Tiny garden

ネオンカラーの彼女

 お互いに部活のある日は、先に終わった方が迎えに行くことになっている。
 大抵は家庭部の方が早く終わるが、今日は俺の方が先に上がった。汗を拭いて制服に着替えてから家庭科室へ足を運ぶと、中にいたのは一穂だけだった。
 換気でもしているのかドアは開けっ放しで、窓のカーテンは風に揺れていた。室内は一面春の夕日が差し込んでいて、その中で一穂はたった一人で机に向かっている。右手にはペンを持っていたが何かを書いている様子はなく、考え事でもするみたいにくるくる回し続けている。
 ペンの色はキャップでわかる。夕日よりも眩しいネオンカラーのピンクだった。

 俺は一呼吸置いてから、小さな背中に声をかけた。
「一穂」
 途端に彼女はくるっと振り向き、弾けるように笑う。
「あ、陸くん! もう部活終わったの?」
「終わった。お前は? 一人で居残ってんのか」
「うん、実は原稿考えてて」
「原稿?」
 家庭部の活動内容に原稿書くもんなんてあっただろうか。俺は不思議に思い、家庭科室に足を踏み入れる。
 一穂は机の上に真っ白い紙を広げていた。普通の原稿用紙じゃない、ます目のない紙だ。そこには横書きでいくつかの文章が記されていたが、どれもこれもド派手なネオンカラーで書かれていて読みにくい。
 紙の傍には一穂が愛用しているペンケースが置かれている。ぎょろっとした目玉と大きな口を模したチャックがついた、モンスター顔のペンケースだ。一穂はいつも使い切れんのかってくらいペンを何本も詰め込んでいるから、モンスターはいつも木の実貯め込んでるリスみたいにぱんぱんの顔をしていた。
「何の原稿だよ」
 俺は一穂のすぐ隣の椅子を引き、腰を下ろしながら尋ねた。
「ほら、新歓来週でしょ? その時の発表用!」
「ああ、部活紹介のか」
 入学シーズンを過ぎ、一段落した新入生を迎えるイベントが新入生歓迎会だ。ここでは部活動紹介ってのがあり、各部活が新入部員を勧誘する時間が設けられている。うちの学校ではこの新歓の直後から新入部員の勧誘が解禁されるので、いわば勧誘合戦の前哨戦って位置づけだ。
 どこの部だって新入部員は喉から手が出るほど欲しい。部員が増えればそれだけ練習内容に幅が出るし、何より活気が出てくる。ボクシング部としても新入生歓迎会を大事な試合と捉え、部長としてそれに備えたトレーニングも始めたところだった。
 同じように家庭部の部長殿も、新入部員獲得に向けて頭を捻っているところのようだ。
「でもなかなか文章がまとまんなくてさ」
 一穂は肩を解すみたいに竦めた。
「陸くんとこは新歓何すんの?」
「スパーリング実演。毎年やってるけどな」
「すぱーくりんぐって、あれでしょ。二人で打ち合うやつでしょ」
「スパーリングな。それで合ってる」
 よくある間違いも一穂が言うと妙に可愛い。
 俺が笑いを堪えたのに一穂は気がつかなかったようだ。羨ましそうに溜息をつかれた。
「いいなあ、運動部ってステージ映えするし、やること決まってるし」
 ボクシング部に限らず、運動部の部活紹介は大体がデモンストレーションと相場が決まっている。柔道部は乱取り、サッカー部はリフティング披露、バドミントン部や卓球部は連続ラリーと、目に見えてわかりやすいアピールができる。
 それに比べて文化部はいろいろとやりにくそうだと思う。吹奏楽や合唱ならまだしも、普段お菓子なんか作ってる部活だ。
「家庭部って何やるんだ」
「普通に部活紹介だけ。さすがにうちの部は実演とかできないじゃん」
「やりゃいいだろ、ステージでクッキー焼けば?」
「三分クッキングみたいに? 許可下りないよ絶対」
 と言いつつ、一穂は俺の冗談を面白がる。おかしそうに声を立てて笑う。
「『こちらに焼き上がったものがございます』ってやれば持ち時間内にできるかな」
「それだと焼いてねえし実演じゃねえだろ」
「大丈夫、生地こねるところはじっくり見せるから」
「そこだけ見て面白いか?」
「確かにあんまり面白くないね! やっぱ焼かないと駄目かあ」
「あとは匂いだな。美味そうな匂いさせたら新入生も寄ってくるだろ」
 いつだったか、俺が引っかかったみたいに。
 去年の夏の出来事を妙に懐かしく思い出す。あの時の一穂は美味そうな、甘いバニラの匂いがした。
「本当にそういうのできたらいいんだけどね」
 一穂はまた溜息をつき、どこかだるそうに嘆いた。
「実際はそうもいかないから原稿読むだけ。文章で部活紹介ってむずいよね」
 それで俺は改めて、一穂が書いていたらしい原稿に目をやる。
 ます目のない真っ白い紙に、一穂の好きなネオンカラーのペンで何やらあれこれ書いてある。差し込む夕日のせいか、隣に座っても見にくい派手な色使いだ。
「あっ、だめだめ! 見ないで!」
 俺の視線に気づいて、一穂が原稿を両手で覆い隠そうとした。
「なんで駄目なんだよ」
「恥ずかしいから!」
「いいから見せろよ」
