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彼と彼女とアップルキッシュ(3)

 向坂さんと手を繋いで、水族館内を見て回った。
 ただでさえ青く染まった館内は海底みたいな不思議な空気に満ちているのに、手を繋いで歩いていると気分がふわふわして、本当に水中にいるみたいな気分だった。海底の柔らかい砂に足を取られているみたいに歩きにくくて、気を抜いたら天井までぷかぷか浮き上がってしまいそうだ。呼吸がちょっと苦しいのもそういうイメージのせいかもしれない。
 でも、幸せだった。思わずにやにやしていた。海底気分で見て歩く水族館は一層楽しかった。ふかふかした毛並みの大きな白熊は偽物の岩の陰に隠れて一向に出てこず、私と向坂さんは熊の背中ばかり眺めている羽目になった。よちよち歩きのペンギンは隣接のプールに入ると別人のように素早く泳ぎ、そのギャップがまたたまらなく可愛かった。
 大きな水槽内を悠然と泳ぐジンベイザメは想像以上に大きすぎて、目の前を追加する瞬間をカメラに収めようとしたけど半分も写せなかった。
「これだと一体何を撮ったのかわかんないっすね」
 ほぼ尾びれしか写っていないジンベイザメの画像を見せたら、向坂さんは気の毒そうにしてくれた。
「じゃあ、残り半分は俺が撮ってやる」
 そう宣言すると向坂さんは広い水槽をぐるりと一周して戻ってくるジンベイザメを辛抱強く待ち、そして次に通り過ぎるタイミングを狙って自分の携帯電話で写してくれた。
 向坂さんの撮った画像と私の画像とを並べると、ちょっとだけ胴が短いジンベイザメができあがる。
「さすが向坂さん、タイミングばっちりっす」
「誉めすぎだよ。たまたま上手く撮れただけだ」
 満足げな向坂さんがその画像を待ち受けに設定したから、私も倣って尾びれの画像を待ち受けにしておいた。二人で携帯電話を並べたら、いつでも今日ここで撮ったジンベイザメが見られるようになった。
「何かいいっすね、こういうの」
 お揃いじゃないんだけどお揃いみたいでいい。
 ますますにやにやする私の言葉に、向坂さんも黙って笑って、それから一旦離していた手を当たり前みたいに繋ぎ直した。

 ジンベイザメの水槽を離れた後は水中トンネルを目指した。
 水の中にチューブを通したみたいな細いトンネルの中をエスカレーターで上がる。エスカレーターは心なしかのんびりと進み、私達は頭上を行き交う魚達を口を開けて眺めた。イワシの群れは銀色の鱗がきらきらしていて、ひとかたまりになって泳ぐ姿は小学生の時に読んだスイミーの話を思い出す。ひらひら泳ぐエイは意外と大きくて、白っぽいお腹に顔が描いてあるみたいに見える。こちらのトンネルにはジンベイザメよりもずっと小ぶりのサメがいっぱいいて、皆すいすい泳ぐのが気持ちよさそうだ。
「見てると泳ぎたくなりますね」
「毎日暑いからな。そういや今年はろくに泳げてねえな」
 向坂さんが思い出したように言った。
 私はどちらかと言うとインドア派――と言うか、夏は冷房を効かせた部屋でだらだらごろごろしている方が好きな方なので、夏休みだからといってわざわざ海やプールへ泳ぎに行ったりはしない。
 でも向坂さんと一緒だったらそういうのもいいかな、なんて思わなくもない。
 それで、エスカレーターを降りた時に聞いてみた。
「向坂さんは、泳ぐの好きですか?」
「ああ。上半身を鍛えるトレーニングだからな」
「トレーニングっすか……。遊びで泳いだりはしないんですか」
 ボクシングに情熱を傾ける向坂さんのことだ、トレーニングで泳ぐとなればそれはもうものすごい距離を泳ぐに違いない。当然ながら私が一緒に泳ぐというのはどう考えても無理そうなので、突っ込んで聞いてみることにする。
 と、向坂さんは困ったように眉根を寄せた。
「いや全然。つか、遊びで泳ぐってどんなふうにだよ」
