娘姿の家庭部員たちは、押しかけてきたボクシング部一同に驚いた様子だったが、幸いにも入店拒否はされなかった。一穂が飛んできて迎えてくれたお蔭だろう。
「陸くんたち! 大勢で来てくれたんだね!」
「こいつら、売り上げに貢献するとさ。どんどん注文させてやってくれ」
「わあ、助かる。ありがとう!」
 一穂は大喜びで、茶娘に興奮気味の部員たちから次々と注文を受けた。
 俺の注文はもちろん一穂のお勧め、黒蜜きな粉わらび餅パフェだ。注文ついでに白玉だんごの売り上げが好調だったことを告げたら、一穂は嬉しそうにしてくれた。
「よかったあ。アドバイス、役に立って」
「ああ、すげえ役立った。お前マジで女神だわ、ありがとな」
 冗談でもなく告げたら、一穂は手拭いの下の顔を赤くした。
「そ、それほどでも……へへ、陸くんにそう言ってもらえると嬉しいけど」
 見慣れた可愛い照れ顔も、こうしていつもと違う姿だとまた新鮮で、どきっとする。
 いや、いつもと違うんじゃなくて――変わったから、かもしれない。

 注文を受けた一穂は、早速パフェを作り始めたようだ。
 調理台の上で透明なカップにわらび餅を盛りつける、その真剣な表情を盗み見ていた。
 家庭部の後輩に話しかけられた時は、笑顔になって答えてやっている。きっといい部長なんだろうって、後輩の信頼し切った表情からもわかる。どちらかが冗談でも言ったのか、くすくす楽しそうに笑い合う顔も見えた。
 あんな部長になるなんて、誰よりも本人が思ってなかったはずだ。
 自信なさそうにしている一穂の相談に乗ってやったことも覚えている。あれからたったの一年で、一穂はすっかり変わっていた。見違えるほどだった。
 俺はその変化から、結局ずっと目を離せない。

「お待たせしました、黒蜜きな粉わらび餅パフェです!」
 やがて一穂が、俺が独りで座るテーブルにできあがったパフェを運んできた。
「あと、これはサービスね。冷やしほうじ茶だよ」
 カップに注がれたほうじ茶は渇いた喉にやたら美味くて、つい一気に飲み干してしまう。
 すると一穂はすぐにお替わりを注いでくれた。
「お疲れ様、陸くん。くつろいでってね」
 微笑む茶娘姿の一穂はとても大人びて見えて、俺は感慨深い思いにしばし浸った。
 この感慨は、去年の彼女を知っているからこその特権だ。
 一穂は変わった。この一年間、ずっと彼女を見てきた俺にはわかる。そしてわかるからこそ、彼女の変化をいいな、と思う。
 すごくいい。やばい。事あるごとに惚れ直してる。
「一穂」
 立ち去ろうとする彼女の後ろ姿に、俺は思わず呼び止めた。
 髪をまとめ、うなじを覗かせた一穂が首だけで振り返る。茶娘の後ろ姿はやたら魅力的で、前掛けの結び目を解いてみたくなる。でも振り向いた顔だっていい。一年前よりぐっと大人になった顔、それがわかるのは俺だけの特権だ。
「お茶、もっとお替わり?」
 その一穂が怪訝そうにしたから、朝は言えなかったことを告げてみる。
「お前、めちゃくちゃきれいだ」
「え……」
 一穂はとっさに言葉に詰まり、手拭いの下で睫毛を伏せた。
「り、陸くん、誉めすぎだから……!」
「俺は本気で言ってる」
「わ、ちょっと、こんなとこで言われても!」
 彼女はばたばたと、逃げるように立ち去った。
 ――かと思いきや途中で立ち止まり、意を決したように戻ってきた。そして目を潤ませ頬を赤らめた顔で、おずおずと言った。
「で、でも、嬉しいな。この衣裳、私は陸くんに見せたかったんだ」
 そしてもじもじしながら、小声でそっと囁いてくる。
「パフェの大盛りは私の奢りだから……いっぱい食べて」
 それでパフェを見てみれば、黒蜜ときな粉をめいっぱいかけたわらび餅も、そこに添えられた抹茶アイスもかなりサービスよく盛られていた。
「ゆっくりしてっていいってことか?」
 俺が聞き返すと、一穂は顔をほころばせて頷く。
「うん。お茶のお替わりもいっぱいあるから!」

 一穂、変わったな。
 去年のことを思い出してはそう思う。
 食券を渡すなりすぐに逃げてった彼女。あの時のやり取りも可愛くて印象にすごく残ってる。
 でも今年の方が、今の方が、去年より更に可愛くなってる。

 それを実感できる幸せを、噛み締めつつパフェを食べる。
 高校生活最後の夏、冷えたわらび餅に絡む黒蜜の甘さに、俺の心までとろけそうだった。
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