「やーだー! 笑われるもん!」
 一穂は恥ずかしがったが、抵抗されると余計見たくなる。
 俺は紙の上に置かれた小さな手を、自分の手で両方ともぎゅっと握った。
「あ……」
 たちまち一穂はあたふたして、さっき以上に恥ずかしがった。手なんて何度でも繋いだことあるのに、一穂は今でもいちいち照れてみせる。俺もその反応と、小さくて柔らかい一穂の手が気持ちよくて、ついついこうして握ってしまう。
 今も一穂は手を握られたら他のことなんて吹っ飛んでしまったようだ。やがてくたっと力が抜けて、原稿からあっさり引き剥がすことができた。
 そうして白日の下に晒された原稿には、ネオンカラーで色分けされたいくつかの文章が記されていた。
『アットホームで和気あいあいとした部活です。未経験者歓迎!』
『スイーツ国のお姫様&王子様、お茶会の舞台はこちらでございます』
『家庭部でエンジョイ&サティスファクション!』
 ――何だこりゃ。
「サティスファクション……」
 俺は呆然として、思わず一穂の手を離す。
 一穂は真っ赤な顔で叫んだ。
「わああ、声に出して読まないで!」
「読まれたくないもんを書くなよ」
「う……まあ、自分でもぶっちゃけ微妙だって思ってる」
「いや微妙っつか、これ読むのか? 新歓で?」
 つかこれ原稿か?
 俺の疑問に、一穂は苦悩の表情で答える。
「だって人前に出るんなら格好いいこと言いたいんだもん。新入部員が興味持ってくれるかくれないかの瀬戸際なんだよ。普段の私のふわっと感じゃ通用しないよ絶対」
 ひとしきり呻いた後、そのまま家庭科室の机に突っ伏した。
 窓から廊下へ吹き抜ける風が、一穂のふわっとした髪を揺らしていく。エアリーショート、髪型の名前もちゃんと憶えてる。俺がその頭に手を置いてがしがし撫でると、しばらくしてから顔を上げ、縋るような目を向けてきた。
「ね、陸くん。何かいいネタないかなあ」
「難しい質問だな。俺の頭じゃ思いつかねえよ」
「私よりはいい頭だよ。ヒントでもいいから、お願い!」
 懇願されたので一応考えてみる。だが実際に活動している一穂に思い浮かばないことを、部外者である俺が簡単に思いつけるはずもない。
 ただ、一穂を助けてやりたい気持ちもあったから、とりあえずヒントになりそうなことを告げる。
「別に格好いいこと言おうとしなくてもいいんじゃねえか」
 俺の提案に、一穂はきょとんとした。
「どういうこと?」
「人呼びたい気持ちはわかるけどな。慣れねえこと言って取り繕ったって、化けの皮なんてすぐ剥がれる」
 もちろん一穂の努力は買う。新入部員を獲得する為に、より興味を持ってもらいやすいアピールをするのが間違っているわけじゃない。
 でも、普段使わないような言葉を並べ立てなくたっていいはずだ。
「格好つけねえで、お前の言葉で家庭部の楽しさを訴えてみろよ」
 一穂が家庭部をどれだけ楽しんでるか、俺は知ってる。一番苦労が多いはずの部長が一番楽しそうにしてる部活なんて、何よりのアピールになるに違いない。
「その方が間違いなく、大勢に伝わる」
「そっか……」
 俺の勧めに一穂は目を丸くした後、ぱっと顔を輝かせた。
「陸くんの言う通りだね。私、格好つけたくて背伸びしすぎてたんだ」
「そういうこった。素直な気持ちの方が、飾った言葉よりずっと響くだろ」
「確かに! さっすが陸くん、聞いてよかった!」
 そして嬉しそうににこにこしながら、白い紙にネオンピンクのペンでこう書いた。
『格好つけず、素直に家庭部の楽しさを伝える!』
 目に眩しいピンクの文字を、俺もいい気分で眺めた。
 この文章もそうだが、ネオンカラーは一穂らしい色だ。彼女はこの派手な色合いがとても好きで、着る物も文房具もこればかり選んで買っている。
 何度か入れてもらった部屋だって、カーペットもベッドカバーもオーディオも目が覚めるようなネオンピンクで統一されていた。そういういい思い出があるからか、俺もネオンカラーが好きになりつつある。目にする度に、一穂の色だ、と思う。
「助かった、陸くんのお蔭で原稿仕上がりそうだよ!」
 一穂はほっとした様子で、ネオンカラーのペンをモンスター顔のペンケースにしまい始めた。
「あとは家帰ってからまとめてみる。待たせてごめんね、帰ろ」
「おう」
 俺も席を立ち、家庭科室の窓を閉めるのを手伝った。
「二人で閉めると早く終わるね、ありがとう」
 全ての窓を閉め終えた後、一穂がこちらに駆け寄ってくる。
 差し込む夕日に照らされて、自慢のエアリーショートも笑顔も、何もかもが明るく照らされていた。眩しくて、きれいだった。
「あれ、陸くんなんで笑ってるの?」
「いや、何かお前っぽいなと思って」
「私っぽいって何が?」
「その眩しさが。お前自身がネオンカラーって感じ」
 特にわかりやすく誉めたってわけじゃなかったが、一穂は窓の外を振り返った後、こちらに向き直ってはにかんだ。
「えへへ……いいなあ、新歓でもこんな感じで光りたいな」