「え……例えばあの、友達と海に行って遊んだりとか」
「そういうのも全く、したことねえからな」
「ないんすか……」
 つまり向坂さんにとっては、泳ぐイコールボクシングの為のトレーニングであって、海やプールは友達と遊びに行く場所ではないってことだろうか。何だかすごいな。
「茅野はよく行くのか。海へ遊びに」
「まあ、誘われたら行くって感じです。私はそこまで泳ぎ上手くないですし」
 聞き返されたので答えると、向坂さんは尚も不思議そうに尋ねてくる。
「で、海で何して遊ぶんだ」
「えーっと、ビーチバレーとかスイカ割りとか、あとは普通に海に浸かったりとか」
 改めて聞かれると説明が難しいな。海で遊ぶってそのままの意味でしかない。海に浸かってビーチバレーしてスイカ食べてかき氷食べて日焼けして、そこまでの一連の流れが全部『海で遊ぶ』って言葉に詰まってる感じだ。
「何にも考えずに波間でぷかぷか浮いてるのも、いいものっすよ。まるで自分がクラゲになった気分になれます」
 私は海での遊びの楽しさをそんなふうに説明した。
 向坂さんは多分、その光景を想像してみようとしたんだろう。しばらく考え込んでいたけど急にふっと柔らかく笑って、それから言った。
「そりゃ楽しそうだ。試しに一度、見てみてえな」
 よかった。海の楽しさはばっちり伝わったようだ。
 喜ぶ私に向坂さんは、どこか腑に落ちたような顔をする。
「もしかして、それでクラゲが好きなのか」
「だからってこともないですけど」
 水中トンネルを抜けた先はいよいよクラゲの水槽がいるエリアだ。私達はそこへ向かってもう歩き始めている。
「クラゲみたいに生きられたらいいなあ、とは思いますね。悩みもなく一日中ふわふわ浮かんでられたら、いかにも幸せそうじゃないっすか」
 まあ私なんて大した悩みがあるわけじゃないけど。
 いや、今は――悩みがある。しかも結構どでかいやつが。夏休みも半分が過ぎたけど、その悩みにだけはまだどうにも答えが出ていなかった。
「ならじっくり見てけよ。ほら、クラゲの水槽だ」
 それを先に見つけたのは向坂さんの方だった。
 でも指を差して教えてもらった瞬間、私はいてもたってもいられなくなり、向坂さんの手を引いて駆け出していた。

 パノラマの風景みたいに横にぐんと長い水槽には、深海のような暗い水が張られている。
 その中に無数と言っても過言ではない数の小さなクラゲが浮かんでいた。
 クラゲ達は上へ下へ真横へ斜めへと自由気ままにに泳いでいる。くったり柔らかそうな体をへこませたり揺らしたりしながらゆらゆらと漂う姿は掴みどころがなくて、この世のものじゃないみたいにさえ見える。水槽の上部からは青いライトが当てられているのか、クラゲ達も青く透き通って光っているように見えた。
「はあ……」
 私は思わず水槽の前で溜息をついた。
 すごい。可愛い。きれいで見とれてしまう。
「随分いっぱい浮いてんな。こりゃすげえ」
 向坂さんも私の隣でクラゲに見入っているようだ。
 無理もない。海の底みたいに非日常的な水族館の中でも一番不思議な光景が目の前に広がっているんだから。透き通ったクラゲが水中を漂う様子はただ流されているようでも、好き勝手に踊っているようでもあって、本当にずっと見ていても飽きない。
「ふわふわ浮いてますねえ……」
「そうだな」
「やっぱ、いいっすね。こんなふうに生きられたらなあ……」
「憧れてんのか。面白いな」
 向坂さんがごく小さな笑い声を立てる。
 クラゲの生涯ってどんなものかわからないし、実は私の知らないところで波瀾万丈の人生ならぬクラゲ生を強いられているかもしれないから、安易に憧れるのはよくない。
 だけどこうして水槽を眺めている分には、クラゲの生き方は素敵だ。水の中を思うがままに漂って、水の流れに身を任せて、ひたすらふわふわしていたい。透き通ったきれいな体で悩みもなく日がな一日水の中をたゆたう毎日なんて、憧れる。
 実際の私はそうそうふわふわもしていられない。向坂さんにもっと好きになってもらえるようになりたいと思うから、気を抜いてもいられない。今日だってぼんやりしてたらあっという間に過ぎてしまうだろうから、全身全霊でデートを楽しまなくちゃいけない。向坂さんは忙しい人のようだから夏休みが終わったらあんまり会えないかもしれなくて、そういう意味でも時間は大切にしたかった。ふわふわしている時間なんてない。
 そして夏休みが終われば秋になる。部長が家庭部を引退する時期だ。
 私はそれまでに、次の部長にふさわしい人間になれるだろうか。
 せめて自分の意思でどうしたいのかくらいは考えておかないといけないけど――どうしたいんだろうなあ、私。
「悩みでもあんのか、もしかして」
 考え事に割り込むように向坂さんの声がした。
 ぎょっとして顔を上げると、私を真剣な目で見つめている向坂さんがいた。クラゲの水槽の前は他の場所よりもほのかに暗く、向坂さんの真摯さがより引き立てられて並々ならぬもののように見えた。
「ど、どうしてわかったんすか」
 言い当てられて私がうろたえると、向坂さんは私を見据えたままで続ける。
「見りゃわかるだろ。さっきまで目きらきらさせてクラゲ見てたかと思いきや、急に憂鬱そうな顔になって考え込んでんだからな」
 そんなに顔に出てましたか。
 私が黙ったのを肯定と受け取ったんだろう。向坂さんは繋いでいた手を軽く引いた。呆気なく引っ張られた私が向坂さんの腕にぶつかると、離れられないようにか手をぎゅっと握ってきた。その手の力強さにも、腕がぶつかる距離の近さにもどぎまぎする私に、向坂さんは低い声で言う。
「差し支えなければ言えよ。俺にもお前にしてやれることがある」
 ある、と言い切るところはすごく向坂さんらしいと思った。
 私は向坂さんにそう言い切れるだろうか。まだちょっと、自信はない。
 悩み事については、もともと向坂さんにも聞いてもらいたいと思っていたから打ち明けるのに差し支えはない。ただせっかくクラゲの水槽という、水族館でも一番ロマンチックな場所にいるのに、話す内容がロマンも色気もないお悩み相談じゃちょっとなと思わなくもない。
 でも向坂さんは私のことを心配してくれているようだし、この場で他に話すべきロマンチックな台詞が思い浮かんでいるわけでもなかった。むしろ向坂さんの方から聞くと言ってくれたのだからありがたく聞いていただこう。
 そう思って、打ち明けた。
「実は……その、私、次の部長になるかもしれないんすよ」
 向坂さんが目を瞬かせる。
「家庭部のか? お前人望あるんだな、さすがだ」
「あ、あははは……いえ、普通はそういうふうに思いますよね……」
 誰だってそうだろう、部長になる人には部員からの厚い信頼が必要だって。多分、うちの親に打ち明けたって今の向坂さんと同じ反応が帰ってくると思う。
 残念ながらそういうことじゃない。私には人望なんてまるでない。
「違うんです。今の部長からの指名って言うか、他にやりたがる人がいなかったって言うか」
 部長が事前に聞いたところによれば、誰一人としていなかったそうだ。
「それでまあ、部内で最も部長にお世話になってる私にお鉢が回ってきたと言いますか……」
 そこまで言うと、向坂さんもおおよそのところを察したらしい。すぐに聞き返された。
「お前はやりたくねえのか」
「う……やりたいかやりたくないかで言ったら、決してやりたくはないっす」
 面倒だと思うし、そんな器でもないと思うし、部長をがっかりさせるのも他の部員の子に不満そうにされるのも嫌だ。
「でも絶対やりたくないかって言われたらそこまででもないって言うか」
 私が部長の要請をきっぱり断れなかったのは、弱みを握られていたからでは決してない。
 それもなくはないけど、それだけではない。