 一穂がネオンカラーを好きな理由は単純だ。
『こういうくっきりはっきりした色使いって、元気になれるよね』
 俺もその意見に異論はない。もっともこっちは、一穂の好きな色だから、そしていい思い出がたくさんあるからってのも大きいが――とにかく、見ているだけで気分が明るくなる色だ。
 さすがに俺までネオンカラーを着ようとは思わないが、例えばタオルを買い替える時、一穂のことを思い出して選んだりはする。

 新入生歓迎会当日も、俺はスパーリング実演に備えてネオングリーンのタオルを持参した。
 そして体育館のステージ袖で出番を待つ間、同じく出番待ちの一穂と顔を合わせた。彼女は家庭部の他の部員と一緒にいたが、俺が舞台袖に入るとすぐに気づいて駆け寄ってきた。そして俺が持ってきたタオルにもすぐさま反応した。
「あっ、陸くん。私とお揃い!」
 そう言って一穂は片膝を上げてみせる。
 彼女の靴下は照明のない舞台袖でもくっきり目立つ、鮮やかなネオングリーンだった。
「俺のタオルと同じ色だな」
「そうだね。すごい偶然!」
 偶然かどうかは微妙なところだ。だがそういう話は一穂の出番が済んでからでいい。今は黙っておく。
「けどお前、今日そんな靴下履いてたか?」
「ううん、さっき履き替えた。勝負靴下なんだよ」
 どうりで見覚えのない靴下だと思った。にしても『勝負靴下』なんて初めて聞いたが、その心構えは感心できる。
「なら、本番も大丈夫そうだな」
 緊張してんじゃねえかって気になってた。俺が胸を撫で下ろすと、一穂は照れ笑いを浮かべる。
「大丈夫だけど、陸くんが励ましてくれたらもっと頑張れると思う」
「どうして欲しい?」
 俺は小声で聞き返した。
 すると一穂は身を屈めて、俺の方に頭を向けてくる。グローブを着ける前でよかった。舞台袖が暗くて、二人でいるからっていちいち注目を集めずに済むのもよかった。ふわっとした無造作な短い髪を、俺は思う存分がしがし撫でてやった。
『続いては、家庭部の紹介です』
 アナウンスが響き、一穂がぴくっと反応する。
 俺の方に小さく手を振って、
「行ってくるね」
 そう言い残し、家庭部員を引き連れてステージへと消えていく。
 俺は出番に備えてバンテージを巻きながら、そっとステージ上を覗いた。舞台袖からはステージに整列する家庭部員と、一歩に進み出てスタンドマイクの前に立つ一穂の後ろ姿だけが見えた。
 ネオンカラーの眩しい靴下もだ。
『皆さん、はじめまして。私達は家庭部です!』
 マイク越しに聞く一穂の声は、何だか妙に新鮮だった。
『家庭部は、家庭科室を部室として活動しています。活動内容も家庭科で習うようなお菓子作りがメインです』
 一穂は原稿も持たず、澱みなくはきはきと喋る。 
『お菓子作りと言ってもそんなに難しくありません。オーブンを使ったりはしますけど、そういうのが初めての人でも一からばっちりサポートします!』
 マイクの前の彼女は姿勢がいい。背筋がまっすぐ伸びている。
『今でこそ部長の私ですけど、実は去年まで、お菓子作りには全然自信なかったんです』
 一穂がそう言うと、家庭部の何人かがちょっと笑った。
 そうだったな、と俺も思う。一穂自身がそう言っていた。
『でも当時の先輩に支えられて、わからないことを一から教えてもらったら頑張ることができました。頑張ったら、すっごい美味しいお菓子を作れるようになりました!』
 そして去年のあの頃から言っていた。
 頑張ったから、美味しいお菓子が作れたんだって。
『お菓子作りはしたことない、あるいは食べるのは好きだけど作るのは苦手という方。私も同じでした! でも美味しいお菓子を作りたい気持ちさえあれば絶対できるようになります!』
 あの頃と比べると、今の一穂は変わった。
 すっかり自信がついて、いきいきしていて、お菓子作り一つとってもすごく楽しそうだ。昔だってそりゃ可愛かった。でも今は、可愛い上に時々眩しい。
 ネオンカラーの靴下と同じように、一穂自身が眩しく見える。
『お菓子でも何でも、好きなものの為に頑張るのってすっごく、すっごく楽しいです!』
 一穂の言葉を後押しするみたいに、後ろに控えた家庭部員達が手作りのパネルを掲げる。そこには家庭部でこれまでに作ったお菓子の写真が引き伸ばして貼られている。
『私達と一緒にお菓子作りしませんか。新入部員、お待ちしてます!』
 締めくくりの言葉を合図にしたように、体育館には新入生達の拍手が響き出す。
 それで俺もはっと我に返った――気づけば、見とれていた。バンテージを巻く手さえ止めていた。
 きっと体育館に詰めかけた新入生達は知らないだろう。今、緊張の色も見せず、原稿なしで堂々と喋り切った一穂が、昔は『ダメダメ部員』を自称してたってことを。お菓子作りにも自信がなくて、当時の部長さんに随分スパルタ教育を受けたってことを。
 ネオンカラーみたいに眩しく輝く今の一穂からは、きっと想像することもできないだろう。
 部長になり、三年になって、一穂は変わった。いや、現在進行形で変わってる。今の彼女は俺にも眩しくて、だけど目を逸らせない。
 俺は、これからも変わっていく一穂を見ていたい。今、無性にそう思っていた。