「何だかんだで、部長の期待には応えたいなって気持ちがあるって言うか……」
 部長だって、私の弱みを握っているから私を指名したってだけじゃないと思う。多分。
 昨年度は誰も部長をやりたがる人がいなくて、次の部長を決める話し合いが進まず、それでやむなく手を挙げたのが今の部長だ。もしかしたら部長は同じ思いを後輩にさせたくないって考えたのかもしれない。部長からすれば私が快く次の部長を引き受けて、それにふさわしい人間になって、皆がそれをすんなり受け入れてくれるのが一番嬉しいんだろう。
「一番いいのは、私に部長になれるだけの実力がついて、胸張って『部長やります!』って言えることなんですけど」
 私は肩を竦めた。
 この夏の間にもお菓子作りの練習をした。いくつかは作れるようになったけど、今のままじゃ全然足りない。部長になるまでにあとどのくらい身につくだろう。そしてあといくつ覚えたら、私は部長になれるって胸を張ることができるだろう。
 何か、どこまでやっても胸張れる気がしない。
 そもそも部長の仕事って、お菓子作りだけじゃないしなあ……。
「お前ならできるだろ」
 向坂さんはいともあっさり、私にそう言った。
 その背後にはパノラマの水槽に浮かぶ青く透き通ったクラゲ達が見える。幻想的かつロマンチックな雰囲気の中、向坂さんは私に言う。
「頑張れば何だってできる。茅野はそういう奴だろ」
 自信たっぷりに断言されて、私は面食らった。
「こ、向坂さんにそう思ってもらえるなら、すごく嬉しいっす。けど……」
 不思議なことだけど、向坂さんにそう言われると本当かもなと思えてくる。私は頑張りさえすれば何でもできるんじゃないだろうか。今までだってそうやっていろんなことに挑戦してきたけど――。
「やっぱ、部の皆の反応も気になりますしね。私が頑張って部長になったとして、皆ついてきてくれるかなって」
 頑張るだけじゃどうにもならないこともあるのも、知ってる。
 例えば信頼とか人望っていうのは、そんなにすぐ手に入れられるものじゃない。私が今までどんな家庭部員だったかは皆だって知ってることだし、私が部長になってもいいんだろうかって不安はやっぱりある。
「さっき、言ったよな」
 急に向坂さんが、今度は腕でぐいっと私の頭を抱え込み、自分の胸に寄りかからせるように引き寄せた。そうして私の頭上に囁きかけるように言った。
「お前、自分で『頑張った』って言う時はすげえいい顔するって」
「あ……い、言っていただきましたけどっ」
 直に感じる向坂さんの体温と、バスの車内で言われたどきどきするような言葉と、クラゲの水槽の前というロマンチックながら人目もなくはないシチュエーションと、私は一体どれにうろたえていればいいんだろう。わからなくてとりあえずどぎまぎしていたら、向坂さんは更に言った。
「お前はきっとその顔で、どんな相手だって納得させられる」
 声はそれほど大きくなかった。
 でも言葉は、とても強かった。ずっと迷ってきた私の背中を押してしまうほどだった。現金な私を動かすには好きな人の言葉が一番効果的だ。そして今の言葉は私自身が驚くほどあっさりと、私の身体に染み込んだ。
 悩むよりもためらうよりも、頑張ったってまず言いたい。言いたくなった。
「……向坂さん」
 私が、さっきと違う声で名前を読んだのに気づいたんだろうか。
 向坂さんは私の頭を解放すると、私に向かって優しく、それでいて自信に満ちた表情で笑う。
「俺がやられたくらいだ。きっと誰が相手でも、上手くいく」
 その笑顔は素敵で、泳ぐクラゲはとてもきれいで、私の心は水槽の水みたいに青く澄みきっていた。
 部長にも、皆にも、私はやれるだけのことをやってそして頑張ったって言おう。そう思った。
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