「はあ、緊張した……!」
 舞台袖に戻ってきた一穂は、俺の顔を見るなり深い溜息をついた。
「緊張してるようには見えなかったな。堂々としてたじゃねえか」
 俺が誉めるとその顔がふにゃっと緩んで、はにかんでみせる。
「そ、そうかな……えへへ。上手くできてた?」
「できてた。輝いてたぜ、一穂」
「え、そんな誉めすぎだよ。嬉しいけど……」
 こういう時の平和的な表情だけは、去年とあんまり変わってない。これはこれで可愛いが、ステージに立ってた時とはまるで雰囲気が違う。いつか、俺しか知らない一穂の顔になるのかもしれない。
「陸くんはこの後だよね。緊張は、してるわけないか」
 一穂がバンテージを巻き終えた俺の手を見てそう言った。
 実は予定より準備が遅れて、ちょっと急いでるってのは内緒だ。グローブを着けながら答える。
「お前があんなに立派にやってのけたのに、俺が緊張するわけにはいかねえだろ」
 それからグローブを着けた手で、ネオングリーンのタオルを掲げてみせる。
「それに、俺にはお守りがある」
「お守り? あ、お揃いだからってこと?」
「ってか、お前をイメージして買った。ネオンカラーと言や一穂だからな」
 俺の言葉に一穂が顔を赤らめたかどうか、舞台袖の薄暗さの中ではわからなかった。
 ただお揃いのネオングリーンだけはよくわかった。偶然じゃねえからこそ、俺にとっては何よりのお守りだ。いい思い出ばかりの、目に眩しい彼女の色。
「……スパーリング、見てるからね」
 一穂は照れているのか、消え入りそうな声で囁いてきた。
 この間は名前、間違えてたよな。覚えてくれたことがちょっと嬉しくて、俺は一穂に囁き返す。
「なら上手くできたら、ご褒美をくれ」
「う、うん、わかった。任せて」
 できれば、ネオンカラーのいい思い出がもっと増えるようなやつがいい。もっとこの色が好きになるような、そういうご褒美がいい――ってのはさすがに気が早いか。全部終わって、二人きりになってからねだることにしよう。

 ネオングリーンのタオル片手に、今度は俺がステージへと向かう。
 同じ色の靴下を履いた一穂に見送られながら、何だか無性に幸せな気分で歩いていく。
 俺も去年と比べたら変わったのかもしれない。少なくとも昔は、こんなふうに好きになる色なんてなかったし、それほど意識もしなかった。
 それが今じゃ、一穂にまつわる何もかもが好きだ。
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